約 576 件
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/187.html
唐書巻八十三 列伝第八 諸帝公主 世祖一女 高祖十九女 太宗二十一女 高宗三女 中宗八女 睿宗十一女 玄宗二十九女 粛宗七女 代宗十八女 徳宗十一女 順宗十一女 憲宗十八女 穆宗八女 敬宗三女 文宗四女 武宗七女 宣宗十一女 懿宗八女 僖宗二女 昭宗十一女 世祖に一女があった。 同安公主は、高祖の同母妹である。隋州刺史の王裕にとついだ。貞観のとき、尊属として大長公主に進んだ。にわかに病んだが、太宗みずから訪問し、縑(かとり)五百を賜い、乳母らには皆物を賜った。永徽年間(650-655)初頭、実戸三百を賜り、年八十六で薨去した。 王裕は、隋の司徒の王柬の子で、開府儀同三司に終わった。 高祖に十九女があった。 長沙公主は、馮少師にとついだ。 襄陽公主は、竇誕にとついだ。 平陽昭公主は、太穆皇后から生まれ、柴紹にとついだ。かつて、高祖が兵を興したとき、公主は長安にいた。柴紹は、「あなたはまさに出兵して京師を鎮めようとしています。わたしも行きたいです。お願いですからお供できませんか、どうでしょうか?」といった。公主は「あなたは行きなさい。わたしは自分のはかりごとを実行します」といった。柴紹は間道を抜けて并州に逃れ、公主は鄠に逃れて、家財を発して南山の亡命者を招き、数百人をえて帝に呼応した。ここにおいて大賊である何潘仁は司竹園を根拠として行人を殺して総管と称した。公主は家奴の馬三宝を遣わして説諭してこれを降伏させて、ともに鄠県を攻めた。また別の部賊の李仲文・向善志・丘師利らをそれぞれ所領をもって旗下につかせ、よって盩厔・武功・始平を攻略してこれを降伏させた。法の遵守を部衆に誓わせ掠奪を禁止したから、遠近みな服し、兵七万となり、威は関中に振るった。帝は黄河を渡ると柴紹は数百騎で南山に並んで迎えた。公主は精兵数万人を率いて秦王(太宗)と渭北に会した。柴紹と公主はならんで幕府を設置して京師の平定にあたり、娘子軍と号した。帝が即位すると、功績によって物を賜うこと果てがなかった。 武徳六年(623)に薨去し、葬列の前後に羽葆・鼓吹・大路・麾幢・虎賁・甲卒・班剣の礼を加えた。太常は議して「婦人の葬は古より鼓吹はありません」といったが、帝は従わず、「鼓吹は軍楽である。かつて公主は身に金鼓をとって、参軍して命をたすけた。古にこのようなことがあったか?だから用いるべきだ。」と言った。 高密公主は、長孫孝政にとつぎ、また段綸にとついだ。段綸は、隋の兵部尚書の段文振の子で、工部尚書・杞国公となった。永徽六年(655)に公主は薨去し、「わたしが葬られるときは必ず墓を東向きにさせ、献陵を望むようにし、孝を忘れないように願いたい」と遺命した。 長広公主は、始め桂陽に封ぜられた。趙慈景にとついだ。趙慈景は、隴西の人で、帝はその姿が美しいのとよしとし、そのため彼に娶せた。帝が決起すると、ある者は逃亡を勧めたが、答えて「母は私を命としている。どうして行こうとするのだろうか?」官吏は捕縛して獄に繋いだ。帝が京師を平定すると、開化郡公に封ぜられ、相国府文学となった。兵部侍郎に進み、華州刺史となった。堯君素に討たれて戦死し、秦州刺史を贈られ、謚を忠といった。 公主はさらに楊師道にとついだ。聡明で詩作を得意とし、豪奢な生活を自らほしいままにしたが、晩年になってようやく節制した。長寿で薨去した。 長沙公主は、始め万春に封ぜられた。豆盧寛の子の豆盧懐讓にとついだ。 房陵公主は、始め永嘉に封ぜられた。竇奉節にとつぎ、また賀蘭僧伽にとついだ。 九江公主は、執失思力にとついだ。 廬陵公主は、喬師望にとつぎ、喬師望は同州刺史となった。 南昌公主は、蘇勗にとついだ。 安平公主は、楊思敬にとついだ。 淮南公主は、封道言にとついだ。 真定公主は、崔恭礼にとついだ。 衡陽公主は、阿史那社尒にとついだ。 丹陽公主は、薛万徹にとついだ。万徹は愚かなこと甚だしく、公主は羞じて、同席しないこと数月であった。太宗はこれを聞いて笑って、酒宴を開いて他の者と万徹を召喚して従容として語り、槍を握って試合して佩刀を賭け、偽って勝てないふりをし、遂に佩刀を解いて賜わった。公主は喜び、命により同じ車に載って帰った。 臨海公主は、裴律師にとついだ。 館陶公主は、崔宣慶にとついだ。 安定公主は、始め千金に封ぜられた。温挺にとついだ。温挺が死ぬと、また鄭敬玄にとついだ。 常楽公主は趙瑰にとついだ。娘が生まれ、周王の妃となると、武后がこれを殺した。趙瑰は括州刺史に左遷され、寿州にうつされた。越王李貞がまさに挙兵しようとして、趙瑰に書を与えて教え導いた。趙瑰はこれに応じようとし、公主もまた使者に進んでいった。「私は王に感謝します。ともに進みますが、退くことはありません。もし諸王らが皆立派な男であるなら、長々と留まっていないでただちにここに来るでしょう。私は次のように聞いています。楊氏が北周を簒奪した時、尉遅迥は北周のために出兵し、なおよく突厥と連合して天下を震撼させましたと。ましてや諸王は国の親族なのですから、国家は託するところで、身を捨てずに大義をとろうなど、何をしようというのでしょうか?人臣は同じく国を憂うのを忠臣といい、憂えないのは逆臣といいます。王らは努めなければなりません。」 越王貞は敗れ、周興の弾劾により趙瑰と公主は連座となり、みな殺された。 太宗に二十一女があった。 襄城公主は、蕭鋭にとついだ。性格は親孝行で温厚であり、その行動は規則を守った。帝(太宗)は諸公主に勅してみならうように命じた。役人が別第の造営を告げたとき、「婦人は舅・姑につかえることは父母のようにしなければなりません。宮を異にすれば、できなかったり欠けたりすることがあるでしょう」と述べた。そのため造営をやめて元の邸宅のままとし、門列には二つの戟があるのみであった。蕭鋭が亡くなると、さらに姜簡にとついだ。永徽二年(651)に薨去し、高宗は命婦朝堂にて挙哀し、工部侍郎の丘行淹を遣わして逓送して弔祭し、昭陵に陪葬した。喪列が故城にいたると、帝(高宗)は楼に登って望見し、泣いて柩を見送った。 汝南公主は、早く薨去した。 南平公主は、王敬直にとつぎ、王敬直が連座して嶺南に流されると、さらに劉玄意にとついだ。 遂安公主は、竇逵にとついだ。竇逵が死ぬと、また王大礼にとついだ。 長楽公主は、長孫沖にとついだ。帝は長孫皇后から生まれたことから、勅によって役人に命令して、送別の金銭を、長公主の倍の額にしようとした。魏徴は言った、「昔、漢の明帝は諸王を封じた時、『朕の子は先帝の子と同じような領地を得られるだろうか?』と言いました。ですから長公主というのは、公主で最も尊いものです。制には等差というものがあり、どうして越えることができましょうか?」と。帝は后に語り、后は言った「陛下が魏徴を厚遇する理由はわかりませんでしたが、今その言を聞ききましたが、公主を礼義上の内におさめるというのは、社稷の臣ならではの言です。妾は陛下との間は夫婦の交わりがありますが、それでも言わなければならないことがあれば、なおも顔色を伺うのです。ましてや臣下の情は特別の待遇をへだてて、あえて厳顔をおかして忠言を述べるのです。願わくはこれを許されて、天下にこれを公けにしてください」と。帝は大いによろこび、帛四百匹・銭四十万を魏徴の家に賜った。 豫章公主は、唐義識にとついだ。 比景公主は、始め巴陵に封ぜられた。柴令武にとつぎ、房遺愛の反乱計画にともに連座して、公主も同じく死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈され、墓に廟を立てられ、四時祭では少牢(羊と豚)をお供えした。 普安公主は、史仁表にとついだ。 東陽公主は、高履行にとついだ。高宗が即位すると、大長公主に進んだ。韋正矩が誅されると、公主は婚家に連座して、排斥されて集州に徙された。また章懐太子に連座して、邑封を剥奪された。長孫無忌の舅族であったから、武后に憎まれ、垂拱年間(685-688)、二子とともに巫州に徙し置かれた。 臨川公主は、韋貴妃から生まれた。周道務にとついだ。公主は篆書・隷書にすぐれ、文章をよくした。高宗が立つと、『孝徳頌』を奉り、帝から詔を下されて褒賞にあずかった。永徽初年(650)、長公主に進み、恩賞は他より秀でていた。永淳初年(682)に薨去した。 周道務は、殿中大監・譙郡公周範の子である。はじめ周道務は乳幼児の時、功臣の子であるから宮中にて養われた。周範が卒すると、邸宅に戻り、喪に服して身が衰える様子は成人のようであった。再び宮中に戻り、十四歳の時に宮中を出た。営州都督、検校右驍衛将軍を歴任した。謚を襄という。 清河公主は、名を敬、字を徳賢といい、程懐亮にとつぎ、麟徳年間(644-645)薨去し、昭陵に陪葬された。程懐亮は、程知節の子であり、寧遠将軍に終わった。 蘭陵公主は、名を淑、字を麗貞といい、竇懐悊にとつぎ、顕慶年間(656-661)に薨去した。竇懐悊は官は兗州都督となり、太穆皇后の族子であった。 晋安公主は、韋思安にとつぎ、また楊仁輅にとついだ。 安康公主は、独孤諶にとついだ。 新興公主は、長孫曦にとついだ。 城陽公主は、杜荷にとつぎ、太子李承乾の事件に連座して杜荷が処刑されると、また薛瓘にとついだ。 はじめ公主が結婚の時、帝は占わせた。占いには「二火みな食す。始めは同じく栄え、末は同じく悲しむ。昼の暗い時に請ずれば吉である」とあった。馬周は諫めて言った、「朝謁を朝にするのは、思相が戒だからです。講習を昼にするのは、思相が成だからです。宴会を暗くなってからするのは、思相が歓だからです。婚礼を夜にするのは、思相が親だからです。だから上下には成があり、内外には親があり、動いたり休んだりするのは時があり、吉凶には儀があります。今さきにその始めを乱すようなことはしてはなりません。占いというのは疑いや迷いを決するためであって、もし礼をけがして先に乱すというのは、聖人の用いないことです」と。よって帝は止めにした。 麟徳年間(644-645)初頭、薛瓘は左奉宸衛将軍を歴任した。公主が巫蠱のことに連座したため、薛瓘も房州刺史に左遷され、公主も従った。咸亨年間(670-674)、公主は薨去して薛瓘もまた卒した。柩を並べて京師に帰った。 子の薛顗は、河東県侯・済州刺史に封じられた。琅邪王李沖が挙兵すると、顗と弟の薛紹は所領の庸・調より兵士を募り、かつこれに応じた。琅邪王沖が敗れると、都吏を殺して口封じしたが、事は露見し、獄に下されてともに死んだ。 合浦公主は、始め高陽に封ぜられた。房玄齡の子の房遺愛にとついだ。公主は帝に愛され、そのため礼は他の婿とは異なっていた。公主愛されていたから驕りたかぶっていた。房遺直は嫡子であるから銀青光禄大夫となっていたが、弟の房遺愛に譲ろうとし、帝は許さなかった。房玄齢が卒し、公主は遺愛に財産を異にさせ、かえって罵った。房遺直は自ら申し出たため、帝は叱責して公主に譲らせたため、免れることができた。これよりよそよそしくなり、公主は心が晴れ晴れしなかった。たまたま御史が盜みを弾劾し、僧弁機が金宝神枕を得て、自ら公主より賜ったと言っていた。はじめ寺院の封地にて、公主と房遺愛が猟をし、これを見て喜び、その寺に隠れては乱交にふけった。さらに二女子を房遺愛に従わせ、食糧を横流しして私すること億を数えた。ここにいたって僧は死罪となり、奴婢十余人も殺された。公主はますますうらみ、帝が崩じても哀みの顔色もなかった。 また僧智勗は迎合して禍福を占い、恵弘はよく鬼神を見、道士李晃が医術をよくし、みな密かに公主に侍った。公主は掖廷令の陳玄運をして宮省の禨祥をうかがい、星次を歩いた。永徽年間(650-651)、房遺愛と謀反し、死を賜った。顕慶年間(656-661)に追贈された。 金山公主は、早く薨去した。 晋陽公主は、字を明達、幼字を兕子といい、文徳皇后から生まれた。よろこびや難しげな顔色をみせず、帝は怒り叱責することがあるたびに、必ず公主の顔をみると徐々に怒りがとけたから、省中は多くその恩恵を蒙り、誉め愛されないということはなかった。后が崩じた時、公主はまだ乳幼児だったからこれを理解しなかったが、五歳になると、后と遊んだ地をみるたびに哀しみにたえなかった。帝の諸子のなかで、ただ晋王(後の高宗)と公主が最年少であったから、親しく遊び、晋王が邸宅を出るたびに公主は虔化門で見送って泣いて別れた。晋王が幼年となって、朝堂に班ぶと、公主は泣いて「お兄ちゃんは群臣と同じになっちゃって、宮中にはかえってこないの?」と言った。帝もまた涙を流した。公主は帝の飛白書を臨模したが、下々の者にはどちらが帝か公主かわからなかった。薨じたとき年十二歳であった。帝はひと月の間食事もままならず、日に数十回悲しみ、そのためやせ衰えた。群臣は励ましたが、帝は「朕がどうして悲しむことが無意味だと知らないとでもいうのだろうか?それでも悲しみがやまないのだ。私もまたその理由がわからないのだ」と言った。よって役人に詔して公主の皇族領を記録させ、仏寺のに墓を営んだ。 常山公主は、とつがないうちに、顕慶年間(656-661)に薨去した。 新城公主は、晋陽公主の同母妹である。長孫詮にとつぎ、長孫詮は罪によって巂州に徙された。さらに韋正矩に嫁し、奉冕大夫となった。韋正矩は公主に会っては礼をもってせず、突然薨去した。高宗は三司雑治に詔し、韋正矩は弁解することができなかったから、誅殺された。皇后の礼をもって昭陵の旁らに葬られた。 高宗に三女があった。 義陽公主は、蕭淑妃から生まれ、権毅にとついだ。 高安公主は、義陽公主の同母妹である。始め宣城に封ぜられた。潁州刺史の王勗にとついだ。天授年間(690-692)、王勗は武后に処刑された。神龍年間(707-710)初頭、長公主に封ぜられ、実封千戸となり、府を開いて官属を設置された。睿宗が即位すると、さらに千戸を増封された。開元(713-741)の時に薨じた。玄宗は暉政門にて哭し、鴻臚寺に持節を遣して弔問させ、京兆尹に鴻臚寺を率いさせて喪事を護衛した。 太平公主は、則天武皇后から生まれ、武后は諸公女のうちことのほか彼女を愛した。栄国夫人(武后の母)が死ぬと、皇后は公主を道士にさせ、冥福を祈らせた。儀鳳年間(676-679)に吐蕃が公主を降嫁させることを要請したが、武后は夷狄に捨て去るようなことはしたくはなく、本当に宮を築いて、方士のように薰戒させ、和親の事を拒んだ。しばらくして公主は紫の衣を着て玉帯をつけ、折上巾(冠)をかぶり、白粉をつけて帝の前で歌い舞った。帝と武后は大笑して「この子は武官になれなければ、いったいお前はどうするのかのか?」と言った。公主は「駙馬(公主の夫)を賜わればいいのでは?」といった。帝はその思いを知り、薛紹を娶せ、万年県を婚館とし、門には人が多く集まってしまい翟車を収容できなくなったから、役人は垣を壊して入れるようにし、興安門よりかがり火を設置したから道の並木は枯れてしまった。薛紹が死ぬと、さらに武承嗣に嫁したが、武承嗣が病気となったため、武后は武攸曁の妻を殺して、武攸曁を公主の配偶者とした。公主は額が四角く顎がひろく、陰謀を多くし、母の武后は常に「私に似ている」と言っており、公主と内に謀とともにし、外には恐れられたから、武后の世が終わるまで他に非難する者などいなかった。 永淳年間(682-683)以前、親王は実戸八百をはみ、増えても千戸止まりであり、諸公主は三百を超えなかったが、太平公主はひとりさらに戸五十を加え、聖暦年間(698-700)には三千戸に及んだ。張易之・張昌宗の誅殺に功績があり、鎮国の号を贈られ、相王(後の睿宗)とならんで五千となり、また婚家の薛・武の二家の娘もみな実封をはんだ。公主と相王・衛王・成王・長寧公主・安楽公主はみな衛士を給せられ、邸宅の周囲は十歩を一区とし、兵を持って衛らせ、ひそかに宮省にあやかった。神龍年間(705-707)には長寧公主・安楽公主・宜城公主・新都公主・定安公主・金城公主の七公主は、みな府を開いて官属を置いた。安楽公主は戸数は三千にいたり、長寧公主は二千五百、府を開いたが長史は設置しなかった。宜城公主・定安公主は韋后からの生まれではなかったから、戸は二千止まりであった。公主の三子の薛崇簡・武崇敏・武崇行はみな三品を叙位された。 韋皇后・上官昭容の変事に、謀は公主の所から出たため、功は公主に遠く及ばず、これを憚った。公主はまた自ら我慢して必ず勝てるようにしたから、ますます専横となった。ここに天下の士を推薦し、儒者は多くが貧しいからと言って、厚く金帛を持たせて謝礼とし、大議を動かしたから、遠近より多くの者が集まって靡いた。 玄宗が韋氏を誅殺しようとして、公主と秘計をともにし、公主は子の薛崇簡を遣わして従わせた。事が定まり、まさに相王(睿宗)が即位しようとしたとき、そのことを言い出そうとする者がいなかった。公主は温王(少帝)とその子をかえりみて、おどすようにして功績をたてた。温王にまみえて、「天下の事は相王に帰した。玉座は子供が座っているようなところではない」といい、温王を助けて下り、乘輿と服をとって睿宗に進めた。睿宗は即位し、公主の権はこれによって天下を震わせ、実封を加えて一万戸にもいたり、三子は王に封じられ、他は皆祭酒・九卿となった。 公主は奏事するごとに、漏刻(水時計)がしばしば時を刻んでからようやく退出したが、公主の申すところは皆従った。人物を論じて薦めると、ある者は寒門より順序を踏まず一足飛びに侍従となったから、将相はきびすをめぐらせて足を運んだ。朝廷の大政の事は関わり決しないことは下さず、謁見しない間、すなわち宰相は公主の邸宅に就いて咨判を請い、天子はほとんど裁可するだけであった。公主は武后に侍ること久しかったから、前後の策を公主が人にわずかに指示するだけで、先事はすべて適合し、あたらないことはなかった。田園はあまねく都近郊にあり、すべて肥沃な土地であった。呉・蜀・嶺嶠の市で器をつくらせて用い、州県に護送させ、道に向かい合うほどであった。天下の珍しい奇怪な物は家に満ち、宴会の歌妓は天子と等しかった。仕える侍児は白い細絹を引き摺っている者が数百、奴婢や老女が千人、隴右の牧馬は万匹を数えた。 長安の僧慧範が蓄財すること千万、権力を持つものと仲が良く、もとより張易之と親しかった。張易之が誅されると、ある者は彼が陰謀に関与した言うものもあり、上庸公に封じられ、月々俸禄を給付された。公主の乳母と密通し、奏上により抜擢されて三品御史大夫となり、御史の魏伝弓がその悪事を弾劾したため四十万を贓ったが、死刑を求刑した。中宗は赦そうと思ったが、魏伝弓は「刑や賞というのは、国の大事であって、陛下は賞をすでに妄りに加えられています。また死刑を廃そうとするのは、天下になんと言い訳すればいいのでしょうか?」と奏進したから、帝はやむをえず、銀印青綬(三品御史大夫)の階を削った。大夫の薛謙光は慧範の不法を弾劾し、公主が申理をして、そのため薛謙光らはかえって罪を得た。 玄宗が太子監国となり、宋王李憲・岐王李範に禁兵を統轄させた。公主は権力を分けられたのを恨み、乗輦(睿宗)が光範門に至ると、宰相を召喚して廃太子を申した。ここに宋璟・姚元之は喜ばず、公主を東都より出すことを請うたが、帝は許さず、詔して公主を蒲州を居らさせた。公主は大いに望んだが、太子はおそれた。奏上して宋璟・姚元之を排斥し、これで恨みを収めた。監察御史の慕容珣がまた慧範の事を弾劾したが、帝は慕容珣が骨肉離間しようとしていると疑ったから、密州司馬に左遷した。公主が都より出ていること四箇月、太子が上表したから京師に帰った。 当時の宰相の七人のうち、五人は公主の門下より出ていた。また左羽林大将軍の常元楷・知羽林軍の李慈は皆公主に私淑しており、公主は内心では太子の聡明さを嫌っていた。また宰相はみなその郎党であり、そのため逆謀した。先天二年(713)、尚書左僕射の竇懐貞・侍中の岑羲・中書令の蕭至忠と崔湜・太子少保の薛稷・雍州長史の李晋・右散騎常侍昭文館学士の賈膺福・鴻臚卿の唐晙および常元楷・李慈・慧範らが廃太子をたくらみ、常元楷・李慈をして羽林兵を挙兵させて武徳殿に突入させて太子を殺し、竇懐貞・岑羲・蕭至忠が南衙で挙兵して応じる、というものであった。すでに数日をへて、太子はそのたくらみを知って、岐王李範・薛王李業・兵部尚書の郭元振・将軍の王毛仲・殿中少監姜皎・中書侍郎の王琚・吏部侍郎の崔日用が計画を定めた。その前日、王毛仲が宮中の閑馬三百をとり、太僕少卿の李令問と王守一・内侍の高力士・果毅都尉の李守徳が虔化門を叩き、常元楷・李慈を北闕の下に梟首し、賈膺福を内客省にて拘束し、岑羲・蕭至忠を朝堂で捕らえて斬った。よって天下に大赦した。公主は変を聞き、逃亡して南山に入ったが、三日して出て来て、自邸にて死を賜った。諸子および党派の死者は数十人におよんだ。その田畑・財産を記録すると、珍宝は山のようであり、子に監督して貸与させていたが、三年たっても尽きることはなかった。 子の薛崇簡はもとより公主の謀を知っていたから諫めたが、公主は怒り、拷問して鞭打ったから、ここにいたって官爵を復し、氏は李姓を賜った。 はじめ公主は観池として楽游原をつくり、人々が盛んに集まった。公主が敗れると、寧王李憲・申王成義・岐王李範・薛王李業の四王兄弟に賜り、都の人は歳末の祓にこの地で禊した。 中宗に八女があった。 新都公主は、武延暉にとついだ。 宜城公主は、始め義安郡主に封ぜられた。裴巽にとついだ。裴巽には愛妾がおり、公主は怒って、耳をきり鼻をそぎ、かつ裴巽の髮を切った。帝は怒り、公主を排斥して県主とし、裴巽もまた左遷された。しばらくしてまた元通りに封ぜられた。神龍元年(705)、長寧公主・新寧公主・安楽公主・新平公主とともにみな進封された。 定安公主は、始め新寧郡主に封ぜられた。王同皎にとついだ。王同皎が罪をえると、神龍年間(705-707)、また韋濯にとついだ。韋濯は韋皇后の従祖弟にあたり、衛尉少卿として処刑されると、さらに太府卿の崔銑にとついだ。公主は薨去し、王同皎の子は父とともに合葬されることを請うたが、給事中の夏侯銛は「公主は王家の廟と義絶しており、恩は崔家の室となっています。逝った者は知ったならば、王同皎はまさにあの世で拒むでしょう」と言った。崔銑があるとき帝に訴えたから、そのことは沙汰止みとなったが、夏侯銛は連座して瀘州都督に左遷された。 長寧公主は、韋庶人から生まれ、楊慎交にとついだ。東都(洛陽)に邸宅を造営し、楊務廉をして造営の総監督とした。邸宅が完成すると府の財はいくばくか枯渇し、楊務廉を抜擢して将作大匠に任命した。また西京(長安)の高士廉の邸宅と左金吾衛の故営を合わせて邸宅とし、右は都城に、左は大道にうつむき、三重の楼閣を立てて展望とし、山を築いて池を浚った。帝および韋后はしばしば臨幸し、酒を置いて詩を賦した。また坊の西の空き地に広大な蹴鞠場をつくった。 東都が永昌県を廃すると、公主はその治を自身の府とするよう請願し、その地は洛陽に瀕しており、これに鄣(障壁か)を築き、崇台・蜚観を連ね、考えもせずに二十万もの大金を費やした。魏王李泰の旧邸は東西一坊、溜池は三百畝に及んだが、魏王李泰が薨去したため、民間に与えられた。ここによって公主は請うて魏王李泰の旧邸を得て、亭閣を築いて、偽って「西京を囲った柵」であるとした。内には母の愛をたより、寵愛は一朝を傾け、安楽公主・宜城公主の二公主、韋后の妹の郕国夫人・崇国夫人と争任の事をともにし、賄賂が飛び交った。東都の邸宅が落成したが、住むことがなく、韋后が敗亡すると、楊慎交は左遷されて絳州別駕となり、公主も共に赴き、東都の邸宅を景雲祠とすることを請い、西京の邸宅を売却したが、木石の値段の評価額は銭二十億万にも及んだ。 開元十六年(728)、楊慎交が死ぬと、公主はさらに蘇彦伯に嫁した。楊務廉がついに数十万もの坐贓(受諾収賄罪)によって終身免職となった。 永寿公主は、韋鐬にとついだ。早く薨去し、長安年間(701-705)初頭に追贈された。 永泰公主は、郡主として武延基にとついだ。大足年間(701)、張易之にさからい、武后に殺された。帝が追贈し、礼をもって改葬し、墓を号して陵とした。 安楽公主は、最も幼いむすめであった。帝が房陵に流罪となったときに公主は生まれ、衣をほどいて褓(おくるみ)としたから、名を裹児といった。眉目秀麗かつ聡明で、韋皇后が最も愛した子であった。武崇訓にとついだ。帝が復位すると、艶やかさは天下を動かし、侯王柄臣は多くその門より出た。かつて詔によって門前を塞ぐべく帝の裁可を請うたが、帝は笑って従った。また皇太女とするよう請うた。左僕射の魏元忠が諫めた。公主は「魏元忠は山東の無骨者で、カラスなんぞに国事を論ずるに足るでしょうか?武氏のお子がなお天子になったというのに、天子が女であることにいけないことなどありますか?」と言った。太平公主ら七公主とともに皆府を開いたが、安楽公主府の官属はむやみに多くいて、みな身分の低い者から出た。財産を納めた者に売官し、墨勅斜封をくだして授けた。そのため斜封官といった。 公主は邸宅と安楽仏廬を造営し、その方式は宮省を模倣し、工事は精巧でこれ以上の物はなかった。かつて昆明池を自分の沼にするよう請うたが、帝は「先帝はいままで人に与えたことはなかった」といったから公主は不機嫌となり、自ら昆池を定めて開鑿し、広げ延ばすこと数里。定まってから言上し、抗うべくただした。司農卿の趙履温が修繕して、石を重ねて肖華山とし、階段・丸木橋をかけ、渕をめぐらすこと九度、石で噴水をつくった。また宝玉の火鉢をつくり、怪獣・神禽を彫刻し、その間を螺鈿・珊瑚で飾りたてるなど、言いつくすことができないほどであった。 武崇訓が死ぬと、公主は平素より武延秀と不倫していたから、即時武延秀に嫁した。この日、后の車輅(天子の車)が宮より出て公主の邸宅に至り、帝と韋皇后は安福門に御して臨観し、雍州長史の竇懐貞に詔して礼会使とし、弘文館学士に挨拶をし、相王(後の睿宗)は車をふさいた。捐て賜わった金帛は計り知れなかった。翌日、群臣と太極殿に会し、公主は翠服を着て出て、天子に向かって再拝した。南面して公卿に拝し、公卿は皆地に伏せて稽首した。武攸曁と太平公主とともに舞って帝の寿を祝った。群臣に帛を数十万賜った。帝は承天門に出御し、大赦し、よって民に宴を賜うこと三日、内外の官に勲を賜い、礼官の属によって階・爵を兼任させた。臨川長公主の邸宅を奪って邸宅とし、その一方で民家を撤去し、怨嗟の声は傲然とした。邸宅が完成すると、宮中の金庫は尽きて空しくなり、臨時に一万もの騎仗をならべ、宮中に音楽を奏でて公主を邸宅に送り、天子は親ら行幸し、近臣と宴した。崇訓の子はわずか数歳で太常卿を拝命し、鎬国公に封ぜられ、実封は戸五百であった。公主の産後に帝と后は再度邸宅に行幸し、天下に大赦した。 公主と長寧公主・定安公主の三家の家奴は民間の子女を拉致して奴婢とし、左台侍御史の袁従一は逮捕して獄に下した。公主は入朝して訴え、帝は手ら詔して赦免した。袁従一は「陛下は公主の訴えをいれられましたが、ほしいままに家奴や平民をさらったら、どうやって天下を治めるというのでしょうか?臣は、家奴を釈放すれば禍を免れ、家奴を弾劾すれ公主は罪を得てしまうということをわかっていますが、だからといって陛下の法を曲げるには忍びないのです。私は恥を忍んで生き長らえるのです」と言ったが、受け入れられなかった。 臨淄王隆基(後の玄宗)が庶人(韋皇后)を誅殺した時、公主はまさに鏡をみながら眉をつくっていた。乱を聞いて、逃走して右延明門に至ったが、兵に追いつかれ斬首された。追貶して「悖逆庶人」と称された。睿宗が即位すると、詔して二品の礼によって葬られた。 趙履温は諂って公主に仕えかつて朝服をはいで、車を曳いたことがあった。庶人(安楽公主)が死ぬと、承天門で舞い踊って万歳と唱えたが、臨淄王隆基(後の玄宗)はこれを斬殺し、父子は同じく刑された。百姓は病気に効き目があるとして、その肉を割り取って行った。 成安公主は、字を季姜といった。始め新平に封ぜられた。韋捷にとついだ。韋捷は韋皇后の従子として処刑され、公主はのちに薨去した。 睿宗に十一女があった。 寿昌公主は、崔真にとついだ。 安興昭懐公主は、早く薨去した。 荊山公主は、薛伯陽にとついだ。 淮陽公主は、王承慶にとついだ。 代国公主は、名を華、字を華婉といい、劉皇后から生まれた。鄭万鈞にとついだ。 涼国公主は、字を華荘といい、始め仙源に封ぜられた。薛伯陽にとついだ。 薛国公主は、始め清陽に封ぜられた。王守一にとついだ。王守一が処刑されると、さらに裴巽にとついだ。 鄎国公主は、崔貴妃から生まれた。三歳のとき貴妃が薨去すると、哭泣して三日食わず、成人のようであった。始め荊山に封ぜられた。薛儆にとつぎ、また鄭孝義にとついだ。開元年間(713-741)初頭、封邑が千四百戸にいたった。 金仙公主は、始め西城県主に封ぜられた。景雲年間初頭(710-712)に進封された。太極元年(712)、玉真公主とともに道士となり、京師に道観を築き、方士の史崇玄を師とした。史崇玄はもとは寒人で、太平公主につかえて、禁中に出入りすることができ、鴻臚卿に任ぜられて、威光は重なり、道観を建造するにあたって、詔して史崇玄に監督させ、日に一万人を動員した。多くの仏僧がこれをねたみ、銭数十万で狂人の段謙を雇って承天門から乱入し、太極殿に昇って天子を自称させた。役人が逮捕すると、「崇玄をして我を来さしめた」といったが、詔して嶺南に流刑し、また僧・道士に勅して互いに争わないようにさせた。太平公主が敗れると、史崇玄は処刑された。 玉真公主は、字を持盈といい、始め崇昌県主に封ぜられた。にわかに上清玄都大洞三景師の号を進った。天宝三載(744)、上言して、「先帝は私に家を捨てることを許されました。今、公主の邸宅・食租賦をむさぼっていますが、誠に願わくば公主の称号をお返しし、食邑司を止め、これを国庫に返したいです」と言った。玄宗は許なかった。また「私は高宗の孫で、睿宗の娘で、陛下の妹で、天下に卑しからざる者です。どうして公主の号や湯沐料で名をつなぐ必要がありましょうか。それがなければ貴いとされないのでしょうか?願わくは数百家の産を入れ、功徳で十年の命を延ばしたいのです」と言い、帝はその深厚なる心を知って、これを許した。宝応年間(762-763)に薨去した。 霍国公主は、裴虚己にとついだ。 玄宗に二十九女があった。 永穆公主は、王繇にとついだ。 常芬公主は、張去奢にとついだ。 孝昌公主は、早く薨去した。 唐昌公主は、薛鏽にとついだ。 霊昌公主は、早く薨去した。 常山公主は、薛譚にとつぎ、また竇沢にとついだ。 万安公主は、天宝(742-756) のとき道士となった。 開元の新制では、長公主は封戸二千、帝の妹は戸千、率は三丁を以て限とした。皇子王は戸二千、公主はその半分であった。事情によってさらに減じられた。玄宗は「百姓の租賦は朕のあるところではなく、士は万死の功によって、賞はようやく束帛をもらえるに過ぎない。女は何の功があって多大の封戸を受けるのであろうか?倹約することも知らしめるのは、またできないことではないのだろうか?」といい、これによって公主はほとんど車服を給付されなかった。後に咸宜公主は母の愛によって封を増加されて千戸に至り、諸公主もみな増加し、これより令に著されることとなった。公主で下嫁しないものは、また千戸を封ぜられ、有司に奴婢を給されることは令の通りであった。 上仙公主は、早く薨去した。 懐思公主は、早く薨去し、台を築いて葬られ、登真と号した。 晋国公主は、始め高都に封ぜられた。崔恵童にとついだ。貞元元年(785)、衛・楚・宋・斉・宿・蕭・鄧・紀・郜国の九公主とともに同じく徙封された。 新昌公主は、蕭衡にとついだ。 臨晋公主は、皇甫淑妃から生まれた。郭潜曜にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 衛国公主は、始め建平に封ぜられた。豆盧建にとつぎ、また楊説にとついだ。貞元年間(785)に薨去した。 真陽公主は、源清にとつぎ、また蘇震にとついだ。 信成公主は、独孤明にとついだ。 楚国公主は、始め寿春に封ぜられた。呉澄江にとついだ。上皇が西宮に居るとき、ひとり公主は入侍した。興元元年(784)、請うて道士となり、詔があって裁可され、名を上善と賜った。 普康公主は、早く薨去した。咸通九年(868)に追封された。 昌楽公主は、高才人から生まれた。竇鍔にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 永寧公主は、裴斉丘にとついだ。 宋国公主は、始め平昌に封ぜられた。温西華にとつぎ、また楊徽にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 斉国公主は、始め興信に封ぜられ、寧親に徙封された。張垍にとつぎ、また裴潁にとつぎ、最後には楊敷にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 咸宜公主は、貞順皇后から生まれた。楊洄にとつぎ、また崔嵩にとついだ。興元年間(784)に薨去した。 宜春公主は、早く薨去した。 広寧公主は、董芳儀から生まれた。程昌胤にとつぎ、また蘇克貞にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 万春公主は、杜美人から生まれた。楊朏にとつぎ、また楊錡にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 太華公主は、貞順皇后から生まれた。楊錡にとついだ。天宝年間(742-756)に薨去した。 寿光公主は、郭液にとついだ。 楽城公主は、薛履謙にとつぎ、嗣岐王李珍の事件に連座して処刑された。 新平公主は、常才人から生まれた。幼いころより聡明で、習って図訓を知り、帝は賢いとした。裴玪にとつぎ、また姜慶初にとついだ。姜慶初は罪を得て、公主も禁中に幽閉された。大暦年間(766-779)に薨去した。 寿安公主は、曹野那姫から生まれた。妊娠九か月で生まれ、帝はこれを嫌って、詔して道士が着る衣羽服を与えた。代宗が広平王の時に入謁したが、帝は名前で公主を呼んで、「蟲娘よ、お前には後で名前を与えるべきだ。広平王は霊州にいるから封を願いなさい」と言った。蘇発にとついだ。 粛宗に七女があった。 宿国公主は、始め長楽に封ぜられた。豆盧湛にとついだ。 蕭国公主は、始め寧国公主に封ぜられた。鄭巽にとつぎ、また薛康衡にとついだ。乾元元年(758)、回紇(ウイグル)の英武威遠可汗に降嫁し、公主府を設置した。乾元二年(759)、帰朝した。貞元年間(785)、府属を譲ったが、さらに邑司を設置された。 和政公主は、章敬太后から生まれた。生まれて三歳、后は崩じ、韋妃に養育された。性格は聡明で、妃につかえて孝ありと称された。柳潭にとついだ。安禄山が京師を陥落させると、寧国公主(蕭国公主)は寡婦で暮らしていたから、公主は自身の三子を捨て、夫柳潭の馬を奪って寧国公主を乗せ、自身は柳潭とともに歩くこと日に百里、柳潭は水薪を背負い、公主は竈を背負い、寧国公主を守った。 それより以前、柳潭の兄の柳澄の妻は、楊貴妃の姉(秦国夫人)であり、勢いは国政を傾けるほどであったが、公主はいまだかつて私事で助けを求めたことがなかった。夫人が死ぬと、その子供を撫育することは自身が産んだ子のようであった。玄宗に従って蜀に至り、始め封を受け、柳潭も駙馬都尉に任じられた。郭千仞が反乱すると、玄宗は玄英楼に御して諭して降伏させようとしたが、聞かなかったため、柳潭は折衝の張義童らを率いてとくに死闘し、公主も弓を射当てて柳潭をたすけ、柳潭は手ずから賊を斬ること五十人で、これを平定した。 肅宗が病となると、公主はその左右に侍って看病に励んだから、詔して田を賜ったが、妹の宝章公主)がいまだに賜っていないことを理由に、固く譲ってあえて受けなかった。阿布思の妻が後宮に入れられ、帝が宴すると緑の衣を着て歌わされていた。公主は諫めて「阿布思は本当の逆人で、妻を至尊にお近くに入れてはなりません。罪なくして大勢とともに歌わせていいのでしょうか」と。帝はそのため許して宮中より出した。自ら兵を養い、財を用立てて費やし、公主は貿易によって得た利益千万をとって軍をうごかした。帝の山陵の造営するに及んでは、また食邑を奉って千万を入れた。 代宗が即位すると、しばしば人間の利病・国家の盛衰の事をのべ、天子は受け入れた。吐蕃が京師に侵入すると、公主は避難して南に逃げ、商於にいたると群盜に遭遇し、公主は禍福を諭したから、皆ひざまずいて奴となることを願った。代宗は公主が貧しいから、諸節度使に詔して贈物させたが、公主はすべて受け取らなかった。自ら裳衣の綻びを縫い合わせ、諸子にも練り絹や細かい葛の服を着せなかった。広徳年間(763-764)、吐蕃が再び入寇したとき、公主は妊娠中で、入朝して辺境への備えの計略を語ろうとし、柳潭は強くとめたが、公主は「あなただけはお兄さんがいないというのですか?」といい、内殿に入った。翌日、出産して薨去した。 郯国公主は、始め大寧に封ぜられた。張清にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 紀国公主は、始め宜寧に封ぜられた。鄭沛にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永和公主は、韋妃から生まれた。始め宝章に封ぜられた。王詮にとついだ。大暦年間(766-779)に薨去した。 郜国公主は、始め延光に封ぜられた。裴徽にとつぎ、また蕭升にとついだ。蕭升が亡くなると、公主と彭州司馬の李万は乱倫にふけり、しかも蜀州別駕の蕭鼎・澧陽令の韋惲・太子詹事の李衛はみな公主の家に私侍した。しばらくして不祥事を聞いて徳宗は怒り、公主を他邸に幽閉し、李万を杖殺し、蕭鼎・韋惲・李衛を嶺表に流した。貞元四年(788)、また巫蠱での呪詛で廃された。貞元六年(790)に薨去した。子の蕭位は巫蠱の呪詛に連座し、端州に幽閉され、蕭佩・蕭儒・蕭偲は房州に捕らえらた。前夫の間に産んだ子の駙馬都尉の裴液は錦州にとらえられた。公主の娘は皇太子妃となり、帝は妃の怨みを恐れ、まさに殺そうとしたが、発覚する前にたまたま公主は薨去したから、太子(順宗)が病となっているすきに、妃を殺して災いを除いた。謚を恵といった。 代宗に十八女があった。 霊仙公主は、早く薨去し、追封された。 真定公主は、早く薨去した。追封された。 永清公主は、裴倣にとついだ。 斉国昭懿公主は、崔貴妃から生まれた。始め升平に封ぜられた。郭曖にとついだ。大暦年間(766-779)末年、寰内の民が涇水が磑壅(水車)のために灌漑田ができないことを訴え、京兆尹の黎幹が奏請した。詔して磑を撤去して水を民に与えた。当時公主および郭曖の家ではみな磑(うす)があり、残置を請うたが、帝は「私が民草のためか、もしくは諸親戚の訴えのためにすべきなのか」といって、即日毀し、これによって廃するところは八十所に及んだ。憲宗が即位すると、女伎を献じた。帝は「太上皇(順宗)は献を受けなかったが、朕はどうして敢えて違うというのか?」といい、返却した。元和年間(806-820)に薨去した。虢国を贈り、謚を賜った。穆宗が即位するとまた贈封した。 華陽公主は、貞懿皇后から生まれた。聡明なこと人より秀で、帝はこれを愛した。帝が喜ぶところを見ると、必ずよろこんだ。嫌うところがあれば曲げても迎合した。大暦七年(772)、病のため請願して道士となり、瓊華真人と号した。病が重く、帝は指を噛んで傷けた。薨去し、追封された。 玉清公主は、早く薨去し、追封された。 嘉豊公主は、高怡にとついだ。普寧公主とともに同時に降嫁し、役人はともに光順門で冊礼したが、雨のためにできず、中止した。建中年間(780-783)に薨去した。 長林公主は、衛尉少卿の沈明にとついだ。貞元二年(786)冊礼したが、徳宗は正殿に御さず、音楽も設けず、遂にこれが故事となった。元和年間(806-820)に薨去した。 太和公主は、早く薨去し、追封された。 趙国荘懿公主は、始め武清に封ぜられた。貞元元年、嘉誠に徙封された。魏博節度使の田緒にとつぎ、徳宗は望春亭に行幸して餞とした。厭翟車(公主の車)が破れて乗ることができなかったため、金根車(皇后の車)で代用した。公主が出降すると金根車に乗る慣例は、公主のときより始まった。元和年間(806-820)に薨去し、贈封と謚があった。 玉虚公主は、早く薨去した。 普寧公主は、呉士広にとついだ。 晋陽公主は、太常少卿の裴液にとついだ。大和年間(827-835)に薨去した。 義清公主は、秘書少監の柳杲にとついだ。 寿昌公主は、光禄少卿の竇克良にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 新都公主は、貞元十二年(796)に田華にとつぎ、光順門で礼し、令で定められた五礼はこれによって廃止された。 西平公主は、早く薨去した。 章寧公主は、早く薨去した。 徳宗に十一女があった。 韓国貞穆公主は、昭徳皇后から生まれた。幼くして親孝行につとめ、帝はこれを愛した。始め唐安に封ぜられた。秘書少監の韋宥にとつぐところだったが、朱泚の乱のためかなわず、このため城固にいたって薨去し、加封と謚があった。 魏国憲穆公主は、始め義陽に封ぜられた。王士平にとついだ。公主は勝手な振舞いで法をおかし、帝は公主を禁中に幽閉した。王士平を邸宅に禁錮した。しばらくして安州刺史を拝したが、民間との交わりで連座して、賀州司戸参軍に左遷された。門下客の蔡南史・独孤申叔が公主のために「団雪散雪の辞」をつくり離別の思いの手紙とした。帝は聞いて怒り、南史らを捕らえて放逐し、しばらくして進士科を廃止した。薨去し、追封と謚があった。 鄭国荘穆公主は、始め義章に封ぜられた。張孝忠の子の張茂宗にとついだ。薨去し、加贈と謚があった。 臨真公主は、秘書少監の薛釗にとついだ。元和年間(806-820)に薨去した。 永陽公主は、殿中少監の崔諲にとついだ。 普寧公主は、早く薨去した。 文安公主は、求めて道士となった。大和年間(827-835)に薨去した。 燕国襄穆公主は、始め咸安に封ぜられた。回紇の武義成功可汗にとつぎ、公主府を設置した。元和年間(806-820)に薨去し、追封と謚があった。 義川公主は、早く薨去した。 宜都公主は、殿中少監の柳昱にとついだ。貞元年間(785-805)に薨去した。 晋平公主は、早く薨去した。 順宗に十一女があった。 漢陽公主は、名を暢といい、荘憲皇后から生まれた。始め徳陽郡主に封じられた。郭鏦にとついだ。辞して邸宅に帰るとき、涕泣してどうすることもできなかった。徳宗は「お前に足りないことでもあるか?」と聞くと、答えて「離れることを思ってで、ほかに恨みはありません」と言った。帝もまた泣いて太子をかえりみて「ほんとうの子だな」と言った。 永貞元年(805)、諸公主とともに皆進封された。時に外戚や近臣はあらそって傲慢大言したが、公主はひとり倹約し、常に鉄の簪、壁画を用い、田租を記して入れた。文宗は最も世の中が奢侈に流れるのを憎み、よって公主を入朝させ問うた、「叔母上が着ている服は、何年のものか?今の弊害は何代にしてそうなったのだろうか?」と。公主は「私は貞元の時に宮を辞してより、服するところはみな当時賜ったもので、いまだかつてあえて変えていません。元和の後、しばしば兵を用いましたが、ことごとく禁蔵の纖麗物を出して戦士の賞としました、これによって民間に流出し、内外は互いに自慢しあったので、慣れてこのような風潮となったのです。もし陛下がよしとするところを天下にお示しあれば、誰があえて変えようとするでしょうか?」と答えた。帝は喜び、宮人に詔して公主の衣の広狭のつくりをみせ、ひとえに諸公主を諭し、かつ京兆尹に勅して華美を禁じた。公主はかつて諸皇女を戒めて「亡き姑(昇平公主)が申していましたが、私もお前もみな帝の子である。えらそうにして貴顕であることを奢れば、戒めなくてはならなくても頼みとはしてくれないだろうと」と言った。開成五年(840)に薨去した。 梁国恭靖公主は、漢陽公主と母を同じく生まれた。始め咸寧郡主に封ぜられ、普安に徙封された。鄭何にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 東陽公主は、始め信安郡主に封ぜられた。崔杞にとついだ。 西河公主は、始め武陵郡主に封ぜられた。沈翬にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 雲安公主は、また漢陽公主と同じく生まれた。劉士涇にとついだ。 襄陽公主は、始め晋康県主に封ぜられた。張孝忠の子の張克礼にとついだ。公主は雄健奔放で、常に市や里にお忍びで行った。薛枢・薛渾・李元本はみな密通して侍ったが、薛渾を最も愛し、薛渾の母に会うと姑のようであった。役人は難詰しようとしたから、多くの金を与え、暴かれないようにさせたが発覚し、夫の張克礼は奏上して、穆宗は公主を禁中に幽閉した。李元本は功臣李惟簡の子であるから、死を免じて象州に流刑とし、薛枢・薛渾は崖州に流刑とした。 潯陽公主は、崔昭儀から生まれた。大和三年(829)、平恩公主・邵陽公主の二公主とともにそろって道士となり、一年に封物七百匹を賜った。 臨汝公主は、崔昭訓から生まれた。早く薨去した。 虢国公主は、始め清源郡主に封ぜられ、陽安に徙封された。王承系にとついだ。薨去し、追封された。 平恩公主は、早く薨去した。 邵陽公主は、早く薨去した。 憲宗に十八女があった。 梁国恵康公主は、始め普寧に封ぜられた。帝は特に彼女を愛した。于季友にとついだ。元和年間(806-820)に永昌にうつった。薨去し、詔により追封と謚があった。葬られるときに、度支使(財賦の調達と出納を担当した使職)が義陽公主と義章公主の葬儀に銭四千万が用いられたと上奏したので、詔によって銭千万を減らされた。 永嘉公主は、道士となった。 衡陽公主は、早く薨去した。 宣城公主は、沈𥫃にとついだ。 鄭国温儀公主は、始め汾陽に封ぜられた。韋譲にとついだ。薨去し、追封と謚があった。 岐陽荘淑公主は、懿安皇后から生まれた。杜悰にとつぎ、帝は公主のために正殿に御して臨遣し、西より朝堂を出て、再び延喜門に御し、公主の車を止め、大いに賓客・従者に金銭を賜った。邸宅を昌化里に建造し、龍首池から水を水路で引き入れて沼とした。懿安皇后の家は尚父(郭子儀)で、大通里の亭を公主の別館とした。貴きことは当世を震わせた。しかし公主が舅姑に仕えることは礼を以て聞き、賜わった奴婢は自由のびのびとさせ、皆上に返却し、直接請うて自ら市場に出かけた。杜悰は澧州刺史となり、公主は共に任地に赴き、従者は二十婢を超えなかった。驢馬に乗り、肉食せず、州県には必要な事柄がそなわっているから、それ以外の物は拒んで受けなかった。姑が病となって寝たきりとなると、公主は着替えもせず、薬は自分で嘗めて確認しなければすすめなかった。開成年間(836-841)、杜悰は忠武軍より入朝したが、公主は病に侵されており、「願わくは興慶宮に入朝できれば、道に死すといえども恨みません」と言い、途中で薨去した。 陳留公主は、裴損にとついだ。裴損は太子諭徳となった。 真寧公主は、薛翃にとついだ。 南康公主は、沈汾にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 臨真公主は、始め襄城に封ぜられた。衛洙にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 普康公主は、早く薨去した。 真源公主は、始め安陵に封ぜられた。杜中立にとついだ。 永順公主は、劉弘景にとついだ。 安平公主は、劉異にとついだ。宣宗が即位すると、宰相は劉異を平盧節度使にしようとしたが、帝は「朕のただひとりの妹であり、会いたい時に彼女と会いたいのだ」といった。そこで中止した。後に異居外への赴任に従ったが、歳時には駱駝に乗って入朝することとなった。乾符年間(874-879)に薨去した。 永安公主は、長慶年間(821-825)初頭、回鶻の保義可汗に降嫁されることとなったが、たまたま可汗が死んだため、中止して行かなかった。大和年間(827-835)、求めて道士となり、詔して邑印を賜ることは、尋陽公主の故事の通りであり、かつ婚資に帰した。 義寧公主は、とつがないうちに薨去した。 定安公主は、始め太和公主に封ぜられた。回鶻の崇徳可汗にとついだ。会昌三年(843)来帰し、宗正卿の李仍叔・秘書監の李践方らに詔して景陵に報告させた。公主は次いで太原に奉ぜられ、詔して使の労をいたわり、黠衛斯(キルギス)が献ずるところの白貂皮・玉の指環をもって往賜した。京師に至り、百官に詔して迎謁再拝させた。邑司の官が命を受けて答拝する故事にならった。役人は議して「邑司の官は身分が低く、該当させるべきではない」と言った。群臣は公主の左右の上媵(おつき)に鬢の帛をつけて承拝することを請い、両襠(うちかけ)をつけて待命させた。また神策軍四百に行列させて、群臣に列班迎接させた。公主は輅(くるま)に乗って憲・穆の二廟室に謁し、涙を流してすすり泣き、退いて光順門に詣り、服をかえ、冠の宝鈿をはぎ、待罪し、自ら和親を申して書面にはしなかった。帝は中人を遣わして慰労させ、また冠の宝鈿をつけて入朝し、群臣は天子に祝賀を申し述べた。また興慶宮に詣でた。翌日、公主は太皇太后に謁し、長公主に進封し、ついに太和公主府は廃止となった。公主が始めて至った時、宣城公主以下、七公主は出迎えしなかった。武宗は怒り、絹で贖罪させた。宰相が「礼の始まりは宮中の女房部屋で、天下に行われ、王化の美です。願わくば史書に載せ、後世に示してください」と建言し、詔して裁可された。 貴郷公主は、早く薨去した。 穆宗に八女があった。 義豊公主は、武貴妃から生まれた。韋処仁にとついだ。咸通年間(860-874)に薨去した。 淮陽公主は、張昭儀から生まれた。柳正元にとついだ。 延安公主は、竇澣にとついだ。 金堂公主は、始め晋陵に封ぜられた。郭仲恭にとついだ。乾符年間(874-879)に薨去した。 清源公主は、大和年間(827-835)に薨去した。 饒陽公主は、郭仲詞にとついだ。 義昌公主は、道士となった。咸通年間(860-874)に薨去した。 安康公主は、道士となった。乾符四年(877)、公主が在外のためすこぶる人を騒がせるから、詔して永興公主・天長公主・寧国公主・興唐公主らとともに南内(興慶宮)に帰還させた。 敬宗に三女があった。 永興公主。 天長公主。 寧国公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 文宗に四女があった。 興唐公主。 西平公主。 朗寧公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 光化公主は、広明年間(880-881)に薨去した。 武宗に七女があった。 昌楽公主。 寿春公主。 長寧公主は、大中年間(847-860)に薨去した。 延慶公主。 静楽公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 楽温公主。 永清公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 宣宗に十一女があった。 万寿公主は、鄭顥にとついだ。公主は帝の愛するところで、これより先に詔を下して、「先王の制礼は、貴賎がこれを共にした。万寿公主は舅姑に奉り、よろしく士人の法に従うべし」と。旧制では車輿は金銀の釦飾であった。帝は「朕は倹約をもって天下に率先しており、身近なところから始めて、金銀を銅に変える」とした。公主は進見するごとに、帝は必ず篤行を教えさとし、「田舎者の家なく、懺悔する時もなし」といい、また「太平公主・安楽公主の禍は戒めを忘れてはならない!」といった。そのため諸公主はただ恐れ、争って喜事をしようとした。帝はついに「夫婦は教化の一端である。公主・県主に子があって寡婦となった場合、再嫁してはならない」と詔した。 永福公主。 斉国恭懐公主は、始め西華に封ぜられた。厳祁にとついだ。厳祁は刑部侍郎となった。公主は大中年間(847-860)に薨去し、追贈と謚があった。 広徳公主は、于琮にとついだ。かつて于琮に永福公主を娶せようと、帝とともに食事をした際に、永福公主が怒って匙や箸を折ったから、帝は「こいつは士人の妻にして大丈夫か?」といい、あらためて于琮と広徳公主を娶せた。于琮が黄巣に殺害されると公主は泣いて、「今日まで誼みがあって一人では生きられない、賊め、私を殺せ!」と言ったが黄巣は許可しなかったから、部屋で自縊死した。 公主は家をおさめるのに礼法があり、かつて于琮が韶州に左遷されるのに従った際、侍者はわずかに数人、州県の公主への贈物をも退けた。すべて内外の冠婚葬祭は、公主がすべて自ら答労したので、親しい者もそうでない者もみな感心し、世間で賢妻として知られた。 義和公主。 饒安公主。 盛唐公主。 平原公主は、咸通年間(860-874)に薨去し、追封された。 唐陽公主。 許昌荘粛公主は、柳陟にとついだ。中和年間(881-885)に薨去した。 豊陽公主。 懿宗に八女があった。 衛国文懿公主は、郭淑妃から生まれた。始め同昌に封ぜられた。韋保衡にとついだ。咸通十年(869)に薨去した。帝はすでにもとより愛するところであり、自ら挽歌をつくり、群臣に唱和させた。また百官に許可して祭儀物として金貝・寓車・廞服をつくり、これを火中に投じたから、民が争って燃えかすから宝を取り出した。葬におよんで、帝は妃とともに延興門に座って、柩が通過するのをみて哭泣し、仗衛の列は数十里にもおよび、金を加工して俑をつくり、宝物は千を数え、実際の墓中に乳母とともに埋葬した。追封と謚があった。 安化公主。 普康公主。 昌元公主は、咸通年間(860-874)に薨去した。 昌寧公主。 金華公主。 仁寿公主。 永寿公主。 僖宗に二女があった。 唐興公主。 永平公主。 昭宗に十一女があった。 新安公主。 平原公主は、積善皇后から生まれた。帝は鳳翔府の李茂貞のもとにあるとき、公主を李茂貞の子の李継侃に降嫁させたが、后は不可とした。帝は「そうでなければ、私にやすんずるところがないではないか!」といい、この日、内殿で宴し、李茂貞は帝の東南に座り、公主は殿上に拝した。李継侃の族兄弟はみな西向に立ち、公主と李継侃はこれを拝した。帝が長安に帰還すると、朱全忠は李茂貞に書を送り、公主を取り返して京師に帰還させた。 信都公主。 益昌公主。 唐興公主。 徳清公主。 太康公主。 永明公主は、早く薨去した。 新興公主。 普安公主。 楽平公主。 賛にいわく、婦人は内は夫家にあるから、天子の姫という高貴な身分であっても、史官はなお外にあるから詳細はわからなかった。また僖宗・昭宗の時の大乱のため、文書は散逸消滅し、そのため諸帝の公主が降日・薨年は、大体その概略は得たが、失われて不十分であったから書かなかった。 前巻 『新唐書』 次巻 巻八十二 列伝第七 『新唐書』巻八十三 列伝第八 巻八十四 列伝第九
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/425.html
唐書巻二百七 列伝第一百三十二 宦者上 楊思勗 高力士 程元振 駱奉先 魚朝恩 竇文場 霍仙鳴 劉貞亮 吐突承璀 馬存亮 厳遵美 仇士良 楊復光 唐制では、内侍省の官に内侍四名、内常侍六名、内謁者監・内給事がそれぞれ十名、謁者十二名、典引十八名、寺伯・寺人がそれぞれ六名あった。また五局あり、一は掖廷局といい、女官に関する一切の帳簿を司った。二は宮闈局といい、大小の門の戸締まりを司った。三は奚官局といい、宮中の疾病や死亡・喪送を司った。四は内僕局といい、出御の際の供奉・馬・燭の管理を司った。五は内府局といい、倉庫の出納を司った。局に令・丞があり、すべて宦官が就任した。 太宗は詔して内侍省に三品官を立てず、内侍をその長とし、階は第四品までで、政治については任命せず、ただ門の守備・庭内の掃除・配膳のみであった。武后の時、やや増員し、中宗に到ると、黄衣はそこで二千人で、七品以上の員外に千人を設置し、しかし朱紫を着るものもなお少なくなっていった。玄宗は平和な時代を継承すると、財用して豊かとなり、志は大いに奢り、賞や爵位を賜うことについて愛惜しなかった。開元・天宝年間(713-756)、宮嬪は大いに大体四万人にもなり、宦官の黄衣以上で三千人、朱紫を着る者は千人あまりであった。その内使節として派遣された者はたちまち三品将軍となり、戟を門に並べた。その宮殿にあって供奉し、委ねて高貴な人々に任せ、節を持って命令を伝え、威光の光焰は大きな音が鳴り響いて四方を動かした。至るところの郡県は奔走し、献上したり派遣したのは一万にも至った。功徳を修し、市場で禽鳥を売り、一たびこの使いをなれば、なお数千緡があるかのようであった。監軍が権力を持ち、節度は返ってその下に出た。ここに一級の邸宅、名庭園、肥沃な田は宦官のために、所有者は半ば京畿に戻っている。粛宗・代宗は庸弱で、権力者を頼って守りとし、そのため李輔国は尚父となって有名となり、程元振は援けて奮い立ち、魚朝恩は軍容の職で重じられたが、しかしなおもまだ常に兵を司ることができたわけではなかった。徳宗は朱泚の賊を過去の教訓とし、そのため左右神策軍・天威軍などを分割して宦官に委ねてるのが大半となり、護軍中尉・中護軍を送って、分けて禁兵をひっさげ、これによって権威・権力は下に遷り、政治は宦官にあり、手をあげて伸縮させ、たよるに軽重があった。勇士・優秀な人材を集めて養って子とした。強大な藩鎮であっても、争そうように自門から出た。 小人の情は、みだりに険呑となっていとおしんで大切にすることはなく、また昼も夜も天子に侍り、昵懇となって天子の権威がなくなり、宦官から習えば疑うことはなく、そのため暗君は昵懇となって覆い隠され、英主が出ると災いはたちまちにあらわれた。玄宗は遷されて崩じ、憲宗・敬宗は弑逆されて命を落とし、文宗は憂憤となり、昭宗に至っては天下が滅んだのである。災いは開元年間(713-741)から天祐年間(904-907)まで、野蛮で固執する者が集まった。党類が殲滅されると、王室も宦官の命運に従って壊滅し、あたかも火を焚いて木の中にいる虫を焼き、虫が全滅して木もまた焼けるようなもので、なんと哀しいことではないだろうか。その残った気は弱く、温柔な感情は遷りやすく、あなどってお上などないも等しく、怖れると怨みが生じ、天子の権を借りて専横し、災いとなって迫って近づき、情勢が緩むと互いに攻め合い、急変になるとあれこれ一致し、これは小人のいつもの情勢である。ああ、梟雄や狐は神ではなく、天はこの暗いのを共にし、果ては乱のようになるのである。そのため唐の中葉以来の宦官で大物を集めて篇とした。 楊思勗は、羅州石城県の人である。もとは蘇氏で、養父の姓を名乗った。若くして内侍省に給事し、玄宗に従って宮廷の難事を平定し、左監門衛将軍に抜擢され、帝は頼って爪牙とした。開元年間(713-741)初頭、安南の蛮酋の梅叔鸞が叛き、黒帝と号し、三十二州の衆をあげて、外は林邑・真臘・金隣などの国と結び、海南により、軍勢四十万を号した。楊思勗は派遣されることを願い、詔して首領の子弟十万を募り、安南大都護の光楚客とともに馬援の故道より不意をついて出撃し、賊は驚いて謀する余裕がなく、遂に大敗し、死体を封じて京観を築いて帰還した。開元十二年(724)、五渓の首領の覃行章が叛乱をおこすと、楊思勗に詔して黔中招討使とし、兵六万を率いて行かせ、覃行章を捕らえ、斬首三万級を得て、功績によって輔国大将軍に昇進し、俸禄・防閤(護衛の官)を給付された。泰山の封禅に従い、驃騎大将軍に昇進し、虢国公に封ぜられた。邕州封陵の獠の梁大海が叛き、賓州・横州などの州を破ったが、楊思勗がまた平定し、梁大海ら三千人を捕らえ、支党を討伐して斬り、皆殺しとした。瀧州の蛮の陳行範が天子を、その部下の何游魯は定国大将軍を、馮璘は南越王を自称し、州県四十を破った。楊思勗に詔して永州・道州・連州の三州の兵と、淮南の弩士十万を動員し、襲撃して何游魯・馮璘を敵陣で斬った。陳行範は盤遼の諸洞に逃走したが、楊思勗は全軍で猛追し、捕虜とし、その与党六万を穴埋めとし、馬や金銀を鹵獲は巨万であった。卒したとき、年八十歳ばかりであった。 楊思勗は凶悪・残忍で、殺戮をあえてし、捕虜を得ると、必ず顔面を剥ぎ、脳を切り裂き、髪や皮膚を剥ぎ取って人に示し、将兵は恐れ従ったが、あえて見る者はおらず、これによってよく功績を立てた。内給事の牛仙童が張守珪の賄賂を受け取り、詔して楊思勗にあずけて殺させた。楊思勗は牛仙童を格子に縛り付け、鞭打って痛ましさに耐えられず、心臓をえぐり、手足を切り、肉を削って食べ、肉がつきてようやく死ぬことができた。 光楚客は、楽安の人で、後に桂州都督を経て致仕し、松滋県侯に封ぜられた。 高力士は、馮盎の曾孫である。聖暦年間(698-700)初頭、嶺南討撃使の李千里が二人の去勢児を奉った。一人は金剛といい、もう一人は力士といい、武后はその明敏さから、勅して左右の給事とした。罪に連座して追放され、宦官の高延福の養子となり、そのためその姓を名乗った。武三思と親しく、一年ほどで再び宮中に入ることができ、司宮台で食事を給された。壮年となると、伸長六尺五寸で、慎重かつ緻密で、よく詔令を伝えたから、宮闈丞となった。 玄宗が王子であったとき、高力士は心を傾けて結びつき、韋氏が平定されると、そこで奏上して内坊に属させ、内給事に抜擢された。先天年間(712-713)、蕭至忠・岑羲らを誅殺した功績によって右監門衛将軍、知内侍省事となった。ここにあちこちから来る奏請はすべてまず高力士が閲覧してから後で上進し、小事はただちに専決された。休暇であっても宮中から出たことがなく、宮殿帷中で休息・睡眠し、稀なる幸運を願う者は一度でも高力士に面会したいと願うことは、天の人のようであった。帝は「力士が当直なら、私は寝る時に安心だ」と言っていた。この当時、宇文融・李林甫・蓋嘉運・韋堅・楊慎矜・王鉷・楊国忠・安禄山・安思順・高仙芝らは才能によって寵遇されていたとはいえ、全員が厚く高力士と結びつき、そのためあとにくっついて将相となることができ、そのほかなびいて付会していたものは数えきれないほどであり、全員が望みを得られたのであった。宦官では黎敬仁・林昭隠・尹鳳翔・韓荘・牛仙童・劉奉廷・王承恩・張道斌・李大宜・朱光輝・郭全・辺令誠らのように、ともに宮中で供奉し、ある者は外で節度使の監軍となり、功徳を修し、鳥獣を買い求め、全員がその使となり、帰還すると、集め獲られたものは、ややもすれば巨万となり、京師の邸宅・池園・良田・美産で、占有するものは十のうち六にもおよび、寵は高力士と大体同じようなものであったが、しかし全員が高力士の側近の地位をかりて推し量った。粛宗が東宮であったとき、高力士を兄としてつかえ、他の王・公主は「翁」と呼び、縁戚の諸家では尊んで「㸙(とうさん)」と呼び、帝はある時は名で呼ばず「将軍」と呼んだ。 高力士は幼なくして母麦氏と生き別れになり、後に嶺南節度使が母を滝州で探し出し、出迎えたが、覚えていなかった。母は「子どもには胸に七のホクロがあった」と言ったから、高力士は肌脱ぎになってみると、言った通りであった。母は金の環を出し、「子どもがつけていた」と言うと、お互いに同じのを持っていたから慟哭しあった。帝は高力士のために母を越国夫人に封じ、その父に広州大都督を追贈した。高延福と妻は、高力士が偉くなっても健在であり、侍って養うことは実母麦氏と同じようであった。金吾大将軍の程伯献が高力士と義兄弟となることを約束し、後に麦氏が亡くなると、程伯献は髪を被って弔いを受けた。河間の男子の呂玄晤は京師で役人となり、娘は国一番の美女で、高力士はこの娘を娶り、呂玄晤は一小役人から少卿に出世し、子弟は全員王傅となった。呂玄晤の妻が死ぬと、内外の人々は葬礼にやって来て、邸宅から墓へ至るまで、車馬の列が途切れなかった。 それより以前、李林甫・牛仙客は帝が東都への行幸を嫌がっているのを知っていたが、京師への運送は給されていなかったから、そこで年貢をとりたてて運送を助け、和糴の法を用いるようになった。数年して、国庫は徐々に充実していった。帝は大同殿で祭祀を行い、高力士は近侍した。帝は「我々は長安を出ないことは十年になろうとしており、海内は無事で、朕は道家の養生の呼吸法を行い、天下の事は李林甫に預けようと思う。どうか」と言うと、高力士は「〝天子は順をもって動く〟と言いますように、古からの制度です。税収は常にあるから、人々には労いの言葉をかけていません。今年貢で運送物が満たされていますが、臣は国家には十か月の蓄えとてないことを恐れています。和糴を止めなければ、私蔵は尽き果て、商売する者が多くなります。また天下の権力は人に与えてはなりません。権力を威にして勢力を振るい、どうしてあえて議論することがありましょうか」と答えたが、帝は不快に思ったから、高力士は頓首して自ら陳謝して、「精神がおかしくなっていました。言い誤りは死に値します」と言った。帝は酒宴を設け、左右の者は万歳を叫んだ。これによって内宅に帰り、再び同じようなことはしなかった。驃騎大将軍を加えられ、渤海郡公に封ぜられた。来廷坊に仏寺を建立し、興寧坊に道観を建立し、美楼や宝閣で、国がもたらしたものは及ばないほどであった。鐘が完成すると、高力士は公卿と宴し、一度鐘を叩くと、礼銭十万を納め、高力士に阿諛追従する者は二十回叩き、少ない者でもまた十回を下回らないほどであった。都北の灃水の堰に五つの碾磑を並べ、毎日三百斛に対応した。 袁思芸なる者がおり、帝はまた寵愛していたが、しかし傲慢で慎まず、士大夫は疎んじて恐れ、高力士は密かに巧みに人の名声を得た。帝は始めて内侍省監に二員を置き、秩三品とすると、高力士・袁思芸をそれに叙任した。安禄山の叛乱のため帝が蜀に逃れると、袁思芸は遂に賊の臣下となったが、高力士は帝に従ったから、斉国公に進封した。帝は粛宗の即位を聞いて、「我が子はまさに天に応じて人を従わせるだろう。至徳と改元したのは、孝を忘れないからだろうか。その上何の心配があろうか」と喜んだが、高力士は「両京は守りを失って陥落し、生ける者は流浪し、河南漢北は戦場となり、天下は心を痛めていますが、陛下は何の心配もないと考えられているようでしたら、臣はあえて聞かなかったことにします」と言った。上皇が帰還すると、開府儀同三司に昇進し、実封戸五百となった。 上皇が西内(宮城・太極宮)に移ると、十日ほどして、李輔国に誣告され、除籍されて、巫州に長流となった。高力士はその時功臣閣におこりの発作のため席をはずしていたが、李輔国は詔によって召還し、高力士は走って宮殿の外に到り、太監から流謫の制書を授けられると、「臣は本来死ぬべき身でありますが、長い事行きながらえており、天子の哀憐は今日に至っています。願わくば、陛下の顔色を一見させていただければ、死んでも恨みません」と言ったが、李輔国は許さなかった。宝応元年(762)、赦免によって帰還したが、玄宗・粛宗二帝の遺詔を見て、北に向かって慟哭して血を吐き、「大行皇帝があの世に登られたのに、梓宮にすがることもできない。死んでも恨みが残る」と言い、慟哭して卒した。年七十九歳。代宗は先帝を護衛した労によって、その官位を戻し、揚州大都督を追贈し、泰陵に陪葬した。 それより以前、太子李瑛が廃せられると、武恵妃は寵愛により、李林甫らは皆寿王に心を寄せ、帝は粛宗が年長であったものの、思いを決せず、居ながらにして気がふさいで食事ができなかった。高力士は、「旦那様がお食べにならないのは、食事に何か不具合がございましたか」と言うと、帝は「お前は、私の家老ではないか。私がどうしてこのようになっているのかわからないのか」と言うと、高力士は「後継ぎがまだ定まっていないからですか。年長を立てればいいのです。どうしてあえて言う事がありますか」と言うと、帝は「お前の言う通りだな」と言い、儲君の位は遂に定まった。天宝年間(742-756)、辺境の将軍が功績を争っており、帝はかつて「朕は年をとって、朝廷の細かい仕事は宰相にまかせ、蕃夷が恭順しなければ諸将にまかせている。どうして暇がないことがあろうか」と言うと、「臣が時間のあるときに宮中の門に行ってみると、奏事する者がいて雲南でしばしば軍を失ったと言上しており、また北兵は剽悍で強いのですが、陛下はどうやって抑えるのでしょうか。臣は災いがおこるのではないかとの心配をしないわけにはいきません」と答え、それは安禄山を指していたのだという。帝は「お前は言うことではない。朕の将軍が考えることだ」と言った。天宝十三載(754)秋に大雨となり、帝は左右を振り返ったが誰もおらず、そこで「天が災いしている。お前の考えを言ってみよ」と言ったから高力士は、「陛下が宰相に権力を与えてから、法令は行われず、陰陽は度を失い、天下の事はどうして再び安穏とすることがありましょうか。臣は口をつぐんで言いませんが、その時だからです」と言ったが、帝は答えなかった。翌年、安禄山が叛乱をおこした。高力士はよく時勢の上下を推し量り、昵懇となっているとはいえ、傾国敗亡にあたっても、救うことに力をつかうことをよしとせず、そのため普段からあきらかな大過がなかった。議する者は宇文融以来、権力と蓄財は賊と同じようなものであり、天下の禍いへの階段を登り、よいこともあったとはいえ、除くことがなかったことを非常に恨んだという。 程元振は、京兆三原県の人である。若くして宦官となって内侍省につとめ、内射生使・飛龍厩副使に遷った。張皇后が越王を即位させようと謀ると、程元振は太子に謁見して、その奸計を暴き、李輔国とともに助けて国難を討伐し、太子を即位させた。これが代宗となった。右監門衛将軍、知内侍省事を拝命した。帝は薬子昂を元帥行軍司馬に任じたが、固辞し、そこで程元振を任命し、保定県侯に封じた。再び驃騎大将軍・邠国公に遷り、ことごとく禁軍を統括した。一年後、権勢は天下を震わせ、李輔国の近くにあって、凶悪さはそれを上回るものであった。軍中では十郎と呼ばれた。 王仲昇は、初め淮西節度使となり、襄州の張維瑾の部将と申州で戦ったが、捕虜となった。賊が平定されると、程元振は推薦して右羽林大将軍兼御史大夫とした。将軍が大夫を兼任するのは王仲昇から始まった。裴冕は程元振にさからい、そこで韓穎らの罪をひいて施州に貶した。来瑱は襄・漢を守って功績があり、程元振はかつて自分の功績とするよう求めたが、応じることはなく、そこで王仲昇とともに誣告して来瑱を殺した。同華節度使の李懐譲と関係が悪化し、李懐譲は非常に心配して自殺した。もとより李光弼を憎んで、しばしばサソリをとりもったとして嫌疑をかけた。来瑱らは上将で、裴冕・李光弼は元勲であったが、既に誅殺・排斥され、ある者は自ら反省せず、藩鎮らはこれによって心離れすることとなった。 広徳年間(763-764)初頭、吐蕃・党項が領内に侵入し、詔して天下の兵を召集したが、一兵士とて命を捨てて参じる者はいなかった。敵は便橋に迫り、帝はあわてて嫠居・陝県に出て、京師は陥落し、賊は府庫を掠奪し、宮殿や街を焼き払い、騒然として空虚と化した。ここに太常博士・翰林待詔の柳伉が上疏して、「犬戎が数万の軍で関中を犯し隴西にわたり、秦州・渭州を経て、邠州・涇州を掠奪し、刃を血塗らずして京師に入り、謀臣は一言も奮わず、武士は一戦も力せず、兵卒をひっさげて大声をあげ、宮殿を掠奪し、陵墓を焼き払いましたから、これは将帥が陛下に叛いているのです。史朝義が滅んでから、陛下は智力のよくするところによっていますが、そのため元より功績のある者を疎んじ、近習に委ね、日月が過ぎるにつれ大禍となり、群臣は朝廷にあって一人とてあえて君主の威厳を侵すような者はおりませんが、これは公卿が陛下に叛いているのです。陛下は始めて都を出て、百姓は勢いづいて府庫を奪い、互いに殺戮しあい、この関中も陛下に叛いているのです。十月朔日より諸道の兵を召集して、四十日になろうとしていますが、一隻の輸送船とて関に入るものはなく、これは天下四方が陛下に叛いているのです。内外が離叛し、一人の魚朝恩が陝郡で力をつくしたといっても、陛下一人がこれによって社稷を守ることができるでしょうか。陛下は今日の勢いによって安んずることができるでしょうか。なんと危ういことでしょうか。もし危ういとわかっているのに、どうして高枕を得て天下の計とすることができましょうか。臣は良医が病気を治療するとき、病にあたって薬を飲み、薬で病にあたらないのは、なお無益だからだと聞いています。陛下は今日の病を見て何によってここに至ったのでしょうか。天下の心は、陛下が賢良を遠ざけ、宦官を任用し、将軍を離間して危うく滅ぼされかけたことを恨んでいます。必ず宗廟社稷を存続させようと思うのでしたら、一人程元振の首を斬って、天下に急告し、ことごとく内使を出して諸州に属させ、一人魚朝恩を留めて左右に備え、陛下は神策兵を大臣に授け、その後に尊号を削り、詔を下して咎を引き、率先して徳を励行させ、嬪妃を公の場から覆い隠し、将軍を任じるのです。もしくは「天下は朕が自ら新たに過を改めるのを許すだろうか。ただちに兵士を募って西は朝廷と合流すべきである。もし朕の悪行が改悛されなければ、帝王の大器は、あえて聖賢を妨げず、天下往くところを聴す」と仰せられるのです。このようにしても兵がやって来ず、人々は感じ入らず、天下が服さなければ、臣の一族を皆殺しにして謝してください」と述べ、帝は公議を共にしなかったことを反省し、そこで詔を下して程元振の官爵をすべて削り、田舎に放ち帰した。帝が帰還すると、程元振は三原から婦人の衣服を着て密かに京師に入り、司農卿の陳景詮の家に留まり、大それたことを意図した。御史の弾劾調査により、溱州に長流となり、陳景詮は新興県の尉に貶された。程元振は江陵に到着して死んだ。 当時、また駱奉先なる者がおり、また三原の人で、右驍衛大将軍を経て、しばしば帝に従って討伐し、非常に寵遇された。広徳年間(763-764)初頭、僕固懐恩の軍の監軍となった。駱奉先は寵遇を恃んで非常に貪欲であり、僕固懐恩とは不仲で、僕固懐恩は駱奉先の讒言を恐れて、ついに叛いた。平定されると、駱奉先を軍容使に抜擢し、畿内の兵を掌握させ、権勢はさらに燃え上がった。永泰年間(765-766)初頭、吐蕃がしばしば京師を脅かしたから、鄠(陝西省鄂県)に城塞を築き、駱奉先が使となり、ことごとく県外の家々を壊し、小さな小屋すら残らなかった。江国公に封ぜられ、鳳翔軍の監軍となり、大暦年間(766-779)末に卒した。 魚朝恩は、瀘州瀘川県の人である。天宝年間(742-756)末、品官によって給事黄門となり、心の内は陰険かつ狡猾であったが、詔令の宣命をよくした。至徳年間(756-758)初頭、李光進の監軍となった。京師が平定されると、三宮検責使に任じられ、左監門衛将軍知内侍省事となった。九節度使が賊を相州で包囲すると、魚朝恩を観軍容・宣慰・処置使とした。観軍容使は魚朝恩から始まった。史思明が洛陽を攻撃すると、魚朝恩は神策兵で陝州に陣を敷いた。洛陽が陥落すると、史思明は長駆して硤石に到着し、子の史朝義を遊軍とした。粛宗は詔して精兵十万で渭水を迂回して東は軍を増援させた。魚朝恩は兵を陝州の東に留め、神策の将の衛伯玉に賊将の康文景らと戦わせ、破った。洛陽が平定されると、移動して汴州に陣を構えた。開府儀同三司となり、馮翊郡公に封ぜられた。宝応年間(762-763)、戻って陝州に駐屯した。代宗は吐蕃の侵攻を避けて東に行幸し、衛兵は離散したが、魚朝恩は全軍で華陰県にお出迎えし、乗輿の六軍はそこで勢力を立て直し、帝は恩義に感じ、改めて天下観軍容・宣慰・処置使と号し、神策軍を統括させ、賞や賜い物は数え切れなかった。 魚朝恩の性格は小人で、功績をたのんでたちまち憚ることはなかった。僕固瑒が絳州を攻撃し、姚良に温県を根拠地として、回紇を誘引して河陽を陥落させた。魚朝恩は李忠誠を派遣して僕固瑒を討伐し、霍文場を監軍とした。王景岑に姚良を討伐させ、王希遷を監軍とした。僕固瑒を万泉で破り、姚良を捕虜とした。高暉らが吐蕃を誘引して侵攻し、劉徳信を派遣して討伐して斬った。そのため魚朝恩は麾下によってしばしば勝利を収め、心の中では次第に尊大になっていった。この当時、郭子儀が天下を定めた功績があり、人臣第一の功があり、心の中で妬み、相州の敗北に乗じて、醜聞を誣告し、粛宗は心の中ではその言葉を信じていなかったが、それでも郭子儀を軍から罷免し、京師に留めた。代宗が即位すると、程元振とともに一層讒言を加えたが、帝はまだ悟らず、郭子儀は非情に憂慮した。にわかに吐蕃が京師を陥落させると、ついに郭子儀の力を用い、王室は再び安泰となった。そのため魚朝恩は心の中で恥じ入り、そこで帝に洛陽への遷都を勧め、戎狄から遠ざかろうとした。百官が朝廷にあって、魚朝恩は十人あまりを従えて兵とともに出てきて、「敵はしばしば都の郊外を侵犯しているから、洛陽に行幸しようと思う。どうか」と言うと、宰相は答えなかったが、近臣がその雰囲気を断ち切って「勅使は叛かれたか。今防衛兵は敵の侵攻を防ぐのに充分であるのに、何を根拠にして天子を脅して宗廟を捨てようとするのか」と言うと、魚朝恩は顔面蒼白となり、郭子儀もまた反対意見を述べたから、沙汰止みとなった。 魚朝恩は軽薄で浮ついた若年者を好んで門下に引き連れ、五経大義を講じ、文章をつくり、才能は文武を兼ねると自称し、寵遇を誤って伺っていた。永泰年間(765-766)、詔して判国子監、兼鴻臚・礼賓・内飛龍・閑厩使となり、鄭国公に封ぜられた。始めて太学に視学すると、宰相・常参官・六軍の将軍に詔してことごとく召集し、京兆府で食を設け、内教坊から音楽の俳優を出して宴会の補助とし、大臣の子弟二百人、朱紫の衣が雑然として学生に付し、席次ごとに廡に並んだ。また銭千万を賜い、子銭を取って秩飯に供した。視学するごとに、神策兵数百を従え、京兆尹の黎幹が従事する者に銭を与えていたから、一回あたり数十万を費やしたが、魚朝恩の顔色を伺ったからいつも不足していた。 おおよそ詔があって群臣と会して事をはかると、魚朝恩は貴顕をたのんで、根拠のない妄言で議論のために着座している人を侮辱して、見下すような偉そうな態度をとり、元載のように弁論に秀でた人であっても押し黙らせ、ただ礼部郎中の相里造・殿中侍御史の李衎が問答を繰り返し、屈服せず、魚朝恩は喜ばず、李衎を斥け相里造を移動させた。また謀って宰相を代えて朝廷を震わせようとし、そこで百官を都堂に集め、そして「宰相は、元気(宇宙自然の気)を調え、一切の生き物を集めるものだ。今は思いがけず水は旱りとなり、軍は数十万もの駐屯し、運送は尽きて困窮している。天子が臥せって席を安んじておられないのに、宰相はどうやって輔弼するのか。賢人が仕える道を退避せず、黙々と何を頼っているのか」と言うと、宰相は蕭俛を筆頭に、着座している者は全員顔色が青ざめた。相里造は着座して従っていたが、そこで「陰陽が調わず、五穀の価格が上昇しているのは、すべて軍容閣下(魚朝恩)の政治で、宰相に何の関わりがありましょうか。また軍事力は分散しておらず、そのため天は澱みを降らせています。今京師は無事で、六軍は藩鎮に相連なることができています。また十万もの軍が駐屯して、兵糧が不足しているからといって、百官の年俸もないのは、軍容閣下が実行したことで、宰相は文書を作成したのみで、何の罪を帰するところがありましょうか」と述べたから、魚朝恩は衣を払って去り、「南衙(官人)の朋党もまた私を害している」と言った。釈菜となり、『易』をもって講座にのぼり、百官は全員居並んでいる中、「鼎」(『周易』下経)の餗(そく)を覆えすの象(君公からの贈り物である鼎中のご馳走をひっくりかえす重職者の無才徳)ありと言い、これによって宰相の尊厳をおかした。王縉は怒ったが、元載は笑っていた。魚朝恩は「怒った者は普通の精神であるが、笑った者は測ることができない」と言っていた。元載は心の中では恨んでいたが、発覚しなかった。 魚朝恩は別荘を賜り、美しい沼は清新な立地であり、上表で仏寺とし、章敬太后の冥福を祈るため、そこでそこで章敬太后の諡から章敬寺と名付けるよう願い、許された。ここで費やした費用は莫大なものとなり、公のものは曲江の諸館・華清宮の楼榭・百官の官衙・将相のもと邸宅を取り壊し、その材料を収容して建造の補助とし、ざっと万億を費やした。すでにしばしば郭子儀を謗っていたが、聴かれることはなかったから、盗賊に郭子儀の先祖の墳墓を盗掘させた。郭子儀は偽って自ら弁解し、これによって人々の疑いを静めた。しばらくして、判国子監・鴻臚礼賓等使を辞退して譲り、内侍監を加えられ、韓国公に移封され、実封百戸を増加された。にわかに検校国子監を兼任した。 それより以前、神策都虞候の劉希暹はたくましく強くて騎射をよくし、最も魚朝恩と昵懇かつ信任を得ており、太僕卿となって交河郡王に封ぜられた。兵馬使の王駕鶴は一人謹み深く温厚で、同じく徐国公に封ぜられた。劉希暹は魚朝恩に仄めかして獄を北軍に設置し、密かに悪少年を勝手気まままにあつかって富裕者を捕らえて吏に渡して尋問し、そこで獄中では法によって、財産を記録して軍に編入し、全員を誣告して冤罪で死に追いやり、そのため市中の人々は「入地牢」と号した。また万年県の吏の賈明観は魚朝恩の権勢をたのんで捕物を恣意的に実行し、巨万の財を積み、人々はその悪事をあえて暴くものはいなかった。朝廷の裁決で、魚朝恩がある時関与しなかったことがあり、たちまちに「天下の事は私を経ないものがあるのか」と怒ったが、帝は聞いて喜ばなかった。養子に魚令徽なる者がおり、まだ幼かったが、内給使(従五品相当官)となり、緑衣(六品・七品の衣)を着用し、同列と争って怒り、帰って魚朝恩に報告した。翌日帝に謁見して「臣の子の位は下で、願わくば金紫を得て、班位は上列にありたいのです」と言ったが、帝が返答する前に、役人がすでに紫服を御前に奉り、魚令徽は感謝の意を申し上げた。帝は笑って「小僧に章服とは、大いに適っているな」と言ったが、ますます喜ばなかった。 元載はそこで左散騎常侍の崔昭を用いて京兆尹とし、厚く財力によってその与党の皇甫温・周皓と結びついた。皇甫温は陝州に駐屯し、周皓は射生将であった。これより魚朝恩は密かに謀を企てたが、すべて帝の知るところとなった。劉希暹は帝の意図を悟り、密かに魚朝恩に報告し、魚朝恩はようやく恐れるようになった。しかし帝に謁見しても接待・待遇はいまだ衰えず、そのため安心して密かに大それたことを計画するようになった。帝は遂に元載をたより、魚朝恩を除こうと決意したが、恐れてできず、元載は「陛下はただ専ら臣の言う通りになされば、必ずうまくいきます」と言った。魚朝恩は宮殿に入った。かつて武士百人を従えて自衛していたが、周皓がこれを統括し、皇甫温が兵を掌握して外部にいた。元載はそこで鳳翔尹の李抱玉を移して山南西道節度使とし、皇甫温を代って鳳翔節度使とし、表向きは魚朝恩の権力を尊重し、実際には皇甫温を内部に引き込んで自らの助けとした。元載はまた議して鳳翔の郿県を分けて京兆に属させ、鄠県・盩厔県および鳳翔の虢県・宝鶏県を李抱玉に与えて、興平県・武功県・鳳翔の扶風県・天興県を神策軍に与え、魚朝恩はその土地を利して、自ら利財したが、欺かれているのを知らなかった。郭子儀は密かに「魚朝恩はかつて周智光と結んで外応しており、長らく宮中の兵を領しています。速やかに計画を実行しなければ、変事はまた大きくなりますぞ」と申し上げた。元載は皇甫温を京師に留め、まだ派遣できていなかったから、周皓と共に魚朝恩を誅殺することを盟約した。謀が定まると、上奏し、帝は「うまく計画を実行せよ。かえって災いを受けてはならんぞ」と言った。当時、寒食節で禁中では宴会が行われ、それが終わると将軍たちは軍営に帰っていったが、詔があって議事があるとして留めた。魚朝恩はもとより太っていて、そのたびに小車に乗って宮省に入っていた。帝は車の先触れの声を聞いてかしこまって座り、元載は中書省を守った。魚朝恩が到着すると、帝は魚朝恩の謀反計画を責めたが、魚朝恩は自ら弁明して非常識な言動をとって傲慢であったから、周皓は左右の者と共に捕らえて絞殺した。死んだ時、年四十九歳。外部に知る者はなかった。帝は隠蔽して、詔を下して観軍容等使を罷免し、実封戸六百を増やし、内侍監はもとの通りとした。外部では皆が「既に詔を奉って、自ら縊死した」と言っていたという。死体は家に帰り、銭六百万を賜って葬った。 帝は軍乱を恐れ、劉希暹・王駕鶴を昇進させてともに兼御史中丞とした。また詔を下して将兵を諭し慰めたが、ただ劉希暹は自らが同じく憎まれているのを知っていたから、言動は不遜であり、王駕鶴が暴いて言上したから、遂に死を賜った。しかし賈明観は元載の厚遇も得ていたから、そのため元載は奏上して江西に赴任させ、功績を立てさせて自ら贖罪させようとしたが、路嗣恭は賈明観を杖殺してしまった。魚朝恩と親しかった礼部尚書・礼儀使の裴士淹、戸部侍郎判度支の第五琦は連座して貶された。 竇文場・霍仙鳴は、始めともに東宮に属し、徳宗に仕えたが、まだ名があがってなかった。魚朝恩が死んでから、宦官は再び兵を司らず、帝は禁衛をすべて白志貞に委ね、白志貞は多く富裕者から賄賂を納めて兵士を別に集めて補ったが、その賃金を自身に収めるだけで、兵士は実際に存在していなかった。涇州の軍が叛乱をおこすと、帝は近衛兵を召集したが、一人もやって来る者はおらず、ここに竇文場らは宦官および親王を率いて左右に従った。奉天に到着すると、帝は白志貞を追放し、あわせて左右軍を竇文場に授けて将とした。興元年間初頭(784)、詔して監神策軍左廂兵馬とし、王希遷を監右神策軍都知兵馬使とし、馬有麟を左神策軍大将軍とし、軍額はこれより始まった。 帝は山南より帰還すると、両軍もまた完うした。しかし帝は宿将を嫌って制することが難しく、そのため竇文場・霍仙鳴に詔して指揮させ、天威軍を廃止して左右神策軍に編入させた。この時、竇文場・霍仙鳴の権勢は朝廷に振るい、諸地方の節度使は多くはその軍から出て、台省の要職にある者は門下をはしり、援助を願う者は相継いで足を運んだ。衛士の朱華なる者は按摩によって竇文場の厚遇を得て、計画に参与し、賄賂数万緡を求めて、藩鎮は巨万の額を贈り、兵士の妻女を奪って憚ることなかったから、詔して軍中で殺害した。その勢いが盛んであることはこのようであった。 しばらくして、護軍中尉・中護軍をそれぞれ二人置き、竇文場に詔して左神策護軍中尉とし、霍仙鳴を右神策護軍中尉とし、焦希望を左神策中護軍とし、張尚進を右神策中護軍とした。中尉・護軍は竇文場らから始まった。後に霍仙鳴が病となると、帝は十馬を賜い、諸祠に快癒を祈らせた。後に少し癒えたが、にわかに死んだから、帝は左右の者が毒を飲ませたのではないかと疑い、小使を捕らえて尋問し、数十人が誅殺され、開府儀同三司を追贈され、内常侍の第五守亮に代わらせた。竇文場は驃騎大将軍となった。当時、監察御史の崔薳が軍に捕縛のために赴き、吏が崔薳に酒食を供すると、崔薳は媚びて喜ばせようとし、そのため供を拒まなかった。竇文場は弾劾奏上し、詔して崔薳を遠方に流した。竇文場は年老いて致仕して卒した。 その後、楊志廉・孫栄義が左右中尉となり、権力を弄んで驕り勝手にすることは、竇文場・霍仙鳴とほぼ同じであった。帝は晩年、民間が禁中の事を流言するのを聞いて、北軍に太学生の何竦・曹寿を捕らえさせて尋問させ、人心は大いに恐れたから、司業の武少儀が「罪があるかどうかは判断しにくいので、全国に基準を明示していただきたい」と上書した。にわかに釈放された。この当時、宦官は再び盛んであった。 焦希望は、涇陽の人で、明威将軍を経て、洪州都督を追贈された。張尚進は、河東の人で、忠武将軍を経て、開府儀同三司を追贈された。楊志廉は、弘農の人で、左監門衛大将軍に任じられた。孫栄義は、涇陽の人で、右武衛大将軍に任じられた。同じく揚州大都督を追贈された。 劉貞亮は、本姓は倶氏で、名は文珍である。宦官であった養父の姓を名乗ったため、改名したのである。性格は忠義心が強く、義理を知った。吐蕃との平涼の盟約のとき、渾瑊の軍中にあったが、変事にあって捕虜となり、捕らえられて西に連行されたが、にわかに帰還できた。京師から出されて宣武軍の監群となり、自ら親兵千人を置いた。貞元年間(785-805)末、宦官が兵を領して従わせる者がますます多くなった。 順宗が即位すると、長らく病に臥せって朝政をとることができず、ただ李忠言・牛美人が侍るだけであった。牛美人は帝の意向を李忠言に授け、李忠言はこれを王叔文に授け、王叔文は柳宗元らとともに裁定し、その後に中書省に下した。しかしまた勝手気まままにしようとしてもできず、遂に神策兵を奪って自らの権力を強化しようとし、そこで 范希朝を登用して西北禁軍都将とし、宦官の権力を自身の手に収めようとした。しかし李忠言はもとより慎重で慎み深く、王叔文に会うごとに共に議論したが、あえて意見を異にすることはなく、ただ劉貞亮が王叔文と争ったのである。また朋党が強く結びつくことを嫌い、そこで宦官の劉光琦・薛文珍・薛尚衍・薛解玉・呂如全らとともに同じく帝に勧めて広陵王を立てて太子監国とするよう勧め、帝はその奏上を受け入れ、劉貞亮は学士の衛次公・鄭絪・李程・王涯を呼び寄せ金鑾殿で詔の草稿をつくった。太子が即位すると、王叔文の党派をことごとく追い払い、政治を大臣に委ね、議する者はその忠義をよしとした。 高崇文が劉闢を討伐すると、また監軍となった。それより以前、東川節度使の李康が劉闢に敗北すると捕らえられた。高崇文がやって来ると、劉闢は李康を帰還させて自らの罪を雪ぐことを求めたが、劉貞亮は賊を防がなかったことを弾劾し、李康を斬り、そのため専断凶暴ぶりが恨まれた。右衛大将軍、知内侍省事に昇進した。元和八年(813)卒し、開府儀同三司を追贈された。 憲宗が即位すると、劉貞亮は功績があったのに、死んでしまって恩寵によって地位を手にすることができなかった。呂如全は内侍省内常侍・翰林使を経て、勝手に樟材を伐採して邸宅に使ったのを罪とされ、東都の獄に送られるところを、閿郷に到着したところで自殺した。また郭旻は酔って夜間外出の禁令に触れ、杖殺された。五坊の朱超晏・王志忠は鷹匠を民家に入れたから、杖二百となり、職を奪い、これより恐れない者はいなかった。 吐突承璀は、字は仁貞で、閩の人である。黄門となって東宮に仕え、掖廷局博士となり、細かいところまで見逃さないことに才能があった。憲宗が即位すると、左監門将軍・左神策護軍中尉・左街功徳使に抜擢され、薊国公に封ぜられた。 王承宗が叛くと、吐突承璀は帝が征討の意思を先鋭にしていることを察して、そこで行くことを願った。帝はその果敢で自ら喜んでいるのを見て、任命すべきであると言い、そこで吐突承璀に詔して行営招討処置使に任じ、左右神策および河中・河南・浙西・宣歙の兵を従わせた。内寺伯の宋惟澄・曹進玉を館駅使とし、河南・陝・河陽より宋惟澄の担当とした。京師・華州・河中から太原までを曹進玉の担当とした。また内常侍の劉国珍・馬朝江に詔して易・定・幽・滄等州糧料使を分領させた。ここに諌官の李鄘・許孟容・李元素・李夷簡・呂元膺・穆質・孟簡・独孤郁・段平仲・白居易らは集まって延英殿で対面し、古より宦官を司令官の位にしたことはなく、全国に笑われるのを恐れると述べた。帝はそこで改めて招討宣慰使に任じ、彼らのために通化門に御してその行軍を慰めた。吐突承璀は軍を統率したが他に遠略とてなく、盧従史に侮られ、一年しても功がなく、宦官の持ってくる詔に頼り、暴いて盧従史を捕縛させ、合間に人を派遣して王承宗に上書を奉って罪を待つよう述べ、そこで詔して軍を帰し、戻って中尉となった。段平仲は吐突承璀を弾劾し、軽挙な謀で軍費を費やし、国威を損じたとして、斬首せずに天下に謝るような方法はないとした。帝はやむを得ず、罷免して軍器荘宅使とした。ついで左衛上将軍、知内侍省を拝命した。 たまたま劉希光が羽林大将軍孫璹の銭二十万緡を納めて、孫璹の藩鎮の地位を求めたが、詔によって死を賜り、吐突承璀はその係累であったから、そのため京師から出されて淮南軍の監軍となった。纖人太子通事舎人の李渉が目安箱に投書を行って吐突承璀らの冤罪を訴え、ここに孔戣 は目安箱のことを司っており、その写しを閲覧したが受諾せず、そこで吐突承璀の邪まさを上表し、追放して峽州司倉参軍とした。しかし帝は吐突承璀に対してとくに厚いものがあったが、当時李絳が翰林にあって、非常にその過を論じたから、追放を決定して送り出すこととなったのである。帝は後に吐突承璀を戻そうとし、彼のために李絳の宰相職を罷免し、召還して内弓箭庫使とし、左神策中尉に復職させた。恵昭太子が薨ずると、吐突承璀は澧王を皇太子とするよう願ったが、聞き入れられなかった。常に一室に賜った詔勅を収蔵していたが、地面から毛が二尺ほど生えてきて、これを嫌って自ら清掃して埋めてしまった。一年後、帝が崩ずると、穆宗は先の皇太子に関する議を恨みに思い、吐突承璀を禁中で殺害した。敬宗の時、左神策中尉の馬存亮がその冤罪を論じ、詔して子の吐突士曄に埋葬を許した。宣宗の時、吐突士曄を抜擢して右神策軍中尉とした。 この当時、諸道は毎年閹児(去勢した男児)を進上し、「私白」と号しており、閩(福建)・嶺(広東)が最も多く、後に皆朝廷に仕えたから、当時は閩を「中官区薮(宦官密集地)」と呼んだ。咸通年間(860-874)、杜宣猷が観察使となると、毎年吏を派遣してその先祖の祭祀を行い、当時は「勅使墓戸」と号した。杜宣猷はついに宦官たちの力を用いて宣歙観察使に遷った。 馬存亮は、字は季明で、河中の人である。元和年間(806-820)、抜擢されて左神策軍副使・左監門衛将軍、知内侍省事となり、左神策中尉に昇進した。軍は登録されている人員でおよそ十万あまりいたが、馬存亮が掌握しているのは最も精兵を選り分けて、伍(分隊)に兵士を辞める者はおらず、部隊には余剰人員がいなかった。 敬宗が即位した当初、染署工の張韶が占い師の蘇玄明と親しく、蘇玄明は「私はかつて君を占ったところ、君は御殿で食事をしようとしており、私と一緒だった。私はお上が昼夜狩猟をしていて、出入には際限がないと聞いているから、やるべきだ」と言い、張韶は染材を運ぶたびに宮中に入っていたから、衛兵は咎め立てしなかった。そこで密かに諸工百人あまりと結託し、兵を車中に隠して材料を運んでいるようにし、右銀台門に入り、闇夜に実行することを約束した。その荷物を積み込んでいる者に、張韶の謀が発覚したから、その人を殺し、兵を出して大声で整列するよう叫び、浴堂門を閉じた。その時、帝は清思殿で撃毬しており、驚いて、右神策軍に行幸しようとした。ある者が、「賊が宮中に入っており、多いのか少ないのかすらわかりません。道は遠くて心配ですから、左軍に入るのにこしたことがありません。近くて迅速だからです」と述べたから、これに従った。それより以前、帝は常に右軍中尉の梁守謙を寵遇し、ことあるごとに行幸した。両軍が角力で競い合うと、帝は多くは右軍の勝利を望み、左軍は望みの通りにしていた。ここに至って、馬存亮は出迎え、帝の足にすがりついて泣き、背負って宮中に入った。五百騎で恭僖皇太后・懿安太皇太后の二太后を迎えた。ここに至って、賊はすでに関を突破して清思殿に入り、御座にあがり、乗輿のあまりものの膳を盗み、蘇玄明を呼んで一緒に食事をし、「占いの通りだったな」と言った。蘇玄明は「これからどうするんだ」と言い、張韶は憎んで、ことごとく宝器をその徒に賜い、弓箭庫を攻撃し、儀仗兵が防御したから勝てなかった。馬存亮は左神策大将軍の康芸全、将軍の何文哲・宋叔夜・孟文亮、右神策大将軍の康志睦・将軍の李泳・尚国忠を派遣し、騎兵を率いて賊を討伐させ、日暮れに、張韶および蘇玄明を射て皆死んだ。始めて賊が入ると、宦官の倉庫番兵は望仙門から逃げ出し、宮中の内も外も行在がどこにいるかわからなかった。夜明けになると、ことごとく乱党を捕らえ、左右の神策軍は宮中を清め、車駕は帰還した。群臣は延英門に詣でて天子に謁見したが、しかしやって来た者は十人中、一・二人にすぎず、賊が侵入したとき、咎めて禁じなかった者数十人を罪に問い、杖に笞打ったが殺さず、馬存亮に実封戸二百を賜い、梁守謙を開府儀同三司に昇進させ、他の論功・賞はそれぞれ等級があった。馬存亮は同時代では功績が最も高かったが、そこで権勢を他人に任せ、自身は淮南軍の軍監とするよう求めた。交替して帰還すると、内飛龍使となった。大和年間(827-835)、右領軍衛上将軍の地位をもって致仕し、岐国公に封ぜられ、卒すると揚州大都督を追贈された。 馬存亮は仕えたのは徳宗から、六人の帝にわたり、性格は端正で畏まり、兵士の訓練をよくし、始めて禁衛を去ると、軍は全員泣いた。唐代の宦官で忠謹で称えられた者は、ただ馬存亮・西門季玄・厳遵美の三人であった。 厳遵美の父の厳季寔は、掖廷局博士となった。大中年間(847-860)、宮人で宣宗を謀殺しようとした者がいた。この夜、厳季寔は咸寧殿の門下で宿直し、変事を聞くと、宮中に入って宮人を射殺した。翌日、帝は労って「お前でなければ、私は危うく免れないところであった」と言い、北院副使に抜擢され、内枢密使で終わった。 厳遵美は左軍容使に任命された。かつて「北司(宦官)の供奉官は胯衫(ももばかま)で給事していたが、今、笏を持っているのはやりすぎだ。枢密使は政務を許されることはなく、ただ三本柱の家で書を隠しているだけであったが、今は堂で勅詔を決済しているようなものだ。これは楊復恭が宰相の権を奪って失われたのだ」と嘆き、思うに当時の宦官が専横していたのを憎んだのだという。後に昭宗に従って鳳翔に遷り、致仕を求め、青城山に隠居し、年八十歳あまりで卒した。 仇士良は、字は匡美で、循州興寧県の人である。順宗の時、東宮に侍ることができた。憲宗が即位すると、再び内給事に遷り、京師から出されて平盧・鳳翔等の軍の監軍となった。かつて敷水駅に行き、御史の元稹と宿舎を争って上聞し、元稹を殴打して負傷させた。中丞の王播は御史・中使が先着によって正寝を利用できるとし、昔の制度の通りとするよう願った。帝は元稹を正しいとはせず、その官を斥けた。元和・大和年間(816-835)、しばしば内外五坊使に任じられ、秋は畿内の鷹を調査し、至るところで吏は迎えて食事を供えさせ、強盗よりもひどいものであった。 文宗は李訓とともに王守澄を殺そうとし、仇士良はもとより王守澄と険悪であったから、左神策軍中尉兼左街功徳使に抜擢し、互いに侵食しあった。その後李訓はすべての宦官を駆逐しようと謀ったが、仇士良はその謀を悟り、右神策軍中尉の魚弘志・大盈庫使の宋守義は帝を連れて宮殿に戻った。王涯・舒元輿も捕縛されると、仇士良はほしいいままに脅かし辱め、反乱を自白させ、朝廷に示した。この時、その事情を弁護する者はおらず、全員は本当に背いたのだと言っており、仇士良はそこで兵を放って捕らえ、身分の上下なくことごとく両神策軍の手にかかり、公卿は半ば空席となった。事件が平定されると、特進・右驍衛大将軍を、魚弘志は右衛上将軍兼中尉、宋守義は右領軍衛上将軍となった。 李石が宰相となると、気性などが厳しく角が立ってしまう性格で、仇士良は李石と論議してしばしば屈服させられたから、深く嫌い、賊に李石を親仁里で刺させようとしたが、李石の馬の足が速かったから免れた。李石は恐れ、宰相職を辞したから、仇士良はますます憚ることはなかった。 沢潞節度使の劉従諌はもとより李訓と鄭注を誅殺することを約束していた。李訓が死ぬと、仇士良が思い通りにしていることを憤慨し、そこで上書して、「王涯たち八人は全員声望のある博学の大臣で、富貴を保つことを願っているのに、何を苦しんで叛くのでしょうか。今大殺戮を加えられているのですから、さらに追い打ちをかけるべきではないのに、逆賊とされており、あの世で憤慨しているでしょう。そうでなければ、天下の節義ある者は、災いを恐れて身を隠し、誰があえて陛下とともに治めるというのでしょうか」と述べ、そこで李訓から送られた書簡を部将の陳季卿を派遣して上聞させた。陳季卿が到着すると、李石が盗賊に遭遇したところで、長安は騒動となり、疑ってあえて進上しなかった。劉従諌は大いに怒り、陳季卿を殺し、書簡を朝廷に進上した。また「臣は李訓と鄭注を誅殺しようとしましたが、鄭注はもとより宦官に支配されているところであり、聞き及ばせませんでした。今、天下は共に宦官を除こうとして、両軍の中尉が聞いて、自らを死から救ったものの、みだりに殺戮して、反逆としていると言っていると伝えています。大臣が謀反ではない謀をするようなことがあれば、自ら命じて役人に行わせるのですから、どうして勝手に侵犯掠奪して、死体を宮殿下に横たえることがありましょうか。陛下は実際に見ておらず、上奏も届いておりません。また宦官が支党を蔓延して宮中に根を張り、臣が謁見して陳述しようにも、殺戮されるのを恐れるのです。ですから謹んで封地を強くし、兵士を鍛錬して、陛下の腹心となります。奸臣は制御するのが難かったとしても、死をもって君側を清らかにすることを誓います」と上書し、このことを人々は手にとって回覧した。仇士良は恐れ、そこで劉従諌を検校司徒に昇進させ、その発言をやめさせようとした。劉従諌はこのような動きがあることを知って、また上言して、「臣が申し上げたところは、国の大礼につながるものであって、お聞きになられるのでしたら、ただちに王涯らの罪を寛大に赦免すべきです。お聞きになられないのでしたら、賞はみだりに出すべきではありません。どうして死んだ者の冤罪が申し上げられないのに、生きている者が禄を担えましょうか」と述べて固辞した。上書を重ねて、仇士良らの罪を暴いて指し示した。帝は仇士良を除くことはできなかったとはいえ、その発言にたよっていくぶん自らの立場を強くできた。これより鬱々として楽まず、両神策軍では撃毬・狩猟・宴会が行われなかった。 開成四年(839)、文宗は中風に苦しみ、しばらくして宰相を召集して延英殿で謁見し、退いて思政殿に御座して、側近に向かって、「直学士は誰がいるか」と言うと、「周墀がおります」と答えたから召し寄せた。帝は、「これより例えるなら、朕はどの主のようであるか」と尋ね、周墀は再拝して、「臣はよくわかっているわけではありませんが、しかし天下は陛下のことを堯・舜のような主であると言っています」と答えたが、帝は「尋ねた理由は、周の赧王・漢の献帝とはどちらが勝るだろうかということだ」と言った。周墀は驚いて、「陛下の徳は、周の成王・康王、漢の文帝・景帝でもまだ比べるには足りません。どうして自ら二主と比べられるのでしょうか」と言うと、帝は、「周の赧王、漢の献帝は強臣に制を受けているが、今朕は家奴に制を受けている。私は遠く及ばないのだ」と言い、涙を流したから、周墀も地に伏して涙を流した。後に再び朝廷に復することなく、重病になったといわれる。 それより以前、枢密使の劉弘逸・薛季稜、宰相の李珏・楊嗣復が太子を監国に任じ奉ろうとはかり、仇士良は魚弘志とともに議して改めて別人を立てようとしたが、李珏は従わなかった。そこで詔を偽って潁王を立てて皇太弟とし、仇士良は兵で迎え、太子を戻して陳王とした。それより以前、荘恪太子が薨ずると、楊賢妃は安王を皇太子にしようと謀したが、うまくいかなかった。武宗が即位してから、仇士良はその事を暴露し、帝に彼らを除いて人望を絶えさせ、そのため王・妃は皆死んだ。仇士良は驃騎大将軍に遷り、楚国公に封ぜられ、魚弘志は韓国公に封ぜられ、実封戸三百となった。にわかに李珏・楊嗣復は罷免されて去り、劉弘逸・薛季稜は誅殺された。 帝は明敏かつ果断で、仇士良の援助によって即位した功績があったとはいえ、内心では嫌っており、表向きは尊寵していた。李徳裕が重用されると、仇士良はいよいよ恐れた。会昌二年(842)、尊号を奉り、仇士良は「宰相が赦書をつくっているが、禁軍の衣服・兵糧を減らした」と言い、恨みを揺り動かし、両神策軍に「詳細はどうなっているのか、楼前で抗議すべきだ」と語ったから、李徳裕はこの事を帝に申し上げ、使者に命じて神策軍に「赦は朕の意から出させたもので、宰相が何を預かり知ろうか。かれこれどうするのか」と諭したから、兵士はそこで落ち着いた。仇士良は疑惑で自ら安心することができなかった。翌年、観軍容使に昇進し、統左右軍を兼任したが、病によって辞職し、罷免されて内侍監、知省事となった。強く老のため辞職を願い、詔して裁可された。間もなく卒し、揚州大都督を追贈された。 仇士良が老いると、宦官はこぞって邸宅へと見送りしたから、感謝して、「諸君はよく天子に仕えよ。よく老夫の言葉を聞くか」と尋ねると、皆が承諾した。仇士良は、「天子を暇にさせてはならない。暇になったら必ず読書して、儒臣に会う。そうするとまた諌言を受け入れて、深慮遠謀を知るから、遊びは減り、行幸しなくなり、我が部下の恩は薄いから権勢を振えなくなる。諸君のために計るなら、財貨を貯えず、盛んに鷹や馬をし、毎日撃毬・狩猟・狩猟・色ごとにその心を惑わせ、極めて贅沢にふけらせ、楽しませて休む暇を与えなければ、必ず政経の術を斥け、外の事に暗くなるから、万機は我々が差配すればよい。恩沢・権力はここに役目についてくるだろう」と言うと、全員が再拝した。仇士良は二王・一妃・四宰相を殺害し、貪欲かつ残酷であること二十年あまり、また術によって自ら将となり、恩礼は衰えなかったという。死の翌年、その家の兵物数千物を暴き、詔して官爵を削り、その家を没収した。 それより以前、仇士良・魚弘志は文宗が李訓とともに謀ったことに憤慨し、しばしば帝を廃位しようと思った。崔慎由が翰林学士になると、夜に宿直してまだ半ばにもならないうちに、宦官に召され、秘殿にやって来ると、仇士良らが堂上に座って、帷帳に集まって、崔慎由に向かって、「お上は病気になられてから長い間となり、即位してから、政令は多く宮中を荒らしているから、皇太后の制があって、改めて嗣君を立てることとなった。学士(崔慎由)よ、詔の作成を担当せよ」と言ったから、崔慎由は驚いて、「お上の高明の徳は天下にあって、どうして軽々しく論議できましょうか。崔慎由に親族は男系女系で千人、兄弟・従兄弟で三百おりますが、どうして一族滅亡の事に関わることができましょうか。死んだとしても命令を承ることはありません」と言ったから、仇士良らは黙ってしまい、しばらくすると後の戸が開き、引き入れられて小殿にやって来ると、帝がここにいた。仇士良らは階を経て帝の過失を数え上げると、帝は首をうなだれていた。仇士良は帝を指さして「学士でなければ、改めてここに座ることはできなかったな」と言い、そこで崔慎由を送って出し、「漏らすなよ。災いはお前の一族に及ぶぞ」と戒め、崔慎由はその事を書いて、箱を枕の間に隠し、当時の人々は知らなかった。没しようとするとき、その子の崔胤に授け、そのため崔胤は宦官を憎んで、終に討伐して排除したのは、思うに仇士良・魚弘志が元となった災いであったのだといわれる。 楊復光は、閩の人であり、本は喬氏である。武勇があり、若くして内常侍の楊玄价の家に養われ、非常に節誼によって自ら発奮し、楊玄价は優れた人物だと思った。宣宗の時、楊玄价は塩州軍の監軍となり、誣告して刺史の劉皋を殺した。劉皋は威名がある者で、世間ではその冤罪を訴えた。しばらくして左神策軍中尉に遷り、讒言して宰相の楊収を辞任させたから、権力・恩寵は同時代を震撼させた。 楊復光には謀略があり、累進して諸鎮の監軍となった。乾符年間(874-879)初頭、平盧節度使の曾元裕を補佐して賊の王仙芝を討伐し、これを破った。招討使の宋威が王仙芝を江西で攻撃すると、楊復光も軍中にあって、部下の呉彦宏に賊の投降を約束するよう願い、王仙芝は将の尚君長を派遣して自ら縛って約束のようにした。宋威はその功績を憎んで、密かに僖宗に誅殺を要請し、そのため王仙芝は怨み、再び兵を率いて叛いた。後に天子は宋威が災いを引き起こしたことを悟り、罷免し、兵を楊復光に与え、そこで進撃して徐唐莒を捕らえた。王鐸が招討使となると、楊復光は監軍となった。王鐸が荊南を放棄するや、山南東道節度使の劉巨容がその地を平定し、忠武軍の別将の宋浩が荊南を領すると、泰寧軍の将の段彦謨が補佐した。楊復光の父楊玄价がかつて忠武軍の監軍であったとき、宋浩はすでに大将となっていたから、楊復光に会うと、若いと見て不礼であった。段彦謨もまた宋浩の部下として辱められたから、遂に関係が悪化した。楊復光は「どうして殺さないのか」と言ったから、段彦謨は勇敢な兵士を率いて宋浩を撃ち殺し、楊復光は客人の常滋を仮留後として、宋浩の罪を奏上し、段彦謨を推薦して朗州刺史とした。鄭紹業に詔して荊南節度使とし、楊復光を忠武軍の監軍とし、鄧州に陣を敷き、賊の右翼を遮った。帝が西に行幸すると、鄭紹業を召還して行在で謁見し、楊復光は改めて段彦謨を推薦して荊南節度使とした。段彦謨は辺境に行くと偽って、楊復光に詣でて、黄金数百両で謝礼とした。その後忠武軍の周岌が賊の任命を受け、かつて夜宴すると、楊復光を召還したが、側近に向かって、「彼はすでに賊に付したが、必ず公に利することはない。行かないのにこしたことはない」と言い、楊復光は行くことを拒み、酒席で時勢を語ると、楊復光は「漢たる者が感動するものは、ただ恩と義だけで、彼は恩義を顧みず利害をはかるのは、どこが漢なのだろうか。公は匹夫の侯を封じられるのに揺り動かされて、十八代の天子を捨て、北面して賊の臣下となるとは、どうして恩義・利害に対して深く暗愚なのだろうか」と言って泣くと、周岌は涙を流して「私には力不足で、表向きは迎合しているが心の中では離れようと思っている。だから公を呼んで謀ったのだ」と言い、そこで杯を持って盟して「酒のようにあれ」と言い、そこで子の楊守亮を派遣して賊使を伝舎で斬った。秦宗権が蔡州で叛くと、周岌・楊復光は忠武軍の兵三千人で蔡に入って会見した。秦宗権はそこで部将の王淑を派遣して兵一万人を率いさせて従った。楊復光は荊州・襄州を平定し、軍は鄧州に行き、王淑が逗留すると、楊復光は斬り、その軍を併合してから八部隊に分け、鹿宴弘・晋暉・張造・李師泰・王建・韓建らをその将とし、南陽に進攻した。賊将の朱温・何勤が迎撃してきたが、大いに破り、遂に鄧州を収め、追撃して藍橋に逃走させた。その時、母の喪にあい、軍を帰還させた。にわかに天下兵馬都監に起用され、諸軍を総括し、東面招討使の王重栄ととともに力を合わせて関中を平定した。朱温は同州を守っていたが、楊復光は使者を派遣して戒めて説得したから、朱温は率いている部隊とともに投降した。その時賊が強くなり、王重栄はどうしていいかわからないから心配し、楊復光に向かって、「賊の臣下となれば、また国が敗北するだろう。戦って防いでも、兵が少ない。どうすればいいか」と言うと、楊復光は、「李克用は我らと代々苦難と共にしてきましたが、その人となりは、奮戦して身を顧みず、この頃しばしば召寄せてもまだ来ることがないのは、太原の道が不通だからだけであり、災いを忍んでいるわけではありません。もし上意を諭すならば、彼は必ず来るでしょう」と言ったから、王重栄は「よろしい」と言った。王鐸に申し上げて詔使を太原に派遣し、李克用の兵はそこで出撃した。京師は平定されると、功績によって開府儀同三司・同華制置使となり、弘農郡公に封ぜられ、「資忠輝武匡国平難功臣」の号を賜った。河中で帥し、観軍容使を追贈され、諡を忠粛という。 楊復光は部下を御して恩があり、軍中はその死を聞いて、皆慟哭した。麾下で功績を立てる者が多かった。諸子で将帥となったのは数十人で、楊守宗もまた忠武軍節度使となった。 賛にいわく、楚の鄖公闘辛は、あえて君主を仇とはせず、父の冤罪を忘れ、昭王・愍王の時代、両軍に寵遇されて厚かったり薄かったりした。ついに馬存亮を用いて難を平定し、功績は及ぶ者がいないほどであった。古より忠臣は疎外・排斥されて用いられない者が思うに多かったが、馬存亮はどうして儒家の諸書や道理に通じた人であったであろうか。どうして馬存亮が君臣の正道を知っていたのがはなはだ明らかなのであろうか。死体ほどに無様な寝姿を見せるほどの大労は無く、権力を恐れて外部にあるのも、またいよいよ賢者なのである。孔子と一緒に「龍蛇」の詩を書した者は、どうして功績が小さいといえるだろうか。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百六 列伝第一百三十一 『新唐書』巻二百七 列伝第一百三十二 巻二百八 列伝第一百三十三
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/435.html
十八史略 漢の太祖劉邦 2009-09-15 17 05 15 | Weblog 西漢 漢太祖高皇帝堯之後、姓劉氏、名邦、字季。沛豐邑中陽里人也。母媼息大澤之陂、夢與神遇。時大雷雨晦冥。父太公往、見交龍其上。已而産劉季。隆準而龍顔、美鬚髯。左股有七十二黒子。寛仁愛人、意豁如也。有大度、不事家人生産。 漢の太祖高皇帝は、堯の後にして、姓は劉氏、名は邦、字(あざな)は季(き)沛豊邑中陽里の人なり。母の媼、大沢之陂(つつみ)に息(いこ)うて、夢に神と遇(あ)う。時に大いに雷雨して晦冥(かいめい)なり。父の太公往(ゆ)いて交龍其の上に見る。已にして劉季を産む。隆準(りゅうせつ)にして龍顔、美鬚髯(しゅぜん)。左股に七十二の黒子有り。寛仁にして人を愛し、意豁如(かつじょ)たり。大度(たいど)ありて、家人の生産を事とせず。 晦冥 晦も冥も暗い。 交龍 史記では蛟龍、みずち。 隆準 準は鼻すじ 鼻筋が高いこと。 鬚髯 鬚はあごひげ、髯は頬のひげ。 豁如 心が開けたさま。 大度 度量が広いこと。 家人 庶民、官につかずに家に居る人。 晦冥 2009-09-17 13 43 14 | Weblog 前回晦も冥も暗いと言ったが、広辞苑をひいて少し詳しく見てみよう。 晦 かい ①月のおわり、みそか、つごもり「-日」⇔朔 「―朔」みそかとついたち ②くらいこと「-冥」 ③くらますこと「-渋」「韜-」 冥 めい(呉音はミョウ) ①くらいこと、くらがり、やみ「--」「-暗」 ②道理にくらいこと「頑-」「愚―」 ③奥深いこと「-想」 ④神仏の働きについていう「-加」(ミョウガ)「―感」(ミョウカン) ⑤死後の世界「-府」「-福」 とある。 ところで旧暦で明日は7月30日つまり三み十そ日か、月隠(つごも)り、あさっては八月一日、八朔(はっさく) ついたち(月立ち) で、岸和田のだんじり 十八史略 大丈夫當如此矣 2009-09-17 13 49 17 | Weblog 願わくは箕帚の妾と為さん 及壯、爲泗上亭長。嘗繇役咸陽、從觀秦皇帝曰、嗟乎、大丈夫當如此矣。 單父人呂公好相人。見劉季状貌曰、吾相人多矣。無如季相。願季自愛。吾有息女願爲願季自愛。吾有息女願爲箕帚妾。卒與劉季。即呂后也。 壮なるに及び、泗上(しじょう)の亭長と為る。嘗て咸陽に繇役(ようえき)し秦の皇帝を、従観(しょうかん)して曰く、ああ大丈夫当(まさ)に此の如くあるべし、と。 單父(ぜんぽ)の人呂公、好んで人を相す。劉季の状貌(じょうぼう)を見て曰く、吾人を相すること多し。季の相に如(し)くは無し。願わくは季、自愛せよ。吾に息女有り、願わくは箕帚(きそう)の妾(しょう)と為さん、と。卒(つい)に劉季に与う。即ち呂后なり。 壮年になって泗上の宿場の長になった。かつて咸陽に夫役に出て、秦の始皇帝の様子を見物して、「ああ男子として生まれたからには、あの始皇帝のようでなくてはならん」とつぶやいた。 単父の人で呂公という者、人相を見ることを好んだが、劉季の貌を見て、「私はこれまで多くの人の相を見てきたが、あなたの人相に及ぶものはない。からだを大事にしなさいよ、ところでわしには娘がいる、どうか召使につかってくだされ」と言って、劉季に娶わせた。これがすなわち呂后である。 泗上 江蘇省の地名。 繇役 徭役に同じ 徴用。 従観 自由に見物する。 単父 山東省にある地名。 箕帚 ちりとりと箒 妾は妻を謙遜して言う 十八史略 劉氏の冠 2009-09-19 08 50 01 | Weblog 劉氏の冠 秦始皇嘗曰、東南有天子氣。於是東遊以厭當之。劉季隱於芒・碭山澤。呂氏與人倶求、常得之。劉季怪問之。呂氏曰、季所居上有雲氣。故從往、常得季。劉季喜。沛中子弟聞之、多欲附者。爲亭長時、以竹皮爲冠、及貴常冠。所謂劉氏冠也。 秦の始皇嘗て曰く、東南に天子の気有り、と。是に於いて東遊して以て厭当(おうとう)す。劉季、芒・碭(ぼう・とう)山澤の間に隠る。呂氏、人と倶に求めて、常に之を得たり。劉季、怪しみて之を問う。呂氏の曰く、季が居る所の上に雲気有り。故に従い往きて、常に季を得たり、と。劉季喜ぶ。沛中の子弟之を聞いて、附かんと欲する者多し。亭長たりし時、竹皮を以て冠と為ししが、貴きに及んでも常に冠せり。所謂(いわゆる)劉氏の冠なり。 秦の始皇帝がある時、東南に天子の興る気を感じる、と言った。東方に行ってこの禍根を絶とうと捜したが、劉季は、芒・碭の山や沼地に潜んで難を逃れた。 劉季の妻、呂氏は人と一緒に探して、いつも探し当てた。季が不思議に思って尋ねると、「あなたの居る上の辺りには常に雲気が漂っております、そこを捜せば良いのです」と答えた。劉季はこれを聞いて喜んだ。市中の若者たちも伝え聞いて、配下になろうとする者が多かった。泗上の亭長をしていた時、竹の皮で作った粗末な冠をかむっていたが、貴い身分になってからも、常に冠していた。世に言う劉氏の冠である。 厭当 押さえつけて防ぐこと 十八史略 劉季兵を沛に起こす。 2009-09-22 16 57 35 | Weblog 劉季爲縣送徒驪山。徒多道亡。自度、比至盡亡之。到豐西止飮。夜乃解縦所送徒曰、公等皆去。吾亦從此逝矣。途中壯士、願從者十餘人。季被酒、夜徑澤中。有大蛇當徑。季抜劍斬之。後人來、至蛇所。有老嫗。哭曰、吾子白帝子也。今者赤帝子斬之。因忽不見。後人告劉季心獨喜自負。諸從者日畏之。陳勝起、劉季亦起兵於沛、以應諸侯。旗幟皆赤。 劉季県の為に徒(と)を驪山(りざん)に送る。徒多く道より亡(に)ぐ。自ら度(はか)るに、至る比(ころ)には尽く之を亡(うしな)わんと。豊西に到り止まり飲む。夜乃ち送る所の徒を解き縦(はな)って曰く、公等皆去れ。吾も亦此(これ)より逝(ゆ)かん、と。徒中の壮士、従わんと願う者十余人あり。季、酒を被(こうむ)って、夜澤中を徑(わた)る。大蛇有って徑に当る。季剣を抜いて之を斬る。後るる人来たり、蛇の所に至る。老嫗有り、哭して曰く、吾が子は白帝の子なり。今者(いま)赤帝の子、之を斬る、と。因(よ)って忽ち見えず。後るる人、劉季に告ぐ。劉季、心に独り喜んで自負す。諸々の従う者、日に益々之を畏(おそ)る。陳勝の起こるや、劉季も亦兵を沛に起こして、以て諸侯に応ず。旗幟(きし)皆赤し。 十八史略 劉季兵を沛に起こす 2009-09-24 14 40 26 | Weblog 彼岸過ぎての麦の肥 土用過ぎての稲の肥 三十過ぎての男に意見 以上はやっても無駄なことの喩えだ。これは墓参りに行った際お寺で渡された円覚という小冊子の足立大進師の記事にあった。冊子はつづけて、子供時代の教育に及ぶ。時機を失しては何もならないということです。 では前回の通釈です、白文、訓読文と併せてご覧ください。 劉季は、県の為に囚人を驪山へ護送した。ところが囚人は多く途中から逃げ出した。驪山に着くころには居なくなってしまうだろうと推察した劉季は豊の西に着いたとき、とどまって酒を飲んでいた。夜になって囚人を解き放って、「お前達どこへでも行け、おれもここからゆく」と言った。その時若い囚人の中で、手下になりたいと十人ほどが申し出た。劉季は酒を飲んで、夜沼地を通ると大蛇が横たわっていた。季は剣を抜いてこれを斬った。後れて来た者がそこに来ると老婆が泣きわめいて、「私の子は白帝の子だがたった今赤帝の子に斬り殺されてしまった」と言ったかと思うと老婆の姿は忽ちみえなくなってしまった。後れて来た者が劉季にこのことを告げると心中喜び、いよいよ自信をつけた。大勢の手下達は益々敬い畏れた。陳勝が挙兵すると、劉季もまた兵を沛に起こし、諸侯に応じた。そのとき用いた旗指物はすべて赤であった。 驪山 始皇帝の陵墓の造営場所で多くの囚人を徴用した。 白帝 暗に秦の皇帝を示す。 赤帝 劉季になぞらえる わが国の月田蒙斎の詩、「暁に発す」に 忽ち驚く大蛇の路に当たって横たわるを 剣を抜いて斬らんと欲すれば老松の影 というのがある。 十八史略 法三章のみ 2009-09-26 09 20 40 | Weblog 白文 楚懐王遣沛公。破秦入關、降秦王子嬰。秦既定、還軍覇上。悉召諸縣父老・豪傑、謂曰、父老苦秦苛法久矣。吾與諸侯約、先入關中者王之。吾當王關中。與父老約、法三章耳。殺人者死。傷人及盗抵罪。餘悉除去秦苛法。秦民大喜。 訓読文 楚の懐王、沛公を遣わす。秦を破って関に入り、秦王子嬰を降す。既に秦を定め、還って覇上に軍す。悉く諸県の父老・豪傑を召し、いって曰く、父老、秦の苛法に苦しむこと久し。吾、諸侯と約す、先ず関中に入る者は之に王たらんと。吾当(まさ)に関中に王たるべし。父老と約す、法は三章のみ。人を殺す者は死せん。人を傷つけ盗するものは罪に抵(いた)さん。余は悉く秦の苛法を除き去らん、と。秦の民大いに喜ぶ。 通釈 楚の懐王は、沛公(劉季)を秦に遣わした。沛公は秦を破って関中に入り、子嬰を降伏させた。既に秦を平定して、退いて覇上に陣し、そこで諸県の長老・豪傑を集めて、考えを言うには「長老の諸君、久しく秦の苛法に苦しんだが、自分が秦を攻めるにあたって、諸侯と約束した。先に関中に入った者がその地の王になるべきであると。だから自分がこの関中の王となるのは当然である。ついては諸君と約束する、法は三章のみ。人を殺した者は死刑に処す、人を傷つけた者、また、盗みをした者は、それぞれ罪にあてて罰する、そのほかはすべて除き去る」と。秦の民はおおいに喜んだ。 謂って曰く 方針を発表する 覇上 陜西省にある、覇水のほとり 十八史略 2009-09-29 17 02 48 | Weblog 項羽率諸侯兵、欲西入關。或説沛公守關門。羽至。門閉。大怒、攻破之、進至戲、期旦撃沛公。羽兵四十萬、號百萬。在鴻門。沛公兵十萬、在覇上。范説羽曰、沛公居山東、貪財好色。今入關、財物無所取、婦女無所幸。此其志不在小。吾令入望其氣、皆爲龍成五采。此天子氣也。急撃勿失。 項羽、諸侯の兵を率い、西のかた関に入らんと欲す。或る人沛公に説いて関門を守らしむ。羽至る。門閉づ。大いに怒り、攻めて之を破り、進んで戲に至り、旦(あした)に沛公を撃たんと期す。羽の兵は四十万、百万と号す。鴻門に在り。沛公の兵は十万、覇上に在り。范、羽に説いて曰く、沛公、山東に居りしとき、財を貪り色を好めり。今関に入り、財物取る所無く、婦女幸する所無し。此れ其の志、小に在らず。吾人をしてその気を望ましむるに、皆龍と為り五采を成す。此れ天子の気なり。急に撃って失うこと勿かれ、と。 項羽は諸侯の兵を率いて、西のかた函谷関に入ろうとした。するとある人が沛公に説いて関門を閉じて守らせた。項羽が到着すると、関門が堅く閉ざされていたので項羽は激怒して関を攻め破り、進軍して戲水のほとりに至り明朝にも沛公を撃とうとした。項羽の兵は実数で四十万、百万の大軍と称して鴻門に陣を布いた。一方沛公の兵は十万、覇上に布陣した。項羽に范が説いて言うには、「沛公、山東に居た時は財宝をむさぼり、女色を好んだ。ところが関中に入ったとたん財物は取らないし、女性は近づけない。少なからず天下を狙う意志があると観じられる。私が部下に雲気を窺わせると、皆龍の形と五色に色どられていたとの報告でありました。これは天子の気に違いありません。迂闊に攻めて取り逃がしてはなりません」と。 十八史略 張良と項伯 2009-10-01 17 42 25 | Weblog 羽季父項伯、素善張良。夜馳至沛公軍、告良呼與倶去。良曰、臣從沛公、有急亡不義。入具告、因要伯入見。沛公奉巵酒爲壽、約爲婚姻。曰、吾入關、秋毫不敢有所近。籍吏民、封府庫、而待將軍。所以守關者、備他盗也。願伯具言臣之不敢倍。伯許諾曰、且日不可不蚤自來謝。伯去具以告羽、且曰、人有大功、撃之不義。不如因善遇之。 羽の季父項伯、素より張良と善し。夜馳せて沛公の軍に至り、良に告げ呼んで与に倶に去らんとす。良曰く、臣、沛公に従い、急有って亡(に)ぐるは不義なり、と。入って具(つぶさ)に告げ、因(よ)って伯を要して入り見(まみ)えしむ。沛公巵酒(ししゅ)を奉じて寿を為し、約して婚姻を為す。曰く、吾、関に入って、秋毫も敢えて近づくる所有らず。吏民を籍し、府庫を封じて、将軍を待つ。関を守る所以の者は、他の盗に備うるなり。願わくは伯、具に臣の徳に倍(そむ)かざるを言え、と。伯、許諾して曰く、旦日蚤(はや)く自ら来たって謝せざる可からず、と。伯去って具に以て羽に告げ、且つ曰く、人大功有り、之を撃つは不義なり。因って善く之を遇するに如かず、と。 通釈は次回にしてください。 十八史略 張良と項伯 通釈 2009-10-06 10 26 51 | Weblog 項羽の叔父項伯は、かねてから張良と親しかった。その夜馬を駆って沛公の軍に至り、張良に急を告げて共に逃げるよう勧めた。張良は「私は沛公に臣として従う身、危急が迫ったからと逃げ去るのは道義に反します」と承知せず、帷幕に入り沛公に仔細を告げた。やがて張良は項伯を沛公に会見させた。 沛公は大杯を捧げて項伯の長命を寿ぎ、子の婚姻を約束した。その上で、「自分は関中に入ってからは、毛ほども私欲を近づけたことはございません。役人や民の数を記帳し、庫を封印して項羽将軍をお待ちしておりました。函谷関を閉じていた訳は、よその盗賊に備えていたからです。あなたにどうかお願いします、私が将軍の徳にそむく気持ちの毛頭ないことをお伝えください」と言った。項伯は承知して「明朝早くご自身が謝罪に出向かわなければなりません」と言って覇上を去った。戻った項伯は詳しく項羽に事情を報告し、そして言うには「このように大功ある人を撃つことは道義に反します、篤く対応して心服させるに越したことはありません」と。 秋毫 秋に抜け代わる獣の毛は細いので、ごく僅かなこと。 十八史略 鴻門の会 2009-10-08 08 20 15 | Weblog 鴻門の会 沛公旦從百餘騎、見羽鴻門。謝曰、臣與將軍、戮力而攻秦。將軍戰河北、臣戰河南。不自意、先入關破秦、得復見將軍於此。今者有小人之言、令將軍與臣有隙。羽曰、此沛公左司馬曹無傷之言。羽留沛公與飮。范數目羽、擧所佩玉玦者三。羽不應。出使項莊入、前爲壽、請以劒舞、因撃沛公。項伯亦抜劒起舞、常以身翼蔽沛公。莊不得撃。張良出告樊噲以事急。 沛公旦(あした)に百余騎を従えて、羽を鴻門に見る。謝して曰く、臣、将軍と力を戮(あわせ)て秦を攻む。将軍は河北に戦い、臣は河南に戦う。自ら意(おも)わざりき、先ず関に入って秦を破り、復将軍に此に見(まみ)ゆるを得んとは。今者(いま)小人の言有り、将軍をして臣と隙有らしむ、と。羽曰く、此れ沛公の左司馬曹無傷の言なり、と。羽、沛公を留めて与に飲む。范数々(しばしば)羽に目もく)し、佩(お) ぶるところの玉玦(ぎょっけつ)を挙ぐるもの三たび。羽、応ぜず。出でて、項荘をして入り、前(すす)んで寿を為し、剣を以って舞わんと請い、因って沛公を撃たしむ。項伯も亦剣を抜いて起って舞い、常に身を以て沛公を翼蔽す。荘、撃つことを得ず。張良出でて樊噲(はんかい)に告ぐるに事の急なるを以てす。 十八史略 鴻門の会 2009-10-10 16 26 21 | Weblog 通釈文 沛公は翌朝、百余騎の部下を従えて鴻門に行って項羽と会見した。先ず謝罪して言うには「私は将軍と力を合わせて秦を攻め、将軍は河北で戦われ、私は河南で戦いました。まさか自分が先に関中に入って秦を滅ぼし、再び将軍とこの地でお会いできるとは思っても見ませんでした。ただつまらぬ者が将軍と私を仲違いさせようとしたようです」と。項羽は「そなたの部下の左司馬、曹無傷から聞いたことだ」と言った。 項羽は沛公を留めて酒盛りをした。席上范はしばしば項羽に目くばせして、腰に佩びていた玉玦(ぎょっけつ)を三度も挙げて決行を促したが、項羽は応じなかった。范は席を外し、項荘を席に入らせて沛公の前に進んで健康を祝し、剣舞を披露したいと申し出て、沛公を撃たせようとした。それを見て項伯もまた剣を抜いて起ち、常に沛公を庇い舞ったので項荘は撃つことができなかった。張良は外に出て、樊噲(はんかい)に事の差し迫っていることを知らせた。 玉玦 玉製の腰につける装飾品、玦は決に通じる。 項荘 項羽の従弟 翼蔽 親鳥が翼でひなをかばうように守る事。 十八史略 樊噲 2009-10-13 09 10 45 | Weblog 樊噲目を瞋(いから)して項羽を視る 噲擁盾直入、瞋目視羽。頭髪上指、目眦盡裂。羽曰、壯士、賜之巵酒則與斗巵酒。賜之彘肩。則生彘肩。噲立飮、抜劒切肉啗之。羽曰、能復飮乎。噲曰、臣死且不避。巵酒安足辭。沛公先破秦入咸陽。勞苦而功高如此、未有封爵之賞。而將軍聽細人之説、欲誅有功之人。此亡秦之續耳。切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。噲從良坐。 噲、盾を擁して直ちに入り、目を瞋(いから)して羽を視る。頭髪上指(じょうし)し、目眦(まなじり)尽く裂く。羽曰く、壮士なり、之に巵酒(ししゅ)を賜え、と。則ち斗巵酒を与う。之に彘肩(ていけん)を賜えと。則ち生彘肩なり。噲立って飲み、剣を抜き、肉を切って之を啗(くら)う。羽曰く、能(よ)く復た飲むか、と。噲曰く、臣、死すら且つ避けず。巵酒安(いずく)んぞ辞するに足らんや。沛公先づ秦を破って咸陽に入る。労苦して功高きこと此の如くなるに、未だ封爵の賞有らず。而も将軍、細人の説を聴き、有功の人を誅せんと欲す。此れ亡秦の続(ぞく)のみ。切(ひそ)かに将軍の為に取らざるなり、と。羽曰く坐せよ、と。噲、良に従って坐す。 十八史略 樊かい 2009-10-15 08 39 15 | Weblog 先ずお詫びを 前回の白文を読み返していたらとんでもないミスを発見しましたので訂正をいたします。 最初の行の終わりから四字目、則の前に句点 。を付けて下さい。次に最終行の、羽曰、坐のあと噲切爲將軍不取也。羽曰、坐。までが重複していました。 では通釈を・・ 樊噲は盾を抱えたまま宴席に入り、目をつりあげて項羽を睨みつけた。頭髪は天を衝き、まなじりは裂けていた。項羽は壮士なり、大杯を与えよ、と言って一斗の酒を勧めた。項羽はまた豚の肩肉を与えよと言った。それで生の豚肉が出された。樊噲は立ったまま酒を飲み干し、剣を抜き肉をきって食った。項羽がまだ飲めるかと聞くと、樊噲は「私めは死ぬことさえもなんとも思っておりません、一杯の酒ぐらいなんで厭いましょう。恐れながら申し上げます、我が主人は真っ先に秦を破って咸陽に入りました、苦労をして大功をたてられたのに、まだ領地も爵位もありません。それどころか、小人の言葉を取り上げて、手柄のある人を殺そうとしておられます。これでは秦の二の舞でございます。ひそかに将軍のため思うのでございます」と申し上げた。項羽は「まあ坐れ」といった。樊噲は張良の次の席に坐った。 目眦 まなじり 斗巵酒 一斗(約一升)入る酒つぼ 彘肩(ていけん)彘は子豚 十八史略 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 2009-10-20 08 37 18 | Weblog 唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず 須臾沛公起如厠、因招噲出、行趨霸上。留良謝羽曰、沛公不勝桮勺、不能辭。 使臣良奉白璧一雙、再拝獻將軍足下、玉斗一雙、再拝奉亞父足下。羽曰沛公安在。良曰、聞將軍有意督過之、脱身獨去、已至軍矣。亞父抜劍、撞玉斗而破之曰、唉、豎子不足謀。奪將軍天下者、必沛公也。沛公至軍、立誅曹無傷。 須臾(しゅゆ)にして沛公起って厠(かわや)に如(ゆ)き、因(よ)って噲を招いて出で、間行して霸上に趨(はし)る。良を留めて羽に謝せしめて曰く、沛公桮勺(はいしゃく)に勝(た)えずして、辞すること能わず。臣良をして白璧一雙を奉じ、再拝して将軍の足下に献じ、玉斗一雙、再拝して亜父の足下に奉ぜしむ、と。羽曰く、沛公安(いづ)くに在る、と。良曰く、将軍、之を督過するに意有りと聞き、身を脱して独り去り、已に軍に至らん、と。亜父剣を抜き、玉斗を撞(つ)いて之を破って曰く、唉(ああ) 豎子(じゅし) 謀るに足らず。将軍の天下を奪わん者は必ず沛公ならん、と。 沛公、軍に至り、立ちどころに曹無傷を誅す。 10/20 間もなく沛公は席を起って便所に行き、樊噲を呼んで陣を抜け出し、密かに霸上に走った。張良を残して項羽にこう詫びを言わせた。「沛公は将軍のお相手も出来ず、暇乞いも出来ぬほど酔いまして、私めに、白璧一対を捧げて将軍の足下に献上し、玉斗一対は亜父閣下に献上せよと申しつけました」と。項羽が「沛公は今どこに居るのか」と糺すと、張良は答えて「沛公は将軍があくまで過失を糾明されるお気持ちがあると聞き、畏れて身を逃れて独り去りました。今頃は霸上の軍にたどりついているでしょう」と言った。亜父范は剣を抜き玉斗を突き砕いて「ああ 青二才め、ともに天下の大事業を為すには足らぬわ。天下を項羽将軍から奪い取るのはきっとあの沛公であろう」と、悔しがった。 一方、沛公は霸上に帰るとすぐさま曹無傷を誅殺した。 須臾 しばらくして 行 ひそかに行くこと 桮勺(はいしゃく) 杯と勺、さかずきのやりとり 亜父 父に亜(つぐ)者、范を尊敬して言う 督過 過失をとがめること 豎子 未熟者、項羽をさして言った。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-22 09 10 48 | Weblog 沐猴にして冠す 居數日、羽引兵西、屠咸陽、殺降王子嬰、焼秦宮室。火三月不絶。掘始皇冢、収寳貨・婦女而東。秦民大失望。韓生説羽。關中阻山帶河、四塞之地肥饒。可都以覇。羽見秦殘破、且思東歸。曰、富貴不歸故郷、如衣繍夜行耳。韓生曰、人言、楚人沐猴而冠。果然。羽聞之烹韓生。 居(お)ること数日、羽、兵を引いて西し咸陽を屠(ほふ)り、降王子嬰(しえい)を殺し、秦の宮室を焼く。火三月(さんげつ)絶えず。始皇の冢(ちょう)を掘り。宝貨・婦女を収めて東す。秦の民大いに望みを失う。韓生(かんせい)、羽に説く。関中は山を阻(へだ)て河を帯び、四塞(しそく)の地にして肥饒(ひじょう)なり。都(みやこ)して以て覇たる可(べ)しと。羽、秦の残破(ざんぱ)せるを見、且つ東帰(とうき)を思う。曰く、富貴にして故郷に帰らざるは、繍(しゅう)を衣(き)て夜行くが如きのみ、と。韓生曰く、人言う、楚人(そひと)は沐猴(もくこう)にして冠すと。果して然(しか)り、と。羽、之を聞いて韓生を烹(に)る。 十八史略 沐猴にして冠す 2009-10-24 09 01 59 | Weblog 居ること数日で、項羽は兵を率いて西に進み、咸陽に攻め入って殺戮を行い、先に降伏した子嬰を殺して、秦の宮殿に火を放った。その火は三ヶ月も続いた。次に始皇帝の墓をあばいて、宝物、財貨を奪い、婦女を略奪して東に引きあげたので、秦の民は大いに失望した。韓生という者が、項羽に説いて言うには「関中は山によって隔てられ、河がその中を流れ、四方が塞って守り易く、農地はよく肥えています。ここを都として覇王になられるのが一番です」と。項羽は秦の宮殿の跡のありさまを見て、その気になれずそのうえ故郷に帰りたくなり、こう言った「富貴になって故郷に帰らないのは錦を着て夜出歩くようなものだ」と。韓生はある人に「楚人は猿が冠をつけているようなものだ、と世間では言っているが、全くその通りだ」と話した。項羽はこれを伝え聞いて韓生を煮殺した。 十八史略 項羽西楚の覇王となる 2009-10-27 09 20 04 | Weblog 巴・蜀も亦關中の地なり 羽使人致命懐王。王曰、如約。羽怒曰、懐王吾家所立耳。非有功伐。何得專主約。乃陽尊爲義帝、徙江南、都郴、分天下王諸將、羽自立爲西楚覇王。乃曰、巴蜀亦關中地。立沛公爲漢王、王巴・蜀・關中、而三分關中、王秦降將三人、以距塞漢路。漢王怒欲攻羽。蕭何諌曰、願大王、王漢中、養其民、以致賢人、収用巴・蜀、還定三秦。天下可圖也。王乃就國、以何爲丞相。 羽(う)、人をして命(めい)を懐王に致さしむ。王曰く、約の如くせよ、と。羽怒(いか)って曰く、懐王は吾が家の立つる所のみ。功伐(こうばつ)有るに非ず。何ぞ専(もっぱ)ら約を主とするを得ん、と。乃(すなわ)ち陽(あらわ)に尊(たっと)んで義帝と為し、江南に徒(うつ)して郴(ちん)に都(みやこ)せしめ、天下を分(わか)って諸将を王とし、羽は自立して西楚(せいそ)の覇王と為る。乃(すなわ)ち曰く、巴(は)蜀(しょく)も亦(また)関中の地なり、と。沛公を立てて漢王と為し、巴・蜀・関中に王たらしめ、而(しか)して関中を三分(さんぶん)して、秦の降将(こうしょう)三人を王とし、以て漢の路を距塞(きょそく)す。漢王怒って羽を攻めんと欲す。蕭何(しょうか)諌(いさ)めて曰く、願わくは大王、関中に王として、其の民を養い、以て賢人を致し、巴・蜀を収用し、還(かえ)って三秦を定めよ。天下図る可(べ)きなり、と。王乃(すなわ)ち国に就(つ)き、何(か)を以て丞相(じょうしょう)と為(な)せり 巴蜀も亦関中の地なり 2009-10-29 08 39 32 | Weblog 項羽は使いを懐王のもとに遣わして関中平定を復命させた。すると懐王は「最初の約束通りせよ」つまり沛公を関中の王とせよ、と言った。項羽は怒って「懐王はわが家でもり立ててやったのだ、べつに功績があった訳でないのに、どうして先の約束を通そうとするのか」と言った。そして、ことさら尊敬をした振りをして、義帝として江南の郴(ちん)に移して都とし、天下を分けて諸将を王に封じ、自ら立って西楚の覇王と名乗った。そこで巴・蜀も関中に違いない、と言って、沛公を漢王とし、巴・蜀・漢中の王とした。その上本来の関中は三分して秦の降将三人を王として、漢の路を妨げた。沛公(漢王)は怒って、項羽を攻めようとしたが、蕭何が諌めて言うには「どうか大王には、漢中に王として、民を養い、賢人を招いて、巴・蜀を完全に掌握して、その上で関中に戻って三秦を平定すれば、天下を奪うこともできます。漢王(沛公)は巴・蜀に赴き、蕭何を宰相に登用した。 十八史略 韓信と漂母 2009-10-31 09 03 45 | Weblog 韓信と漂母 漢元年、五星聚東井。 初淮陰韓信、家貧釣城下。有漂母。見信饑飯信。信曰、吾必厚報母。母怒曰大丈夫不能自食、吾哀王孫而進食。豈望報乎。 漢の元年、五星東井(とうせい)に聚(あつま)る。 初め淮陰(わいいん)の韓信、家貧しうして城下に釣す。漂母(ひょうぼ)あり。信の饑えたるを見て信に飯せしむ。信曰く、吾必ず厚く母(ぼ)に報いん、と。母怒って曰く、大丈夫自ら食うこと能わず。吾王孫を哀れんで食を進む。豈報を望まんや、と。 漢の元年に五惑星が東井の星座にあつまり漢の興る兆しがあらわれた。 それより以前、淮陰(わいいん)の韓信は家が貧しく城下で釣りをして、生活をしていた。たまたま布をさらしていた老婆がいたが、韓信のひもじそうな様子を見て、飯を与えた。韓信が「私が出世したらきっと恩返しをさせてもらいますよ」と言った。すると老婆はむっとして「大の男が、ろくに飯も食わずにいるから、見かねて食事をあげただけだよ、お礼などどうしてあてにするものかね」と言った。 五星 木星(歳星) 火星(熒惑) 土星(鎮星) 金星(太白) 水星(辰星)の五惑星。 東井 井は二十八宿の星座の一、方位は南に当たるのになぜ東がついているか不明。 漂母 川で布を晒している女性 韓信 蕭何、張良とともに漢の三傑。 王孫 本来は王侯の子孫、あえて尊称をつけたのは皮肉か。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200910 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200911/1 十八史略 韓信胯をくぐる 2009-11-03 20 52 39 | Weblog 韓信の胯くぐり 淮陰屠中少年、有侮信者。因衆辱之曰、若雖長大好帶劔、中情怯耳。脳死刺我。不能出我胯下。信熟視之、俛出胯下蒲伏。一市人皆笑信怯。 淮陰の屠中の少年に、信を侮る者有り。衆に因(よ)って之を辱かしめて曰く、若(なんじ)、長大にして好んで剣を帯ぶと雖(いえど)も、中情は怯なるのみ。能く死せば我を刺せ。能(あた)わずんば我が胯下(こか)を出でよ、と。信、之を熟視し、俛(ふ)して胯下より出でて蒲伏(ほふく)す。一市の人、皆、信が怯(きょう)を笑う。 その後淮陰の場の若者で、韓信を見くびる者があった。仲間が多いのを嵩にかかって、恥をかかそうとこう言った。「お前さん、図体ばかりでかくて、剣なぞぶらさげているが本当は臆病者だろう、なんならこの俺を刺してみろよ、どうだ出来るか、出来なきゃおれの股の下をくぐれ」と。韓信はじっと若者を視ていたが、うつぶして股の下から腹ばい出た。町中の人は、韓信を嘲り笑った。 蒲伏 匍匐に同じ 十八史略 國士無雙Ⅰ 2009-11-05 09 23 33 | Weblog 蕭何、韓信を追う 項梁渡淮、信從之。又數以策干項羽。不用。亡歸漢、爲治粟都尉。數與蕭何話。何奇之。王至南鄭。將士皆謳歌思歸、多道亡。信度、何已數言、王不用。即亡去。何自追之。人曰、丞相何亡。王怒、如失左右手。 項梁淮(わい)を渡るとき、信、之に従う。又しばしば策を以て項羽に干(もと)む。用いられず。亡(に)げて漢に帰(き)し、治粟都尉(ちぞくとい)と為る。数々(しばしば) 蕭何と語る。何、之を奇とす。王、南鄭(なんてい)に至る。将士、皆謳歌して帰らんことを思い、多く道より亡(に)ぐ。信度(はか)るに、何(か)、已(すで)に数々(しばしば)言いしも、王用いざるなりと。即ち亡げ去る。何、自ら之を追う。人曰く、丞相何亡ぐ、と。王怒る、左右の手を失うが如し。 項梁が秦との戦で淮(わい)水を渡る時、韓信は従軍した。又たびたび項羽に献策したが用いられなかった。そこで逃げ出して漢王につき、糧食をつかさどる治粟都尉(ちぞくとい)という官に就いた。しばしば蕭何と語った。蕭何は韓信の非凡を知った。漢王は関中の都南鄭に赴任したが部下の将士たちは故郷をたたえる歌をうたい、帰りたいと多く逃げ去った。韓信は蕭何がたびたび自分を推挙しているのに漢王はとりたててくれないと、たちまち逃げ出した。蕭何は何とか引き止めようと自ら後を追った。ある人が丞相の蕭何までも逃げました、と王に告げた。漢王は怒った、と同時に両腕をもがれたかのように落胆した。 十八史略 国士無双2 2009-11-07 08 42 19 | Weblog 國士無雙2 何來謁。王罵曰、若亡何也。何曰、追韓信。王曰、諸將亡以十數。公無所追。追信詐也。何曰、諸將易得耳。信國士無雙。王必欲長王漢中、無所事信。必欲爭天下、非信無可與計事者。王曰、吾亦欲東耳。安能鬱鬱久居此乎。何曰、計必東、能用信。信即留。不然信終亡耳。 何(か)来たり謁す。王罵(ののし)って曰く、若(なんじ)、亡(に)げしは何ぞや、と。何曰く、韓信を追う、と。王曰く、諸将の亡ぐるもの十を数う。公追う所無し。信を追うとは詐(いつわ)りならん、と。何曰く、諸将は得易きのみ。信は国士無双なり。王必ず長く漢中に王たらんと欲せば、信を事とする所無し。必ず天下を爭わんと欲せば、信に非ずんば与に事を計る可き者無し、と。王曰く、吾も亦東せんと欲するのみ。安(いづ)くんぞ能(よ)く鬱鬱として久しく此(ここ)に居らん乎(や)と。何曰く、必ず東せんと計らば、能く信を用いよ。信即ち留まらん。然(しか)らずんば信終(つい)に亡げんのみ、と。 蕭何が帰って王に謁見すると、王が罵って言うに「お前までにげるとは何事か」と。蕭何は答えて「韓信を追ったのです」と言った。王は「将のにげたものは、何十人と居るのに、今まで一人も追いかけたことがない、なのに韓信だけを追うとは合点がゆかぬ、嘘であろう」と。蕭何は「他の将はいくらでも補充出来ますが、韓信は二人と得られぬ国士です、漢王がいつまでも漢中の王でいたいと思われるならば、韓信を引き留めることに苦心することはありませんが、是非にも天下を争おうとお考えなら、韓信でなければともに大事を計る者は居りません」王は「わしも東に向って、天下を争う心算でいる。だれがこんな所で鬱うつとしておられようか」何は「是非とも東に出ようとのお考えならば、心して韓信を重用することです。そうすれば信はここに留まりましょう、でなければ結局信は逃げてしまいますよ」と言った。 以十數 十の単位で数えることが出来る。つまり ン十人の意。 無所事信 事はコトトスと読み、努め励むこと。全てにレ点がつく。 非信無可與計事者 非②信①無⑧可⑥與③計⑤事④者⑦の順に読む 十八史略 韓信大将軍となる 2009-11-10 08 46 48 | Weblog 全国吟剣詩舞道大会が8日無事終了しました。今年は天気に恵まれ助かりました。 終了後広島の中村さんほかお客様をお迎えして懇親の席を設けました。とても楽しいひと時でしたが、少々しゃべり過ぎました、寡黙堂の看板を返上しなければと考えています。では十八史略のつづきです。 王曰、吾爲公以爲將。何曰、不留也。王曰、以爲大將。何曰、幸甚。王素慢無禮。拝大將如呼小児。此信所以去。乃設壇場、具禮。諸將皆喜、人人自以爲得大將。至拝乃韓信也。一軍皆驚。 王曰く、吾公の為に以て将と為さん、と。何曰く、留まらざるなり、と。以て大将と為さん、と。何曰く、幸甚なり。王素(もと)より慢(まん)にして礼無し。大将を拝すること小児を呼ぶが如し。此れ信の去る所以(ゆえん)なり、と。乃ち壇場を設け、礼を具(そな)う。諸将皆喜び、人々自から以為(おも)えらく、大将を得んと。拝するに至って乃ち韓信なり。一軍皆驚く。 漢王が言うに「貴公の顔を立てて韓信を将に取り立てよう」と。蕭何は「それでは留まらないでしょう」と答えた。王は「それでは大将にしよう」何は「それは幸いに存じます。ところで大王には平素から人を見下して、礼に欠けるところがございます。大将を任命されるにも子供を呼びつけるようですが、それこそ韓信が逃げ出す理由です」と。そこで王は大将軍任命の式場を設け、威儀を整えた。将軍達は皆喜び、各々自分こそ大将では、と内心思っていた。 いよいよ任命の段になって指名されたのは韓信だったので将軍達をはじめ一同大いに驚いた。 十八史略 韓信三王を滅ぼす 2009-11-12 13 31 04 | Weblog 中野の杉山公園は只今改修中です。残念なのはフェンスにつるを張っていた、テイカカズラと真っ赤な実をつけるヒヨドリジョウゴが抜かれてしまった事です。 王遂用信計、部署諸將、留蕭何、収巴・蜀租、給軍粮食。信引兵從故道出、襲雍王章邯。邯敗死。塞王司馬欣・翟王菫翳皆降。 王遂に信の計を用いて、諸将を部署し、蕭何を留めて巴・蜀の租(そ)を収め、軍の粮食(りょうしょく)を給せしむ。信、兵を引いて故道より出で、雍王章邯(ようおうしょうかん)を襲う。邯敗死す。塞王司馬欣(さいおうしばきん)・翟王菫翳(てきおうとうえい)皆降る 漢王は遂に韓信の計を用い、諸将をそれぞれ配置した。蕭何は関中に留めて、巴・蜀の租税を取り立て、軍の糧食の手当とした。韓信は兵を率いて故道県から打って出て雍王章邯を敗死させた。塞王司馬欣と翟王菫翳はともに降伏した。 雍王章邯・塞王司馬欣・翟王菫翳は秦の降将で漢の地を扼するため項羽が王にした三人(巴・蜀も亦関中なり参照) 十八史略 嗟乎、使平得宰天下 2009-11-17 09 09 50 | Weblog 漢二年、項籍弑義帝於江中。 初陽武人陳平、家貧、好讀書。里中の社、平爲宰、分肉甚均。父老曰、善、陳孺子之爲宰。平曰、嗟乎、使平得宰天下、亦如此肉矣。初事魏王咎、不用。去事項羽、得罪亡。因魏無知求見漢王。拝爲都尉參乘典護軍。 漢の二年、項籍、義帝を江中に弑す。 初め陽武の人陳平、家貧にして、書を読むことを好む。里中の社に、平、宰(さい)と為り、肉を分つこと甚だ均し。父老の曰く、善し、陳孺子の宰たること、と。平曰く、嗟乎(ああ)、平をして天下に宰たるを得しめば、亦此の肉の如くならん、と。 初め魏王咎(きゅう)に事(つか)えて、用いられず。去って項羽に事え、罪を得て亡(に)ぐ。魏無知に因(よ)って漢王に見(まみ)えんことを求む。拝して都尉参乗典護軍と為す。 漢の二年、項籍が義帝を揚子江で殺す。 さかのぼって、陽武の人で陳平というものが居た。家は貧しかったが書を読むのが好きだった。村の社の祭日に陳平が差配して、祭りの後の肉の分配に大変公平だったので、村の老人たちは「まことに善かった。陳君のきりもりは」と言うと、陳平が言うには「ああ、もし私に天下の切り盛りをさせてくれたなら、この肉のように公平に裁いてみせるのに」と。 初め陳平は魏王の咎につかえたが、用いられなかった。去って項羽につかえたが罪を犯して逃げ出した。魏無知の紹介によって漢王に謁見を求めた。漢王は都尉参乗典護軍に任じた。 十八史略 陳平 2009-11-19 09 02 55 | 十八史略 陳平 周勃言於王曰、平雖美如冠玉、其中未必有也。臣聞、平居家盗其嫂、事魏不容、亡歸楚、又不容、亡歸漢。今大王令護軍、受諸將金。願王察之。王讓魏無知。無知曰、臣所言者能也。大王所問者行也。今有尾生・孝己之行、而無成敗之數、大王何暇用之乎。王拝平護軍中尉、盡護諸將。諸將乃不敢復言。 周勃、王に言いて曰く、平は美なること冠玉の如しと雖も、其の中、未だ必ずしも有らざるなり。臣聞く、平、家に居っては其の嫂(あによめ)を盗み、魏に事(つか)えては容れられず、亡(に)げて楚に帰し、又容れられず、亡げて漢に帰すと。今、大王、軍を護(ご)せしめしに、諸将の金を受けたり。願わくは王之を察せよ、と。王、魏無知を讓(せ)む。無知の曰く、臣の言う所の者は能なり。大王の問う所の者は行いなり。今尾生(びせい)・孝己(こうき)の行い有りとも、成敗の数に益無くんば、大王何の暇(いとま)あってか之を用いんや、と。 王、平を護軍中尉に拝し、尽く諸将を護せしむ。諸将乃ち敢えて復言わず。 十八史略 陳平2 2009-11-21 09 48 19 | 十八史略 昨夜早く目覚めたのでNHKラジオをつけたら深夜便の歌が流れた。 いい歌だなーとしみじみ聞き入った、大川栄策の声で題名は「昭和ロマン第二章」と言っていました。 では前回の通釈です。 周勃が王に向って言うには「陳平は風采の立派なことは玉(ぎょく)で飾った冠のようですが、その中身は必ずしも伴っているとは言えません。私の聞くところでは陳平がまだ官につかず家にいるとき、あによめと関係をもち、魏に仕えて用いられず、逃げて楚に身を寄せたが容れられずして、また逃げてわが漢にたどり着いた、ということです。今、大王はこのような人物に軍を監督せられましたから、あやつは諸将から賄賂を受けています。どうかよくよくお考えください」と。そこで王は魏無知を責めた。無知が申すのに「私がお引き合わせしたのは、彼の能力を見ていただきたいのです。大王の問うところは品行のことです。今日、尾生や孝己のような立派な行いがあったとして、天下の帰趨になんらの益もなければ、大王にはどうしてそんな意見を用いられるいとまがおありでしょうか」と。 王は陳平を護軍中尉に任じて、すべて諸将を監督させた。そこでもう陳平のことを言う者が居なくなった。 護 もともと統率する、監督するの意がある。 譲む 譲はゆずる、の意の他に責める意味がある。 尾生 女と橋の下で逢う約束を守って、増水した川でおぼれたばか正直な男。 孝己 一夜に五度も親の安否を気づかったといわれる、殷の高宗の子。 拝 官を授ける、また授かるのどちらにも使う。ここでは前者。 十八詩略 徳に順うものは昌え、逆らうものは亡ぶ 2009-11-24 13 34 36 | 十八史略 大川栄策の昭和ロマン第二章は「昭和浪漫第二章」でした。 漢王至洛陽。新城三老菫公遮説曰、順徳者昌、逆者亡。兵出無名。事故不成。明其爲賊、敵乃可服。項羽無道、放弑其主。天下之賊也。夫仁不以勇、義不以力。大王宜率三軍之衆、爲之素服、以告諸侯而伐之。於是漢王爲義帝發喪、告諸侯曰、天下共立義帝。今項羽放弑之。寡人悉發關中兵、収三河之士、南浮江漢而下、願從諸侯王、撃楚之弑義帝者。 漢王、洛陽に至る。新城の三老菫公(とうこう)、遮(さえぎ)り説いて曰く、徳に順(したが)うものは昌(さか)え、徳に逆らう者は亡ぶ。兵、出づるに名無し。事、故に成らず。其の賊たるを明かにせば、敵乃ち服す可し。項羽無道にして、其の主を放弑(ほうし)す。天下の賊なり。夫(そ)れ仁は勇を以ってせず、義は力を以ってせず。大王宜しく三軍の衆を率い、之が為に素服し、以って諸侯に告げて之を伐つべし、と。是に於いて漢王、義帝の為に喪を発し、諸侯に告げて曰く、天下共に義帝を立つ。今、項羽之を放弑す。寡人悉く関中の兵を発し、三河(さんか)の士を収め、南のかた江漢に浮かんで下り、願わくは諸侯王に従い、楚の義帝を弑(しい)する者を撃たん、と。 十八史略 2009-11-26 08 32 31 | 十八史略 順徳者昌、逆者亡 通釈です 漢王はすでに、洛陽に至った。新城というところの三老の役をしていた菫(とう)なにがしという者が、道を遮り、漢王に説いて言うには「道徳に従って行動する者が栄え、道徳に逆らう者は亡びるものです。兵を出すのに名目が無ければ、事は成就しません。もし相手が逆賊であることを明らかにすれば、敵は屈服するものです。項羽は道徳にそむいて、主君である義帝を追放したうえ殺してしまいました。まさに天下の逆賊です。 そもそも仁を行うには勇は不用です、義を行うには力を必要としません。大王には宜しく三軍の兵を率いて、義帝のために喪服を着て、諸侯に項羽の非道を告げて、これを討伐されるべきです」と。 そこで漢王は義帝のために喪を発して諸侯に告げてこう言った「さきに諸侯相ともに義帝を立てて天子に戴いた。ところが項羽は義帝を追放して、殺してしまった。よって私は関中の兵を出し、河南、河東、河内の兵を集め、南方の江水、漢水を舟で下る、どうか諸侯、私に従って欲しい。義帝を殺した楚の賊を撃ち懲らしたいのだ」と。 三老 官名、その地の長老で教化をつかさどった。 三軍 周代の兵制で天子は六軍、諸侯の大国が三軍を出した。三万七千五百人の兵。 素服 白地の服、喪の時に用いた。 十八史略 2009-11-28 08 42 52 | 十八史略 漢王率五諸侯兵五十六萬、伐楚入彭城、収其寶貨・美人、置酒高會。項羽方撃齊。聞之、自以精兵三萬還撃漢、大破漢軍於睢水上。死者二十萬人。水爲之不流。圍漢王三匝。會大風從西北起、折木發屋、揚沙石、晝晦。王乃得與數十騎遁。審食其從太公・呂氏行、遇楚軍、爲楚所獲。常置軍中爲質。漢王至滎陽。諸敗軍皆會蕭何亦發關中老弱悉詣滎陽。漢軍復大振。 漢王、五諸侯の兵五十六萬を率い、楚を伐って彭城(ぼうじょう)に入り、其の宝貨・美人を収めて、置酒高会(ちしゅこうかい)す。項羽方(まさ)に齊を撃つ。之を聞き、自ら精兵三万を以(ひき)いて還って漢を撃ち、大いに漢軍を睢水(すいすい)の上(ほとり)に破る。死する者二十万人。水之が為に流れず。漢王を囲むこと三匝(そう)。会ゝ(たまたま)大風、西北より起こり、木を折り屋を発(あば)き、沙石を揚げ、昼晦(くら)し。王乃ち数十騎と遁(のが)るるを得たり。審食其(しんいき) 太公・呂氏に従って間行し、楚軍に遭い、楚の得る所と為る。常に軍中に置いて質(ち)と為す。漢王、滎陽(けいよう)に至る。諸敗軍皆会す。蕭何も亦関中の老弱を発し、悉(ことごと)く滎陽に詣(いた)らしむ。漢軍復た大いに振るう。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/200912/2 十八史略 死者二十万人水之が為に流れず 2009-12-01 08 57 02 | Weblog 漢王は、五諸侯の兵五十六萬を率いて楚をうって彭城に攻め入り、宝貨、美人を奪って酒宴を開いた。項羽はちょうど斉を攻めていた時で、急を聞きすぐさま自身で三万の選りすぐった兵を率いて戻り、漢軍を睢水のほとりに大敗させた。死者二十万人、その死体で睢水の流れも止まるほどであった。項羽は彭城の漢王を三重に取り囲んだ。おりしも大風が西北より吹き起こり、木を折り屋根を剥いで砂石を飛ばして昼にもかかわらず、あたりは暗くなった。天の助けとばかり漢王は数十騎の部下と逃げおおせた。審食其という者が漢王の父と夫人の呂氏の共をして、間道を抜けて逃げようとしたが、楚軍に遭って捕らえられてしまった。項羽は二人を常に陣中に置き人質とした。漢王が滎陽まで来たとき、ちりぢりになっていた部下達も集まった。そのうえ蕭何もまた関中の老人から年少者までも徴用して滎陽にかけつけた。漢軍は再び勢力を盛り返した。 五諸侯 常山王張耳・河南王申陽・韓王鄭昌・魏王豹・殷王邛(きょう)の五侯 置酒高会 置酒は酒宴さかもり、高会は盛大に会合する。 三匝 匝は取り巻く、三めぐり 十八史略 是れ口尚乳臭なり 2009-12-03 16 58 10 | 十八史略 蕭何守關中、立宗廟・社稷・縣邑、事便宜施行、計關中戸口、轉漕調兵、未嘗乏絶。 魏王豹叛。漢王遣韓信撃之。豹以柏直爲大將。王曰、是口尚乳臭。安能當韓信。信伏兵、從夏陽以木罌渡軍、襲安邑虜豹。信既定魏、請兵三萬人、願以北擧燕・趙、東撃齊、南絶楚糧道、西與大王會滎陽。王遣張耳與倶。 蕭何、関中を守り、宗廟・社稷・県邑を立て、事、便宜に施行して、関中の戸口を計り、転漕、兵を調し、未だ嘗て亡絶せず。 魏王豹叛す。漢王、韓信を遣わして之を撃たしむ。豹、柏直を以って大将と為す。王曰く、是れ口尚乳臭なり。安くんぞ能く韓信に当たらん、と。信、兵を伏せ、夏陽より木罌(ぼくおう)を以て軍を渡し、安邑を襲って豹を虜にす。信、既に魏を定め、兵三万人を請い、願わくは、以って北のかた、燕・趙を挙げ、東のかた、齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽に会せんという。王、張耳を遣わして與に倶にせしむ。 十八史略 是口尚乳臭 2009-12-08 15 54 53 | 十八史略 蕭何は、関中を守り、漢の宗廟を立て、社稷を祀り、県邑を整備して何事も適宜に施し、関中の戸数、人口を調べ、陸と舟から兵糧を運び、兵を調達して、未だかつて不足する事が無かった。 魏王豹がそむいた。王は韓信を派遣して撃たせた。魏王豹も柏直を大将に任命した。漢王が言うには「やつは、まだ乳臭い子供だ、なんで韓信に対抗出来ようか」と。韓信は兵を伏せ、夏陽より甕(かめ)を木に縛りつけて仮橋にし、安邑を急襲して豹を虜にした。韓信は間もなく魏を平定した。そして漢王に三万の兵を請うて「北は燕と趙とを攻め取り、東は齊を撃ち、南のかた楚の糧道を絶ち、西のかた大王と滎陽(けいよう)にお会いしたい」と申し出た。漢王は張耳を遣わして韓信とともに行かせた。 宗廟 先祖のみたまや 社稷 土地の神(社)と五穀の神(稷) 転漕 転は車で運ぶこと、漕はふねで漕いで運ぶこと 木罌 罌は甕、多くの甕を木に括りつけて橋の代用にした。 十八史略 陳餘、奇計を用いず 2009-12-10 11 32 56 | 十八史略 三年、信・耳、以兵撃趙、聚兵井陘口。趙王歇及成安君陳餘禦之。李左車、謂餘曰、井陘之道、車不得方軌、騎不得成列。其勢糧食必在後。願得奇兵、從道絶其輜重。足下深溝高壘、勿與戰。彼前不得鬭、退不得還、野無所掠。不十日兩將之頭、可致麾下。 餘儒者、自稱義兵、不用奇計。信知之、大喜、乃敢下。 三年、信・耳、兵を以(ひき)いて趙を撃ち、兵を井陘口に聚(あつ)めんとす。趙王歇(あつ)及び成安君陳餘、之を禦(ふせ)ぐ。李左車餘に謂って曰く、井陘の道、車、軌(き)を方(なら)ぶるを得ず、騎、列を成すを得ず。其の勢い糧食必ず後ろに在らん。願わくは奇兵を得て、間道より其の輜重を絶たん。足下、溝を深くし塁を高くし、与(とも)に戦うこと勿れ。彼前(すす)んでは闘うを得ず、退いては還るを得ず、野には掠(かす)むる所無し。十日ならずして両将の頭(こうべ)、麾下に致すべし、と。 餘は儒者にして、自ら義兵と称し、奇計を用いず。信、間(かん)して之を知り、大いに喜び、乃ち敢えて下る。 十八史略 陳餘奇計を用いず 2009-12-12 10 21 47 | 十八史略 漢の三年に、韓信と張耳は兵をひきいて張を撃つことになり、兵を井陘口に集めようとした。趙では王の歇(あつ)と、臣の成安君陳餘が防禦についた。李左車という者が、陳餘に「井陘口への道は狭く、車は二台並んで通ることができません。騎馬も列になって進むことができません。そのため兵糧は軍の最後尾になるでしょう。そこでお願いですが、奇襲の兵をお借りして間道から、輜重の車列を分断しましょう。あなたさまは濠を深く、城壁を高くして、敵と戦ってはなりません。漢軍はついに進んで戦うこともできず、退却することも出来ず、野には冬とて掠奪する物もありません。十日と経たないうちに韓信と張耳の首をお旗本に届けることが出来ましょう」と。 ところが陳餘はもともと儒者で自から正義の兵といい、不意を撃つ計を用いなかった。韓信は間者を放ってこれを知り、大いに喜んで、井陘口から趙へと下った。 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-15 12 04 59 | Weblog 背水の陣(一) 未至井陘口止、夜半傳發輕騎二千人、人持赤幟、從道望趙軍。戒曰、趙見我走、必空壁遂我。若疾入趙壁、抜趙幟、立漢軍赤幟。乃使萬人先背水陣。平旦建大將旗鼓、鼓行出井陘口。趙開壁撃之。戰良久。信・耳佯棄鼓旗、走水上軍。趙果空壁遂之。水上軍皆殊死戰。 未だ井陘口に至らずして止まり、夜半に軽騎二千人を伝発(でんぱつ)し、人ごとに赤幟(し)を持ち、間道より趙の軍を望ましむ。戒(いまし)めて曰く、趙、我が走るを見ば、必ず壁(へき)を空しうして我を遂(お)わん。若(なんじ)、疾(と)く趙の壁に入り、趙の幟を抜いて、漢の赤幟を立てよ、と。乃(すなわ)ち万人をして先ず水を背にして陣せしむ。平旦、大将の旗鼓を建て、鼓行(ここう)して井陘口を出づ。趙壁を開いて之を撃つ。戦うこと良ゝ(やや)久し。信・耳佯(いつわ)って鼓旗を棄てて、水上の軍に走る。趙、果して壁を空(むな)しうして之を遂う。水上の軍、皆殊死して戦う。 韓信はまだ井陘口に着く前に軍を止めて、夜中に軽装の騎兵二千人をつぎつぎに出発させ、めいめいに漢の赤い旗印をもたせて、間道より趙の軍を見張らせた。そのとき特に「趙はわが軍が退却するのを見たら、きっと城壁を空にして追撃するに違いない、その時がきたらお前たちは素早く趙の城内に入り、趙の旗を抜いて、漢の赤旗を並べ立てよ」と策を授けた。そしてまず、一万人の兵を出して川を背にして陣を張った。その余の兵は夜明けを期に大将の旗を押し立て、太鼓の音とともに井陘口を出発した。趙は城門を開いて迎え撃った。ややしばし戦った後、韓信と張耳は偽って鼓や旗を捨てて川の辺の自陣に向かって敗走した。趙は案に違わず城壁を空にして追撃に移る。川べりの軍は川を背にして皆決死の覚悟で戦った。 平旦 夜明け 殊死 決死 鼓行 攻め太鼓を鳴らして進軍すること 佯 見せかける、ふりをする 十八史略 背水の陣(二) 2009-12-17 12 50 51 | 十八史略 陥之死地而後生 趙軍已失信等歸壁、見赤幟大驚、遂亂遁走。漢軍挟撃大破之、斬陳餘、禽趙歇。諸將賀。因問曰、兵法右倍山陵、前左水澤。今背水而勝何也。信曰、兵法不曰陥之死地而後生、置之亡地而後存乎。諸將皆服。信募得李左車、解縛師事之。用其策、遣辯士奉書於燕。燕從風而靡。 趙の軍已(すで)に信等を失って壁に帰り、赤幟(せきし)を見て大いに驚き、遂に乱れて遁(のが)れ走る。漢軍挟撃して大いに之を破り、陳餘を斬り、趙歇(あつ)を禽(とりこ)にす。諸将賀す。因(よ)って問うて曰く、兵法に山陵を右にし倍(そむ)き、水沢を前にし左にすと。今、水を背にして勝ちしは何ぞや、と。信曰く、兵法に之を死地に陥れて而して後に生き、之を亡地に置いて而して後に存すと曰わずや、と。諸将皆服す。信、李左車を募り得て、縛を解いて之に師事す。其の策を用い、弁士を遣わして書を燕に奉ぜしむ。燕、風に従って靡く。 趙の軍はすでに韓信等を取り逃がして、城壁に帰ろうとすると、敵の赤旗が立っているのを見て大いに驚き、遂に混乱して逃げ走った。漢軍はこれを挟み撃ちにして大いに破り、陳餘を斬り、趙歇を生け捕りにした。諸将は韓信に祝いをのべて、そして問うた、「兵法に、山や丘は右か背にし、川は前か左にして陣を敷く、とありますが、この度川を後ろにして勝ったのは何故ですか」と。韓信は答えた「兵法に、これを必ず死地に陥れるとかえって生きるものであり、これを必ず亡びる地に置けばかえって存するものだとあるではないか」と。将たちは皆感服した。 韓信は李左車を懸賞をかけて探し出し、縄を解いてこれに師として事(つか)えた。そして李の策に拠って、弁舌の巧みな者に書を持たせ燕王に奉じた。燕は韓の威風に従って服した。 倍 背に同じ、背にする 十八史略 黥布 2009-12-19 08 47 28 | 十八史略 随何、説九江王黥布、畔楚歸漢。既至。漢王方踞床洗足。召布入見。布悔怒、欲自殺。及出就舎、帳御・食飮・從官、皆如漢王居。又大喜過望。 随何(ずいか)、九江王黥布(げいふ)に説き、楚に畔(そむ)いて漢に帰(き)せしむ。既に至る。漢王方(まさ)に床(しょう)に踞(きょ)して足を洗う。布を召し入って見(まみ)えしむ。布、悔(く)い怒って自殺せんと欲す。出でて舎に就くに及び、帳御・食飮・従官、皆漢王の居の如し。又大いに望みに過ぎたるを喜べり。 随何が九江王黥布に説いて、楚に叛いて漢につかせようとした。黥布が来たとき漢王は床几に腰掛けて足を洗っていた。だがそのまま黥布を引き入れて会見させたので、布は王の無礼な態度に来たことを後悔し怒って自殺しようと思った。ところが思いとどまって宿舎に入ってみると、部屋のとばり、調度、食事の献立から部屋付きの役人までみな漢王の住まいと同様だったので、思った以上の厚遇に大いに喜んだ。 黥布 本名英布、項羽に従って転戦し九江王となった。罪を得て黥(いれずみ)の刑を負ったので。 畔 あぜ、くろ、のほかにそむくの意味がある。=叛、反 十八史略 豎儒幾ど乃公の事を敗らんとす 2009-12-22 16 12 58 | 十八史略 酈食其説漢王、立六國後。王曰、趣刻印。張良來謁。王方食。具告良。良曰、請借前箸、爲大王籌之。遂發八難。其七曰、天下游士、離親戚、棄墳墓、從大王游者、徒欲望尺寸之地。今復立六國後、游士各歸事其主。大王誰與取天下乎。且楚惟無彊。六國復撓而從之、大王焉得而臣之乎。誠用客謀、大事去矣。漢王輟食吐哺、罵曰、豎儒幾敗乃公事。令趣銷印。 酈食其(れいいき)漢王に説く、六国(りっこく)の後を立てんと。王曰く、趣(すみや)かに印を刻せよ、と。張良来たり謁す。王方(まさ)に食す。具(つぶさ)に良に告ぐ。良曰く、請う、前箸(ぜんちょ)を借りて、大王の為に之を籌せん、と。遂に八難を発す。其の七に曰く、天下の游士、親戚を離れ、墳墓を棄てて、大王に従い游ぶ者は、徒(いたずら)に尺寸(せきすん)の地を望まんと欲す。今復六国の後を立てば、游士各ゝ帰って其の主に事(つか)えん。大王誰と与に天下を取らんや。且つ楚より惟(こ)れ彊(つよ)きは無し。六国復撓(たわ)んで之に従わば、大王焉(いず)くんぞ得て之を臣とせんや。誠に客の謀(はかりごと)を用いなば、大事去らん、と。漢王、食を輟(や)めて哺を吐き、罵って曰く、豎儒(じゅじゅ)、幾(ほとん)ど乃公(だいこう)の事を敗らんとす、と。趣かに印を銷(しょう)せしむ 十八史略 ほとんど乃公の事を敗らんとす 2009-12-24 17 17 48 | 十八史略 通釈文 酈食其は漢王に六国の跡目を立てて諸侯にするよう説くと、漢王は「ではすぐに印章を作らせよ。」と言った。張良が来て王に謁した。王は食事中であったが、委細を張良に話した。張良は「お手近の箸をお借りして大王の為にはかりごとを献じましょう」と言って八つの懸案を提示した。その七番目には「今、天下の遊説の士が親戚と別れ、先祖のまつりを置いて大王に従っているのは、ただただ、僅かな土地を望んでいるからでございます。今また六国の跡目を立てれば、遊説者たちは帰ってその諸侯に仕えるでしょう。そうなったら大王は誰と組んで天下を取るおつもりですか。その上、今楚より強い国はありません。六国がまた屈服して楚に従ったら、大王はどうやって臣従させることが出来ましょう。この客人のはかりごとを用いたならば大王の大事も潰(つい)えることになりましょう」漢王は食事を止め、口中の食物を吐き出して、「くされ儒者めがあやうくわしの大事業を潰すところであったわい」と罵って六国の印を鋳潰させた。 六国 楚・韓・魏・燕・趙・齊。 趣 おもむき のほかに、すみやかにの意味がある。籌 はかりごと 輟食てつしょく 食事を途中で止める 乃公 乃はなんじ、公は君、汝の君主とは、臣下にむかって自分のことを尊大に言う。乃公出でずんば(このおれさまが出ないで、他の誰にできようか) 十八史略 骸骨を請う 2009-12-26 08 48 27 | 十八史略 骸骨を請う 楚圍漢王於滎陽。漢王謂陳平曰、天下紛々。何時定乎。平曰、項王骨鯁之臣、亜父輩數人耳。行以疑其心、破楚必矣。王與平黄金四萬斤、不問其出入。平多縦反。羽大疑亜父。請骸骨歸。疽發背死。 楚、漢王を滎陽(けいよう)に囲む。漢王、陳平に謂って曰く、天下紛々たり、何れの時か定まらん、と。平曰く、項王骨鯁(こっこう)の臣、亜父の輩数人耳(のみ)。間を行うて以て其の心を疑わしめば、楚を破ること必(ひっ)せり、と。王、平に黄金四萬斤を与え、其の出入を問わず。平、多く反間を縦(はな)つ。羽、大いに亜父を疑う。骸骨を請うて帰る。疽背に発して死す。 楚が漢王を滎陽に囲んだ。漢王は陳平に「天下乱れて紛々、いつになったら平定するのだろうか」と言った。陳平は答えた「項羽の剛毅直言の臣は亜父范増たち数人に過ぎません。間者を放って彼等の間で疑心を起こさせたら、楚を破ること必定でございます」と。漢王は陳平に黄金四万斤を与えて、その出入りを問わなかった。平は多くの間者を放ったので、項羽は大いに范増を疑った。范増は暇を請い国に帰ったが腫れ物が背中にできて死んだ。 骨鯁の臣 直言の臣、鯁は骨が喉につかえることから君主の機嫌をそこねることを敢えて進言する臣。 骸骨を請う 主君に辞職を願う 仕官して捧げたわが身の残骸を乞い受ける 十八史略 紀信、楚をあざむく 2009-12-29 11 04 09 | 十八史略 紀信、楚をあざむく 楚圍漢王急。紀信曰、事急矣。請誑楚。乃乗漢王車、出東門。曰、食盡漢王出降。楚人皆之城東観。漢王乃得出西門去。項羽焼殺紀信。 楚、漢王を囲むこと益々急なり。紀信曰く、事急なり、請う楚を誑(あざむ)かんと。乃ち漢王の車に乗り、東門より出づ。曰く、食尽き漢王出で降る、と。楚人、皆城東に之(ゆ)いて観る。漢王乃ち西門より出でて去ることを得たり。項羽、紀信を焼殺す。 楚は一層厳しく漢王を取り囲んだ。紀信が漢王に「事は差し迫っております、ここはひとつ楚軍をだましてやりましょう」と申し出て、漢王の車に乗って滎陽城の東門から出て、「食糧が尽きたから降伏する」と呼ばわった。楚軍は東門につめかけて見物した。その隙に漢王はまんまと西門から脱出した。怒った項羽は紀信を焼き殺した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001/2 十八史略 王、韓信の兵を奪う 2010-01-05 08 36 14 | 十八史略 新年おめでとうございます。 今年も多難な一年となることが予想されますが、2200年ほど前の中国では変わらぬ戦乱の世はつづきます。 漢王軍成皐。羽圍之。王逃去、北渡河、晨入趙壁、奪韓信軍、令信収趙兵撃齊。 酈食其説王、収滎陽、據敖倉粟、塞成皐之險。王從之。 漢王成皐(せいこう)に軍す。羽之を囲む。王逃れ去り、北のかた河を渡り、晨(あした)に趙の壁に入り、韓信の軍を奪い、信をして趙兵を収めて齊を撃たしむ。 酈食其(れいいき)王に説き、滎陽(けいよう)を収め、敖倉(ごうそう)の粟(ぞく)に據(よ)って成皐の険を塞(ふさ)がんとす。王之に従う。 漢王は成皐に布陣した。項羽がこれを囲んだので漢王は逃げて北の黄河を渡り、早朝趙の城内に入り、そこに陣を布いていた韓信の兵を手中にし、韓信には趙の兵を集めて斉を攻撃させた。 酈食其が王に説いて、滎陽城を手に入れて、敖倉山の食糧に頼って、成皐の要所を固めようと言った。王はこの説に従った。 韓信の兵を奪い 漢王といえども兵符が無ければ兵を自由にできなかったので、早朝、韓信の眠っているうちに兵符を奪った。 十八史略 一豎儒の功に如(し)かざるか 2010-01-07 17 43 23 | 十八史略 酈食其爲漢王、説齊王下之。蒯徹説韓信曰、將軍撃齊。而漢獨發使下之。寧有詔止將軍止乎。酈生伏軾、掉三寸舌、下七十余城。將軍爲將數歳、反不如一豎儒之功乎。 四年.信襲破齊。齊王烹食其而走。 酈食其(れきいき)漢王の為に、斉王に説いて之を下す。 蒯徹(かいてつ)、韓信に説いて曰く、将軍斉を撃つ。而(しか)るに漢独り間使を発して之を下せり。寧ろ詔(みことのり)有って将軍を止めしか。酈生(れきせい)軾に伏して三寸の舌を掉(ふる)い、七十余城を下せり。将軍、将たること数歳、反(かえ)って一豎儒(じゅじゅ)の功に如(し)かざるか、と。 四年、信襲うて斉を破る。斉王、食其(いき)を烹(に)て走る。 酈食其は漢王の為に、斉王に説いて降伏させた。 蒯徹という者が韓信に説いて言った。「将軍が斉を攻撃しようとしておられるのに、漢王は密使を送って降伏させてしまいました。それより何より漢王から将軍に、止まるようにと詔勅がありましたか?あの酈食其は車の横木に寄りかかったままで舌先三寸、斉の七十余城を降しました。将軍は将として数年、一介の青二才儒者に及ばないのでしょうか」と。 四年、韓信は斉を急襲して撃ち破った。斉王は酈食其を煮殺して逃げた 十八史略 我に一杯の羹を分かて 2010-01-09 11 04 30 | 十八史略 漢與楚皆軍廣武。羽爲高俎、置太公其上、告漢王曰、不急下、吾烹太公。王曰、吾與若倶北面事懐王、約爲兄弟。吾翁即若翁。必欲烹而翁、幸分我一杯羹。 羽願與王挑戰。王曰、吾寧鬭智。不鬭力。因數羽十罪。羽大怒、伏弩射王傷胸。 漢と楚皆広武に軍す。羽、高俎(こうそ)を為(つく)り、其の上に太公を置き、漢王に告げて曰く、急に下らずんば、吾太公を烹(に)ん、と。王曰く、吾と若(なんじ)と倶(とも)に北面して懐王に事(つか)え、約して兄弟(けいてい)と為る。吾が翁は即ち若(なんじ)が翁なり。必ず而が翁を烹(に)んと欲せば、幸いに我に一杯の羹(あつもの)を分かて、と。 羽、王と挑戦せんと願う。王曰く、吾寧ろ智を闘わさん。力を闘わさず、と。因(よ)って羽の十罪を数う。羽、大いに怒り、弩を伏せ王を射て胸を傷つく。 漢と楚の軍はみな広武に布陣していた。項羽は高い俎板をつくり、かねて捕えていた漢王の父の太公をその上に据え、漢王に言った「急いで降参しなければ、釜茹でにするぞ」と。漢王は「私とお前とはともに北面して懐王に仕え、約束して兄弟になった。私の父はすなわちお前の父だ、是非にもお前の父を煮るというなら、一杯の肉汁を分けて貰いたいものだ」とやりかえした。 つぎに項羽は、漢王と一騎打ちをしかけたが、王は「私は、智恵比べなら応ずるが、力比べはごめん被る」と答えた。そのうえで項羽の十か条の罪状を数え上げた。項羽は怒って、いしゆみを密かに射かけ漢王の胸を傷つけた。 幸い我に一杯の・・ 幸 ねがうの意 十八史略 韓信龍且を破る 2010-01-12 09 20 01 | 十八史略 韓信、濰水を決壊す 楚使龍且救齊。龍且曰、韓信易與耳。寄食於漂母、無資身之策、受辱於股下、無兼人之勇。進與信夾濰水而陣。信夜使人嚢沙壅水上流、旦渡撃且、佯敗還走。且追之。信使決水。且軍大半不得渡。急撃殺且 楚、龍且(りょうしょ)をして斉を救わしむ。龍且曰く、韓信与(くみ)し易きのみ。漂母に寄食して、身を資(たす)くるの策無く、辱めを股下に受けて、人に兼ぬるの勇無し、と。進んで濰水(いすい)を夾(はさ)んで陣す。信、夜人をして沙を嚢(ふくろ)にして水の上流を壅(ふさ)がしめ、旦(あした)に渡って且を撃ち、佯(いつわ)り敗れて還り走る。且、之を追う。信、水を決せしむ。且の軍大半渡るを得ず。急に撃って且を殺す。 楚の項羽は龍且を将として斉を救わせた。龍且は言った「韓信は恐れるに足りません。洗濯ばあさんに食わせて貰って身を立てる術もなく、人の股をくぐる恥を受けても平気で、人にすぐれた勇気も持ち合わせていない」と。進んで濰水を挟んで韓信と対陣した。韓信は夜ひそかに人をやって砂を袋に入れて上流を堰きとめさせ、翌早朝、川を渡って龍且を撃ち、負けた振りをして逃げた。龍且はそれとは知らず追撃する。韓信が堰を切ったので、龍且の軍勢は大半が渡ることが出来ない。そこを急襲して龍且を討ち取った。 人に兼ぬるの勇 人に勝る勇気 十八史略 韓信仮に齊王たらんとす 2010-01-14 09 32 06 | 十八史略 信使人言之漢王,請爲請假王以鎮齊。漢王大怒罵之。張良・陳平躡足附耳語。王悟、復罵曰、大丈夫、定諸侯、即爲眞王耳。何以假爲。遣印立信爲齊王。 信、人をして之を漢王に言わしめ、仮王と為り以て斉を鎮せんと請う。漢王大いに怒って之を罵る。張良・陳平、足を躡(ふ)み、耳に附けて語る。王悟り、復た罵って曰く、大丈夫、諸侯を定めば即ち真王たらんのみ。何ぞ仮を以て為さん、と。印を遣わし、信を立てて斉王と為す。 韓信は使者を遣わして、戦勝を伝え、なお自分が仮に斉王となって斉の地を安堵したい旨請うた。漢王は大いに怒って罵った。張良と陳平とが韓信を敵にすることを恐れ、王の足を踏んで、耳に口を寄せて許してやりなさいと囁いたので、漢王はハッと気がつき、また罵って言った。「大丈夫たる者が、諸侯を平定したら真の王になるだけのことではないか、仮になどと言うことはない」と。早速印章を遣わして斉王に立てた。 十八史略 韓信節を枉げず 2010-01-16 13 06 04 | Weblog 項羽聞龍且死聽大懼、使武渉説信、欲與連和三分天下。信曰、漢王授我上將軍印、解衣衣我、推食食我。言聽計用。我倍之不祥。雖死不易。蒯徹亦説信。信不聽。 漢立黥布、爲淮南王。 項羽、龍且死すと聞いて大いに懼(おそ)れ、武渉をして信に説かしめ、與に連和(れんわ)して天下を三分せんと欲す。信曰く、漢王、我に上将軍の印を授け、衣を解いて我に衣(き)せ、食を推(お)して我に食(は)ましむ。言聴かれ、計(はかりごと)用いらる。我之に倍(そむ)くは不祥(ふしょう)なり。死すと雖も易(か)えじ、と。蒯徹(かいてつ)も亦信に説く。信聴かず。 漢、黥布を立てて淮南王(わいなんおう)と為す。 項羽は、龍且が死んだと聞いて大いに恐れ、武渉をさしむけて韓信を説き、共に連帯和睦して、項羽と、漢王劉邦、韓信で三分しようと持ちかけた。韓信は言った「漢王は私に上将軍の印綬を授けてくだされ、自身の着物を私に着せ、自分の食物を推してよこして私に食べさせてくれた、私の言は聴き入れられ、私の計略は何でも用いられます。これに叛くのは天に叛くも同じ、死んでも考えは変えません」と。蒯徹も同じく説得を試みたが、韓信は聴かなかった。 漢王はこの年、黥布を立てて淮南王にした。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201001 十八史略 虎を養うて患を遺す 2010-01-19 21 29 46 | 十八史略 養虎自遺患也 項王少助食盡。韓信又進兵撃之。羽乃與漢約、中分天下、鴻溝以西爲漢、以東爲楚。歸太公・呂后、解而東歸。漢王亦欲西歸。張良・陳平曰、漢有天下大半。楚兵饑疲。今釋不撃、此養虎自遺患也。王從之。 項王、助け少なく、食尽く。韓信、又兵を進めて之を撃つ。羽、乃ち漢と約す、天下を中分し、鴻溝(こうこう)以西を漢と為し、以東を楚と為さんと。太公・呂后を帰し、解いて東に帰る。漢王も亦西に帰らんと欲す。張良・陳平曰く、漢天下の大半を有(たも)つ。楚の兵飢疲す。今釈(ゆる)して撃たずんば、此れ虎を養うて自ら患(うれ)いを遺(のこ)すなり、と。王、之に従う。 項王は援兵少なく食糧も尽きてきた。さらに韓信もまた兵を進めてこれを攻めた。項羽はしかたなく漢と約束して鴻溝で二分し、西方を漢の領土とし東を楚の領土とした。そして人質にしていた太公と呂后を帰して、戦闘態勢を解いて東に帰った。漢王もまた西に帰還しようとしたところ、張良と陳平が止めて言った。「漢は天下の大半を領有しており、楚の兵は飢え疲れはてています。ここでこのままゆるして撃たなければ、虎を育てて患いを遺すというものです」と。漢王はこの進言に従った。 十八史略 四面楚歌 2010-01-21 15 39 41 | Weblog 四面皆楚歌 五年、王追羽至固陵。韓信・彭越期不至。張良勸王、以楚地・梁地許兩人。王從之。皆引兵來。黥布亦會。羽至垓下。兵少食盡。信等乘之。羽敗入壁。圍之數重。羽夜聞漢軍四面皆楚歌、大驚曰、漢皆已得楚乎。何楚人多也。 五年、王、羽を追うて固陵(こりょう)に至る。韓信・彭越(ほうえつ)期して至らず。張良、王に勧めて、楚の地・梁の地を両人に許さしむ。王之に従う。皆兵を引いて来る。黥布も亦会(かい)す。羽垓下(がいか)に至る。兵少なく食尽く。信等之に乗ず。羽敗れて壁に入る。之を囲むこと数重。羽、夜、漢の軍四面皆楚歌するを聞き、大いに驚いて曰く、漢皆すでに楚を得たるか。何ぞ楚人(そひと)の多きや。 漢の五年(紀元前202年)漢王は項羽を追撃して固陵(河南省)まで来た。ところが韓信と彭越は約束を違えて参陣しない。張良は漢王に、楚の地・梁の地を二人に分け与えるよう勧めたところ、兵を率いて来た。黥布もまた参集した。項羽は垓下(安徽省)まで退いた。兵は少なく食糧も底を尽いた。韓信たちはそれに乗じて攻め立てた。項羽は敗れて城壁内にたてこもり、漢軍はこれを幾重にも包囲した。夜、四方から楚の歌が流れてくるのを聞き、驚いて言った「漢はもう楚の国をすっかり手にいれてしまったのか、なんと楚の兵の多く混じっていることよ」と。 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 2010-01-23 11 28 53 | 十八史略 虞や虞や若を奈何せん 起飮帳中、命虞美人起舞。悲歌慷慨泣數行下。其歌曰、力抜山兮氣蓋世。時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何。虞兮虞兮奈若何。騅者羽平日所乘駿馬也。左右皆泣、莫敢仰視。 起って帳中に飲し、虞美人に命じて起って舞わしむ。悲歌慷慨、泣(なみだ)数行下る。その歌に曰く、 力山を抜き、気は世を蓋う。 時、利あらず 騅(すい)逝かず 騅逝かざるを奈何(いかん)せん 虞や虞や若(なんじ)を奈何せん 騅とは羽が平日乗るところの駿馬なり。左右皆泣き、敢えて仰ぎ視るもの莫(な)し。 やがて立ち上がって陣中のとばりの中で酒を酌み交わし、虞美人に舞わせた。歌は悲壮に、嘆きは増して、さすがの項羽も涙が幾筋も頬をつたわった。その歌は、 力は山をも引き抜き、気概は天下をも蓋う 天の時は味方せず、愛馬の騅も前に進まぬ 騅の進まぬをいかんせん ああそれよりも 虞よ虞よなんじをいかんせん 左右の臣は皆泣き、項羽の顔を仰ぎ視る者は誰一人居なかった。 兮 調子を整えるために置く助字 音はケイ 奈何 如何におなじ 虞美人 項羽の愛妾、ひなげしにその名をとどめる 十八史略 此れ天我を亡ぼすなり 2010-01-26 17 51 07 | 十八史略 今年に入ってどうも体調が芳しくない。予定を早めて女子医大の南先生に診てもらうことにした。 羽乃夜從八百餘騎、潰圍南出、渡淮、迷失道、陥大澤中。漢追及之。至東城。乃有二十八騎。羽謂其騎曰、吾起兵八歳、七十餘戰、未嘗敗也。今卒困此。此天亡我。非戰之罪。今日固決死。願爲諸君決戰、必潰圍斬將、令諸君知之。皆如其言。於是欲東渡烏江。 羽乃(すなわ)ち世八百余騎を従え、囲みを潰(ついや)して南に出で、淮(わい)を渡り、迷うて道を失い、大沢(だいたく)の中に陥る。漢追うて之に及ぶ。東城に至る。乃ち二十八騎有り。羽、その騎に謂って曰く、吾、兵を起こしてより八歳、七十余戦、未だ嘗て破れざるなり。今卒(つい)に此に困しむ。此れ天我を亡ぼすなり。戦いの罪に非ず。今日固(もと)より死を決す。願わくは諸君の為に決戦し、必ず囲みを潰(ついや)し将を斬り、諸君をして之を知らしめんと。皆其の言の如くす。是に於いて東のかた烏江を渡らんと欲す。 項羽は夜になるや八百余騎を従えて、敵の包囲を突き破って南に逃れたが、淮水を渡ったところで道に迷い、湿地帯に踏み込んでしまった。漢軍に追いつかれ、また逃げ延びて東城(安徽省の地名)にたどりついたときは、二十八騎になっていた。羽は彼等に向って「わしは兵を挙げて八年、七十余たび戦ったが敗れたことがなかった。今ここで追い詰められてしまったのは、天がわしを亡ぼすのであって、戦の上手下手ではない。もちろん今日生き残れるはずもないが、諸君の目の前で決戦して囲みを破って、敵将を斬りその証をたてたいと思う」と。そしてすべてその通りやってのけた。こうして項羽は東にのがれ烏江を渡ろうとした 十八史略 我何の面目あって復た見ん 2010-01-28 15 29 41 | 十八史略 亭長艤船待。曰、江東雖小、亦足以王。願急渡。羽曰、藉與江東子弟八千人、渡江而西。今無一人還。縱江東父兄、憐而王我、我何面目復見。獨不愧於心乎。乃刎而死。 亭長船を艤(ぎ)して待つ。曰く、江東、小なりと雖も、亦以て王たるに足る。願わくは急に渡れと。羽曰く、籍、江東の子弟八千人と、江を渡って西す。今一人の還るもの無し。縦(たとい)江東の父兄、憐れんで我を王とすとも、我、何の面目あって復見ん。独り心に愧(は)ぢざらんや、と。乃ち刎(くびは)ねて死す。 烏江の亭長が船出の用意を整えて待っていた。そして「江東は小なりとはいえ、それでも王として治めるには充分です。どうか急いで渡ってください」と言った。項羽はハッと気付き「わしはかつて江東の子弟八千と共に、この長江を渡って西に向ったが、今一人として連れ還るものもない。たとい父兄がわしに同情して王にしてくれてもなんの面目あって顔を合わすことができよう。わしとて心に羞じずにおられようか」と自ら首をかき切って死んだ。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201002/2 十八史略 漢の高祖 2010-02-02 09 20 31 | 十八史略 楚地悉定。獨魯不下。王欲屠之。至城下、猶聞絃踊之聲。爲其守禮義之國、爲主死節、持羽頭示之。乃降。王還、馳入齊王信壁、奪其軍、立信爲楚王、彭越爲梁王。漢王即皇帝位。 楚の地悉(ことごと)く定まる。独り魯のみ下らず。王之を屠(ほふ)らんと欲し、城下に至れば猶絃踊(げんしょう)の声を聞く。其の礼義を守るの国にして、主の為に節に死するが為に、羽の頭を持して之に示す。乃(すなわ)ち降る。王還り、馳せて齊王信の壁に入り、其の軍を奪い、信を立てて楚王と為し、彭越(ほうえつ)を梁王と為す。漢王、皇帝の位に即(つ)く かくして楚の地はすべて平定したが、ただ魯だけが降らない。漢王は根絶やしにしようと城下にせまると、城内からは楽器にあわせて詩を歌う声が聞こえてくる。漢王は、魯が礼節を守る国で、旧主項羽へ忠節をたてて死ぬ覚悟と見たので、項羽の首を持ってきて魯の人々に示した。それでようやく降伏した。漢王は軍を返し急遽斉王韓信の城壁に入ってその軍隊を自分のものにした。やがて韓信を楚王にし、彭越を梁王にした。そして漢王は皇帝の位に就いた(前202)高租である 主の為に節に死する 項羽はかつて魯公に封ぜられた 十八史略 吾の天下を得たる所以は何ぞ 2010-02-04 16 54 20 | 十八史略 置酒洛陽南宮。上曰、徹侯諸將、皆言、吾所以得天下者何、項氏所以失天下者何。高起・王陵對曰、陛下使人攻城掠地、因而與之、與天下同其利。項羽不然。有効者害之、賢者疑之、戰勝而不予人功、得地而不與人利。 洛陽の南宮に置酒(ちしゅ)す。上(しょう)曰く、徹侯(てっこう)諸将、皆言え、吾の天下を得たる所以(ゆえん)は何ぞ、項氏の天下を失いし所以は何ぞ、と。高起・王陵対(こた)えて曰く、陛下は人をして城を攻め地を掠めしむれば、因って之に与え、天下と其の利を同じうす。項羽は然らず。功有る者は之を害し、賢者は之を疑い、戦い勝って人に功を予えず、地を得て人に利を与えず、と。 洛陽の南宮で宴会を催した時、高祖が言った、「列侯・諸将たちよ、皆言ってみよ。予が天下を得たわけは何か、項羽が天下を失った理由は何であるか」と。すると高起と王陵が対(こた)えて言った、「陛下は部下に城を攻め、土地を取らせられますと、功によって部下に与えて、天下の人と利益を共にされました。項羽はそうではありません。功ある者は痛めつけ、賢者は疑ってかかりました。戦争に勝っても、部下に功賞を与えず、土地を得ても人に与えませんでした。それで天下を失ったのです」と。 徹侯 秦代の爵位、後に通侯、列侯といった 十八史略 三人は人傑なり、吾能く之を用う 2010-02-06 10 19 41 | Weblog 上曰、公知其一、未知其二。夫運籌帷幄之中、決勝千里之外、吾不如子房、填國家、撫百姓、給餽餉、不絶粮道、吾不如蕭何。連百萬之衆、戰必勝、攻必取、吾不如韓信。此三人者、皆人傑也。吾能用之。此吾所以取天下。項羽有一苒范、而不能用。此其所以爲我禽也。羣臣悦服。 上曰く、公其の一を知って、未だ其の二を知らず。夫(そ)れ籌(はかりごと)を帷幄(いあく)の中(うち)に運(めぐ)らし、勝つことを千里の外(ほか)に決するは、吾、子房に如(し)かず。国家を填(しづ)め、百姓(ひゃくせい)を撫(ぶ)し、餽餉(きしょう)を給し、粮道を絶たざるは、吾、蕭何に如かず。百万の衆を連ね、戦えば必ず勝ち、攻むれば必ず取るは、吾、韓信に如かず。此の三人は、皆人傑なり。吾、能(よ)く之を用う。此れ吾が天下を取りし所以なり。項羽は一(いつ)の范有れども、用うること能(あた)わず。此れ其の我が禽(とりこ)と為れる所以なり、と。群臣悦服す。 十八史略 2010-02-09 16 47 13 | 十八史略 高祖は言った。「貴公らはその一面を知って、他の面を知らない。そもそも帷幕の中で作戦をめぐらし、千里も離れて勝利を導くは子房(張良)に及ばない。国家を安定させ人民をいつくしみ食糧を確保し補給を絶やさぬ能力は蕭何にかなわない。百万の大軍を指揮し、戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取る腕前は、韓信に及ばぬ。この三人は傑出した者たちだ。わしはこの三人をよく使いこなした。これがわしが天下を取ったわけだ。ところが項羽には一人范がいたが、使いこなすことができなかった。これがあやつがわしにしてやられたゆえんだ」と。群臣みな感じいった。 籌 はかる 数をかぞえる竹の棒から、はかりごと、計略 餽餉 食糧 人傑 能力の衆人にすぐれた人。 十八史略 田横自頸す 2010-02-13 11 04 01 | 十八史略 故齊田横、與其徒五百餘人入海島。上召之曰、横來。大者王。小者侯。不來、且擧兵誅。横與二客乘傳、至洛陽尸郷自剄。以王禮葬之。二客自剄客從之。五百人在島中者、聞之自殺。 故(もと)の斉の田横(でんこう)其の徒五百人と海島に入る。上(しょう)之を召して曰く、横来たれ。大なる者は王とせん。小なる者は侯とせん。来たらずんば、且(まさ)に兵を挙げて誅(ちゅう)せんとす、と。横、二客(じかく)と伝に乗り、洛陽の尸郷(しきょう)に至って自剄(じけい)す。王の礼を以て之を葬る。二客自剄して之に従う。五百人島中に在る者、之を聞いて自殺す。 もと斉の田横は、その徒党五百人余りと海上の島に逃れて立てこもった。高祖はこれを召すべく、「田横よ来い。重くは王に、軽くとも侯に取り立てよう。もし来なければ、兵を派遣して誅するぞ」と使者に伝えさせた。田横は二人の客と共に、宿継ぎをしながら洛陽に向かい、すぐ手前の尸郷まで来たところで、みずから首をはねた。高祖は王の礼をもって田横を葬った。二人の客もみずから首をきって後を追った。島に残っていた五百人もこれを聞いてすべて自決して殉じた。 十八史略 季布髠鉗(こんけん)して奴と為り朱家に売る 2010-02-16 17 58 57 | 十八史略 初季布爲項羽將、數窘帝。羽滅、帝購求布。敢匿者罪三族。布乃髠鉗爲奴、自賣於魯朱家。朱家心知其布也、之洛陽見滕公曰、季布何罪。臣各爲其主耳。以布之賢、漢求之急、不北走胡、南走越耳。此棄壯士資敵國也。 滕公言於上。乃赦布、召拝郎中。 初め季布、項羽の将と為り、数々(しばしば)帝を窘(くる)しむ。羽滅んで、帝、布を購求す。敢えて匿(かく)す者は三族を罪せんと。布乃ち髠鉗(こんけん)して奴(ど)と為り、自ら魯の朱家に売る。朱家、心に其の布なるを知るや、洛陽に之(ゆ)き滕公(とうこう)に見(まみ)えて曰く、季布、何の罪かある。臣は各々其の主の為にするのみ。布の賢を以て、漢之を求むること急なるときは、北のかた胡に走らずんば、南のかた越に走らんのみ。此れ壮士を棄てて敵国を資(たす)くるなり、と。滕公、上(しょう)に言う。乃ち布を赦し、召して郎中に拝す。 以前季布は項羽の将軍として度々高祖を苦しめた。そこで項羽が滅びると、賞金を懸けて捜し求め、もしかくまう者があったら、本人はもとより父母、妻の一族までも罰するぞと布告した。季布は髪を剃り首枷(かせ)をはめて自ら奴隷に身を落として魯の朱家に売った。朱は季布の正体を感づくと、洛陽に赴き、滕公(夏公嬰)に会見してこう言った。「季布に何の罪がありましょう、臣下はそれぞれの主君のために力を尽くすのがつとめ、ここで季布ほどの賢人を厳しく探索したなら、北の匈奴か南の越に逃げるだけでしょう。これこそ壮士を見捨てて敵国を利することになりましょう」と。滕公はそれを高祖に申し上げた。高祖は早速季布を赦し、召して郎中に任じた。 窘(くる)しむ 閉じ込める、苦しめる。 購求 懸賞金をかけて捜し求める。 髠鉗(こんけん) 頭髪を剃り、鉄枷を首に施すこと。 郎中 宮中の宿直の役。 十八史略 丁公、臣と為って不忠なり 2010-02-18 18 04 57 | 十八史略 丁公爲項羽將、嘗逐窘帝彭城西、短兵接。帝急顧曰、兩賢豈相厄哉。丁公乃還。至是謁見。帝以徇軍中曰、丁公、爲臣不忠。使項王失天下。遂斬之。曰、使後爲人臣、無效丁公也。 丁公、項羽の将と為り、嘗て逐(お)いて帝を彭城(ほうじょう)の西に窘(くる)しめ、短兵接す。帝急に顧みて曰く、両賢豈相厄せんや、と。丁公乃ち還りぬ。是に至って謁見す。帝以て軍中に徇(とな)えて曰く、丁公、臣と為って不忠なり。項王をして天下を失わしむ、と。遂に之を斬る。曰く、後(のち)の人臣たるものをして、丁公に效(なら)うこと無からしむるなり、と。 丁公というものが項羽の部将になって、かつて高祖を彭城の西に追いつめ、刀で切りつけるところまで迫った。高祖はいきなり振り返って「賢人同士が互いに苦しめ合うこともあるまい」と言った。丁公は高祖を見逃して引き返した。高祖の世になって、丁公が拝謁したところ、高祖は捕えて引き廻し、「丁公は臣下として不忠者である。項王に天下を失わせたのはこやつだ」と、彼を斬り殺した。そして「後の臣下たる者に丁公を見ならわせないようにしたのだ」と言った。 丁公 季布の異父同母の弟。 短兵 剣などの短い武器、短兵急はにわかに 厄 阨に同じ、苦しみ困ること。 十八史略 西安遷都 2010-02-23 17 40 14 | 十八史略 齊人婁敬説上曰、洛陽天下中。有易以興、無易以亡。秦地被山帯河、四塞以爲固。陛下案秦之故、此搤天下之亢、而拊其背也。上問張良。良曰、洛陽四面受敵。非用武之國。關中左殽函、右隴蜀、阻三面而守。敬説是也。上即日西都關中。 斉人婁敬(ろうけい)、上(しょう)に説いて曰く、洛陽は天下の中なり、徳有れば以て興り易く、徳無ければ以て亡び易し。秦の地は山を被(こうむ)り河を帯び、四塞(しそく)以て固(かため)を為す。陛下秦の故(こ)を案ぜば、此れ天下の亢(こう)を搤(やく)して、其の背を拊(う)つなり、と。上、張良に問う。良曰く、洛陽は四面に敵を受く。武を用うるの国に非ず。関中は殽函(こうかん)を左にし、隴蜀(ろうしょく)を右にし、三面を阻(へだ)てて守る。敬の説、是(ぜ)なり、と。上、即日西して関中に都す。 斉人の婁敬という者が高祖に説いて言った、「洛陽は天下の中心にあります。天子に徳があれば、興りやすく、徳がなければ亡びやすい地です。関中の秦の地は後ろに山をかむり、前に河をめぐらして四方がふさがって、自然のかためを為しています。もし陛下が秦の故地関中を拠(よ)り所とするならば、これは天下の喉もとを押さえつけてその背中を打つようなものです」と。高祖は張良に諮(はか)った。張良は「洛陽は四方から攻撃され易く戦に向いた地ではありません。関中は殽山と函谷関が左に控え、隴州、蜀州の山々が右に聳えて三面が自然に固く守られております。婁敬の説は的を射ております」と。高祖はその日のうちに西に遷(うつ)って関中を都とする事を決めた。 案 安堵におなじ、その所に落ち着いている 亢(こう)を搤(やく)して 亢は首、のど 搤 押さえつける、扼に同じ 十八史略 赤松子に従って遊ばん 2010-02-25 18 13 35 | 十八史略 留侯張良、謝病辟穀曰、家世相韓。韓滅爲韓報讎。今以三寸舌爲帝者師、封萬戸侯。此布衣之極。願棄人間事、從赤松子遊耳。 留侯張良、病と謝し、穀(こく)を辟(さ)けて曰く、家世よ韓に相たり。韓滅んで韓の為に讎(あだ)を報ず。今三寸の舌を以て、帝者の師と為り、万戸侯に封ぜられる。此れ布衣の極なり。願わくは人間(じんかん)の事を棄てて赤松子(せきしょうし)に従って遊ばんのみ。 留侯張良は病気を理由に官を辞し、穀類を遠ざけ言った。「我が家は代々韓の大臣であったが、韓が滅んでからは高祖に仕えて秦を滅ぼして報復した。いま三寸の舌をもって帝王の軍師となり、一万戸の地に封ぜられている。これは平民に落ちた身には出世の極みというべきであろう。この上は俗事を棄てて、かの赤松子に倣い神仙の間に遊びたいものだ」と。 赤松子 上古の仙人の名 十八史略 張良、橋上に老人と会う 2010-02-27 11 29 45 | 十八史略 孺子教うべし 良少時、於下邳圯上、遇老人。堕履圯下、謂良曰、孺子下取履。良欲毆之。憫其老、乃下取履。老人以足受之曰、孺子可教。後五日、與我期於此。良如期往。老人已先在。怒曰、與長者期後何也。復約五日。 良少(わか)き時、下邳(かひ)の圯上(いじょう)に於いて、老人に遇う。履(くつ)を圯下(いか)に堕(おと)し、良に謂って曰く、「孺子(じゅし)下って履を取れ」と。良、之を殴(う)たんと欲す。その老いたるを憫(あわれ)み、乃ち下って履を取る。老人、足を以て之を受けて曰く、「孺子教うべし。後五日、我と此に期せん」と。良、期の如く往く。老人已(すで)に先ず在り。怒って曰く、「長者と期して後(おく)るるは何ぞや」と。復(また)五日を約す。 張良がまだ若い頃、下邳という所の橋の上で一人の老人に出会った。老人はわざと履を橋の下に落として「おい若造、下に降りて履を取って来い」と言った。張良は怒って老人を殴ろうと思ったが、年寄りであると不憫に思い、降りて履を拾って来てやった。老人はそれを足で受けて「若造よ、お前は見所がある、ひとつ教えてやろうかい五日後に又ここで会おう」と言った。張良が約束どおり行ってみると老人はすでに来ていて「年上の者と待ち合わせておいて、後れて来るとは何事だ」と怒って、更に五日後に会おうと約束した。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/m/201003/2 十八史略 張良太公望の兵書を授かる 2010-03-02 18 03 14 | 十八史略 及往、老人又先在。怒復約五日。良半夜往。老人至。乃喜、授以一編書。曰、讀此可爲帝者師。異日見濟北穀城山下黄石、即我也。旦視之、乃太公兵法。良異之、晝夜習讀。既佐上定天下。封功臣、使良自擇齊三萬戸。良曰、臣始與陛下遇於留。此天以臣授陛下。封留足矣。後經穀城、果得黄石焉。奉祠之。 往くに及んで、老人又先ず在り。怒って復五日を約す。良半夜に往く。老人至る。乃ち喜び、授くるに一編の書を以ってす。曰く、此れを読まば帝者の師と為るべし。異日、濟北(さいほく)の穀城(こくじょう)山下の黄石を見ば、即ち我なり、と。旦(あした)に之を視れば、乃ち太公の兵法なり。良、之を異とし、昼夜習読す。既にして上(しょう)を佐(たす)けて天下を定む。功臣を封ずるとき、良をして自ら斉の三万戸を択ばしむ。良曰く、臣始め陛下と留に遇(あ)う。此れ天、臣を以って陛下に授くるなり。留に封ぜらるれば足れり、と。後、穀城を経しに、果して黄石を得たり。之を奉祠す。 五日後に行ってみると老人が先に来ていて叱り付け、さらに五日後に行くことを約束した。張良は今度は遅れまいと夜中から待った。やがて老人が来て、会うと喜んで一編の書を授けてこう告げた「これを読めば帝王の軍師となれよう。後日、済北の穀城山下で黄色の石を見かけたらそれがわしじゃ」と。朝になってその書を見ると太公望の兵法書であった。張良はこれを奇遇と喜び、昼夜の別なく読み習ったのであった。 やがて張良は高祖をたすけて天下を平定し、功臣を封ずるとき、高祖は斉のうちで三万戸の領地を選び取らせようとしたところ張良はこう言って辞退した「私は陛下に留でお目にかかりました。それは天が私を陛下に授けたものと思っております。ですから留の地をいただければ充分でございます。」 その後穀城山を通ったとき、果して黄石をみつけたので、祠に祀ったのであった。 十八史略 狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)らる 2010-03-04 18 08 33 | 十八史略 六年、人有上書告楚王韓信反。諸將曰、發兵坑孺子耳。上問陳平。平危之曰、古有巡守會諸侯。陛下第出僞遊雲夢、會諸侯於陳、因禽之、一力士之事耳。上從之、告諸侯、會陳、吾將遊雲夢。至陳。信上謁。命武士縛信、載後車。信曰、果若人言。狡兎死走狗烹、飛鳥盡良弓蔵。敵國破謀臣亡。天下已定。臣固當烹。遂械繋以歸。赦爲淮陰侯。 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已(すで)に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文は次回に 十八史略 狡兎死して走狗烹らる 2010-03-06 09 09 57 | Weblog 六年、人、上書して楚王韓信反すと告ぐるもの有り。諸将曰く、兵を発して孺子(じゅし)を坑(こう)にせんのみ、と。上(しょう)陳平に問う。平、之を危ぶんで曰く、いにしえ、巡守(じゅんしゅ)して諸侯を会すること有り。陛下、第(ただ)出で偽って雲夢に遊び、諸侯を陳に会し、因(よ)って之を禽(とりこ)にせば、一力士の事のみ、と。上、之に従い、諸侯に告ぐ。陳に会せよ、吾将(まさ)に遊ばんとす、と。陳に至る。信、上謁す。武士に命じて信を縛せしめ、後車に載す。信曰く、果たして人の言の若(ごと)し。狡兎(こうと)死して走狗(そうく)烹(に)られ、飛鳥尽きて良弓蔵(しま)われ、敵国破れて謀臣亡ぶと。天下已に定まる。臣固(もと)より当(まさ)に烹(に)らるべし、と。遂に械繋(かいけい)して以って帰る。赦(ゆる)して淮陰侯(わいいんこう)と為す。 通釈文 漢の六年、高祖に書を奉(たてまつ)って楚王韓信が謀反を企てていると告げた者が居た。諸将は口々に、兵を出して若僧を穴埋めにするだけのことですと言った。高祖は陳平の意見を聞いた。陳平は皆の意見を危ぶんで言った「古には天子が巡視して諸侯を会合させることがありました。陛下はただの遊山の風に雲夢におでかけなさい。その折諸侯を陳に招集するのです。その機会に韓信を生捕にすればよいのです。そうすれば力士一人で事が足りましょう」と。高祖はうなずき、諸侯に「陳に会合せよ、予は雲夢に遊ぼうと思う」と通告した。高祖が陳に着くと、韓信が拝謁に来た。高祖は武士に命じて韓信を縛り副車に押しこめた。韓信は「なるほど誰かが言っていた通りだ、兎が捕り尽くされると、猟犬は用ずみになって烹られ、飛ぶ鳥が尽きれば、弓はお蔵入りになる。また敵国が亡びると、謀臣は殺されてしまうと。全くその通りだ。天下が定まった今、自分が烹殺される訳だ」 とうとう枷(かせ)をつけ縛られて洛陽につれてこられたが、後に赦されて淮陰侯に封じられた。 十八史略 善く将に将たり 2010-03-09 13 56 03 | 十八史略 多々益々辦(べん)ず 上嘗從容問信諸將能將兵多少。上曰、如我能將幾何。信曰、陛下不過十萬。上曰、於君如何。曰、臣多多益辦。上笑曰、多多益辦、何以爲我禽。曰、陛下不能將兵、而善將將。此信所以爲陛下禽。且陛下所謂天授、力也。 上(しょう)嘗て従容(しょうよう)として信に諸将の能(よ)く兵に将たるの多少を問う。上曰く、我の如きは能く幾何(いくばく)に将たらんか、と。信曰く、陛下は十万に将たるに過ぎず、と。上曰く、君に於いては如何(いかん)、と。曰く、臣は多々益々辦(べん)ず、と。上笑って曰く、多々益々辦ぜば、何を以って我が禽(とりこ)に為れる、と。曰く、陛下は兵に将たること能(あた)わざれども、而(しか)も善く将に将たり。此れ信が陛下の禽と為りし所以(ゆえん)なり。且つ陛下は所謂(いわゆる)天授にして、人力に非ざるなり、と。 高祖はあるとき、くつろいだ様子で韓信に将軍達がそれぞれどの位の兵を統率する能力があるだろうかと聞いたことがあった。そして最後に高祖は「わしはどれほどの兵を使いこなせるだろうか」と問うた。すると韓信は「陛下は十万位いでしょう」と答えた。高祖は「ではお前はどうだ」と尋ねると、「私は多ければ多いほど指揮がさえます」と事もなげに言った。高祖は笑って「多ければ多いほどうまくやれると言うそなたがなぜわしの虜になったのだ?」韓信は「陛下は兵に将たるには向きませんが、将に将たる才がおありになります。これが私が虜になった所以です。その上、陛下は天から授かった人に君たる運勢をお持ちです。人の力では及びもつきません。」と。 辦 つとめる。処理する。さばく。 よく似た字がありますので参考のため列挙しました。 辨(弁)わかつ 弁別。わきまえる 分別。つぐなう 弁償。用にあてる弁当。 辧(弁)辨の本字。 辯(弁)言うこと、言い開きすること 弁護士の弁 瓣(弁)はなびら、花弁。瓜の種の周りのやわらかな部分 辮 編む 辮髪(べんぱつ)中国清朝の男子の髪型。(蒼穹の昴でおなじみ) 十八史略 狗の功と人の功 2010-03-11 18 14 31 | 十八史略 剖符封功臣。酇侯蕭何、食邑獨多。功臣皆曰、臣等被堅執鋭、多者百餘戰、少者數十合。蕭何未嘗有汗馬之勞、徒持文墨議論、顧反居臣等上何也。上曰、諸君知獵乎。逐殺獸者狗也。發縱指示者人也。諸君徒能得走獸耳。功狗也。至如蕭何、功人也。羣臣皆莫敢言。 符を剖(さ)き功臣を封ず。酇侯(さんこう)蕭何、食邑(しょくゆう)独り多し。功臣皆曰く、臣等、堅を被(き)鋭を執(と)り、多き者は百余戦、少なき者も数十合。 蕭何は、未だ嘗て汗馬の労あらず、徒(た)だ文墨(ぶんぼく)を持して議論し、顧反して臣等の上に居るは何ぞや、と。上曰く、諸君、猟を知れるか。獣を逐殺する者は狗なり。発従(はっしょう)して指示する者は人なり。諸君は徒(ただ)能く走獣を得たるのみ。功は狗なり。蕭何の如きに至っては、功は人なり、と。群臣、皆敢えて言う者莫(な)し。 高祖は割符を分け授けて功績のあった家臣に領地を与えた。その中で酇侯の蕭何だけ特に多かったから、他の功臣は皆「我々は身に堅いよろいをつけ、矛や刀を執って、多い者は百余回、少ない者でも数十合の戦をしています。ところが蕭何は一度も馬に鞭をあてた事も無く、ただ筆と墨を持って議論していただけではありませんか。それが却って自分たちより上というのはどういうことでしょうか。」と言った。すると高祖は「諸君は猟を知っているか。獣を追いかけて殺すのは犬であり、犬の綱を解いて指図するのは人間の役である。諸君はただ獣を捕えただけであるから、いわば犬の功である。蕭何は諸君を指図したのだから、その功は人の功である」と言った。これには群臣誰一人一言もなかった。 剖符 符を割くこと その一片を与えて証とする 酇侯 湖北省の地名蕭何が封じられた。 汗馬の労 馬が汗をかくほどの骨折り、実戦の苦労。 顧反(こはん) かえって。 発縦 犬を繋いだ綱を解き放つこと 十八史略 雍齒すら且つ侯たり 2010-03-16 14 29 30 | 十八史略 上已封大功臣。餘爭功不決。上從複道上望見、諸將往坐沙中、相與語。上問張良。良曰、陛下以此屬取天下。今所封皆故人親愛、所誅皆平生仇怨。此屬畏不能盡封、又恐見疑平生過失及誅。故相聚謀反耳。 上(しょう)、すでに大功臣を封(ほう)ず。余(よ)は功を争うて決せず。上、複道の上より望み見るに、諸将、往々沙中に坐して、相与(とも)に語る。上、張良に問う。良曰く、陛下、此の属を以って天下を取る。今、封ずる所は、皆故人親愛にして、誅する所は、皆平生の仇怨(きゅうえん)なり。此の属、尽くは封ぜらるる能わざるをおそれ、又平生の過失を疑われて誅に及ばんことを恐る。故に相聚(あつ)まって反を謀(はか)るのみ、と。 高祖はすでに大きな功労を立てた者にだけは領地を与たえ終ったが、残りの者は功績の大小を言いつのって決まらなかった。高祖が二重廊下の上から見下ろすと、諸将があちこちと砂の上に座って何やら話し合っている。張良に尋ねると「陛下はあの者たちの力によって天下を取られましたが、今のところ領地を与えられた者は、皆古くからの知り合いか、目をかけられた者たちです。また、誅殺された者は、皆陛下が常日頃憎んでいた者ばかりです。ですからあの連中は皆が皆領地をもらえないのではないかと心配し、一方わずかの落ち度でも、疑われて殺されるかと恐れているのです。それでああして集まって、いっそ謀反を起こそうかと相談しているのです」と答えた。つづく 十八史略 つづき 2010-03-18 17 40 51 | 十八史略 承前 上曰、奈何。良曰、陛下平生所憎、羣臣所共知、誰最甚者。上曰、雍齒。良曰、急先封齒。於是封齒爲什方侯。而急趣丞相・御史、定功行封。羣臣皆喜曰、雍齒且侯、吾屬無患矣。詔定元功十八人位次、賜丞相何、劔履上殿、入朝不趨。 尊太公爲太上皇。 上曰く、奈何(いかん)せん、と。良曰く、陛下平生憎む所にして、群臣の共に知るところは、誰か最も甚だしき者ぞ、と。上曰く、雍齒(ようし)なり、と。良曰く、急に先ず齒を封ぜよ、と。是に於いて齒を封じて什方侯と為す。而(しか)して急に丞相・御史を趣(うなが)して、功を定め封を行う。群臣皆喜んで曰く、雍齒すら且つ侯たり、吾が属、患い無けん、と。 詔(みことのり)して元功十八人の位次(いじ)を定め、丞相何に賜い、剣履(けんり)して殿(でん)に上り、入朝して趨(はし)らざらしむ。 太公を尊んで太上皇と為す。 高祖は「どうすればよかろう」と尋ねると、張良は「陛下が平生憎んでおられて、なおかつ群臣がそれを知っている、その最たる者は誰でしょうか」高祖は「雍齒だろう」張良は「では真っ先に雍齒に領地をお与えください」そこで雍齒を什方(じゅうほう)侯に取り立てた。そうしておいて丞相や御史を督促して、諸将の功績を定めて領地を決めることにした。群臣は皆喜んで言った。「あの疎まれていた雍齒すら侯に取り立てられたのだから、我々は何の心配も無いだろう」と。 詔(みことのり)によって大功ある者十八人の席次を定め、丞相の蕭何には剣をつけ履(くつ)をはいて殿上にのぼることを許し、朝廷に入っても小走りしなくとも良いという恩典を賜った。 高祖は父の太公を尊んで太上皇(たいじょうこう)という尊号を奉った。 元功 元は頭、最上、第一の意味がある。 十八史略 叔孫通 2010-03-20 10 35 35 | 十八史略 與に成を守るべし 帝懲秦苛法、爲簡易。羣臣飮酒争功、酔或妄呼、抜劍撃柱。叔孫通説上曰、儒者難與進取、可與守成。願懲魯諸生、共起朝儀。上從之。魯有兩生。不肯行曰、禮樂積、而後可興也。通與所徴及上左右、與弟子百餘人、爲緜蕝野外習之。 帝、秦の苛法に懲りて簡易を為す。群臣酒を飲んで功を争い、酔うて或いは妄呼(もうこ)し、剣を抜いて柱を撃つ。叔孫通(しゅくそんとう)、上(しょう)に説いて曰く、儒者は与(とも)に進んで取り難く、ともに成を守るべし。願はくは魯の諸生を徴(ちょう)して、共に朝儀を起こさん、と。上之に従う。魯に両生有り。行くを肯(がえ)んぜずして曰く、礼楽は徳を積んで、後に興すべきなり、と。通(とう)、徴(め)す所のもの及び上の左右と、弟子(ていし)百余人と、緜蕝(めんぜつ)を野外に為(つく)って之を習わす。ー通釈は次回にー 十八史略 2010-03-23 08 20 26 | 十八史略 高祖は秦の苛酷な法律に懲り、簡素な法に変えた。ところが臣下たちは酒を飲んでは功を自慢し、酔ってわめきちらし、剣を抜いて宮殿の柱に斬りつける者まであらわれた。そこで叔孫通(しゅくそんとう)という者が高祖に説いた「そもそも儒者は、進んで天下を攻め取るには無用ですが、取った天下を治めるには役立ちます。どうか魯の国の儒者を召してともに朝廷の儀式を調えたいとぞんじます」高祖はこれを許した。魯では二人の儒者が同行を拒んでこう言った「礼楽というものは、天子に徳が備わって、はじめて興すものです」と。しかし叔孫通は招聘に応じて来た者、及び帝の側近の者と自分の弟子と百人余りで野外で糸で縄張りをし、茅で席次の標識を立てて百官の席順を決め、朝見の練習をさせた。 緜蕝(めんぜつ) 緜は木綿糸、蕝は茅 十八史略 叔孫通太常となる 2010-03-25 17 48 27 | 十八史略 七年、長樂宮成。諸侯羣臣皆朝賀。謁者治禮、引諸侯王以下、至吏六百石、以次奉賀。莫不振恐肅敬。禮畢置法酒。御吏執法、擧不如儀者、輒引去。竟朝罷腫、無敢諠譁失禮者。上曰、吾乃今日知爲皇帝之貴也。拝通爲太常。 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて喧嘩して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 十八史略 叔孫通 太常となる 2010-03-27 13 49 23 | 十八史略 前回のつづき 読み下し文から 七年、長楽宮成る。諸侯群臣、皆朝賀す。謁者、礼を治め、諸侯王以下、吏六百石(せき)に至るまでを引き、次(じ)を以って奉賀せしむ。振恐(しんきょう)肅敬(しゅっけい)せざるもの莫(な)し。礼畢(おわ)って法酒(ほうしゅ)を置く。御吏、法を執(と)り、儀の如くならざる者を挙げて、輒(すなわ)ち引き去る。朝を竟(お)え酒を罷(や)むるまで、敢えて諠譁して礼を失う者無し。上(しょう)曰く、吾乃(すなわ)ち、今日、皇帝たるの貴(たっと)きを知る、と。通(とう)を拝して太常(たいじょう)と為す。 七年に長楽宮が完成した。諸侯群臣は皆朝廷に出て祝った。儀礼を司る式部官が取り仕切り、諸侯王以下六百石の吏官までを導いて席次に従って、お祝いの言葉を言上させたが、皆恐れ入り謹み敬わぬ者はなかった。拝賀の礼が終って儀礼の酒を賜ったが、御史が法をつかさどり儀礼に従わぬ者を挙げて外に引き立てたので朝賀がすみ酒宴が終るまで、声高に騒いで礼を失する者はなかった。高祖は「今日になって初めて、皇帝であることの貴さが実感できた」と喜んだ。そして叔孫通を太常に取り立てた。 法酒 儀礼の酒 諠譁 騒がしいこと、喧嘩 太常 神祇官、 十八史略 陳平匈奴と和睦す 2010-03-30 18 25 02 | 十八史略 匈奴寇邊。帝自將撃之。聞冒頓單于居代谷、悉兵三十萬、北遂之、至平城。冒頓精兵四十萬騎、圍帝於白登七日。用陳平秘計、使厚遺閼氏。冒頓乃解圍去。平從帝征伐、凡六出奇計輒封邑。 九年、遺劉敬使匈奴和親、取家人子名公主、妻單于。 匈奴、辺に寇(こう)す。帝自ら将として之を撃つ。冒頓単于(ぼくとつぜんう)代谷(だいこく)に居ると聞き、兵三十万を悉(つく)し、北して之を遂い、平城に至る。冒頓の精兵四十万騎、帝を白登(はくとう)に囲むこと七日。陳平の秘計を用い,間(ひそか)に厚く閼氏(えんし)に遺(おく)らしむ。冒頓乃ち囲みを解いて去る。平、帝に従うて征伐し、凡(すべ)て六たび奇計を出す。輒(すなわ)ち封邑を益(ま)す。 九年、劉敬を遺(つか)わして匈奴に使いせしめて和親し、家人の子を取って公主と名づけ単于に妻(めあ)わす。 匈奴が国境を侵し攻め込んで来たので,高祖みずから将となって討伐に向った。冒頓単于が代谷にいると聞き、三十万の兵を残らず率いて北上し、追って平城に着いた。ところが冒頓の精兵四十万騎が高祖を白登に囲むこと七日に及んだ。この時、陳平の奇抜な計により、ひそかに手厚く単于の妻に贈り物をしたので、冒頓は包囲を解いて去った。陳平は帝に従って征伐に出たが、六度も奇計を出して帝を救ったので、領地を加増された。 九年に、劉敬を使者として匈奴に遣わし、和親させ、良家の子女を帝の子として、単于の妻にさせた。 梁王彭越太僕、告其將扈輒勸越反。上使人掩越囚之。反形已具。赦處蜀。呂后曰、此自遺患。遂誅之夷三族 梁王彭越(ほうえつ)の太僕(たいぼく)、其の将の扈輒(こちょう)、越に勧めて反せしむと告ぐ。上(しょう)人をして越を掩(おそ)って之を囚(とら)えしむ。反形已(すで)に具(そな)わる。赦して蜀に処(お)らしむ。呂后曰く、此れ自ら患いを遺すものなり、と。遂に之を誅して三族を夷(たいら)ぐ。 梁王彭越の近侍の長が「彭越の部将の扈輒が彭越に勧めて謀反させました」と報告してきた。高祖は兵を出して急襲して彭越を捕えさせた。謀反の形跡は歴然としていたが、蜀に流すことで許そうとした。しかし呂后が「禍の種を残すものではありませんか」と言って反対した。遂に彭越を殺し、三族までも皆殺しにした。 十八史略 安くんぞ詩書を事とせん 2010-04-08 15 38 05 | 十八史略 前々回の鹿を失うを解説していなかったので遅れ馳せながら、 帝位、政権、地位を鹿にたとえる。 逐鹿(ちくろく)、中原に鹿を逐うなどと言う。 遣陸賈立南海尉佗、爲南粤王。佗稱臣奉漢約。賈歸報。拝太中大夫。賈時前説詩書。帝罵之曰、乃公馬上得天下。安事詩書。 陸賈(りくか)を遣わして南海の尉佗(いた)を立てて、南粤王(なんえつおう)と為す。佗、臣と称して漢の約を奉ず。賈、帰って報ず。太中大夫(たいちゅうたいふ)に拝せらる。賈、時々前(すす)んで詩書を説く。帝、之を罵(ののし)って曰く、乃公(だいこう)、馬上に天下を得たり、安(いず)くんぞ詩書を事とせん、と。 高祖は儒官の陸賈を派遣して南海郡の尉である趙佗を立てて南粤王とした。趙佗は臣と称して漢との約束を守ることを誓ったので、陸賈が帰ってこれを復命したところ、功によって賈を太中大夫の官に任じた。陸賈は時々高祖の前にまかり出て『詩経』や『書経』を講じたが、高祖はこれを罵って「わしは馬上で天下を取った。何で詩経や書経が必要なものか」と言った。 南粤王 粤は越に同じ。 尉佗 尉は官名、佗は名、姓は趙。 乃公 汝の君主の意、自身を尊大にいう。 十八史略 陸賈新語 2010-04-10 12 16 57 | 十八史略 承前 賈曰、陛下以馬上得之、寧可以馬上治之乎。文武竝用、長久之術也。使秦并天下、行仁義、法先聖、陛下安得有之。帝曰、試爲我著書。秦所以失、吾所以得、及古成敗。賈著書十二篇。毎奏稱善。號曰新語。 賈曰く、陛下、馬上を以って之を得たるも、寧(いず)くんぞ馬上を以って之を治む可けんや。文武並び用うるは、長久の術なり。秦をして天下を併せ、仁義を行い、先聖に法(のっと)らしめば、陛下、安くんぞ之を有するを得ん、と。帝曰く、試みに我が為に書を著わせ。秦の失いし所以(ゆえん)と、吾の得たる所以と、及び古(いにしえ)の成敗(せいはい)とを、と。賈、書十二篇を著す。奏する毎に善しと称す。号して新語と曰う。 つづき 陸賈は答えて「なるほど陛下は馬上で天下を取られましたが、馬上で天下が治められましょうか。文武あわせて用いるのが、国家を長久に保つすべであります。もし秦が天下を統一して、仁義の政治を行い、古の聖王を模範としていたならば、陛下がどうして天下を取られることができたでしょうか」と言った。高祖は、「ならば試みにわしの為に書を著せ。秦が天下を失った理由とわしが天下を取った理由と、それに古代の君主が成功し、また失敗したわけを」と命じた。陸賈はそこで十二篇の書を著したが、一篇を奏上する毎にいかにも、もっともだと、感じいった。その書を「新語」という。 新語 論語や春秋から儒教の大旨を説いた書。(陸賈新語) 十八史略 大風起こって雲飛揚す 2010-04-13 18 21 26 | 十八史略 淮南王黥布、見帝殺韓信、醢彭越以同功一體之人、自疑禍及、遂反。帝自將撃之。 十二年、帝破布還、過魯、以太牢祠孔子。過沛置酒、召宗室・故人飮。酒酣上自歌曰、 大風起雲飛揚。 威加海内兮歸故郷。 安得猛士兮守四方。 令沛中子弟習歌之、以沛爲湯沐邑。 淮南王黥布(げいふ)、帝の韓信を殺し、彭越(ほうえつ)を醢(かい)にせしを見て同功一体の人なるを以って、自ら禍の及ばんことを疑い、遂に反す。帝自ら将として之を撃つ。 十二年、帝、布を破って還り、魯に過(よぎ)り、太牢(たいろう)を以って孔子を祠(まつ)る。沛(はい)に過って置酒し、宗室・故人を召して飲す。酒酣(たけなわ)にして上(しょう)自ら歌って曰く、 大風起って雲飛揚(ひよう)す。 威、海内に加わって故郷に帰る。 安(いず)くにか猛士を得て四方を守らしめん、と。 沛中の子弟をして之を習い歌わしめ、沛を以って湯沐(とうもく)の邑(ゆう)と為す。 淮南王黥布は帝が韓信を殺し、彭越を塩漬け肉にしたのを見て、功績も、立場も同じなので、自分にも同じ禍が及ぶであろうと自分で怯えてしまって、謀反を起こした。高祖は自ら兵を率いて討伐した。 十二年、高祖は黥布を滅ぼして帰り、魯に立ち寄って太牢(牛羊豚)を供えて孔子を祀った。さらに故郷の沛に立ち寄って酒宴を開き、一族、旧知を召して共に飲んだ。宴たけなわのころ、高祖は自ら立って歌った。 かくて沛の子弟にこの歌を習い歌わせ、沛を帝室の御料地とした。 過(よぎ)り 途中寄り道をして訪れること わが国にも伊藤東涯の詩に「藤樹書院によぎる」がある。 太牢 たいそう立派なご馳走。 十八史略 高祖、太子盈を廃せんと欲す 2010-04-20 16 33 42 | 十八史略 初戚姫有寵。生趙王如意。呂后見疏。太子仁弱。上以如意類己、欲廃太子而立之。羣臣争之、皆不能得。呂后使人彊要張良畫計。良曰、此難以口舌争也。顧上所不能致者四人。東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生。以上嫚侮士故、逃匿山中、義不爲漢臣。上高此四人。今令太子爲書卑詞、安車固請、宜来。至以爲客、時從入朝、令上見之、則一助也。 初め戚姫(せきき) 寵(ちょう)有り。趙王如意(じょい)を生む。呂后疏(うと)んぜらる。太子仁弱(じんじゃく)なり。上(しょう)、如意の己に類するを以って、太子を廃して之を立てんと欲す。群臣之を争えども、皆得ること能(あた)わず。呂后、人をして張良を彊要(きょうよう)して画計せしむ。良曰く、此れ口舌(こうぜつ)を以って争いがたきなり。顧(おも)うに上(しょう)の致すこと能わざる所の者四人あり。東園公・綺里季(きりき)・夏黄(かこう)公・甪里(ろくり)先生と曰う。上、士を嫚侮(まんぶ)する故を以って、逃れて山中に匿(かく)れ、義として漢の臣と為らず。上、此の四人を高しとす。今、太子をして書を為(つく)り詞(ことば)を卑(ひく)うし、安車(あんしゃ)もて固く請わしめば、宜しく来るべし。至らば以って客と為し、時々に従えて入朝し、上をして之を見しめば、則ち一助なり、と。 初め戚姫が帝に寵愛されて、趙王如意(じょい)を生んだので、呂后は疎んぜられた。そのうえ呂后の生んだ太子(盈)は慈悲深くはあったが身体が弱かった。帝は如意の気性が自分に似ていたので、盈を廃して如意を立てようとした。群臣は諌めたけれども、どれも聞き入れられなかった。そこで呂后は使者を張良に遣わして強いて太子の安泰を画策させた。張良はこれに答えて、「これは口先で諌めてもどうなるものでもありません。それがしが思うに、帝が招聘(しょうへい)しようとしてもどうにもならない人物が四人居ります、東園公・綺里季・夏黄公・甪里先生といいますが、彼等は帝が士をあなどり軽んずるのを見て山中に隠れ、義を貫いて臣になりません。帝はこの四人を見識の高い者だと思っておられます。今太子が手紙を書き、言葉を丁寧にして、乗り心地の良い車で是非にと請えば、彼等はきっと太子のもとにやって来るでしょう。参りましたならば、彼等を賓客として遇し、折にふれて伴って帝のお目にかけるようになされますならば、一つの助けになりましょう」と言った。 彊要 強要と同じ。 嫚侮 嫚も侮もあなどる、ばかにすること。 甪里先生 角里とも書く。 十八史略 羽翼已に成れり。動かし難し 2010-04-24 08 35 45 | 十八史略 呂后使人奉太子書招之。四人至。帝撃布還、愈欲易太子。後置酒。太子侍。良所招四人者從。年皆八十餘、鬚眉皓白、衣冠甚偉。上怪問之。四人前對、各言姓名。上大驚曰、吾求公數歳、公避逃我。今何自從吾兒游乎。 四人曰、陛下輕士善罵。臣等義不辱。今聞太子仁孝・恭敬愛士、天下莫不延頸願爲太子死者。故臣等來耳。上曰、煩公。幸卒調護。四人出。上召戚夫人、指示之曰、我欲易之、彼四人者、輔之。羽翼已成。難動矣。 呂后人をして太子の書を奉じて之を招かしむ。四人至る。帝、布を撃って還り、愈々太子を易(か)えんと欲す。後、置酒(ちしゅ)す。太子侍す。良の招く所の四人の者従う。年皆八十余、鬚眉皓白(しゅびこうはく)、衣冠甚だ偉なり。上(しょう)、怪しんで之を問う。四人前(すす)んで対(こた)え、各々姓名を言う。上、大いに驚いて曰く、吾、公を求むること数歳なれども、公、我を避逃(ひとう)せり。今何に自(よ)って吾が児に従って游(あそ)ぶかと。 四人曰く、陛下士を軽んじて善く罵(ののし)る。臣等、義として辱(はず)かしめられず。今、太子、仁孝・恭敬にして士を愛し、天下頸(くび)を延べて太子の為に死するを願わざる者莫(な)しと聞く。故に臣等来れるのみ、と。上曰く、公を煩わさん。幸に卒(つい)に調護せよ、と。四人出づ。上、戚夫人を召し、之を指示(しし)して曰く、我之を易えんと欲すれども、彼(か)の四人の者之を輔(たす)く。羽翼已に成れり。動かし難し、と。 呂后は使者をつかわして太子の書状を奉じて四人を招かせた。四人は都にやって来た。高祖は黥布を伐って帰り、いよいよ太子を易えようと思った。 その後宮中で酒宴が開かれた。太子も侍(はべ)っていたが、張良の献策で招かれた四人も付き従っていた。年齢は皆八十以上、ひげも眉も真っ白で衣冠をつけた姿がたいへん立派であった。帝は不思議に思い、名を尋ねると四人とも前に出て姓名を名乗った。帝は大いに驚き「余は貴公たちを何年も求めたが、その度に避け、逃げた。それが今どうして吾が子に従って客となっておられるのか」と問うた。四人は口をそろえて「陛下は士を軽んじてよく罵倒なさいます。臣らは義を重んじておりますゆえ辱めを受けてまで仕える気はございません。ところが太子は慈悲深く、孝心がお有りで、うやうやしく敬(つつし)んでよく士を愛されますので、天下の人びとで太子のために首をさし延ばして死ぬことを厭わない者はないと聞きおよんでいます。私どもが来たのはそのためでございます」と答えた。帝は「貴公たちの力を借りよう、どうかわが子を助けもり立てて下されよ」と頼んだ。帝は戚夫人を呼び、四人を指し示して「わしは太子を替えようと思ったがあの四人の者が太子を補佐している、ひな鳥に羽や翼が備わったも同然、もう動かすことは出来なくなった」と言った。 十八史略 乃(なんじ)の知る所に非ざるなり 2010-04-27 11 52 44 | 十八史略 蕭何以長安地陿、上林中多空地棄、請令民得入田。上大怒、下何廷尉、械繋之、數日而赦之。 上撃布中流矢、疾甚。呂后問、陛下百歳後、蕭相國死。誰可代之。曰、曹參。其次。曰、王陵。然少戇。陳平可以助之。平智有餘。然難獨任。周勃重厚少文、可令爲太尉。安劉氏者必勃也。復問其次。上曰、此後亦非乃所知也。 蕭何、長安の地陿(せま)くして、上林の中(うち)に空地の棄てられたるもの多きを以って、民をして入って田(でん)することを得しめんと請う。上大いに怒り何を廷尉に下(くだ)して、之を械繋(かいけい)せしが、数日にして之を赦(ゆる)せり。 上、布を撃つや流矢に中(あた)って疾(やまい)甚(はなは)だし。呂后問う、陛下百歳の後、蕭相國死せば、誰か之に代るべき、と。曰く、曹參なり、と。其の次は。曰く、王陵なり、然れども少しく戇(とう)なり。陳平以って之を助くべし。平の智は余りあり。然れども独り任じ難し。周勃は重厚にして文少なく、太尉(たいい)たらしむべし。劉氏を安んぜん者は必ず勃ならん、と。復其の次を問う。上曰く、此の後は亦乃(なんじ)の知る所に非ざるなり。 蕭何が、長安の地は狭いのに、帝の御料場の中には空地のままうち棄てられたままになっている所があるので、民が林に入って耕作できるように願い出た。帝は大変怒って、蕭何を獄吏の手に下して、手かせをして牢に繋いだが数日経って赦した。 帝は黥布を征伐した時、流れ矢にあたったが、其の傷がもとで病が重くなった。そこで呂后が問うた「陛下に万一の事態が起こったとき、相国の蕭何がもし死んだら誰を代りに任用したらよろしうございましょう」帝は「曹参がよい」と答えた。更に「その次は」と問うと「王陵である、が少し愚直であるから陳平に補佐させるようにせよ。陳平は知略は充分にあるが一人では任せがたい。周勃は重厚な人物であるが、飾り気がないから太尉とするがよい。将来劉氏を安泰に保つ者は周勃であろう」と言った。呂后がまたその次を問うと、帝は「それから先のことはそなたの知ったことではなかろう」と言った。 上林 天子の庭園、狩猟などを行った。 田 耕すこと 廷尉 刑罰をつかさどる官名 械繋 械は手かせ足かせ 戇 愚直、がんこ 文少なく 文は模様、飾り 太尉 軍事長官、丞相に次ぐ位 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/103 十八史略 人豚 2010-04-29 12 36 49 | 十八史略 上崩。葬長陵。爲漢王者四年、爲帝者八年、凡十二年。太子盈立。是爲孝惠皇帝。 孝惠皇帝名盈。母呂太后。即位之元年、呂后鴆殺趙王如意、斷戚夫人手足、去眼耳、飮瘖藥、使居廁中。命曰人彘、召帝觀之。帝驚大哭、因病,歳餘不能起。 上(しょう)崩ず。長陵に葬る。漢王たること四年、帝たること八年、凡(すべ)て十二年なり。太子盈立つ。是を孝惠皇帝と為す。 孝惠皇帝名は盈(えい)、母は呂太后なり。位に即くの元年、呂后、趙王如意(じょい)を鴆殺(ちんさつ)し、戚夫人の手足(しゅそく)を断ち、眼を去り、耳を(ふす)べ、瘖薬(いんやく)を飲ましめ、厠中(しちゅう)に居(お)らしむ。命じて人彘(じんてい)と曰い、帝を召して之を観(み)しむ。帝驚いて大いに哭し、因(よ)って病み、歳余起(た)つこと能(あた)わず。 高祖が崩御し(前195年)、長陵に葬られた。漢王であること四年、天子であること八年、あわせて十二年間であった。二代皇帝に太子の盈が就いた。これを孝恵皇帝(恵帝)といった。 孝恵皇帝、名は盈という、母は呂太后である。即位の年、呂后は趙王如意を鴆毒(ちんどく)で殺し、戚夫人の手足を斬り、眼球をえぐり取り、耳を燻(いぶ)してふさぎ、瘖薬を飲ませて声を奪ったうえで厠(かわや)に閉じ込めた。これを「ひとぶた」と呼ばせて、恵帝にこれを見せた。恵帝は驚いて声をあげて哭(な)き叫んだ。とうとうこれがもとで病気になり、一年余りも起き上がれなかった。 鴆毒 マムシを食った鴆という鳥の羽を浸した酒という 瘖薬 ひとを唖にする薬 人彘 彘は猪子 十八史略 蕭何卒し曹参代って相国となる。 2010-05-01 09 27 21 | 十八史略 二年、蕭何卒。齊相曹參、令舎人趣爲裝。吾且入相。使者果召參。代何爲相國、一遵何約束。百姓歌之曰、 蕭何爲相、 較若畫一。 曹參代之、 守而勿失、 載其淨、 民以寧壹。 五年、曹參卒。 六年、王陵、爲右丞相、陳平爲左丞相。張良卒。周勃爲太尉。 二年、蕭何卒す。齊の相曹參、舎人をして趣(すみや)かに装を為さしむ。吾且(まさ)に入って相たらんとす、と。使者果たして参を召す。何に代って相国と為り、一(いつ)に何の約束に遵(したが)う。百姓(ひゃくせい)之を歌って曰く、 蕭何、相(しょう)と為り、 較(こう)として一を画(かく)するが若(ごと)し 曹参之に代り、 守って失うこと勿(な)く 載(こと)其れ清浄にして、 民以って寧壱(ねいいつ)なり 五年、曹参卒す。 六年、王陵、右丞相と為り、陳平、左丞相と為る。張良卒す。周勃、太尉と為る。 恵帝の二年に蕭何が死んだ。この時斉の大臣の曹参は、召使いに急いで旅装を命じた。そして自分はこれから朝廷に入って宰相になるのだといったが、果たしてその通り、使者が来て曹参を召した。入朝した曹参は蕭何に代って宰相になり、蕭何のとりきめに従った。人々はこれを讃えて歌って言うには、 蕭何さまの、まつりごと、その法すっきり一の文字 曹参さまがひきついで、なに変わることなきありがたさ すべてが清廉潔白で、おかげでわしらは安泰じゃ 五年にその曹参が死んだ。 六年に王陵が右丞相となり、陳平が左丞相となった。 同年張良が死に、周勃が太尉となった。 十八史略 劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て 2010-05-07 11 22 11 | 十八史略 太后、朝に臨み制を称す 帝在位七年崩。無子。呂太后、取他人子、以爲太子。至是即位。太后臨朝稱制。 元年、太后議立諸呂爲王。王陵曰、高帝刑白馬、盟曰、非劉氏而王、天下共撃之。平・勃以爲可。陵罷相。遂王呂氏。 四年、太后廢少帝幽殺之、立恆山王義爲帝。改名弘。亦名佗人子、爲惠帝子者也。 帝、位に在ること七年にして崩ず。子無し。呂太后、他人の子を取って、以って太子と為す。是(ここ)に至って位に即(つ)く。太后、朝に臨み制を称す。 元年、太后、諸呂を立てて王と為さんと議す。王陵曰く、高帝、白馬を刑(けい)し、盟(ちか)って曰く、劉氏に非ずして王たらば、天下共に之を撃て、と。平・勃以って可と為す。陵、相を罷(や)む。遂に呂氏を王とす。 四年、太后、少帝を廃して之を幽殺し、恒山王、義を立てて帝と為す。名を弘(こう)と改む。亦佗人の子を名づけて、恵帝の子と為しし者なり。 恵帝は在位七年で崩御した。帝に子は無かった。呂太后は他人の子を奪って太子としていたが、恵帝が亡くなったので、この太子が位についた(少帝恭という)そして呂太后は朝廷にあって自身の命令を制と称して天子のみことのりと同列にしてしまった。 少帝の元年、太后が一族の呂氏の面々を王に就かせようと朝議に諮った。右丞相王陵が敢然と「高祖皇帝は白馬をいけにえに捧げて、わが劉氏でない者が王となったなら、天下こぞってこれを撃つべしと、盟いを立てられました」と反対した。しかし陳平と周勃が賛成したので王陵は宰相を辞め、結局呂氏が王になった。 四年、呂后は少帝を廃して幽閉したうえで殺し、恒山王の義を立て名を弘と改めて帝とした(少帝弘)。これも他人の子を恵帝の子としておいたものである。 白馬を刑し 刑は殺すこと、いけにえにしてその血をすすって誓いをたてる。 少帝を廃し 呂后は太子恭の実母を殺して奪った。それを知った少帝が呂后を恨むようになったからという。 十八史略 朕は献を受けざるなり 2010-05-13 10 41 25 | 十八史略 孝文皇帝名恆、母薄氏。夢龍據胸、遂生帝。帝立、尊爲皇太后。 元年、陳平爲左丞相、周勃爲右丞相。 時有獻千里馬者。帝曰、鸞旗在前、屬車在後、吉行日五十里、師行日三十里。朕乗千里馬、獨先安之。於是還其馬、與道里費、而下詔曰、朕不受獻也。其令四方毋來獻。 孝文皇帝名は恒(こう)、母は薄氏(はくし)なり。龍胸に拠(よ)ると夢みて、遂に帝を生む。帝立ち、尊んで皇太后と為す。 元年、陳平左丞相と為り、周勃右丞相と為る。 時に千里の馬を献ずる者有り。帝曰く、鸞旗(らんき)前に在り、属車後ろに在って、吉行(きっこう)には日に五十里、師行には日に三十里なり。朕、千里の馬に乗るとも、独り先だって安(いづ)くにか之(ゆ)かん、と。是(ここ)に於いて其の馬を還(かえ)し、道里の費を与え、而(しか)して詔(みことのり)を下して曰く、朕は献を受けざるなり。其れ四方をして来献すること毋(な)からしめよ、と。 孝文皇帝名は恒といい、母は薄氏である。龍が胸に棲む夢をみて身ごもり、文帝を生んだ。帝は位につくと、母をうやまって皇太后と称した。 元年に、陳平は左丞相となり、周勃が右丞相となった。 ときに、一日に千里をも走るという名馬を献上する者がいた。しかし文帝は「天子の旗を前に、供奉(ぐぶ)の車を従えて、巡狩(じゅんしゅ)には一日五十里、征伐のときには一日三十里進む決まりであるのに、千里の馬に乗ったところでわし一人が一体どこに行こうというのか」と言った。そこでその馬と道中の費用を渡して返した。そうしてみことのりを下した。「朕は一切献上を受けぬ、国中に来献することの無いようはからえ」と。 鸞旗 天子の旗、鸞は瑞鳥で鳳凰に似る。 吉行 狩など、平和の時に出かける。師行の師はいくさ 十八史略 惶愧して汗出で背を沾す 2010-05-18 09 46 26 | 十八史略 周勃職を免ぜらる 帝明修國家事。朝而問右丞相勃曰、天下一歳決獄幾何。勃謝不知。又問、一歳錢穀出入幾何。勃又謝不知。惶愧汗出沾背。上問左丞相平。平曰、有主者。即問決獄責廷尉。問錢穀責治粟内史。上曰、君所主者何事。平謝曰、陛下使待罪宰相。宰相者、上佐天子、理陰陽、順四時、下遂萬物の宜、外鎭撫四夷、内親附百姓、使卿大夫各得其職焉。帝稱善。勃大慚、謝病免。 帝益々国家の事を明修す。朝(ちょう)にて右丞相勃に問うて曰く、天下一歳の決獄(けつごく)幾何(いくばく)ぞ、と。勃知らずと謝す。又問う、一歳の銭穀の出入幾何ぞ、と。勃又知らずと謝す。惶愧(こうき)して汗出で背を沾(うるお)す。上(しょう)、左丞相平に問う。平曰く、主者(しゅしゃ)有り。即(も)し決獄を問うには廷尉を責められよ。銭穀を問うには治粟内史(ちぞくないし)を責められよ、と。上曰く、君の主(つかさど)る所の者は何事ぞ、と。平、謝して曰く、陛下、罪を宰相に待たしむ。宰相は、上(かみ)、天子を佐(たす)け、陰陽を理し、四時(しじ)を順にし、下(しも)万物の宜(よろ)しきを遂げ、外、四夷(しい)を鎮撫し、内、百姓(ひゃくせい)を親附(しんぷ)し、卿大夫をして各々其の職を得しむるものなり、と。帝、善しと称す。勃大いに慚(は)じ、病と謝して免ぜらる。 文帝は益々国のまつりごとに通暁しようと務めた。ある時、朝廷で右丞相の周勃に下問した。「一年に裁判の数はいかほどか」と。周勃は「存じません」と恐縮して答えた。帝は又、「一年に金銭・穀物の出入りはいかほどか」と問うた。周勃は又「存じません」と答えたが、恐れ恥じ入って冷や汗で背中がぐっしょりになった。帝は左丞相の陳平に同じことを問うた。陳平が答えて「それぞれ管掌というものがあります。裁判についてのご下問は廷尉に糺して下さい。また金銭、穀物のことは治粟内史にお尋ねください」と言った。帝は「それではそちは何を司っておるのか」と訊くと、陳平は「私は宰相として至りませず、陛下から罰せられるのを待っている身でありますが、そもそも宰相の職務は上は天子を補佐し、陰陽を整え、春夏秋冬を順調ならしめ、下は万物のよろしきを得て、外は四方の蛮夷を鎮め、内は人民を親しみなつかせ、卿大夫にはそれぞれふさわしい職務を得させること、でございます」と申し上げた。帝は「もっともである」といわれた。周勃は大いに恥じいって、病と申し出て、職を免ぜられた。 決獄 嫌疑のある事件を決裁すること。 惶愧 惶はおそれる、愧ははじる。 廷尉 裁判を掌る長官。 治粟内史 銭穀を掌る長官。 陛下、罪を宰相に待たしむ 宰相の重責ありながら何の功績もなく、ただ陛下から罪の来るのを待っているの意、宰相の謙辞。 陰陽を理し、四時を順にし 正しく政治を行えば天変地異が無く、四時が順調に推移するという思想があったから。 十八史略 廷尉は天下の平なり 2010-05-20 08 16 47 | 十八史略 河南守呉公、治平爲天下第一。召爲廷尉。呉公薦洛陽人賈誼。年二十餘。一歳中、超遷爲大中大夫。 陳平卒。 二年、賜天下今年田租之半。 三年、張釋之爲廷尉。上行中渭橋。有一人、橋下走。乘輿馬驚。捕屬廷尉。釋之奏、犯蹕當罰金。上怒。釋之曰、法如是。更重之、是法不信於民。廷尉天下之平也。一傾、天下用法、皆爲之輕重。民安所措手足乎。上良久曰、廷尉當、是也。 河南の守(しゅ)呉公、治平天下第一たり。召して廷尉と為す。呉公、洛陽の人賈誼(かぎ)を薦(すす)む。年二十余。一歳のうち、超遷(ちょうせん)して大中大夫と為る。 陳平、卒す。 二年、天下に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 三年、張釋之(ちょうせきし)廷尉と為る。上(しょう)中渭橋(ちゅういきょう)を行く。一人(いちにん)有り、橋下より走る。乗輿(じょうよ)の馬驚く。捕えて廷尉に属す。釈之奏す、蹕(ひつ)を犯すは罰金に当(とう)す、と。上怒る。釈之曰く、法是(かく)の如し。更に之を重くせば、是れ法、民に信ならず。廷尉は天下の平なり。一たび傾かば、天下法を用うるもの、皆之が為に軽重(けいじゅう)せん。民安(いづ)くにか手足(しゅそく)を措(お)く所あらんや、と。上、良々(やや)久しうして曰く、廷尉の当、是なり、と。 河南の大守呉公は、政治の公平なこと天下第一であったので召して廷尉とした。呉公は洛陽の人賈誼を推薦した。賈誼はその時二十歳あまりであったが、一年のうちに、一足飛びに出世して大中大夫となった。 この年、陳平が死んだ。 文帝の二年、天下中に今年の年貢の半分が免除された。 三年、張釋之が廷尉になった。ある日、文帝が中渭橋を通りかかると、橋の下から走り出した者がいて、帝の馬が驚いて棹立ちになった。すぐさま捕えて廷尉に引き渡した。釈之が「行幸を騒がせたのは罰金に相当いたします」と奏上した。帝は処分の軽さに立腹したが、釈之はひるまず「法ではそのように決まっております。もしこれより重く致しますと、法が民に信用されなくなります。廷尉の職は天下の公平を司ることにあります。一たび傾きますと天下の法に携わる者が、これにならって、勝手に軽重を決めるでしょう。そうなれば民はどうして手足を伸ばせましょうか」と申し上げた。帝はしばらく思案の後、口を開いた「廷尉の処置はもっともである」と。 超遷 飛び越えて昇進すること。 大中大夫 論議を掌る官。 蹕 天子の行列のさきばらい、行きは警といい、帰りを蹕という。 十八史略 一尺の布も尚縫うべし 2010-05-25 16 27 10 | 十八史略 六年、淮南王長謀反、廢徙死。民有歌之者。曰、一尺布尚可縫。一斗粟尚可舂。兄弟二人不相容。帝聞而病之、後封其四子爲侯。 匈奴冒頓死。 先是、上議以賈誼位公卿。大臣多短之。上以爲長沙王大傅。徙梁王大傅。上疏曰、方今時埶、可爲痛哭者一。可爲流涕者二。可爲長大息者六。 十年、帝舅薄昭、殺漢使者。帝不忍誅、使公卿羣臣往哭之。昭自殺。 六年、淮南(わいなん)の王(れいおう)長、謀反(ぼうはん)し、廃徒(はいし)せられて死す。民之を歌う者あり、曰く、 一尺(せき)の布も尚縫うべし。 一斗の粟(ぞく)もなお舂(うすづ)くべし。 兄弟(けいてい)二人(ににん)相容れず。と 帝聞いて之を病(うれ)え、後其の四子(しし)を封(ほう)じて侯と為せり。 匈奴の冒頓(ぼくとつ)死す。 是より先、上(しょう)、賈誼(かぎ)を以って公卿(こうきょう)に位せしめんと議す。大臣多く之を短(そし)る。上以って長沙王の大傅(たいふ)と為す。梁王の大傅に徒(うつ)る。上疏(じょうそ)して曰く、方今(ほうこん)の時埶(じせい)、為(ため)に痛哭すべき者一。為に流涕すべき者二。為に長大息すべき者六あり、と。 十年、帝の舅(きゅう)薄昭、漢の使者を殺す。帝、誅するに忍びず、公卿羣臣をして往(ゆ)いて之を哭せしむ。昭自殺す。 六年に文帝の弟で淮南の王(れいおう)長が謀反を企てたが発覚して、王位を廃され、他所に移される途中で死んだ。痛ましく思った民の歌が広まった。 わずかな布も縫って仲良く着られる。僅かな粟も搗いて一緒に食べられる。なのにどうして兄弟二人許し合えぬ。 文帝はこの歌を聞いてひどく気に病み、王の四人の遺児を侯に封じた。 この年、匈奴の冒頓が死んだ。 これより以前、帝は賈誼を公卿に取り立てようと朝議にかけたが、大臣の多くは短所をあげて非難した。そのため帝は賈誼を長沙王の大傅にしたが、間もなく梁王の大傅に移した。ある時、賈誼は上疏して「現今の時勢を見ますに、悲しみ嘆くべきものが一つ、涙を流すべきものが二つ、ため息をつくものが六つあります。」と申しあげた。 十年に、文帝の叔父の薄昭が朝廷の使者を殺した。帝は薄昭を誅殺するに忍びず公卿、群臣を薄昭の邸で使者の死を悲しみ泣かせた。薄昭は罪が軽くないことを悟って自殺した。 大傅 王を補佐、養育する役。 上疏 天子に奉る意見書 一尺の布・・・頼山陽の静御前の詩にみえる 十八史略 以って父の刑を贖(あがな)わしめよ 2010-05-29 15 48 09 | 十八史略 十二年、賜民今年田租半。 十三年、太倉令淳于意、有罪當刑。少女緹縈上書曰、死者不可復生。刑者不可復屬、願没入爲官婢、以贖父刑。上憐其意、詔除肉刑。 是歳、除田租税 十六年、方士新垣平爲上大夫。 後元年、平以詐伏誅。 十二年、民に今年の田租(でんそ)の半ばを賜う。 十三年、太倉の令淳于意(じゅんうい)、罪有って刑に当る。少女緹縈(ていえい)上書して曰く、死者は復(また)生く可からず。刑者は復属す可からず、願わくは没入して官婢と為し、以って父の刑を贖(あがな)わしめよ、と。上(しょう)其の意を憐れみ、詔(みことのり)して肉刑を除く。 十六年、方士新垣平(しんえんぺい)上大夫と為る。 後の元年、平、詐(さ)を以って誅に伏す。 十二年、民に今年の田租の半分を免除した。 十三年、太倉令の淳于意が肉体の一部を切る肉刑に相当する罪を犯した。娘の緹縈が上書して言うには「死んだ者は生き返りません、肉体を切られた者は再び元に戻せません。どうか私の身体をお取り上げになって召使にすることで、父の刑をあがなうことをお許し下さい」と。帝は少女の心根を憐れみ、詔を下して以後肉刑を廃止した。 十六年、方士の新垣平なる者が一計を案じて上大夫となった。 のちの元年、新垣平のいつわりが露見して殺された。 太倉の令 朝廷の米倉を管理する長官。 肉刑 刺青、鼻そぎ、足切、宮刑など。 方士 仙術を行う者。 後の元年 新垣平の計略によって瑞兆が顕われたことを喜んだ文帝が十七年を後の元年とした。 十八史略 覇上・棘門の軍は児戯のみ 2010-06-01 10 10 51 | 十八史略 将軍の令を聞いて天子の詔を聞かず 六年、匈奴寇上郡・雲中。詔將軍周亞夫屯細柳、劉禮次覇上、徐次棘門、以備胡。上自勞軍、至覇上及棘門軍、直馳入。大將以下騎送迎。已而之細柳。不得入。先驅曰、天子且至軍門。都尉曰、軍中聞將軍令、不聞天子詔。上乃使使持節、詔將軍亞夫。乃傳言開門。門士請車騎曰、將軍約、軍中不得驅馳。上乃按轡、徐行至營、成禮去。羣臣皆驚。上曰、嗟乎、此眞將軍矣。向者覇上・棘門軍兒戲耳。 六年、匈奴、上郡・雲中に寇(あだ)す。詔(みことのり)して将軍周亜夫は細柳に屯(とん)し、劉禮(りゅうれい)は覇上(はじょう)に次し、徐(じょれい)は棘門(きょくもん)に次し、以って胡(こ)に備えしむ。上(しょう)自ら軍を労し、覇上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せて入(い)る。大将以下、騎して送迎す。已(すで)にして細柳に之(ゆ)く。入るを得ず。先駆曰く、天子且(まさ)に軍門に至らんとす、と。都尉曰く、軍中には将軍の令を聞いて、天子の詔を聞かず、と。上、乃(すなわ)ち使いをして節を持して、将軍亜夫に詔(みことのり)せしむ。乃ち言を伝えて門を開かしむ。門士、車騎に請うて曰く、将軍約す、軍中は駆馳(くち)するを得ず、と。上、乃ち轡(ひ)を按(あん)じ、徐行して営に至り、礼を成して去る。群臣皆驚く。上曰く、嗟乎(ああ)此れ真の将軍なり。向者(さき)の覇上・棘門の軍は児戯のみ、と。 文帝の後の六年に匈奴が上郡や雲中を侵した。文帝は詔を下して、将軍の周亜夫は細柳に駐屯し、劉禮は覇上に、徐は棘門に宿営して匈奴に備えさせた。文帝は自ら軍隊を労(ねぎら)うため覇上と棘門に赴いた。馬車を走らせて門内に駆け入ると、大将以下、騎馬で送迎した。その後細柳に行くと門を入ることが出来ない。先駆の者が「天子さまがお着きになる開門せよ」と言うと、門を守る将校が言うには「軍中では将軍の命令を聞くのみで天子さまの詔とて聞くわけにはまいりませぬ」と。帝は天子の使いの旗印を持たせて、周亜夫に詔を伝えさせた。そして将軍の命によって門を開かせたが、衛士が帝の警護の騎士に「軍中は車馬を走らせないと将軍に約束しております」と言った。帝の車は手綱を引きしめて徐行して将軍の軍営に至り、ねぎらいの挨拶をすませて引きあげた。群臣は皆あきれたが、帝はすっかり感服して、「これこそ真の将軍である。先の覇上や棘門の軍など、子どもの遊びみたいなものだ」と言った。 寇 倭寇、元寇の寇、領土を侵すこと。上郡 陜西省の地名。 雲中 山西省の地名。周亞夫 周勃の子。 細柳・覇上・棘門 陜西省の地名長安近郊。 屯・次 ともに留まって守備をすること。 且に 将に同じ、再読文字「まさに・・・す」と読む。 轡(ひ)を按(あん)じ くつわを引いて馬をおさえること。 向者 二字でさきと読む向は以前のこと、者は「・・・は」覇上と棘門を指す 十八史略 風流篤厚 2010-06-03 18 01 50 | 十八史略 文帝崩ず 七年帝崩。在位二十三年。宮室苑囿、車騎服御、無所。嘗欲作露臺、召匠計之。直百金。上曰、中人十家之産也。何以臺爲。身衣弋綈、所幸愼夫人、衣不曳地。示朴爲天下先。呉王不朝、賜以几杖、張武受賂金錢、更加賞賜、以愧其心。専以化民。當時公卿大夫、風流篤厚、恥言人過、上下成俗。是以海内安寧、家給人足、後世莫能及。葬覇陵。太子即位。是爲孝景皇帝。 七年、帝崩ず。位に在ること二十三年。宮室苑囿(えんゆう)、車騎服御(ふくぎょ)、増益する所無し。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計らしむ。値百金なり。上(しょう)曰く、中人十家の産なり。何ぞ台を以って為さん、と。身に弋綈(よくてい)を衣(き)、幸(こう)するところの慎夫人も衣、地に曳(ひ)かず。朴を示して天下の先(せん)と為る。呉王、朝せざれば、賜うに几杖(きじょう)を以ってし、張武、賂(まいない)の金銭を受くれば、更に賞賜(しょうし)を加えて、以って其の心に愧(は)ぢしむ。専ら徳を以って民を化す。当時の公卿大夫(こうけいたいふ)、風流篤厚(とくこう)にして、人の過ちを言うを恥ぢ、上下(しょうか)徳を成す。是(ここ)を以って、海内安寧(かいだいあんねい)にして、家々給し、人々足り、後世能(よ)く及ぶ莫(な)し。覇陵に葬る。太子位に即(つ)く。是を孝景皇帝と為す。 後の七年に文帝が崩じた。在位二十三年、宮殿、庭園、車馬、衣服など新たに増やしたものが無かった。ある時露台を造ろうと思い立って大工を呼んで見積らせたところ百金かかるとのこと、文帝は「中流の家の財産十軒分ではないか、どうして露台など造られようか」と言って止めた。身には黒いつむぎを着、寵愛していた慎夫人にも裾を引きずるような華美な衣装は着せず、率先して天下に質素を示した。呉王の濞(び)が病いを理由に朝廷に参内しないと、脇息と杖を下賜した。また張武が賄賂を受けたと知ると、褒賞の金を与えて自ら羞じ入るように仕向けた。このように徳を以って民衆を教化したので、当時の公卿大夫たちは、上品で温厚であり、人の過失をあげつらうことを恥とし、それが上にも下にも行き渡った。こうして国じゅうが安らかで、どの家も不自由なく、どの人も満ち足りて、後の世の及ぶところではなかった。覇陵に葬られた。 太子が位についた。これを孝景皇帝(景帝)という。 弋綈 弋はくろい、綈は太い糸で織った絹、質素な衣服の形容。 幸する 寵愛する。 風流篤厚 先人の遺風によって後の人が奥ゆかしく誠実になること 十八史略 孝景皇帝 2010-06-05 09 30 46 | 十八史略 孝景皇帝名啓。即位元年、丞相申屠嘉奏、功莫大於高皇帝、宜爲帝者太祖之廟。莫盛於孝文皇帝、宜爲帝者太宗之廟。制曰、可。 帝爲太子時、鼂錯爲家令、得幸。太子家、號爲智嚢。帝即位。錯爲内史、數請 言事。輒聽寵傾九卿。法令多所更定。 初孝文時、呉王濞太子入見、得侍皇太子飮。博爭道不恭。皇太子引博局提殺之。濞稱疾不朝。錯數言呉過可削。文帝不忍。 孝景皇帝、名は啓。即位の元年、丞相申屠嘉(しんとか)奏すらく、功は高皇帝より大なるは莫(な)し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし。徳は孝文皇帝より盛んなるは莫し、宜しく帝者太祖の廟と為すべし、と。制して曰く、可なり、と。 帝、太子たりし時、鼂錯(ちょうそ)家令と為り、幸を得たり。太子の家、号して智嚢と為す。帝、位に即く。錯内史(だいし)と為り、数々(しばしば)間(かん)を請うて事を言う。輒(すなわ)ち聴かれ、寵(ちょう)九卿を傾く。法令更定(こうてい)する所多し。 初め孝文の時、呉王濞(び)の太子入見(にゅうけん)す。皇太子に侍して飲むを得たり。博して道を争い不恭(ふきょう)なり。皇太子博局(はくきょく)を引いて之を提殺(ていさつ)す。濞、疾(やまい)と称して朝せず。錯数しば呉の過ちて削るべきを言う。文帝忍びず 十八史略 孝景皇帝 2010-06-08 08 33 24 | 十八史略 孝景皇帝、名は啓という。即位の元年に丞相の申屠嘉が「漢室を振り返ってみるに、功績は高皇帝より大きいことはありません。ですから漢の太祖の廟として祀るべきです。徳は孝文皇帝より盛大なことはありません。ですから漢の太宗の廟として祀るべきです」と上奏した。景帝はこれを裁可した。 景帝がまだ皇太子であった時、鼂錯は家令として気に入られ、皇太子の宮殿では「ちえ袋」と呼ばれていた。即位すると鼂錯は内史となり、しばしば時間を割いて頂きたいと申し出て、意見を言上したがその度ごとに採用された。寵愛は九人の大臣を圧倒するほどで、法令も錯によって、改定されたものが多くあった。 以前、文帝の時代に呉王濞の太子が入朝して謁見し、皇太子であった景帝の酒の相手を許された。そのとき、すごろくの賭けをしていて駒の道のことで争いになり、譲ろうとしない呉の太子に対して、皇太子はすごろく盤を投げつけて殺してしまった。呉王はそれ以来病気と称して入朝しなくなった。鼂錯はしばしば呉の過ちを言い立てて領地の削減を進言したが、文帝は踏み切るに忍びなかった。 内史 京師を治める官。 九卿 中枢の九つの官の長。 博 すごろくバクチ。 提殺 提はなげうつ 十八史略 呉楚七国の乱 2010-06-10 08 26 59 | 十八史略 及帝即位、錯曰、呉王誘天下亡人、謀作亂。今削之亦反、不削亦反。削之反亟禍小。不削反遅禍大。上令公卿・列侯・宗室雜議。莫敢難。鼂錯又言、楚・趙・有罪。削一郡。膠西有姦。削六縣。及削呉會稽・豫章書至、呉王遂反。膠西・膠東・し川・濟南・楚・趙、皆先有呉約。至是同反。齊王先諾後悔。 帝の位に即くに及び、錯曰く、呉王、天下の亡人を誘(いざな)うて乱を作(な)さんことを謀る。今之を削るも亦反し、削らざるも亦反せん。之を削れば反すること亟(すみや)かにして禍(わざわい)小なり。削らずんば反すること遅くして禍大ならん、と。上、公卿(こうけい)・列侯・宗室をして雑議せしむ。敢えて難ずるもの莫(な)し。鼂錯(ちょうそ)又言う、楚・趙、罪有りと。一郡を削る。膠西(こうせい)姦(かん)有りと六県を削る。呉の会稽・予章を削るの書至るに及んで、呉王遂に反す。膠西・膠東・菑川( しせん)・濟南・楚・趙、皆先に呉の約有り。是(ここ)に至って同じく反す。齊王、さきに諾してのちに悔ゆ。 景帝が位につかれると、鼂錯が「呉王、天下のお尋ね者を誘い入れて謀反を起こそうとしております今その領地を削っても謀反するし、削らなくとも謀反します。削れば早く謀反しますが禍は小さくてすみます。しかし、削らなければ謀反は遅くなりますが、禍は大きくなりましょう」と申し上げた。そこで帝は、大臣、諸侯、皇族を集めて論議をさせたが、敢えて反対する者は無かった。さらに、鼂錯は言う、「楚も趙にも罪があります。と奏上したので、それぞれ一郡を削った。鼂錯は又、膠西王にも不正な行いがありますと奏上したので六県を取り上げた。呉から会稽・予章の二郡を削るとの命令書が呉に到着すると、呉王は遂に謀反を決意した。膠西・膠東・菑川(しせん)・濟南・楚・趙の国々も以前から盟約があったので、同じく謀反した。(呉楚七国の乱という)。ただし斉王だけは盟に加わっていたが、のちに悔いて謀反に加担しなかった。 十八史略 周亜夫、血を吐きて死す。 2010-06-12 14 18 58 | 十八史略 初文帝且崩、戒太子曰、即有緩急、周亞夫眞可任將。及七國反、拝亞夫太尉、將三十六將軍、往撃呉・楚。鼂錯素與袁盎不善。盎言、獨有斬錯復諸侯故地、兵可無血刃而罷。錯於是要斬東市。父母・妻子・同産、無少長皆棄市。周亞夫大破呉・楚。諸反皆平。亞夫後爲相、封條侯。以諌忤上意、罷。上曰、此鞅鞅、非少主臣、卒爲人誣告、下獄。歐血死。 初め文帝、且(まさ)に崩ぜんとし、太子を戒めて曰く、即(も)し緩急有らば、周亜夫、真に将に任ず可し、と。七国反するに及び、亜夫を太尉に拝し、三十六将軍に将として、往(ゆ)いて呉・楚を撃たしむ。 鼂錯(ちょうそ)、素(もと)より袁盎(えんおう)と善からず。盎言う、独り錯を斬って諸侯の故地を復する有らば、兵、刃に血ぬること無くして罷(や)むべし、と。錯、是(ここ)に於いて東市に要斬せらる。父母・妻子・同産、少長と無く皆棄市せらる。周亜夫、大いに呉・楚を破る。諸反、皆平らぐ。亜夫後に相と為り、條侯に封(ほう)ぜらる。諫(かん)を以って上(しょう)の意に忤(さか)らい罷(や)む。上曰く、此の鞅鞅(おうおう)たるもの、少主の臣に非ず、と。卒(つい)に誣告(ぶこく)せられて、獄に下る。血を歐(は)いて死す。 緩急 危急の場合 太尉 軍事の長官、丞相に次ぐ位。 要斬 腰斬に同じ、腰斬りの刑罰。 同産 兄弟。 棄市 斬首のうえ屍骸をさらす刑罰。 鞅鞅 楽しまない様子。 少主 幼少の主君、皇太子のこと 以前、文帝は崩御する間際、太子(景帝)を呼んで「もし国家存亡の危機に陥ったときは、周亜夫こそ頼むに足る将であるから心しておくように」と言い遺した。それで七国の乱に際して周亜夫を三十六将を束ねる総大将に任命して、呉楚征伐に向わせた。 ところで、鼂錯と袁盎はもともと仲が良くなかった。袁盎は「鼂錯を斬って、取り上げ削った郡県を返してやれば、何も戦争する必要などありましょうか」と奏上した。そこで鼂錯を長安の東市で腰斬りの刑で殺し、父母・妻子・兄弟幼老の別なく斬首して東市にさらされた。 一方、周亜夫は呉・楚を存分に破ったので、他の五国も平定された。凱旋した周亜夫は宰相となり條侯に封ぜらたが、諫言して帝の意向に逆らったため、罷免させられた。景帝は亜夫の不満げな様子をみて、「将来我が皇太子の家臣としておくのは良くないようだ」ともらした。やがてある者に讒言せられて獄に入れられ、憤慨して血を吐いて死んだ 十八史略 2010-06-15 08 32 52 | 十八史略 自漢興、掃除繁苛、與民休息。孝文加以恭儉。至帝遵業、五六十載之、移風易俗、黎民醇厚、國家無事。人給家足、都鄙廩庾皆満。而府庫餘貲財、京師之錢累鉅萬、貫朽而不可校。太倉之粟、陳陳相因、充溢露積於外、紅腐不可勝食。 漢興ってより、繁苛を掃除(そうじょ)し、民と休息す。孝文加うるに恭倹を以ってす。帝業に遵(したが)うに至って、五六十載の間、風を移し、俗を易(か)え、 黎民(れいみん)醇厚(じゅんこう)にして、国家無事なり。人々給し家々足り、都鄙(とひ)の廩庾(りんゆ)皆満つ。而して府庫に貲財(しざい)を余し、京師(けいし)の銭、鉅萬(きょまん)を累(かさ)ね、貫朽ちて校す可からず。太倉の粟(ぞく)、陳陳相因(よ)り、充溢して外に露積(ろし)し、紅腐して食(くら)うに勝(た)う可からず。 漢が興ってから、わずらわしい法令をすべて除き去り、人民と共に休息するようにした。その上、孝文帝は身を慎み、倹約を守った。景帝がその業を継ぐに至る五六十年の間に天下の風俗は改まり、人民は情厚く、国家は泰平無事であった。人々は不自由せず、家々は満ち足りて、みやこも地方も米倉は満杯で、役所の庫には財貨が有り余った。みやこに集まる銭は何億にものぼり、銭さしの縄が腐って数えることさえ出来ぬほどであった。穀倉には古い米の上に古い米が積まれ、倉からはみ出して外にむき出しで積んであり、変色し腐って、食べることも出来ぬようになった。つづく 黎民 黎は黒、一般人は冠をつけず、黒髪をむき出しているのでいう。 廩庾 米倉、屋根のあるのが廩、囲いだけのが庾。 貫 銭にさし通して束ねる縄。 校す 数え調べること。 貲財 貲は資に同じ。 太倉 国の米倉 十八史略 物盛んにして衰うる 2010-06-17 08 42 38 | 十八史略 爲吏者長子孫、居官者以爲姓號。故有倉氏・庫氏。人人自愛、而重犯法。然罔疏民富、或至驕溢。兼并之徒、武斷郷曲。宗室有土、公卿以下、奢侈無度。物盛而衰、固其變也。帝崩。在位一十七年、有中元・後元。太子立。是爲世宗孝武皇帝。 吏となる者は子孫を長じ、官に居る者は以って姓号となす。故に倉氏・庫氏あり。人々自愛して、法を犯すを重(はばか)る。然れども罔(もう) 疏(そ)に、民富み、或いは驕溢(きょういつ)に至る。兼并(けんぺい)の徒、郷曲(きょうきょく)に武断(ぶだん)し、宗室有土、公卿以下、奢侈度無し。物盛んにして衰うる、固(もと)よりその変なり。 帝崩ず。在位一十七年、中元・後元有り。太子立つ。是を世宗孝武皇帝となす。 官吏と名がつく者はその禄によって子や孫まで養育し、官職にあるものはその官職を姓として名乗る者まであらわれた。倉氏、庫氏のごときである。人々はそれぞれ自分の身を大切にして、法を犯さぬよう心がけた。けれども法がゆるみ、民にゆとりができると、中には驕りに耽る者、貧しい者から田畑を買い占めた富豪が、村里を勝手に処分した者もあらわれた。皇族、諸侯、大臣以下、はてしなく奢侈に耽ったのである。 すべて繁栄を極めれば必ず衰えるということは、自然の変化である。 景帝が崩じた。在位十七年、その間に中元と後元と二度元年と称したものがあった。皇太子が即位した、世宗孝武皇帝(武帝)という。 重 おそれる、はばかるの意がある。 罔 網、法の網。 疏 まばら。 驕溢 驕りたかぶって分に過ぎること。 兼并 兼併、併せて一つにすること、人の土地や財産をうばって自分のものに併せる。 郷曲 むらざと、曲はかたよった所の意。武断 武力によって処置すること。 十八史略 始めて改元して建元という 2010-06-19 08 05 52 | 十八史略 孝武皇帝、名徹。即位之元年、始改元曰建元。年有號始此。 擧賢良・方正・直言・極諫之士、親策問之。廣川董仲舒對曰、事在強勉而已矣。強勉學問、則聞見博、而智明。強勉行道、則日起、而大有功。 孝武皇帝、名は徹。即位の元年、始めて改元して建元という。年に号あるは此(ここ)に始まる。 賢良・方正・直言・極諫(きょくかん)の士を挙げ、親(みづか)ら之を策問す。広川の董仲舒(とうちゅうじょ)の対(たい)に曰く、事は強勉に在るのみ。強勉して学問すれば、則(すなは)ち聞見博(ひろ)くして、智益々明らかなり。強勉して道を行えば、則ち徳日に起こって、大いに功有り、と。 孝武皇帝、名は徹という。即位の元年、始めて年号を改めて建元と称した。年号はここに始まった。 武帝は賢良・方正・直言・極諫の四科を設け、すぐれた人物を挙げ、帝自ら試問をおこなった。広川(河北省)の董仲舒の答案にこうあった。「何事も、努め励むことが第一であります。努め励んで学問すれば、見聞が広くなり、智慧が益々明らかになります。また勉強して人の人たる道を行えば、徳が日に日に盛んになって、たいそう世に功績をあげます」と。 十八史略 董仲舒の対 2010-06-22 17 56 07 | 十八史略 又曰、人君者、正心以正朝廷、正朝廷以正百官、正百官以正萬民、正萬民以正四方。正四方、遠近莫不一於正、而無邪奸其。是以陰陽調、風雨時、羣生和、萬民殖、諸福之物、可致之、莫不畢至、而王道終矣。 又曰く、人君(じんくん)は、心を正しうして以って朝廷を正しうし、朝廷を正しうして以って百官を正しうし、百官を正しうして以って万民を正しうし、万民を正しうして以って四方を正しうす。四方正しければ、遠近、正(せい)に一(いつ)ならざる莫(な)く、而(しか)して邪気の其の間に奸する無し。是(ここ)を以って、陰陽調い、風雨時あり、群生和し、万民殖し、諸福の物、致す可きの祥、畢(ことごと)く至らざる莫(な)く、而(しか)して王道終る。 また言う「人に君たる者は、まずみずから心を正しくして、それによって朝廷の重臣の心を正しくし、朝廷の重臣の心を正しくしてそれによって、天下の百官の心を正しくし、百官の心を正しくして、それによって万民の心を正くし、それによって四方の夷狄(いてき)を正しくすることができるのであります。夷狄まで正しくなりますと、遠近を問わず正道に一致しないものはなく、それゆえ邪気が侵入する余地が無くなります。そこで陰陽がよく調和し、風雨もその時々に生じ、すべての生物は相和らぎ、万民も増え栄えて、多くの福を招き寄せる瑞祥がことごとく集まってまいります。かくて王道が完全に実現するのであります。 つづく 極諫 主君に対して意見する人。 策問 策は竹の札、官吏登用試験に試問すること。 董仲舒 前漢の儒官。 対 答えること。 邪気 天候不順や天変地異。 奸する 侵し入ること。 十八史略 董仲舒の対 2 2010-06-24 17 29 44 | 十八史略 今日、半夏生をみつけました。暦の半夏生は7月2日で夏至から11日目となっていますが、花の半夏生は葉っぱの1枚だけやっと白化粧していました。ところで暦の半夏生は半夏が生ずる季節で、半夏生はドクダミ科、半夏はサトイモ科でカラスビシャクとも言い漢方薬になるそうです。 十八史略董仲舒の続きです。 陛下行高而恩厚、知明而意美、愛民而好士。然而教化不立、萬民不正。譬琴瑟不調甚者、必解而更張之、乃可鼔也。爲政而不行甚者、必変而更化之、乃可理也。漢得天下以來、常欲治、而至今不可善治者、當更化而不更化也。 陛下、行い高くして恩厚く、智明らかにして意(い)美に、民を愛して士を好む。然而(しかる)に、教化立たず、萬民正しからず。譬(たと)えば、琴瑟の調わざること甚だしきものは、必ず解(と)いて之を更張(こうちょう)すれば、乃(すなわ)ち鼔(こ)すべきなり。政(まつりごと)を為して行われざること甚だしきものは、必ず変じて之を更化(こうか)すれば、乃ち理(おさ)む可きなり。漢、天下を得て以来、常に治を欲して、而(しか)も今に至るまで善(よ)く治む可からざるものは、当(まさ)に更化すべくして而も更化せざればなり、と。 陛下は徳行高く、恩沢厚く、英知明らかに、心意うるわしくあられる上、民を愛し、士を好まれます。でありながら教化が行われず、万民が正しいとはいえません。たとえばひどく琴の調子が合わなければ、必ず絃をほどいて張り替えます。そこではじめて、弾くことができます。政が甚だしく行われなければ、一度変えてしまい、改めて教化し直しますと、はじめてよく治めることができます。 漢が天下を得て以来、常に国家が善く治まるようにつとめて、しかも今に至るまで治めることができないのは、当然改めるべきところを、改めなかったからにほかなりません」と申し上げた。 然而 然り而してと訓じて順接に使う場合が多いが、この場合は逆接なのでこのように訓じた。 鼔 鼓はつづみ、鼔(こ)は動詞で音を奏でること。 更張 張り替えること。 更化 改め変えること。 十八史略 董仲舒の対 3 2010-06-26 11 52 01 | 十八史略 太學 又曰、養士莫大乎太學。太學者、賢士之所關也、教化之本原也。願興太學置明師、以養天下之士。又曰、郡守・縣令、民之師帥、所使承流而宣化也。宜使列侯・郡守、各擇其吏民之賢者、歳貢各三人。 又曰く、士を養うは太學(たいがく)より大は莫(な)し。太學は賢士の関(よ)る所なり、教化の本原なり。願わくは太學を興し明師を置いて、以って天下の士を養わん、と。 又曰く、郡守・縣令は、民の師帥(しすい)にして、流れを承け化を宣(の)べしむる所なり。宜(よろ)しく列侯・郡守をして各々其の吏民の賢なる者を択び、歳々各々三人を貢(こう)せしむべし、と。 董仲舒は又策問に対(こた)えて、「天下の士を養成するには太学より大切なものはありません。太学こそ賢士が由(よ)って輩出するところで、教化の本源であります。故にどうか太学を興し、すぐれた師を置いて天下の有能な士を養成なさるべきであります。」 又更に、「郡守、県令は民の師となり、長となるべきもので、上(しょう)の意を承(う)けて下に教化を宣布すべき重要な地位にあります。そこで諸侯、郡守たちに、それぞれの治下の役人、人民の中から優れた者を択び出して毎年三人ずつを都に送り込ませるよう定めるべきであります」と。 太学 官吏養成のための学校。 関 あずかる、よる、関与。 師帥 模範、手本。 貢 推薦すること 十八史略 董仲舒の対 4 2010-06-29 13 47 59 | 十八史略 又曰、春秋大一統者、天地之常經、古今之通誼也。今師異道、人異論。臣愚以爲、諸不在六藝之科、孔子之術者、皆絶其道、然後統紀可一、法度可明、而民知所從矣。上善其對、以爲江都相。 又曰く、春秋、一統を大にするは、天地の常経、古今の通誼(つうぎ)なり。今、師ごとに道を異にし、人ごとに論を異にす。臣愚、以為(おも)えらく、諸々の六芸(りくげい)の科、孔子の術に在らざる者は、皆其の道を絶ち、然る後に統紀一(いつ)にす可(べ)く、法度(ほうど)明らかにす可く、而して民、従う所を知らん、と。上(しょう)、其の対を善しとし、以って江都の相と為す。 また言うには、「春秋の書は、王が天下を統一することを示していますが、これは天地自然の変わりない道であり、古今を通じて変わらぬ道義であります。ところが今は、先生ごとにそれぞれ道を異にし、人ごとにそれぞれ論を異にしています。そこで愚かながら私が考えますに、六芸の科目、つまり孔子の学術でないものは、皆その道を根絶して、そこではじめて国家の規範もひとつになり、天下の法も明らかになって、そして人民も従うべき方向を知るであろうと、存じます」と。武帝はこの答えをよしとして、董仲舒を江都王の宰相にした。 春秋 孔子が魯の国の記録を書き残した。解説書に左氏、穀梁、公羊(くよう)の三伝がある。董仲舒は公羊伝に精通した。 常経 常の径(みち) 六芸 六経(りくけい)に同じ。易経・書経・詩経・春秋・礼経・楽経の六つ。江都 江蘇省にある地名。統紀 綱紀におなじ、国を治める根本原則。 十八史略 力行如何(いかん)を顧みるのみ 2010-07-01 14 04 46 | 十八史略 上使使者奉安車蒲輪・束帛加璧、迎魯申公。既至。問治亂之事。公年八十餘。對曰、爲治不在多言。顧力行何如耳。 三年、閩越撃東甌。遣使發兵救之、徒其衆江淮。 帝始爲微行、起上林苑。 五年、置五經博士。 六年、閩越撃南越。遣王恢等撃之。 元光元年、初令郡國擧孝・廉各一人。 上(しょう)使者をして安車蒲輪(あんしゃほりん)・束帛加璧(そくはくかへき)を奉じて、魯の申公を迎えしむ。既に至る。治乱の事を問う。公、年八十余。対(こた)えて曰く、治を為すは、多言に在(あ)らず。力行如何(いかん)を顧みるのみ、と。 三年、閩越(びんえつ) 東甌(とうおう)を撃つ。使いを遣(つか)わし兵を発して之を救い、其の衆を江淮(こうわい)の間に徒(うつ)す。 帝始めて微行を為し、上林苑を起こす。 五年、五経博士を置く。 六年、閩越(びんえつ)、南越を撃つ。王恢(かい)等をして之を撃たしむ。 元光元年、初めて郡国をして孝・廉各々一人を挙げしむ。 武帝は使者を遣わして、振動の少ない老人用の車を用意させ、束ねた絹の上に璧を載せた礼物を携えて魯の儒者の申公(しんこう)を迎えさせた。都に着いた申公に武帝は治安と騒乱について意見を聞いた。この時申公は八十歳あまりであったが、答えて言うには「国を治めるには、百の議論より、努力実行しているかを、つねに念頭に置いて忘れないことであります」と。 三年に閩越が東甌を攻めた。武帝は求めに応じて使いをやり、兵を出して東甌を救った。その際難民を江水・淮水の間に住まわせた。 武帝は始めてお忍びで上林苑におもむき、苑内の改修事業を起こさせた。 五年に五経博士(ごきょうはかせ)の官を置いた。 六年に閩越が南越を攻めた。帝は王恢等を派遣して閩越を攻めさせた。 年号が代って元光元年、初めて各郡、各国から孝行の徳のあるもの、清廉の士それぞれ一名を推挙させて都に召した。 安車蒲輪 老人女子用に安座して乗れるよう作った車、蒲輪は振動を押さえるために蒲で車輪を包んだもの。 顧 常に念頭において忘れぬこと。 閩越 福建省にあった国名。 東甌 浙江省の国名。 上林苑 御苑の名。五経博士 易・書・詩・礼・春秋の経書に精通している学者。 郡国 郡は天子の直轄支配地、国は諸侯、王の私領で中央が相を派遣して治め、諸侯王は収入をうけるだけで政治には関与しなかった。 十八史略 武帝神仙を求む。 2010-07-06 13 35 20 | 十八史略 二年、方士李少君見上、善爲巧發奇中。言、祠竈則致物。而丹砂可化爲黄金、蓬莱仙者可見、見之以封禪則不死。上信之、始親祠竈、遣方士入海、求蓬莱安期生之屬。海上燕・齊迂怪之士、多更來信事矣。 二年、方士李少君上(しょう)に見(まみ)え、善く巧発奇中を為す。言う、竈(かまど)を祠(まつ)れば則ち物を致さん。而して丹砂は化して黄金と為す可(べ)く、蓬莱の仙者見る可く、之を見て以って封禅(ほうぜん)すれば則ち死せず、と。上之を信じ、始めて親(みずか)ら竈を祠り、方士を遣(つか)わし海に入り、蓬莱の安期生の属(やから)を求めしむ。海上の燕・齊の迂怪(うかい)の士、多く更々(こもごも)来って神事を言う。 元光二年に、方士の李少君という者が武帝に目通りして、巧みに話しを持ちかけ、それを帝が信じ込んだ。方士の言うには竃の神を祠れば欲しいものが何でも得られます、丹砂は黄金に変えることができますし、その黄金で造った盃で酒を飲みますと、蓬莱の仙人を見ることができます。その仙人を見て泰山の頂きで天を祀り、泰山の麓で地を祓い山川を祀ると死ぬことがございません」と。武帝はそれを信じて、自ら竈を祀り、方士を遣わして東の海にこぎ出させて蓬莱山に棲むという安期生(あんきせい)の仲間を求めさせた。東海のほとりの燕や齊の国の怪しげな者が次々に来て神仙の話を帝に吹き込んだ。 丹砂 辰砂(しんしゃ)におなじ、水銀や赤い絵の具の原料。 蓬莱 安期生などの仙人が住むという東海の島。 封禅 天子の祭祀で天と山川を祀る。 迂怪之士 大風呂敷、でたらめを言う者 十八史略 司馬相如 2010-07-08 13 50 35 | 十八史略 上用大行王恢議、遣恢等、將兵匿馬邑旁谷中、陰使聶壹誘匈奴、入塞而撃之。單于覺而去。自是絶和親、攻當路塞。 唐蒙上書、請通南夷。拝蒙中郎將、將千人入夜郎。夜郎侯聽約。以爲犍爲郡。 又拝司馬相如爲中郎將、通西夷、卭・筰・冉・駹置郡縣、西至沫若水、南至牂牁爲徼。 上、大行王恢(おうかい)が議を用い、恢等を遣わし、兵を将(ひき)いて馬邑(ばゆう)の旁(かたわら)の谷中(こくちゅう)に匿(かく)れ、陰(ひそ)かに聶壹(じょういつ)をして匈奴を誘(いざな)い、塞(さい)に入れて之を撃(う)たしむ。単于(ぜんう)覚(さと)って去る。是より和親を絶ち、当路の塞を攻む。 唐蒙上書して南夷に通ぜんことを請う。蒙を中郎將に拝し、千人を将(ひき)い夜郎(やろう)に入らしむ。夜郎侯、約を聴く。以って犍爲郡(けんいぐん)と為す。 又司馬相如(しばしょうじょ)を拝して中郎将と為し、西夷に通ぜしめ、卭(こう)・筰(さく)・冉(ぜん)・駹(ぼう)に郡県を置き、西は沫若水(まつじゃくすい)に至り、南は牂牁(しょうか)に至り、徼(きょう)を為(つく)る。 武帝は大行の王恢の進言を取り上げ、王恢等を派遣し、兵を率いて馬邑郡附近の山中に潜ませ、ひそかに聶壹という者に匈奴を塞に誘い込ませて、これを撃とうとした。ところが匈奴はそれと気づいて塞外に逃れ去った。以後、匈奴は漢との和睦を絶ち、要路にあたる漢の塞を攻撃した。 唐蒙が書を奉って南の蛮族を帰服させたいと願い出た。武帝は唐蒙を中郎將に任命して、兵士千人を率いて夜郎国に攻め入らせた。夜郎王は、漢に服従する盟約を受け入れた。そこで夜郎国を犍爲郡とした。 また、司馬相如を中郎将に任命して、西の蛮族を帰服させ、卭・筰・冉・駹に郡県にして、西は沫水・若水まで、南は牂牁郡に至るまでを版図に収め、砦を築いて国境とした。 大行 接待官。 中郎將 宮殿警備をつかさどった官の長。 夜郎 南西部の異民族、→夜郎自大(やろうじだい)。 司馬相如 詩賦文学の大成者。 卭・筰 西方蛮族の国名。 冉・駹 四川省にあった族の名。 徼 国境(特に西南部)のとりで。 十八史略 曲学阿世 2010-07-10 15 53 05 | 十八史略 曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ 徴吏民有明當世之務、習先聖之術者、縣次續食、令與計偕。菑川公孫弘、對策曰、人主和於上、百姓和合於下。故心和則氣和。氣和則形和。形和則聲和。聲和則天地之和應矣。策奏。擢爲第一、待詔金馬門。齊人轅固、年九十餘、亦以賢良徴。弘仄目事之。固曰、公孫子務正學以言。無曲學以阿世。 六年、初算商車。 吏民の当世の務(つとめ)を明かにして、先聖の術に習うこと有る者を徴(め)して、県次(けんじ)に続食(ぞくしょく)し、計と偕(とも)にせしむ。菑川(しせん)の公孫弘(こうそんこう)、対策して曰く、人主(じんしゅ)、上(かみ)に和徳(わとく)あれば、百姓(ひゃくせい)、下(しも)に和合す。故に、心和すれば則ち気和す。気和すれば則ち形和す。形和すれば則ち声和す。声和すれば則ち天地の和応ず、と。策、奏す。擢(ぬき)んでて第一と為し、金馬門に待詔(たいしょう)せしむ。齊人(せいひと)轅固(えんこ)も、年九十余にして、亦賢良を以って徴(め)さる。弘、目を仄(そばだ)てて之に事(つか)う。固曰く、公孫子、正学を務めて以って言え。曲学、以って世に阿(おもね)る無かれ、と。 六年、初めて商車を算す。 武帝は、役人市民を問わず、当世の実務に精通し、孔孟の学を習得した者を県ごとに食事をとらせ、郡の会計簿を都に提出する者に同道させて召しよせた。時に菑川の公孫弘が武帝の策問に答えて「人君が上にあって和らぎ徳あらば、下にいる民衆は和らぎなつきます。心が和らぐと、気も和らぎ、気が和らぐと容貌も和らぎます、容貌が和らぎますと声も和らぎ、声が和らぎますと天地万物が和らぎ天変地異がなくなるのであります」と奏した。武帝は抜きん出て第一等とし、金馬門の下の官舎に留めおき、任官の詔を待たせることになった。この時斉の人で轅固という者も九十歳余りであったが、賢良方正であると推挙されて召されていた。公孫弘は正視できずに事えていたが、ある時、轅固が教え諭した。「公孫子よ、正しい学問のみに務めて、それを説くがよい、真理を曲げた学問を説いて世間にへつらい媚びてはなりませんぞ」と。 元光六年(前129年)初めて商人の舟や荷車の数を調べて課税した。 菑川 山東省の地名。 公孫弘 春秋の学者、武帝に信任される。 対策 天子の策問に対(こた)えること。 待詔 詔を待つこと。 仄目 目をそらし畏れはばかる。 正学 孔孟の学問 十八史略 何ぞ相見るの晩(おそ)きや 2010-07-13 08 27 32 | 十八史略 匈奴寇上谷。遣將軍衞等、撃卻之。 元朔元年、主父偃上書、諌伐匈奴。嚴安亦上書。及徐樂亦上書云、陛下何威而不成、何征而不服。書奏。上召見曰、公等皆安在、何相見之晩也。皆拝郎中。是秋匈奴入寇。二年、又入寇。遣衞等撃之、遂取河南地、置朔方郡。 匈奴上谷を寇(こう)す。将軍衛青等を遣わし、撃って之を卻(しりぞ)く。 元朔(げんさく)元年(前128) 主父偃(しゅほえん)、上書(じょうしょ)して匈奴を伐つことを諌(いさ)む。嚴安も亦上書す。及び徐楽(じょがく)も亦上書して云く、陛下何れを威(おど)してか成らざらん、何れを征してか服せざらん、と。書、奏す。上(しょう)、召して見て曰く、公等皆安(いづ)くに在りしか、何ぞ相見るの晩(おそ)きや、と。皆郎中に拝す。是(こ)の秋、匈奴入寇(にゅうこう)す。二年、又入寇す。衛青等を遣わして之を撃ち、遂に河南の地を取り、朔方郡(さくほうぐん)を置く。 匈奴が上谷に侵攻してきた。将軍衛青等を派遣して、これを撃退させた。 元朔元年、主父偃が書をたてまつって、匈奴を討伐することを諌めた。厳安も上書して諌めた。そして徐楽も亦上書して「陛下のご威光をもってしたならば、誰を威しても聞かぬ者はおりませんし、何処を伐っても服さぬ者がありましょうか。だからこそ兵を軽々しく動かしてはならないのであります」と諌めた。これらの書が奏せられると、武帝は三人に目どおりを賜って「そなた達は今まで何処にいたのか、もっと早く会いたかったものだ」といって三人とも郎中の官に任命した。 この年の秋、匈奴が侵攻して来た。元朔二年にもまた侵攻して来た。武帝は衛青等を派遣してこれを撃退して河南の地を奪い、この地を朔方郡とした。 上谷 河北省にある地名。 朔方郡 陜西省の地名。 十八史略 張騫を西域に遣わす 2010-07-15 11 51 44 | 十八史略 五年、公孫弘、爲丞相、封平津侯。上方興功業。弘於是開東閣、以延賢人。 匈奴寇朔方。遣衞率六將軍撃之。還。以爲大將軍。匈奴入代。 六年、春遣衞等六將軍撃匈奴。夏再遣。 元狩元年、遣博望侯張騫、使西域、通滇國。 五年、公孫弘丞相となり、平津侯に封(ほう)ぜらる。上、方(まさ)に功業を興す。弘、是(ここ)に於いて東閣(とうこう)を開き、以って賢人を延(ひ)く。 匈奴、朔方に寇(こう)す。衛青を遣わし六将軍を率いて之を撃たしむ。 還る。青を以って大将軍と為す。匈奴、代に入る。 六年春、衛青等六将軍を遣わして匈奴を撃たしむ。夏再び遣わす。 元狩(げんしゅ)元年、博望侯張騫(ちょうけん)を遣わし、西域に使いせしめ滇國(てんこく)に通ず。 元朔五年に、公孫弘が丞相となり、また平津侯に封ぜられた。帝はちょうど大事業を興そうとしていた。そこで公孫弘は東に小門をつくり、天下の賢者を招いた。 匈奴が朔方郡を侵した。武帝は衛青を遣わして六人の将軍を率いてこれを撃破させた。 衛青が凱旋すると、帝はその功をよしとして大将軍に任命した。 匈奴が代郡に攻め入った。 六年の春に、衛青ら六人の将軍を派遣して、匈奴を征伐させた。その夏にも派遣した。 元狩元年(前122年) 博望侯の張騫を派遣して、西域に使者として赴かせ滇國を帰服させた。 代 山西郡にあった地名。 張騫 建元年間に大月氏に使いしたが匈奴に捕えられる11年後脱走し前126年に還った。 滇國 雲南地方一帯の蛮族 十八史略 霍去病、西域を平ぐ 2010-07-17 12 16 10 | 十八史略 二年、以霍去病爲驃騎將軍、撃敗匈奴。過焉支・祁連山而還。 匈奴渾邪王降。置五屬國、以處其衆。 三年、匈奴入右北平・定襄。 四年、遣衞・霍去病撃匈奴。去病、封狼居胥山而還。 二年、霍去病(かくきょへい)を以って驃騎 (ひょうき) 将軍と為し、撃って匈奴を敗る。焉支(えんし)・祁連(きれん)山を過(よぎ)って還る。 匈奴の渾邪王(こんやおう)降る。五属国を置き、以って其の衆を処(お)く。 三年、匈奴、右北平・定襄に入る。 四年、衛青、霍去病を遣わし、匈奴を撃たしむ。去病、狼居胥山に封(ほう)じて還る。 元狩(げんしゅ)二年に霍去病を驃騎将軍として匈奴を撃ち敗り、焉支山・祁連山までも長駆攻略して還った。 匈奴の渾邪王が降伏した。よって五つの属国を置き、そこに匈奴の民衆を住まわせた。 三年に、匈奴が右北平・定襄に攻め入った。 元狩四年、衛青と霍去病を派遣して匈奴を攻撃させた。去病は大勝して狼居胥山にて天をまつる檀を築く封(ほう)の儀式を行って還った。 十八史略 衛青と霍去病 2010-07-20 18 17 08 | 十八史略 元鼎二年、方士文成將軍李少翁、以詐誅。 西域始通。置酒泉・武威郡。 五年、遣將軍路博等撃南越。 方士五利將軍欒大、以詐誅。 六年、討西羌平之。 南越平。置九郡。 元鼎(げんてい)二年、方士文成將軍李少翁、詐(さ)を以って誅せらる。 西域始めて通ず。酒泉・武威郡を置く。 五年、将軍路博等を遣わして、南越を撃たしむ。 方士五利將軍欒大(らんだい) 詐(さ)を以って誅せらる。 六年、西羌(せいきょう)を討って之を平らぐ。 南越平らぐ。九郡を置く 元鼎二年(前115年) 方士で、文成將軍の李少翁が武帝を欺いたかどで、誅殺された。 西域が始めて漢の威光がゆきわたったので、酒泉郡と武威郡を置いた。 五年、将軍路博徳らを派遣して南越を攻めさせた。方士で五利将軍の欒大が武帝を欺いたかどで誅殺された。 六年、西羌国を討伐してこれを平定した。 南越も平定したので、九郡を置いた。 文成將軍・五利将軍 ともに武官でない者に授けられる官名。 酒泉郡と武威郡 ともに甘粛省の郡名。 西羌 甘粛省にあった国名。 南越 広東、広西地方にあった国名。 衛青 姉が武帝の寵愛を受けたおかげで、どん底の生活から抜け出し、騎射に才能があったおかげで、匈奴征伐に連戦し、連勝する。部下を大事にすることで人望も篤かった。大将軍、大司馬になった。前106年没 霍去病 衛青の甥、18歳で匈奴征伐に参軍、前121年に驃騎将軍に前119年に衛青と並んで大司馬になった。衛青とは対照的に苦労知らずで傲慢なところがあったが、武帝ほか宮廷にも、兵にも人気があった。名前とはうらはらに病を得て前117年、24歳の若さで亡くなった。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/98 十八史略 泰山に封じ、粛然山に禅す。 2010-07-22 10 16 14 | 十八史略 元封元年、帝出長城、登單于臺、遣使告單于曰、南越王頭、已懸於漢北闕下。今單于能戰、天子自將待邊。 帝如緱氏、登中嶽、遂東巡海上、求神仙、封泰山、禪粛然、復東北至碣石而還。 滇王降。置益州郡。 三年、撃楼蘭虜其王、撃車師破之。 朝鮮降。置樂浪・臨屯・玄莬・眞蕃郡。 匈奴寇邊。遣兵屯朔方。 五年、南巡江漢、至泰山増封。 六年、撃昆明。 元封元年、帝、長城を出で、単于台に登り、使いを遣わし単于に告げて曰く、南越王の頭(こうべ)はすでに漢の北闕(ほっけつ)の下(もと)に懸かれり。今、単于能(よ)く戦わば、天子自ら将として辺に待たん、と。 帝、緱氏(こうし)に如(ゆ)き、中嶽に登り、遂に東のかた海上を巡り、神仙を求め、泰山に封じ、粛然(しゅくぜん)に禅し、復東北して碣石(けっせき)に至って還る。 滇王(てんおう)降る。益州郡を置く。 三年、楼蘭を撃って其の王を虜にし、車師を撃って之を破る。 朝鮮降る。楽浪・臨屯(りんとん)・玄莬(げんと)・眞蕃郡(しんばんぐん)を置く。 匈奴、辺に寇す。兵を遣わして朔方に屯せしむ。 五年、南のかた江漢を巡(めぐ)り、泰山に至って封(ほう)を増す。 六年、昆明を撃つ。 元封元年に、武帝は長城を越えて冒頓単于の築いた台に登り、使者を遣わして、単于に告げて、「南越王の頭(こうべ)は漢宮の北門に懸かっている。それでも汝が漢と戦うというのなら、わしが自ら大将軍となって国境で待っていてやるが、どうだ」と威した。 武帝は緱氏県に行き、嵩山(すうざん)に登り、更に東の海上を巡り神仙を捜し求めた。それから泰山に登り、天を祀る封の儀式を、麓の粛然山で地を祀る禅の儀式を執り行って、さらに東北に行き、碣石山に至って帰還した。 滇王が降伏したので、益州郡を置いた。 元封三年に楼蘭国に攻め入り、王を虜にした。さらに車師国を撃ち破った。 朝鮮が降伏したので、楽浪・臨屯・玄莬・眞蕃の四郡を置いた。 匈奴は辺境を侵犯したので、兵を派遣して朔方郡に駐屯させた。 五年に、南の揚子江、漢水の地方を巡幸し、泰山に登って、土檀を増築して祀った。 六年に、昆明を攻めた。 北闕 漢の未央宮では北門を正門とした。 緱氏 河南省の県。 中岳 五岳の一、嵩高山、太室山とも。 粛然 泰山の麓にある山の名。 封と禅 封は土を盛って天をまつり、禅は地を清めて山川をまつること。 碣石山 河北省にある山名。 楼蘭・車師 ともに新疆地区にあった国名。 昆明 雲南地方の族名。 十八史略 太初暦を制定す 2010-07-27 14 12 53 | 十八史略 太初元年、帝如泰山。十一月甲子、朔旦冬至、作太初暦、以正月爲歳首。 遣李廣利伐大宛。不克。 遣趙破奴撃匈奴。敗没。 三年、匈奴大入、破塞外城障。 大發兵、從李廣利伐宛。宛降。得善馬數十匹。 四年、匈奴單于、使使來獻。 太初(たいしょ)元年、帝泰山に如(ゆ)く。十一月甲子、朔旦(さくたん)冬至、太初暦を作り、正月を以って歳首と為す。 李廣利(りこうり)を遣わして大宛(だいえん)を伐たしむ。克(か)たず。 趙破奴(ちょうはど)を遣わして匈奴を伐たしむ。敗没す。 三年、匈奴大いに入って、塞外の城障(じょうしょう)を破る。 大いに兵を発し、李廣利に従って宛を伐たしむ。宛降る。善馬数十匹を得たり。 四年、匈奴の単于、使いをして来献せしむ。 太初元年(前104年)、武帝は泰山に行き、封の儀式を行った。この年の十一月甲子の日は一日(ついたち)で冬至でもあったので、暦法を改めて太初暦を制定して、この日を正月元日とし、歳のはじめとした。 李広利を派遣して大宛国を撃たせたが、勝つことができなかった。 趙破奴を派遣して匈奴を撃たせたが、敗れて趙破奴は捕虜になった。 三年に、匈奴が大挙して侵入し砦の外の城壁を破った。 大部隊を動員して李広利の指揮で宛の討伐に向わせた。宛は降伏し、駿馬数十匹を得て帰った。 太初四年に匈奴の単于が使者を送って、貢物を献上した。 甲子 干支のそれぞれ第一番目、きのえね。ちなみにこの年は丁丑直近では1997年で35回還暦を迎えたことになる。 朔旦 一日の朝。 大宛国 西域の代表国、イラン系の国で汗血馬の産地。 敗没 戦に敗れて捕虜になること。 十八史略 蘇武 2010-07-29 10 35 32 | 十八史略 天漢元年、遣中郎將蘇武使匈奴。單于欲降之、幽武置大窖中、絶不飮食。武齧雪與旃毛、并咽之。數日不死。匈奴以爲神、徙武北海上、無人處。使牧羝曰、羝乳乃得歸。 二年、遣李廣利撃匈奴。別將李陵敗降虜。 上以法制御下、好尊用酷吏。東方盗賊滋起。遣使者、衣繍衣、持斧督捕、得斬二千石以下。 四年、李廣利撃匈奴。不利。 太始三年、帝東巡瑯琊、浮海而還。 四年、東巡祀明堂、修封禪。 天漢元年、中郎將蘇武(そぶ)を遣わし匈奴に使いせしむ。単于(ぜんう)之を降(くだ)さんと欲し、武を幽(ゆう)して大窖(たいこう)中に置き、絶えて飲食せしめず。武、雪と旃毛(せんもう)とを齧(か)み、併せて之を咽(の)む。数日死せず。匈奴以って神(しん)と為し、武を北海の上(ほとり)、無人の処に徙(うつ)す。羝(てい)を牧せしめて曰く、羝、乳(にゅう)せば乃(すなわ)ち帰るを得ん、と。 二年、李廣利を遣わして匈奴を撃たしむ。別将李陵敗れて虜(りょ)に降る。 上(しょう)、法制を以って下(しも)を御し、好んで酷吏を尊用す。東方に盗賊滋々(しばしば)起こる。使者を遣わして、繍衣(しゅうい)を衣(き)、斧(ふ)を持して督捕(とくほ)せしめ、二千石以下を斬ることを得しむ。 四年、李広利匈奴を撃つ。利あらず。 太始三年、帝、東のかた瑯琊を巡り、海に浮んで還る。 四年、東巡して明堂を祀り、封禅を修(しゅう)す。 天漢元年、中郎将の蘇武を匈奴に使いとして遣わした。単于は蘇武を虜にして匈奴に仕えさせようとしたが拒絶したので、あなぐらに幽閉し、飲食を絶った。蘇武は織物の毛と雪とをあわせて呑み下して、数日生き延びた。匈奴たちは、その生命力を神がかりであるとして、蘇武を北海の無人の岸辺に移し、牡羊を飼わせて、もし子を産んだら還してやろう。と言った。 天漢二年に李広利を遣わして匈奴を撃たせた。そのとき別軍の将の李陵は敗れて降伏した。 武帝は、法や制度で人民を統治し、冷徹な役人を好んで重く用いた。しかし東方では盗賊が多く出没した。そこで武帝は、使者を送り、その使者に立派な刺繍の衣を着せ、斧を持たせて、賊を取り締まり、捕えさせた。地方長官以下で、悪事を働く者を独断で処刑できるようにした。 四年に、李広利が匈奴を攻めたが、失敗に終った。 太始三年になると武帝は東方の瑯琊郡を巡り、海路船で帰った。 四年に、東方を巡視して、泰山の明堂で諸侯を引見して、天を祀り、地を祓って封禅の儀式を行った。 中郎將 帝を護衛する武官の長。 蘇武 匈奴に捕えられ19年節を守って降らず、昭帝の時代に還った。 北海 バイカル湖。 衣繍衣持斧 天子の代理であることを示すため錦の刺繍の服を着せ、天子が出征の将軍に持たせる斧を授けた。 二千石以下 郡の太守の年俸に等しい。 十八史略 巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る 2010-08-17 13 40 24 | 十八史略 目まぐるしく元号が交替したので、ここで一度整理をしてみます。武帝が始めて年号を制定した建元から昭帝即位までの年号を西暦に対比して掲げてみます。 建元元年 前140年 2150年前 元光 前134年 2144年前 元朔 前128年 2138年前 元狩 前122年 2132年前 元鼎 前116年 2126年前 元封 前110年 2120年前 太初 前104年 2114年前 天漢 前100年 2114年前 太始 前96年 2106年前 征和 前92年 2102年前 後元 前88年 2098年前 征和二年、巫蠱事作。帝如甘泉、以江充爲使者、治巫蠱獄。掘太子宮云、得木人尤多。太子據懼、使客佯爲使者、収捕充斬之、白母衞皇后、發中厩車、載射士、出武庫兵、發長樂宮衞卒。 征和二年、巫蠱(ふこ)の事作(おこ)る。帝、甘泉に如(ゆ)き、江充を以って使者と為し、巫蠱の獄を治めしむ。太子の宮を掘って云う、木人を得ること尤(もっと)も多し、と。太子據(きょ) 懼(おそ)れ、客をして佯(いつわ)って使者と為し、充を収捕して之を斬らしめ、母衛皇后に白(もう)し、中厩の車を発し、射士を載せ、武庫の兵を出し、長樂宮の衞卒を発す。 征和二年に巫蠱の事件が起こった。帝は甘泉宮に保養に行っていたので、江充を使者に遣わして事件の処断を任せた。かねてより太子と不仲の江充は太子の宮殿を掘り返したら、多くの呪詛の木人が出て来ましたと、嘘の報告をした。 太子の據は江充のわなに陥ったことを知り、恐れて食客の一人を武帝の使者と偽って、江充を捕えて切り殺した。そして母の衛皇后にいきさつを告げて宮中の厩から、兵車を引き出し、射手を乗り込ませ、武器庫から武器を持ち出して長楽宮の護衛兵を出動させた。 十八史略 巫蠱の事 2010-08-19 09 52 19 | 十八史略 上從甘泉宮來、詔發三輔兵。丞相劉屈氂將之。太子亦矯制發兵、逢丞相軍。兵合戰五日、死者數萬。皇后自殺、太子亡至湖、自經死。後有高廟寢郎、田千秋。上書言、有白頭翁、教臣云、子弄父兵、罪當笞。上悟曰、此高廟神靈、告我也。知太子無罪。作歸來望思之臺於湖。天下聞而悲之。 上(しょう)、甘泉宮より来たり、みことのりして三輔の兵を発す。丞相劉屈氂(りゅうくつり)之に将たり。太子も亦制を矯(いつわ)り兵を発し、丞相の軍に逢う。兵、合戦すること五日、死する者数万なり。皇后自殺し、太子亡(に)げて湖(こ)に至り、自頸して死す。 後、高廟の寢郎、田千秋というもの有り。上書して言う、白頭翁有り、臣に教えて云わく、子、父の兵を弄するは、罪笞(ち)に当(とう)す、と。上、悟って曰く、此れ高廟の神霊、我に告ぐるなり。太子の罪無きを知る、と。帰来望思の台を湖に作る。天下、聞いて之を悲しむ。 武帝は急ぎ甘泉宮より戻り、詔勅を発して三輔の兵を出動させた。丞相の劉屈氂が率いた。太子もまた帝の詔勅といつわって兵を繰り出し丞相の軍と対峙した。合戦は五日に及び、死者数万人にも及んだ。太子は敗れ、母の衛皇后は自殺、太子は逃げて湖県に行き、そこで首をくくって死んだ。 後に、高祖の御霊屋(みたまや)の司で田千秋という者が、武帝に書をたてまつって言うには「白頭の翁が現れまして臣に向って、子たる者が、父の兵を勝手に動かすのは笞打ちの刑に相当するのみである。と告げました」と。 武帝はそこで「高祖の霊が我に太子には罪がないことを示されたに違いない」と気づき、湖県に帰来望思台を作った。人々はこれを聞いて大いに悲しんだ。 巫蠱 巫は巫女、蠱は人を惑わし害すること。 三輔の兵 都長安の周囲三郡の兵。 湖 河南省湖県 十八史略 武帝霍光に後を託す。 2010-08-21 09 29 39 | 十八史略 三年、匈奴寇五原・酒泉。遣李廣利撃之。廣利降匈奴。 四年、罷方士候神人者。 以田千秋爲相、封富民侯、罷議輪臺屯田、下詔深陳既往之悔。 後元二年、上幸五柞宮。病篤。以霍光爲大司馬大將軍、受遺詔輔太子。上在位五十四年、改元者十有一、曰、建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元。 三年、匈奴五原・酒泉に寇(こう)す。李廣利を遣わして之を撃たしむ。廣利匈奴に降る。 四年、方士の神人を候(こう)する者を罷(や)む。 田千秋を以って相と為し、富民侯に封じ、輪台の屯田を議することを罷(や)め、詔(みことのり)を下して深く既往(きおう)の悔いを陳(ちん)ず。 後元二年、上(しょう)、五柞宮(ごさくきゅう)に幸(こう)す。病篤し。霍光(かくこう)を以って大司馬大将軍と為し、遺詔(いしょう)を受けて太子を輔(たす)けしむ。上、在位五十四年、改元する者(こと)十有一、曰く、建元・元光・元朔(げんさく)・元狩(げんしゅ)・元鼎(げんてい)・元封(げんぽう)・太初・天漢・太始・征和・後元。 征和三年に匈奴が五原・酒泉に侵入した。武帝は李廣利を遣わして撃たせたが、李廣利は匈奴に降伏してしまった。 四年、神霊を降ろすという方士を朝廷から追放した。 田千秋を丞相に任命し、富民侯に封じた。また西域の輪台国に屯田兵を置くとする議案を取り下げ、詔勅を下して、これまであまりに兵を出したことを悔いている旨を告げ示した。 後元二年に武帝は五柞宮に行幸したが、そこで病が悪化した。霍光を大司馬大将軍に任じ、太子を補佐するようと詔を遺して世を去った。位にあること五十四年、元号を変えること十一回、すなわち建元・元光・元朔・元狩・元鼎・元封・太初・天漢・太始・征和・後元である。 輪台国 新疆にあった国。 五柞宮 西安にあった宮殿。 霍光 霍去病の異母弟 十八史略 武帝の事跡(一) 2010-08-24 16 29 37 | 十八史略 上雄材大略。承文・景豊富之後、窮極武事。嘗謂、高帝遺平城之憂。思如齊襄公復九世之讎。數征匈奴、盡漢兵勢。匈奴遠遁、幕南無王庭。斥地立郡縣、置受降城、通西域、通西南夷、東撃朝鮮、南伐粤、軍旅歳起。内事土木、築上苑、屬南山。建柏梁臺、作承露銅盤。高二十丈、大七圍、上有仙人掌。 上(しょう)、雄材大略あり。文・景、豊富の恵を承け、武事を窮極す。嘗て謂(い)えらく、高帝、平城の憂いを遺(のこ)せり。齊の襄公が九世の讎(あだ)を復するが如くならんことを思う、と。数々(しばしば)匈奴を征し、漢の兵勢を盡す。匈奴遠く遁(のが)れ、幕南(ばくなん)に王庭(おうてい)無し。地を斥(ひら)き、郡縣を立て、受降城を置き、西域に通じ、西南夷に通じ、東のかた朝鮮を撃ち、南のかた粤(えつ)を伐ち、軍旅歳々起こる。内には土木を事とし、上苑を築き、南山に属す。柏梁台を建て、承露銅盤を作る。高さ二十丈、大いさ七囲、上に仙人掌あり。 武帝は持って生まれた優れた能力と機略があった。そのうえ、文帝・景帝の遺した豊富な財力があったので、憑かれたように兵事に明け暮れた。ある時、「わが高祖は平城で匈奴に囲まれ、九死に一生を得た。その恥辱と憂憤は子孫に受け継がれている。その昔、斉の襄公は九代前の仇を報いた。わしもそれに倣わなければならない」と言った。こうして度々匈奴を討ち、兵力の限りを尽くして匈奴を遠く退け、沙漠の南には匈奴王の領地は無くなった。武帝はその地を開墾して郡縣を置き、投降者を受け入れる砦を設けた。かくして武帝は威光を西域から西南域に拡げ、東は朝鮮を、南は越国を伐って毎年のように戦争があった。国内では土木事業をおこした。宮中に庭園を造成して南山にまで連ねさせ、柏梁台を築き、銅盤を置いた。その銅盤は高さ二十丈、太さは七かかえもあり、露を受ける仙人が盃をささげている像(仙人掌)があった。 平城の憂い 高祖が四十万の匈奴軍に包囲されたとき、陳平の機略により、七日後に囲みを解かれた。 幕南 幕は沙漠、ゴビ砂漠のこと。 粤は越。 承露銅盤 長命を授けるとされる天の露を承ける銅盤。 十八史略 武帝の事跡二 2010-08-26 14 59 40 | 十八史略 漢、幾んど秦たるを免れず 以方士公孫卿言神仙好樓居、作蜚廉・桂・通天莖臺、作首山宮、作建章宮千門萬戸、東鳳閣、西虎圏、北太液池。中有漸臺・蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁。南玉堂璧門、立神明臺、作明光宮。皆極侈靡。數巡幸崇祠祀、修封禪。國用不給。賣武功爵級、造鹿皮幣・白金。桑弘羊・孔僅之徒、作均輸・平準法、興利以佐費、置鹽官、算舟車、造緍錢。天下蕭然。末年盗起。微輪臺一詔、漢幾不免爲秦。 方士公孫卿(こうそんけい)が、神仙は楼居を好む、と言うを以って、蜚廉(ひれん)・桂・通天茎台(つうてんけいだい)を作り、首山宮を作り、建章宮を作り、千門万戸、東は鳳閣、西は虎圏、北は太液池。中(うち)に漸台(ぜんだい)・蓬莱・方丈・瀛洲(えいしゅう)・壷梁(こりょう)有り。南は玉堂璧門、神明台を立て、明光宮を作る。皆侈靡(しび)を極む。数しば巡幸して、祠祀(しし)を崇(たっと)び、封禅を修す。国用給せず。武功の爵級(しゃくきゅう)を売り、鹿皮の幣・白金を造る。桑弘羊(そうこうよう)・孔僅(こうきん)の徒、均輸・平準法を作り、利を興して以って費を佐(たす)け、塩官を置き、舟車を算し、緍銭(びんせん)を造る。天下蕭然(しょうぜん)たり。末年、盗起こる。輪台の一詔微(な)かりせば、漢、幾(ほと)んど秦たるを免れず。 方士の公孫卿が、神仙は好んで高い楼台に住むと聞かされると、武帝は蜚廉閣・桂閣・通天茎台などの高楼を建てた。また首山宮、建章宮を作り、多くの門や屋敷を建てた。東には鳳閣、西には虎の檻、北に太液の池、その池の中には漸台という高楼を建て、蓬莱・方丈・瀛洲・壷梁などの島を造った。南には宝玉をちりばめた堂や門が作られ、神明台、明光宮を作った。すべてが奢りを極めたものであった。また帝はしばしば地方を巡幸し、盛んに神々をまつり封禅の儀式を行った。そのため財政は逼迫して、軍功によって賜るべき爵位を金で売り与えたり、鹿皮で代用した紙幣や錫を混ぜた銀貨を鋳造してその場を凌いだ。桑弘羊や孔僅の徒が均輸法や平準法を制定して、利益を挙げて国費の足しにした。また塩の売買を掌る官を置き、舟や車に税をかけ、銭一さしにも税を課した。天下はすっかり沈滞し、武帝の晩年には盗賊が横行するようになった。もしこの時輪台の詔勅が出されていなければ、漢はほとんど秦と同じ末路をたどることを免れなかったであろう。 均輸法 各地の産物を政府に納めさせ、利益を乗せた上で統一価格で売り渡した。 平準法 政府が安い時に買いつけ、価格の平準を保ちつつ利益を得て売り渡す法。 輪台の一詔 屯田兵を輪台国に置くことを取り止め、武帝が反省した詔勅。 十八史略 武帝の事跡 2010-08-28 13 55 24 | 十八史略 丞相連(しき)りに誅を以って死す。 所用丞相、初惟田蚡稍專。上嘗謂蚡曰、卿除吏、盡未。吾亦欲除吏。後皆充位而已。公孫弘後、國家多事、丞相連以誅死。公孫賀拝相、至涕泣不肯拝。亦卒以罪死。酷吏張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒之徒、皆嘗峻用刑法。然湯等有罪、亦不貸也。其卜式・兒寛之屬、亦以長者見用。 用いる所の丞相は、初め惟田蚡(でんぷん)のみ稍(やや)専らなり。上(しょう)嘗て蚡に謂って曰く、卿(けい)、吏を除(じょ)する、尽くるや未だしや。吾も亦吏を除せんと欲す、と。後皆、位に充つるのみ。公孫弘の後、国家多事にして、丞相連(しき)りに誅を以って死す。公孫賀、相に拝せられしも、涕泣(ていきゅう)して肯(あえ)て拝せざるに至る。亦、卒(つい)に罪を以って死す。酷吏、張湯(ちょうとう)・趙禹(ちょうう)・杜周(としゅう)・義緃(ぎしょう)・王温舒(おうおんじょ)の徒、皆嘗て刑法を峻用(しゅんよう)す。然れども湯等罪有れば亦貸さざるなり。其の間に卜式(ぼくしょく)・兒寛(げいかん)の属、亦長者(ちょうしゃ)を以って用いらる。 武帝が用いた丞相の中で、初め田蚡だけが、やや政権を専らにした。ある時、武帝は田蚡に向って、皮肉を言ったことがあった。「丞相どの官吏の任命は終ってしまったかな。わしも少しは任命してみたいのだが」と。しかしその後の丞相は皆ただその位に座っているだけの存在で、実権を持たなかった。公孫弘が丞相になってからは国家に事件が多発して、丞相が次々と罪を負って殺されたから、公孫賀などは丞相に任命されたときに泣いて辞退をしたけれども結局罪を得て殺された。張湯・趙禹・杜周・義緃・王温舒などの面々はいずれも法を峻烈に執行して帝に信任されていたけれども、些細なことで容赦なく処罰された。こうした中で、卜式や兒寛らは有徳の士として武帝に重用された。 十八史略 武帝の事跡四 2010-08-31 17 35 03 | 十八史略 汲黯獨以嚴見憚。數切諌、不得留内。爲東海守。好清浄、臥閣内不出。而郡中大治。入爲九卿。上方招文。嘗曰、吾欲云云。黯曰、陛下内多欲、而外施仁義。奈何欲效唐虞之治乎。上怒罷朝曰、甚矣、黯之戇也。他日又曰、古有社稷臣。黯近之矣。 汲黯(きゅうあん)、独り厳を以って憚(はばか)らる。数しば切諌(せっかん)して、内に留まるを得ず。東海の守と為る。清浄を好み、閣内(こうない)に臥して出でず。而して郡中大いに治まる。入って九卿(きゅうけい)と為る。上、方(まさ)に文学を招く。嘗て曰く、吾云々せんと欲すと。黯曰く、陛下、内、多欲にして、外、仁義を施す。奈何(いかん)ぞ唐虞(とうぐ)の治に效(なら)わんと欲するか、と。上、怒って朝(ちょう)を罷(や)めて曰く、甚だしいかな、黯の戇(とう)なるや、と。他日又曰く、いにしえ、社稷(しゃしょく)の臣あり。黯、之に近し、と。 群臣の中で汲黯だけは謹厳な人として武帝からけむたがられていた。度々厳しく諌めるので、朝廷に留まることができず、飛ばされて東海郡の太守になった。俗塵にまみれるのを嫌って、閉じこもったままだったが、郡中はよく治まった。再び朝廷に呼び戻されて九大臣の列に加わった。その頃武帝は学問に秀でた者を招き寄せていた。あるとき「わしはしかじかのことをしようと思う」と言うと汲黯が遮って、「陛下は内心欲が深くいらっしゃるのに、うわべだけ仁義を謳っておられる、それで堯や舜の治世に倣おうとなされるのでしょうか」と臆面もなく言ってのけた。武帝はあまりの無礼さにその日の朝議を取り止めて、「汲黯め馬鹿正直にも程がある」と怒ったが、後日「昔から国家を守り抜く忠臣がいたものだが、汲黯はこれに近い奴であるな」ともらした。 切諌 強くいさめること。 九卿 中枢の九の官庁の長。 文学 漢代、地方官の推薦により学問のすぐれた人を官吏に採用した制度の一。 唐虞 陶唐氏と有虞氏、堯と舜の号。 戇(とう) 愚直 章にぼくづくりとエ下に貝その下に心。 社稷の臣 国家の興廃安否にかかわる家臣。 十八史略 武帝の事跡 汲黯 2010-09-02 13 32 29 | 十八史略 黯の如きは冠せざれば見ざるなり 淮南王安謀反。曰、漢廷大臣、獨汲黯好直諌、守節死義。如丞相弘等、説之如發蒙耳。黯嘗拝淮陽守。曰、臣病、不能任郡事。願爲郎中、出入禁闥、補過拾遺。上曰、君薄淮陽邪。吾今召君矣。顧淮陽吏民不相得。徒得君之重、臥而治之。至淮陽、十歳竟卒。黯甚爲上所重。大將軍衞雖貴、上或踞廁見之。如黯不冠、不見也。 淮南王(わいなんおう)安、反を謀(はか)る。曰く、「漢廷の大臣、独り汲黯(きゅうあん)、直諌を好み、節を守って義に死す。丞相弘等の如きは、之を説くこと蒙を発(ひら)くがごとき耳(のみ)」と。黯、嘗て淮陽(わいよう)の守に拝せらる。曰く、臣病んで郡事に任ずる能(あた)わず。願わくは郎中と為り、禁闥(きんたつ)に出入し、過を補い遺(い)を拾わん、と。上曰く、君、淮陽を薄(うす)んずるか。吾今、君を召さん。顧(おも)うに淮陽の吏民、相得ず。徒(ただ)君の重きを得て、臥して之を治めんと。淮陽に至り、十歳にして竟(つい)に卒(しゅっ)す。黯、甚(はなは)だ上の重んずる所と為る。大将軍衞、貴しと雖も、上、或いは廁(しょく)に踞(きょ)して之を見る。黯の如きは、冠せざれば見ざるなり。 淮南王の安が謀反を企ててこう言った。「漢の朝廷の重臣の中で、汲黯だけが憚ることなく天子を諌め、節義を守るために命を投げ出す人物だ。丞相の公孫弘などの連中は、いかようにも言いくるめられる。まるで何かの蓋をつまんで取るようなものだ」と。 汲黯は嘗て、河南の淮陽の太守に任命されたとき、「私めは病気がちで、お役目を果たすことが出来そうもありません。できることなら郎中にしていただいて、宮中に出入りし、陛下の過失をおぎない、お見落としを拾っていきたいと思います」と申し上げた。武帝は「そなたは淮陽を軽んじていないか。どうにもいやだと言うなら、すぐにも呼び戻してやるから暫く行ってくれ。役人と人民との間がうまくいっていない、そなたの徳の重みで寝たままで良いから治めてくれ」と言った。汲黯は結局淮陽に赴任し、十年後、ついにその地で歿した。 汲黯は、武帝にたいそう信任された。大将軍の衛青さえ、武帝は時として寝台に腰掛けたまま引見することがあったが、汲黯に対してだけは、冠をつけなければ決して会わなかった。 淮南王安 高祖の孫、謀反したが自殺した。 蒙を発く おおいを取り去る。 禁闥 禁は禁裏、闥は小門。 拾遺 もれているものを拾い補うこと、あるいは君主の過失をいさめる官名。 踞廁 廁は普通シ、かわやを指すが、ここではショクで寝台の側。 十八史略 東方朔 2010-09-07 16 44 32 | 十八史略 上、招選天下材智士、俊異者、寵用之。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍等、在左右。相如特以詩賦得幸。朔・皋不根持論、好詼諧。上以俳優畜之。朔嘗語上前侏儒、以爲上欲殺之。侏儒泣請命。上問朔。朔曰、侏儒飽欲死、臣朔饑欲死。伏日賜肉晏。朔先斫肉持歸。上召問、令自責。朔曰、受賜不待詔、何無禮也。抜劔斫肉、何壯也。斫之不多、何廉也。歸遺細君、又何仁也。然朔亦時直諌、有所補。 上、天下材智の士、俊異の者を招選(しょうせん)して、之を寵用す。莊助・朱買臣・吾丘壽王・司馬相如(しばしょうじょ)・東方朔(とうほうさく)・枚皋(ばいこう)・終軍等左右に在り。相如は特に詩賦(しふ)を以って幸を得たり。朔・皋は持論を根(こん)とせず、詼諧(かいかい)を好む。上、俳優を以って之を畜(やしな)う。朔、嘗て上の前の侏儒に語り、以って上之を殺さんと欲すと為す。侏儒泣いて命を請う。上、朔に問う。朔曰く、侏儒は飽(あ)いて死せんと欲し、臣朔は饑えて死せんと欲す、と。伏日に肉を賜うこと晏(おそ)し。朔、先ず肉を斫(き)って持ち帰る。上、召して問い、自ら責めしむ。朔曰く、賜(たまもの)を受けて詔を待たず、何ぞ礼無きや。剣を抜いて肉を斫る、何ぞ壮なるや。之を斫って多からず、何ぞ廉(れん)なるや。帰って細君に遺(おく)る、又何ぞ仁なるや、と。然れども朔も亦時に直諌(ちょっかん)して、補益(ほえき)するする所有り。 武帝は天下の逸材智者、異能の士を選び招き、寵愛して用いた。荘助・朱買臣・ 吾丘壽王・司馬相如・東方朔・枚皋・終軍らが側近に仕えた。司馬相如は詩賦によって目をかけられていた。東方朔・枚皋はこれといった見識はなく、諧謔、滑稽の才によって、役者、芸人として禄を得ていた。あるとき東方朔は武帝の前に仕えている小人に「帝はお前の命を所望しているようだ」と耳うちした。小人は驚いて泣いて助命を請うた。武帝は訳が解らず、東方朔に尋ねた。朔はすかさず、「こびとは賜りものがあまりに多いので食べ過ぎて死にそうだと訴えているのです。ところで私めは飢えて死にそうなのでございます」と答えた。 盛夏三伏の日には諸役人に肉を下賜するならわしがあったが、このときは遅くなった。朔は真っ先に肉を切って持ち帰ってしまった。武帝は東方朔を呼び、、どう責めを負うつもりかと、詰問した。朔はすまして「賜りものを頂くのにお言葉も待たぬとは何と無礼な。剣を抜いて肉を切る、なんという勇ましさじゃ。肉を切っても多く取らぬとは何と無欲なことか。しかも持って帰って細君に渡すとはなんと仁者じゃ」と言った。 しかし朔もまた時に帝に直言して、過ちを補いたすけたことがあった。 侏儒 こびと 十八史略 武帝の事績(七) 2010-09-09 15 47 31 | 十八史略 神仙 自李少君以來、求神仙不已。文成誅而五利至。五利以文成爲言。上曰、文成食馬肝死耳。及五利又誅、公孫卿等、尤見聽信。末年、帝乃悟曰、天下豈有仙人、盡妖妄耳。節食服藥、差可少病而已。 李少君より以来、神仙を求めて已(や)まず。文成誅せられて五利至る。五利文成を以って言を為す。上曰く、文成は馬肝(ばかん)を食(くら)いて死せしのみ、と。五利又誅せらるるに及び、公孫卿等、尤も聴信(ちょうしん)せらる。末年、帝乃ち悟って曰く、天下豈仙人有らんや、尽く妖妄(ようもう)のみ。食を節し薬を服せば、差(やや)病を少うすべきのみ、と。 方士の李少君の説を信じてからこのかた、武帝は神仙を求めてやまなかった。文成将軍李少君は帝を詐(いつわ)ったとして殺された。五利将軍欒大(らんだい)が後をうけて朝廷に入ったが文成将軍の前例に恐れをなして、神仙の術を言わなかった。そこで武帝は文成将軍は馬の肝にあたって死んだのだと言いくるめて、促がした。やがて五利将軍も誅殺されてしまった。その後公孫卿等の言説が信用された。晩年になって、武帝はやっと醒めて「この世に仙人などいない、みなまやかしに過ぎぬ、食物を控えめに、薬を用いれば少しは病が少なくなるばかりだ」と言った。 十八史略 武帝の事績 三代の風あり 2010-09-12 07 51 03 | 十八史略 武帝崩ず 漢興、雖自惠帝已除挾書之禁、文帝已廣游學の路、然儒學終末盡盛。至帝世、董仲舒・公孫弘、皆以春秋進兒寛亦以經術飾吏事。後又有孔安國等出。表章六經、實自帝始。數獲瑞。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆爲樂章、薦之郊廟。文章亦帝世始盛。人以爲有三代之風焉。 帝壽七十而崩。葬茂陵。太子立。是爲孝昭皇帝。 漢興り、恵帝より已(すで)に挟書之禁を除き、文帝已に游学の路を広むと雖も、然れども儒学終に未だ尽くは盛んならず。帝の世に至り、董仲舒・公孫弘、皆春秋を以って進み、兒寛(げいかん)も亦経術を以って吏事を飾る。後又、孔安国等の出づる有り。六経(りくけい)を表章するは、実に帝より始まる。数々祥瑞を獲(え)たり。白麟・朱雁・芝房、寶鼎、皆楽章を為(つく)って、之を郊廟に薦(すす)む。文章も亦帝の世に至って始めて盛んなり。人以って三代の風有りと為す。帝、寿七十にして崩ず。茂陵(もりょう)に葬る。太子立つ。是を孝昭皇帝と為す。 武帝の事績(八) 漢が興ってから恵帝の時になって蔵書の禁が解かれ、文帝の時に自由に遊学する道が開けたが儒学はいまだ十分に盛んになるにはいたらなかった。武帝の世になってから董仲舒・公孫弘は「春秋」に精通しているというので官位を与えられ、兒寛も経書の学術を以って職務を輝かせた。後にはまた孔安国が出て、易経・書経・詩経・春秋・礼記・楽経を天下に明らかにしたのは実に武帝の時に始まったのである。また度々瑞祥があらわれた。白い麒麟、赤い雁、霊芝、宝鼎、これ等は皆音楽をつくって、天や祖先の祭りに奏した。文章も武帝の時に盛んになった。そこで人々は武帝の世を、夏・殷・周の遺風があると讃えた。帝は齢七十で崩じ茂陵に葬られた。あとを継いで太子が即位した。孝昭皇帝(昭帝)という。 挟書之禁 秦の焚書を引き継いだもので書をわきばさむこと禁ずるの意、禁書の制。 孔安国 孔子の子孫で、おたまじゃくしの様な蝌蚪(かと)文字を研究し解読した。 表章 世に出して広く知らせること。 十八史略 昭帝立つ 2010-09-14 09 11 37 | 十八史略 孝昭皇帝名弗陵。母鉤弋夫人、趙氏。娠十四月而生。武帝、命其門曰堯母門。年七歳、體壯大多知。武帝欲立之。察羣臣、惟霍光忠厚、可任大事。使黄門畫周公負成王朝諸侯、以賜光。譴責鉤弋夫人賜死。曰、古、國家所以亂、由主少母壯、驕淫自恣也。明年武帝崩。遂即位。燕王旦、以長不得立謀反。赦弗治。黨與伏誅。 孝昭皇帝名は弗陵(ふつりょう)。母は鉤弋(こうよく)夫人、趙氏なり。娠(はら)んで十四月(げつ)にして生まる。武帝其の門に命じて堯母門(ぎょうぼもん)と曰う。年七歳、体壮大にして多知なり。武帝之を立てんと欲す。群臣を察するに、惟(た)だ霍光(かくこう)のみ忠厚にして、大事を任ず可し。黄門をして周公、成王を負(お)って諸侯を朝(ちょう)せしむるを画き、以って光に賜わしむ。鉤弋夫人を譴責(けんせき)して死を賜う。曰く、いにしえ、国家の乱るる所以は、主少(わか)く母壮(そう)にして驕淫自恣(きょういんじし)なるに由(よ)る、と。明年武帝崩ず。遂に位に即く。燕王旦、長にして立つを得ざるを以って反を謀(はか)る。赦して治(ち)せず。党与誅に伏す。 孝昭皇帝、名は弗陵という。母は鉤弋夫人、趙氏である。懐妊して十四ヶ月で生まれたので、武帝はやはり十四ヶ月で生まれた堯帝にあやかって、その宮殿の門を堯母門と名づけた。弗陵は年七歳で身体は大きく、知能も優れていたので、武帝は弗陵を後継ぎに立てようとした。群臣をじっと観察してみると霍光のみ忠実で情に厚いとみて、太子の補佐の大任を果たさせようとした。侍従に、幼い成王が周公旦に背負われて諸侯の拝謁をうけている絵を描かせて、それを霍光に下賜して意を伝えた。その後、鉤弋夫人の過失をせめて、死を命じた。側近には「昔から国の乱れは君主が幼少、その母が若く、驕りと不品行でわがままなことで起こるものだ」ともらした。 その翌年武帝は崩じ、弗陵が位についた。燕王の旦が年長にも拘わらず帝位につくことができなかったので謀反を企てた。しかし昭帝は、旦を赦して罪に問わず、与(くみ)した者たちを誅殺した。 十八史略 雁書 2010-09-16 15 06 32 | 十八史略 前回漏れたので、遅れ馳せながら付け加えます。赦弗治 赦して治せず 弗は不に同じ、治は取り調べる意。 蘇武帰還す 始元六年、蘇武還自匈奴。武初徒北海上、堀野鼠、去草實而食之、臥起持漢節。李陵謂武曰、人生如朝露。何自苦如此。陵與衞律降匈奴、皆富貴。律亦屢勸武降。終不肯。漢使者至匈奴。匈奴詭言、武已死。漢使知之、言、天子射上林中、得鴈。足有帛書。言、武在大澤中。匈奴不能隠。乃遣武還。武留匈奴十九年。始以強壯出。及還、須髪盡白。拝爲典屬國。 始元六年、蘇武匈奴より還る。武、初め北海の上(ほとり)に徒(うつ)り、野鼠を掘り、草実を去(おさ)めて、之を食らい、臥起(がき)に漢の節を持す。李陵、武に謂って曰く、人生朝露の如し。何ぞ自ら苦しむこと此の如き、と。陵と衛律(えいりつ)とは匈奴に降(くだ)って、皆富貴なり。律も亦屡しば武に降(こう)を勧む。終に肯(がえ)んぜず。漢の使者、匈奴に至る。匈奴詭(いつわ)り言う、武、已に死す、と。漢の使之を知り、言う、天子、上林の中に射て、雁を得たり。足に帛書有り。言く、武は大澤の中(うち)に在り、と。匈奴隠すこと能わず。乃(すなわ)ち武を遣(や)って還す。武、匈奴に留まること十九年。始め強壮を以って出ず。還るに及んで須髪尽く白し。拝して典属国と為す。 始元六年に蘇武が匈奴より還って来た。蘇武はバイカル湖のほとりに流されたが、野鼠を捕り、草の実を貯めてこれを食い、寝起きするに漢の符節を身から離さなかった。さきに匈奴に降った李陵が蘇武に向って「人の一生は朝の露のようにはかないもの、どうして自らこんなに苦しんでいるのだ」と言った。李陵と衛律とは匈奴に降服して、富貴に暮らしていた。衛律もたびたび蘇武に降服を勧めたが最後まで承知しなかった。 その後、漢の使者が匈奴に来て蘇武の返還をせまった折、匈奴は偽って蘇武はもう死んだと告げた。漢の使者は偽りを見抜き、「近頃、天子が上林で狩をしていたとき、雁を射止められたところ足に手紙がつけてあり、武は大きな沢のほとりにいる。と書いてあったぞ、どう説明するのだ」と迫った。匈奴は隠しきれず、蘇武を還した。匈奴の地に留まること十九年、漢を出るときは頑強で壮んであったが、帰ったときは鬚も髪も真っ白になっていた。漢は蘇武を典属国の長官に任命した。 草実を去(おさ)め 去はしまうの意。 節 使者の印しとして天子が授けた旗。 帛書 帛は絹、これに書かれた手紙。須髪 須は鬚、あごひげ。 典属国 降服した異民族のことを司る官。 十八史略 霍光排斥の陰謀 2010-09-18 12 00 54 | 十八史略 左将軍上官桀子安、爲霍光婿。生女。立爲皇后。桀與安自以、后之祖・父、乃不若光以外祖專制朝事。桀與光爭權。時鄂國蓋長公主、爲所愛丁外人求封侯。不許。怨光。燕王旦自以帝兄常怨望。御史大夫桑弘羊爲子弟求官。不得。亦怨望。於是皆與旦通謀、詐令人爲旦上書言、光出都肄郎・羽林、道上稱蹕擅調莫府校尉、專權自恣。疑有非常。候光出沐日奏之。桀欲從中下其事、弘羊當與大臣共執退光。 左将軍上官桀(けつ)の子安(あん)は、霍光の婿たり。女を生む。立って皇后と為る。桀と安と自ら以(おも)えらく、后の祖・父なるに、乃ち光の外祖を以って朝事を専制するに若かず、と。桀、光と権を争う。時に鄂国(がくこく)蓋(こう)長公主(ちょうこうしゅ)は、愛するところの丁外人の為に封侯を求む。許されず。光を怨む。燕王旦は自ら帝の兄を以って常に怨望(えんぼう)す。御史大夫桑弘羊は子弟の為に官を求む。得ず。亦怨望す。 是に於いて皆旦と謀(はかりごと)を通じ詐(いつわ)って、人をして旦の為に書を上(たてまつ)らしめて言う、光、出でて郎・羽林を都肄(とい)せしとき、道上に蹕(ひつ)を称し、擅(ほしいまま)に莫府(ばくふ)の校尉(こうい)を調益(ちょうえき)し、権を専(もっぱら)にして自らほしいままにす。疑うらくは非常有らん、と。光の出沐(しゅつもく)の日を候(うかが)うて之を奏す。桀、中(うち)より其の事を下し、弘羊をして大臣と共に、執(と)って光を退くるに当らしめんと欲す。 左将軍上官桀の子の安は、霍光の婿となり、娘が生まれた。やがて娘は昭帝の皇后となった。桀と安が思うに、皇后の祖父でありまた父である我等が、皇后の外祖父で、朝事を専らにしている霍光に及ばぬ、と不満に思っていた。それで桀は次第に霍光と権力を争うようになった。この頃、昭帝の一番上の姉で、鄂国の蓋侯夫人は寵愛する丁外人を諸侯に取り立ててくれるよう頼んだが、許されず霍光を怨んでいた。燕王旦は自分が昭帝の兄であるのに天子になれなかったので、かねてから怨んでいた。また御史大夫の桑弘羊も自分の子供のために官職を与えられるよう頼んだが、得られず、これまた怨んでいた。 ここに至ってみな燕王旦と通じて、ある者をして旦の名で上書して「霍光は都を出て、郎軍や羽林軍を調練するとき、街道で天子と同じ格の先払いをさせ、勝手に幕府の将校を増やし選び権勢をもっぱらにし、ほしいままに振舞っております。あるいは重大な事態に至るやもしれません」と言わせた。この上奏文は霍光が参朝しない日をうかがって差し出された。上官桀は宮中にいてこの件を直ちに審議に付し、桑弘羊には大臣と共に強く主張して霍光を失脚させる役目を担わせる計画だった。 都肄 都は試みる、肄は習うで演習。 郎・羽林 郎は侍従武官、羽林は近衛兵。 蹕 天子の行列の先払い。 出沐日 休日、沐浴するために役所を出て休日としたから。 十八史略 昭帝霍光の窮地を救う 2010-09-23 10 43 21 | 十八史略 書奏。帝不肯下。明旦、光聞之、止畫室中不入。上問、大將軍安在。桀曰、以燕王告其罪、不敢入。詔召大將軍。光入。免冠頓首謝。上曰、將軍之廣明都郎、屬耳。調校尉以來、未能十日。燕王何以得知之。且將軍爲非、不須校尉。是時元鳳元年、帝年十四。尚書左右皆驚。而上書果亡。捕之甚急。 書奏す。帝肯(あえ)て下さず。明旦、光之を聞き、画室中に止まって入らず。上(しょう)問う、大将軍安(いづ)くにか在る、と。桀曰く、燕王、其の罪を告ぐるを以って、敢えて入らず、と。詔(みことのり)して大将軍を召す。光入る。冠を免(ぬ)ぎ頓首して謝す。上曰く、将軍、廣明に之(ゆ)いて郎を都(と)せしは属(このごろ)のみ。校尉を調して以来、未だ十日なる能(あた)わず。燕王何を以って之を知るを得ん。且つ将軍非を為さんとせば、校尉を須(ま)たざらん、と。是の時元鳳元年(前80年)にして帝年十四なり。尚書左右皆驚く。而して書を上(たてまつる)者果たして亡(に)ぐ。之を捕うること甚だ急なり。 訴状が奏上されたが、昭帝は自分の手元に留めおいた。翌朝霍光がこの事を聞くと画室に籠って入廷しなかった。帝が「大将軍はどこにいるか」と問うと、桀が答えて「燕王が光の罪を奏上したので入るのを憚っているのでしょう」と。昭帝はみことのりを下して大将軍を召した。霍光は参内すると冠をぬぎ、額を地につけて詫びた。昭帝は告げた「将軍が広明亭に行って郎軍を調練したのは、まだ最近のことだ。将校を選任してからは十日も経っていない。燕王がどうして知り得よう、それにもし将軍が何か事を起こそうと思ったとしても、将校などあてにするはずがなかろう」と。この時は元鳳元年、昭帝はまだ十四歳であった。尚書や左右の側近は皆帝の聡明さに驚いた。そして上書した者は姿をくらました。帝は逮捕せよと厳しく命じた。 十八史略 2010-09-25 10 37 27 | 十八史略 桀等懼白上、小事不足遂。上不聽。後、桀黨有譖光者。上輒怒曰、大將軍忠臣、先帝所屬以輔朕身。敢有毀者坐之。自是無敢復言。桀等謀令長公主置酒請光、伏兵挌殺之、因廢帝而立旦。安又謀誘旦、至誅之、廢帝而立桀。會有知其謀者、以聞。捕桀・安・弘羊等、并宗族盡誅之。蓋主與旦皆自殺。 桀等懼れて上(しょう)に白(もう)す、小事遂ぐるに足らず、と。上聴かず。後、桀の党に光を譖(しん)する者有り。上、輒(すなわ)ち怒って曰く、大将軍は忠臣、先帝の属(しょく)して以って朕が身を輔(たす)けしむる所なり。敢えて毀(そし)る者有らば之を坐せしめん、と。是より敢えて復言うもの無し。桀等、長公主をして酒を置いて光を請わしめ、兵を伏せて之を挌殺(かくさつ)し、因(よ)って帝を廃して旦を立てんと謀(はか)る。安、又、旦を誘(いざな)い、至らば之を誅し、帝を廃して桀を立てんと謀る。会々(たまたま)其の謀を知る者有り、以って聞(ぶん)す。桀・安・弘羊等を捕え、宗族を併せて尽く之を誅す。蓋主(こうしゅ)と旦と皆自殺す。 上官桀等は企みの露見を恐れて、昭帝に「些細なことです、厳しく追及することでもないでしょう」と申し上げたが、帝は承知しなかった。その後桀の仲間から霍光を讒言する者があった。昭帝は怒って、「大将軍は忠臣ゆえ、先帝が朕を補佐するよう遺言しておかれたものだ、それでもそしるならば罪に問うであろう」と言った。以後霍光をそしる者はなくなった。桀等は次に長公主に、酒宴を開いて霍光を招待させ、兵を伏せておいて打ち殺し、それに乗じて昭帝を廃し、旦を立てようと謀った。上官安はさらに旦をも招きよせてこれを殺し、父の桀を立てようと謀った。たまたまそのたくらみを知った者がいて、昭帝の耳に入れたので、帝は上官桀・安父子と桑弘羊らを捕え、その一族をも尽く誅殺した。蓋公主と燕王旦はともに自害した。 坐 罰する、連座の坐 十八史略 昭帝崩ず 2010-09-28 12 54 11 | 十八史略 四年、傅介子使西域、誘樓蘭王刺殺之、馳傳詣闕。以其爲匈奴反也。 元平元年、帝年二十一而崩。在位十四年。改元者三、曰始元・元鳳・元平。霍光爲政、與民休息、天下無事。昌邑王賀、哀王髆之子、武帝孫也。光迎賀入即位。尊皇后爲皇太后。賀淫戲無度。光奏廢之、迎立武帝曾孫。是爲中宗孝宣皇帝。 四年、傅介子(ふかいし)、西域に使いし、楼蘭王を誘(いざな)うて之を刺殺し、伝を馳せて闕(けつ)に詣(いた)る。其の匈奴の為に反間するを以ってなり。 元平元年、帝、二十一にして崩ず。在位十四年。改元すること三、始元・元鳳・元平と曰(い)う。霍光、政を為し、民と休息し、天下無事なり。昌邑王(しょうゆうおう)賀は哀王髆(はく)の子にして、武帝の孫なり。光、賀を迎え、入れて位に即(つ)かしむ。皇后を尊んで皇太后と為す。賀、淫戲(いんぎ)度無し。光、奏して之を廃し、武帝の曾孫を迎立(げいりつ)す。是を中宗孝宣皇帝と為す。 元鳳四年(前77年)に、傅介子という者が、西域に使者となって行き、楼蘭王を誘い出して刺殺し、駅馬を乗り継いで朝廷に駆けつけた。楼蘭王が匈奴と通じて離間をはかったからである。 元平元年(前74年)、昭帝が二十一歳で崩御した。帝位に在ること十四年改元すること三度、すなわち、始元・元鳳・元平である。その間、霍光が政務をとり、人々とやすらぎを共にしたので、天下は平らかであった。 昌邑王の賀は哀王髆の子で武帝の孫であった。霍光はその賀を朝廷に迎え入れて、即位させた。そして昭帝の皇后を皇太后として尊んだ。ところが賀は女色に耽ってとめどが無かったので、霍光は皇太后に奏上して、賀を廃し、武帝の曾孫を迎えて立てた。これが中宗孝宣皇帝(宣帝)である。 伝 駅伝。 闕 宮城の門。 反間 敵国同士の仲をさく計略をめぐらすこと 十八史略 獄中に天子の気あり 2010-09-30 15 38 39 | 十八史略 無辜なるも尚不可なり況や皇曾孫をや 孝宣皇帝初名病已。後改名詢。武帝之曾孫也。初戻太子據、納史良娣、生史皇孫進。進生病已。數月遭巫蠱事、皆繋獄。望氣者言。長安獄中、有天子氣。武帝遣使、令盡殺獄中人。丙吉時治獄。拒不納。曰、侘人無辜尚不可。況皇曾孫乎。使者還報。武帝曰、天也。 孝宣皇帝、初め名は病已(へいい)。後名を詢(じゅん)と改む。武帝の曾孫(そうそん)なり。初め戻太子拠(きょ)、史良娣(りょうてい)を納れ、史皇孫進を生む。進、病已を生む。数月にして巫蠱(ふこ)の事に遭い、皆獄に繋がる。気を望む者言う、「長安の獄中に、天子の気有り」と。武帝、使を遣わして、尽く獄中の人を殺さしむ。丙吉、時に獄を治む。拒んで納れず。曰く、「侘人(たにん)の無辜(むこ)なるも尚不可なり。況(いわん)や皇曾孫をや」と。使者還り報ず。武帝曰く、「天なり」と。 孝宣皇帝、もとの名は病已、後に詢と改めた。武帝のひ孫である。かつて武帝の太子であった戻太子拠が史氏のむすめを良娣として納れて、皇孫史進を生ませた。その子が病已である。病已の生後数ヶ月に巫蠱の事件に出遭い、連坐して係累すべて牢獄に繋がれた。 雲気を眺めて吉凶を占う者が、「長安の獄中に天子の雲気が見えます」と言った。武帝は使者を遣わして、獄中の者をことごとく殺させようとした。この時丙吉という者が牢獄を取り締まっていたが、使者を拒んで聞き入れず、「たとい誰であろうと、無実の人を殺すことはできません。まして帝の曾孫などもってのほかです」と言った。使者が還ってこの事を告げると武帝は「天命というべきか」と言っただけであった。 良娣 女官の官名、太子妃に次ぐ側室。 戻太子 宣帝が即位後に贈った諡(おくりな) 侘人 他人に同じ。 無辜 辜は罪。 十八史略 2010-10-07 08 06 29 | 十八史略 地節三年、路温舒上書言、秦有十失。其一尚存。治獄之吏是也。俗語曰、畫地爲獄、議不入、刻木爲吏、期不對。此悲痛辭。願省法制、寛刑罪、則太平可興。上爲置廷尉平。獄刑號爲平矣。 膠東相王成、勞來不怠、治有異績。賜爵關内侯。 魏相爲丞相、丙吉爲御史大夫。 地節三年、路温舒(ろおんじょ) 上書して言う、秦に十失有り。其の一尚存す。治獄(ちごく)の吏是なり。俗語に曰く、地を画(かく)して獄と為すも、入らざらんことを議し、木を刻して吏と為すも、対せざらんことを期す、と。此れ悲痛の辞なり。願わくは法制を省き、刑罪(けいざい)を寛(ゆる)うせば、則ち太平興す可し、と。上、為に廷尉平を置く。獄刑(ごくけい)、号して平と為す。 膠東(こうとう)の相、王成、労来(ろうらい)して怠らず、治に異績(いせき)あり。爵、関内侯を賜う。 魏相丞相と為り、丙吉、御史大夫と為る。 地節三年(前67年)に路温舒という者が宣帝に書を上(たてまつ)っていうには「秦に十の過失がありました。その一つは今もなお残っております。それは罪をさばく役人の苛酷さであります。俗に地面に線を引いてここは獄舎だと言えばその中には入るまいと思うし、木を削って獄吏だといえば、その前に立つことを厭うといいます。これは民の悲痛な声であります。どうか法を簡略にし、刑罰をゆるやかにしてください。そうすればおのずと太平の風が興りましょう」と。宣帝はこの上書を取り上げて廷尉平という官を設けた。その結果裁判が公平になったと称せられるようになった。 膠東王の宰相で王成という者は、民を労わり、なつかせて大きな治績をあげたので、関内侯の爵位を授けられた。 魏相が丞相となり、丙吉が御史大夫となった。 治獄之吏 裁判官。 議不入 議は思いめぐらす。期不對 期は心に決めること、対は裁判官の前に出て調べを受けること。 廷尉平 裁判の不公平をただす役。 十八史略 霍氏滅ぶ。 2010-11-18 16 15 50 | 十八史略 四年、霍氏謀反、伏誅。夷其族。告者皆封列侯。初霍氏奢縦。茂陵徐福上疏言、宜以時抑制、無使至亡。書三上。不聽。至是人爲徐生上書曰、客有過主人。見其竈直突、傍有積薪、謂主人、更爲曲突、速徒其薪。主人不應。俄失火。郷里共救之、幸而得息。殺牛置酒、謝其郷人。人謂主人曰、郷使聽客之言、不費牛酒、終無火患。今論功而賞、曲突徒薪無恩澤、焦頭燗額爲上客邪。上乃賜福帛、以爲郎。 四年、霍氏謀反し、誅に伏(ふく)す。その族を夷(たい)らぐ。告ぐる者、皆列侯に封ぜらる。初め霍氏、奢縦(しゃしょう)なり。茂陵の徐福、上疏(じょうそ)して言う、「宜しく時を以って抑制し、亡に至らしむること無かるべし」と。書三たび上(たてまつ)る。聴かず。是に至って人、徐生の為に上書して曰く、「客、主人を過(よぎ)るもの有り。その竈(かまど)の直突にして、傍らに積薪(せきしん)有るを見、主人に謂う、更めて曲突(きょくとつ)を為(つく)り、速やかにその薪を徒(うつ)せと。主人応ぜず。俄(にわ)かに火を失す。郷里共に之を救い、幸いにして息(や)むを得たり。牛を殺し、酒を置いて、その郷人に謝す。人、主人に謂って曰く、郷(さき)に客の言を聴(き)かしめば、牛酒を費やさず、終(つい)に火の患無かりしならん。今、功を論じて賞するに、曲突薪を徒せというものに恩沢無くして、頭を焦がし額を燗(ただ)らすものを上客となすかと」と。上乃ち福に帛(はく)を賜い、以って郎と為す。 地節四年に、霍氏一族が謀反をはかり、誅せられて皆殺しにされた。謀反を告発した者を皆列侯に封じた。以前より霍氏一門はおごりたかぶっていたので、茂陵の徐福というものが「今のうちに霍氏を抑えつけて、滅亡にまで至らないようにするべきでしょう」と書をたてまつった。上書は三度に及んだが、聴き入れられなかった。こうして霍氏の謀反が誅せられるに及んで、ある人が徐福の為にこう上書した「ある家を訪れたものが、竈の煙突がまっすぐで、傍に薪が積んであるのを見て主人に、新たに曲がった煙突に造り直し、薪を他所に移さないと火事になりますよ。と忠告したところ、主人は応じませんでした。やがてその竈から失火しましたが、村人たちの協力を得て消し止めることができた。主人は喜んで牛を殺し、酒を用意して村人たちに振るまい、感謝しました。ある人が主人に向って“先に客人の忠告を聴き入れていれば、牛や酒の用意も、火事の災いも無かったでしょう。ところが今、謝礼をする段になって、煙突を曲げなさい、薪を移しなさいと言ったものには何の音沙汰もなく、頭を焦がし、額を爛れさせた者だけをありがたがるとはどうしたことでしょう”と申したそうでございます」と。宣帝はその意を悟って徐福に絹を下賜し、さらに郎官に取り立てた。 曲突 火の粉がすくないからか。 過る おとずれるの意。 郷に 以前の意。 十八史略 霍氏の禍い驂乗にきざす 2010-11-24 08 47 45 | 十八史略 帝初立謁高廟、霍光驂乗。上嚴憚之。若有芒刺在背。後、張安世代光參乗。上從容肆體、甚安近焉。故俗傳、霍氏之禍、萌於驂乗。 帝、初めて立って高廟に謁するや、霍光驂乗(さんじょう)す。上(しょう)之を厳憚(げんたん)す。芒刺(ぼうし)の背に在るが若(ごと)し。後、張安世光に代って参乗す。上、従容肆体(しょうようしたい)甚だ安近す。故に俗伝う、霍氏の禍い驂乗に萌(きざ)す、と。 宣帝が即位した初め、高祖の廟に参拝のとき、霍光が陪乗したが、帝は心休まらず、まるで背中に棘がささったようであった。後に張安世光に代って陪乗するようになると、くつろいでなごやかに、近づき易くなった。それで世間では「霍氏一門の禍は、陪乗のときにきざしていたのだ」とうわさしあった。 十八史略 乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し(1) 2010-11-25 08 30 44 | 十八史略 北海太守朱邑、以治行第一、入爲大司農、渤海太守龔遂入爲水衡都尉。先是渤海歳饑、盗起。選遂爲太守召見問、何以治盗。遂對曰、海濱遐遠、不沾聖化。其民飢寒、而吏不恤。使陛下赤子、盗弄兵於潢池中耳。今欲使臣勝之邪。將安之也。上曰、選用賢良、固欲安之。遂曰、治亂民、如治亂縄。不可急也。願無拘臣以文法、得便宜從事。上許焉。 北海の太守朱邑、治行第一を以って、入(い)って大司農(だいしのう)と為り、渤海の太守龔遂(きょうすい)、入って水衡都尉(すいこうとい)と為る。是より先、渤海(ぼっかい)歳饑(う)え、盗起こる。遂を選んで太守と為す。召見(しょうけん)して問う、何を以って盗を治むると。遂対(こた)えて曰く、海浜、遐遠(かえん)にして、聖化に沾(うるお)わず。其の民飢寒(きかん)して、吏(り) 恤(あわれ)まず。陛下の赤子(せきし)をして、兵を潢池(こうち)の中に盗弄(とうろう)せしむるのみ。今臣をして之に勝たしめんと欲するか、将(はた)之を安(やす)んぜんかと。上曰く、賢良を選用するは、固(もと)より之を安んぜんと欲するなり、と。遂曰く、乱民を治むるは、乱縄を治むるが如し。急にすべからざるなり。願はくは臣を拘するに文法を以ってすること無く、便宜事に従うを得しめよ、と。上、焉(これ)を許す。 北海郡(山東省)の太守の朱邑は、治績徳行とも第一であるとして、朝廷に入って大司農となり、渤海(河北省)の太守龔遂は、朝廷に入って水衡都尉になった。これというのは、渤海郡は年々飢饉に見舞われ盗賊が増えたので宣帝は龔遂を選んで太守に任命した。そこで遂を召して聞いた「どうやって盗賊を取り締まるつもりか」と。すると遂は「渤海は海辺の僻地で陛下の徳に浴しておりません。民が飢えても役人が救おうともせず、いわば陛下の赤子が溜池の中で刃物を振り回すようにしむけているようなものです。陛下は私に武力で鎮圧するのをお望みでしょうか、それとも安撫するのをお望みでしょうか」と問うた。宣帝は「わざわざ優れた人材を登用するのは安撫することを望めばこそだ」と答えた。遂は「乱れた民を治めるのはもつれた縄を解くようなもので、性急であってはなりません。どうか私を煩わしい法規でしばることなく、一存で取り計らえるようにしていただきたい」と申し上げた。宣帝はこれを許した。 水衡都尉 河川の水路灌漑、宮中の御苑を管理する官。 遐遠 遐も遠もとおいこと。兵 武器。 潢池 水溜り、渤海湾にたとえる。 https //blog.goo.ne.jp/ta-dash-i/c/42f06b7a51abc13bbb90975593b736b8/93 十八史略 闕(けつ)を守って号泣する者数万人 2010-11-30 17 06 11 | 十八史略 趙廣漢腰斬さる 元康元年、殺京兆尹趙廣漢。初廣漢爲潁川太守。潁川俗、豪傑相朋黨。廣漢爲缿項筩、受吏民投書、使相告訐。姦黨散落、盗賊不得發。由是入爲京兆尹。尤善爲鉤距、以得其情、閭里銖兩之姦皆知、發姦擿伏如神。京兆政清。長老傳、自漢興、治京兆者、莫能及。至是人上書言、廣漢以私怨論殺人。下廷尉。吏民守闕號泣者數萬人、竟坐要斬。廣漢廉明、威制豪強、小民得職。百姓追思歌之。 元康元年、京兆の尹(いん)趙廣漢を殺す。初め廣漢、潁川(えいせん)の太守と為る。潁川の俗、豪傑相朋黨す。廣漢、缿項筩(こうこうとう)を為(つく)り、吏民の投書を受け、相告訐(こくけつ)せしむ。姦盗散落し、盗賊発するを得ず。是に由(よ)って入って京兆の尹と為る。尤も善く鉤距(こうきょ)を為して、以って其の情を得、閭里(りょり)銖両(しゅりょう)の姦も皆知り、姦を発し、伏を擿(てき)すること神(しん)の如し。京兆政(まつりごと)清し、長老伝う、漢興ってより、京兆を治むる者、能く及ぶ莫(な)しと。 是(ここ)に至って、人上書して言う、廣漢、私怨を以って人を論殺(ろんさつ)す、と。廷尉に下す。吏民、闕(けつ)を守って号泣する者数万人、竟(つい)に坐して要斬(ようざん)せらる。廣漢、廉明にして、豪強を威制(いせい)し、小民職を得たり。百姓(ひゃくせい) 追思(ついし)して之を歌う。 京兆の尹 京兆は首都のこと、兆は衆と同じ人が多い所、長安、尹は長官。 潁川 河南省の郡名。 缿項筩 缿筩で目安箱、項は誤って入った文字か。 告訐 訐はあばく、そしる。 鉤距 かぎで引っ掛けて引き出す、内情を探り出す。 銖両 わずかな目方、軽微なもののたとえ。 発も擿もあばくこと。姦は悪事伏は隠し事。 論殺 罪を調べ論じて死刑にすること。 闕を守って 宮門を囲んで。 要斬 腰斬りの刑。 以下次回に 元康元年(前65年)に都の長官、趙広漢が殺された。初め趙広漢は潁川の太守となったが、潁川郡の風俗は土着の勢力が徒党を組んで跳梁していた。広漢は投書箱を設けて、役人や人民からの投書を受け、悪事を互いにあばかせた。悪党どもは散り散りになって、悪事を働くことができず、鳴りを潜めてしまった。それで召しだされて京兆の長官になったのである。 広漢は隠された内情を探り出すのがたくみで、よく内情を探って、村里の些細な隠し事も知悉して、悪事をあばくこと神業のようであった。都の政治もすっかり清潔になり、長老たちは口々に「漢の代になって京兆を治めた長官の中で、広漢に及ぶ者はいない」とたたえた。ところがこの年、「広漢は私怨のために罪の無いものを論断して死刑にしている」と上書したものがあり、宣帝は廷尉に引き渡して、調べさせた。小役人から市民まで無実を訴えて泣き叫ぶものが数万にも及んだが、遂に腰斬の刑に処せられた。趙広漢は清廉公明で豪族や権力者をも制圧したので、何びとも安心して仕事にはげむことができた。ひとびとは広漢の徳を追慕して歌に託してその死を悼んだ。 十八史略 干(もと)むるに私を以ってすべからず 2011-01-11 08 31 51 | 十八史略 以尹翁歸、爲右扶風。翁歸初爲東海太守、過辭廷尉于定國。定國欲託邑子。語終日、竟不敢見曰、此賢將。汝不任事也。又不可干以私。以治郡高第、遂入。治常爲三輔最。 尹翁帰(いんおうき)を以って、右扶風(ゆうふふう)と為す。翁帰初め東海の太守と為り、過(よぎ)って廷尉于定国に辞す。定国、邑子(ゆうし)を託せんと欲す。語ること終日、竟(つい)に敢えて見(まみ)えしめずして曰く、此れ賢将なり。汝、事に任(た)えざるなり。又、干(もと)むるに私を以ってすべからず、と。治郡の高第を以って、遂に入る。治(ち)、常に三輔の最たり。 尹翁帰という者を右扶風の長官に任命した。翁帰は初め東海郡の長官となった時、廷尉の于定国のもとにいとま乞いに立ち寄った。定国は後輩の就職について翁帰に依頼しようと思い終日対談したが、ついにその後輩を引き合わせることができなかった。そして「あの方は大将軍である、とてもそなたでは任務に堪えられぬだろう。またあのような高潔な人物に私情をもって職を求めるべきではなかろう」と後輩に諭した。翁帰はやがて郡の治績第一として召されて右扶風の長官になったのである。ここでも治績は三輔の中で第一であった。 右扶風 都の周辺を警護するため置かれた行政区画の名、またその長官。 邑子 同郷の子弟。 高第 優等。 三輔 長安を中心とした三行政区画、長安以北の京兆、長陵以北の左馮翊、渭城以西を右扶風として都の治安を守った。 十八史略 此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり 2011-01-13 17 50 58 | 十八史略 二年、上欲因匈奴衰弱、出兵撃其右地、使不復擾西域。魏相諌曰、救亂誅暴、謂之義兵。兵義者王。敵加於己不得已而起者、謂之應兵。兵應者勝。爭恨小故、不忍憤怒者、謂之忿兵。兵忿者敗。利人土地・貨寶者、謂之貪兵。兵貪者破。恃國家之大、矜人民之衆、欲見威於敵者、謂之驕兵。兵驕者滅。匈奴未有犯於邊境。今欲興兵入其地。臣愚不知此兵何名者也。 今年計、子弟殺父兄、妻殺夫者、二百二十二人。此非小變。左右不憂、乃欲發兵報纎芥之忿於遠夷。殆孔子所謂、吾恐季孫之憂、不在顓臾、而在蕭牆之内。上從相言。 二年、上、匈奴の衰弱に因って、兵を出だして其の右地(ゆうち)を撃ち、復(また)西域を擾(みだ)さざらしめんと欲す。魏相、諌めて曰く、乱を救い暴を誅する、之を義兵と謂う。兵、義なる者は王たり。敵、己に加え、已むを得ずして起こる者、之を応兵と謂う。兵応なる者は勝つ。小故(しょうこ)を争恨(そうこん)し、憤怒に忍びざる者、之を忿兵(ふんぺい)と謂う。兵、忿なる者は敗る。人の土地・貨宝を利する者、之を貪兵(たんぺい)と謂う。兵、貪なる者は破る。国家の大を恃み、人民の衆を矜(ほこ)り、威を敵に見(しめ)さんと欲する者、之を驕兵(きょうへい)と謂う。兵、驕なる者は滅ぶ。匈奴未だ辺境を犯すこと有らず。今、兵を興して其の地に入らんと欲す。臣愚、此の兵、何の名あるものなるかを知らざるなり。 今年計るに、子弟の父兄を殺し、妻の夫を殺す者、二百二十二人あり。此れ小変に非ず。左右憂えず、乃ち兵を発して繊芥(せんかい)の忿(いか)りを遠夷(えんい)に報ぜんと欲す。殆んど孔子のいわゆる、吾季孫の憂えは顓臾(せんゆ)に在らずして、蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり、と。上、相の言に従う。 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 2011-01-15 13 38 26 | 十八史略 憂いは蕭牆(しょうしょう)の内に在り 元康二年(前64年)、宣帝は匈奴の衰退に乗じ、兵を出して西の地を攻め、再び西域を蹂躙されないようにしようと考えた。丞相の魏相が諌めて「国の乱を救い暴虐を誅するために兵を出す、これを義兵といいます。義のために兵を起こすものは王者になることができます。敵が自国に戦をしかけたのでやむを得ず兵を起こすものを、応兵といいます。応じて兵を起こすものは勝つことができます。些細なことを争い恨み、憤怒を忍ぶことができずに兵を起こすものを忿兵といいます。忿怒にかられて戦う兵は敗れます。人の土地、財宝を奪わんとして兵をおこすものを貪兵といいます。むさぼる兵は負けます。自国の強大なるを恃み、人民の衆(おお)いことを誇り、威を示そうとして兵を起こすものを驕兵といいます。驕る兵は滅びます。さて今、匈奴ががまだ国境を侵していないのに、兵を出して匈奴の地に侵攻しようとなされております。臣は愚かで、このような兵を何と名づくか知りません。 ところで今年の数字を見ますと、人の子弟で父兄を殺めたもの、人の妻でその夫を殺した者が二百二十二人に達しております。これは決してただ事ではございません。ところが陛下の側近のかたがたはそれを一向に気にかけず、兵を出して遠い夷狄に対してほんの小さい怒りをはらそうとしています。これこそ孔子の言われた『季孫氏の憂いとするところは、遠国の顓臾にあるのではなく、かえって家の内にあるのではないかと私は心配する』に当たるものであります」と。そこで宣帝は魏相の言をとりいれて、匈奴征伐を思いとどまれた。 右地 南面して右手にあるから西方。 己(おのれ)と已(や)むと巳(み)の区別がわかり易い言い方があります。「巳(み)は上に、すでに、やむ、のみ、中ほどに、おのれ、つちのと、下に付くなり」あるいは「巳は通す、おのれは出でず、すで半ば」 繊芥 極めて小さいこと。 顓臾 孔子の時代魯に親属する小国。 季孫氏の・・・は論語季氏篇にある。 蕭牆 君臣会見の所に立てる屏風、また垣、囲い、転じて家のなか、国内。 論語 季氏篇 2011-01-15 13 40 51 | 十八史略 論語 季氏篇 ―前略―丘は聞けり、国を有(たも)ち家を有つ者は寡(すくな)きを患(うれ)えずして均(ひと)しからざるを患え、貧しきを患えずして安らかざるを患うと。蓋し均しきときはまずしきこと無く、和すれば寡きこと無く、安んずれば傾くこと無し。夫れ是くの如し。故に遠人服せざるときは則ち文徳を修めて以ってこれを来たし、既にこれを来たすときは則ちこれを安んず。今、由と求とは夫子を相(たす)けて、遠人服せざれども来たすこと能わず、邦(くに)分崩離折(ぶんぽうりせき)すれどもまもること能わず。而して干戈を邦内に動かさんことを謀る。吾恐る、季孫の憂いは顓臾(せんゆ)に在らずして蕭牆(しょうしょう)の内に在るを恐るるものなり 私はこう聞いている。「国を保ち家をまもる者は人民の少ないことを心配せずに平等でないことを心配し、貧しいことを心配しないで、安らかでないことを心配する」と。均しいときは貧しいということが無く、平和であれば、人が少ないと気にかけることも無い。安らかであれば国も家も傾くことが無いのである。であるから遠くの属国が服従しないときは、徳を以って来朝するように仕向け、来たときには安らかに接するべきである。いま、由(字は子路、姓は仲、名が由)と求(字は子由、姓が冉、名が求)は夫子(季孫氏)を補佐する身でありながら顓臾が服さないときも来朝させることができず、魯国が分裂の危機にあっても守ることができない、その上兵を出そうとさえしている。私が恐れているのは季孫氏の危機は遠い属国にあるのではなく、本当は身近な垣根の内側にあるのだ。 十八史略 疏廣・疏受、骸骨を乞う 2011-01-18 08 23 43 | 十八史略 子孫の為に産業を立てず。 三年、太子太傅疏廣、與兄子太子少傅疏受、上疏乞骸骨。許之、加賜黄金。公卿・故人、設祖道、供張東門外。送者車數百兩。道路觀者皆曰、賢哉、二大夫。既歸、日賣金共具、請族人・故旧・賓客、相與娯樂、不爲子孫立産業。曰、賢而多財、則損其志、愚而多財、則其過。且夫富者衆之怨也。吾不欲其過而生怨。 三年、太子の太傅(たいふ)疏廣(そこう)、兄の子、太子の少傅疏受(そじゅ)と、上疏(じょうそ)して骸骨を乞う。之を許し、黄金を加賜す。公卿・故人、祖道を設け、東門の外に供張(きょうちょう)す。送る者、車数百両。道路観る者皆曰く、賢なるかな、二大夫と。既に帰って、日に金を売り共具(きょうぐ)して族人・故旧・賓客を請い、相与に娯楽し、子孫の為に産業を立てず。曰く、賢にして財多ければ、則ち其の志を損し、愚にして財多ければすなわち其の過ちを益す。且つ夫れ富は衆の怨みなり。吾其の過ちを益し、怨みを生ずることを欲せず、と。 元康三年に太子の太傅疏廣と兄の子で少傅の疏受とが、書をたてまつって辞職を願い出た。宣帝はこれを許したうえで、黄金を賜わった。公卿やなじみの人たちが、道祖神を祭って道中の安全を祈願し、東門の外で送別の宴を張ったところ、見送る者の車数百両にのぼった。これを道路で見物した人々は口ぐちに「えらいお方じゃお二人は」と褒めたたえた。 二人は故郷に帰ると毎日賜った黄金を銭に替えて酒肴をととのえて親戚、友人、賓客を招いてともに楽しみ、子孫の為に財産を残そうとしなかった。そしてこう言った。「子孫がもし賢にして財産があると、その志をくじき、愚かであれば過ちを深くしてしまう。そのうえ富というものはとかく人の恨み、嫉みを招くもとになるものだ。私は子孫が過ちを増し、人の恨みを買うことを望んではいないのだよ」と。 太傅 太子の守役、少傅はその下役。 骸骨を乞う 辞職を願う、仕官して帝に捧げたわが身の残骸を乞いうける意。 供張 供は酒食をととのえること、張は宴を張ること。 産業 生活するための仕事、生業。なお西郷隆盛の詩に「児孫の為に美田を買わず」がある。 十八史略 老臣に踰(こ)ゆるもの無し 2011-01-20 08 27 30 | 十八史略 神爵元年、先零與諸羌畔。上使問後將軍趙充國。誰可將者。充國年七十餘、對曰、無踰老臣。復問、將軍度羌虜何如、當用幾人。充國曰、兵難遙度、願至金城、圖上方略。乃詣金城、上屯田奏、願罷騎兵、留歩兵萬餘、分屯要害處。條不出兵留田便宜十二事。奏毎上、輒下公卿議。初是其計者什三、中什伍、最後什八。魏相任其計可必用。上從之。 二年、司隷校尉蓋寛饒、奏封事。上爲怨謗、下吏。寛饒自剄。 神爵元年、先零(せんれい)、諸羌(しょきょう)と畔(そむ)く。上(しょう)後将軍趙充国に問わしむ。誰か将たる可き者ぞ、と。充国年七十余、対(こた)えて曰く、老臣に踰(こ)ゆるもの無し、と。復た問う、将軍、羌虜を度(はか)ること何如ん、当(まさ)に幾人を用うべき、と。充国曰く、兵は遥かには度りがたし、願わくは金城に至って、図して方略を上(たてまつ)らん、と。すなわち金城に詣(いた)り、屯田の奏を上り、願わくは、騎兵を罷(や)め、歩兵万余を留め、分(わか)って要害の処に屯(とん)せん、と。兵を出ださずして留田(りゅうでん)する便宜十二事を條(じょう)す。奏上る毎に輒(すなわ)ち公卿に下して議せしむ。初めは其の計を是とする者十に三、中ごろは十に五、最後には十に八。魏相、其の計の必ず用う可きを任ず。上、之に従う。 二年、司隷校尉(しれいこうい)蓋寛饒(こうかんじょう)、封事を奏す。上以って怨謗(えんぼう)すと為して吏に下す。寛饒、自剄す。 神爵元年(前61年)に、先零をはじめ羌の諸族が叛いた。宣帝が、誰を大将にするべきか後将軍の趙充国に尋ねさせた。時に充国は七十余歳であったが、「この老人にまさる者はございません」と答えた。さらに「将軍が羌虜を討伐する方策はどうか、どれほどの兵を投入するべきか」と問うと、「戦のことは実地を見ずに策をとやかく言うべきではありません。どうか金城郡まで行き、そこで地勢を図にした上でお答え致しとうございます」と言った。そこで充国は金城郡に至ると「騎兵をやめて歩兵一万余りを防備の要地に分けて駐屯させ平時には農耕に従事させるようにさせてください」。そして兵を出さずに留まって耕す利点十二を箇条書きした。上奏される度に、公卿に見せて審議させた。初めはその計を是とする者十人中三人、中ごろには十人中五人、最後には十人中八人に達した。丞相の魏相もその計が必ず用いられるべきであると賛同した。宣帝はその意見に従った。 神爵二年に司隷校尉の蓋寛饒が、密封した意見書をたてまつった。宣帝は自分を怨みそしっているとして役人に下げわたした。寛饒は自ら首をはねて死んだ。 先零 羌の諸族のなかで、最も精強な族。 後将軍 将軍を前後左右の名を冠して分けて呼んだ。 金城 甘粛省にある郡名。 任 保障する。 司隷校尉 警視総監に近い役職
https://w.atwiki.jp/internetkyogakusys/pages/428.html
十八史略卷之四四一四侃.嘗て、夢に八翼を生じて天門に上り、八重に至り、左翼を折つ陶侃折翼のて下る。力能く跋扈するも、折翼の夢を思ふ毎に、輒ち自ら制す。夢は、軍に在ること四十一年、明毅善く斷ず。人欺く能はず南陵より白帝に至るまで、數千里、路、遺ちたるを拾はず。そ後趙の石虎、其主弘を殺して、自立して趙の天王となり、勒の種の二を殺して遺すなし。成、國號を改めて漢といふ。李雄、兄の子班を以て太子となす。雄、卒す。班、立つ。雄の子越、班を殺して、其弟期を立つ。期、雄の弟漢王壽の威名を忌み、出でて、外に屯せしむ。壽、還り襲うて、期を弑して自立す。什翼犍代王什翼腱立つ。之より先、代王賀侮卒す、弟紇那嗣ぐ。紇那、出奔す。欝律の子、翳槐立つ。紇那、復た還る。翳槐、趙に奔る。趙、翳槐を代に納る。翳槐、卒するに臨み、諸大人に命じて、弟什翼犍を立てしむ。猗虚の死せしより國に內難多く、部落離散す。什翼腱、雄勇にして智略あり、能く祖業を修む。始めて、百官を制뫃し、號令明白、政事〓簡、百姓之に安んず。是に於て、東は減貊より西は破落那に及び、南は陰山を距て、北は沙漠に盡くるまで、さ率ね皆歸服す。衆數十萬人あり。拓跋氏、之より愈よ大なり。晉の丞相王導、卒す。初め、帝、位に卽いて沖幼、導を見る毎に、必ず拜す、旣に、冠するも、猶ほ然り。政を導に委す。導、門東晉-顯宗成皇帝-四一五 十八史略卷之四四一六地を以て、王述を掾となす。述未だ名を知られず、人之を痴といふ。旣に見るや、江東の米價を問ふ。述目を張つて答へず。導ず王掾痴なら曰く、王掾、痴ならずと。導、言を發する每に、一座賛歎せざるな?し述色を正しうして曰く、人堯舜に非ず、何ぞ每事善を盡すを得むと。導容を改めて、之を謝す。導、性寬厚、委任する所の諸將、多く法を奉ぜず。大臣、之を患ふ。庾亮、兵を起して導を廢すせむと欲す。或ひと、導に勸めて密に備へしむ。導曰く、吾、元規と休戚、是れ同じ。元規、若し來らば、吾、則ち、角巾して第に歸らむ、復た何ぞ懼れむやと。亮、外鎭に居ると雖も、然も、はるかに朝權を執り、上流に據つて强兵を擁し、勢に趨く者多く之に歸す。국導、內平なる能はず。嘗て、西風に遇ふて塵起るや、扇を擧げて、くわよ〓自ら蔽ひ、徐に曰く、元規の塵、人を汚すと。導、簡素寡欲、善く;事に因つて功を就す。日用の益なじと雖も、然も、歲計は餘あり。ちよこ〓は、三世に輔相として、倉に儲穀なく、衣、帛を重ねず。晉の司空庾亮卒す。初め、蘇峻の亂、亮之を激するなり。峻; 平らぐや、亮、泥首して罪を謝し、外鎭を求めて、自ら致す。後、と江〓等の州の諸軍事を都督す。殷浩を辟して、參軍となす。浩、褚哀と、皆、識度〓遠、善く老、易を談じ、名を江東に擅にす。而して、浩、尤も風流の爲に宗とせらる。亮、中原を開復せむと欲す。上疏して、大衆を率ゐ、移つて石城に鎭し、諸軍を遣はして、江汚東晉-顯宗成皇帝-四一七 十八史略卷之四四一八に羅布せしめて、趙を伐つの規を爲さむを請ふ。蔡謨曰く、大江を以て蘇 峻を禦ぐこと能はず、安んぞ能く沔水を以て石虎を禦がむと。乃ち亮に詔して、鎭を移すを聽さず。是に至つて武昌に卒す。晉、慕容皝を封じて燕王となす。旣の父、遼東公となつてより、旣を立てて世子となす。雄毅にして權略多く、經術を喜ぶ。魔卒すす。皝立つ。其下、勸めて、王と稱せしむ。皝晉に謂はしむ、遂に之を封ず。と、帝在位十八年、頗る勤儉の德あり。改元するもの二、曰く、咸和咸康。崩ず。二子丕、奕、襁褓に在り、帝の母弟瑯琊王立つ、これを康皇帝となす。【康皇帝】名は嶽、成帝崩ずるに臨んで、嶽を以て嗣となす。遂に卽位す。一.庾翼都督〓江等の州の軍事庚翼、人と爲り慷慨、功名を喜んで、浮華を尙ばず。殷浩、才名、世に冠たり。翼、之を重んぜずして曰く、この輩、宜しく、之を高閣に束ね、天下太平を俟つて、徐に其任を議すべきのみと。時人、浩を管葛に擬し、其出處を伺うて、以て興亡をトす。曰く、淵源出でざれば、當に蒼生を如何すべきと。翼、浩を請うて、司馬となす。應ぜず。翼王夷甫を以て、之を嘲る。す桓溫瑯琊の内史桓溫、豪爽にして風〓あり。翼、嘗て之を薦めて曰く、英雄の才、宜しく委ぬるに方召の任を以てすべしと。是に至つて、東晉-康皇帝-四一九 十八史略卷之四四二〇〓翼、胡を滅し、蜀を取るを以て己の任となし、衆を悉くして、北伐せむと欲し、移つて、襄陽に鎭す。翼に詔して、征討諸軍を都督せしむ。翼溫を以て、前鋒の督となす。漢主李壽、卒す。子勢立つ。帝在位三年、崩ず。改元するもの一曰く、建元。太子立つ、之を孝宗穆皇帝となす。총【孝宗穆皇帝】名は聃、三歲にして卽位す。會稽王昱、政を輔く。庾翼、卒す。桓溫を以て、〓梁等の州の軍事を都督せしむ。翼ヘ初め其子を表して〓州を領せしむ。何充曰く、〓楚は國の西門、豈に白面の少年を以て之に當つべけむや。桓溫は、英略人に過ぐ、西溫が不臣の志あるを知り、任、溫に出づる者なしと。丹陽の尹劉惔、昱に謂つて曰く、溫は形勝の地に居らしむべからずと、昱聽かず。竟に溫を以て、翼に代ふ。漢主李勢、驕淫にして、國事を恤ひず。桓溫、師を師ゐて、漢を伐つ。拜表して、卽ち行く。進んで成都に至るや、勢降る。建康に送る。漢亡ぶ。燕王慕容就、卒す。子雋立つ。;·趙天王石虎、帝と稱す。尋いで卒す。子世、立つ。(其兄遵、之を弑して自立す。趙、亂る。晉の征討都督褚哀、表して、趙を伐つをそ請ふ朝野以爲へらく、中原期を指して復すべしと。蔡謨、獨り以東晉-孝宗穆皇帝-四二一 十八史略卷之四四二二評爲へらく、を捜査 (電話力を量るに若くはなし、は急ずり所德を度り、謂德ら度の分表を經營すれば、哀5,カ恐らくは、憂、朝廷に及ばむと。將を遣す。果して敗沒す。燥して敗る焦進する者必ず趙の蒲洪、使を遣して、晉に降る。洪、趙に事ふる累世。是に至つて、石閔、趙主遵に言つて曰く、蒲洪は人傑なり。今、關中に鎭す。恐らくは秦雍、國家の有に非ざらむと。遵洪の都督を罷む。洪、怒つて、枋頭に歸り、遂に晉に通ず。凉州の張重華、自ら凉王と稱す。初め、惠帝の世、張軌、凉州刺史となり、威西土に著はる。懷帝の陷沒するや、軌兵を遣して、愍帝を長安に助く。帝、軌を以て、凉州の牧西平公となす。軌卒す。子寔、立つ。寔、妖賊の爲めに殺さる。弟茂、立つ。趙主劉曜、茂を擊つ。茂趙に降る。茂、卒す。寔の子駿、立つ。茂、終に臨んで、駿に語る、必ず晉に奉ぜよ、失ふべからずと。駿復た後趙の石勒に臣たりと雖も、之を恥ぢ、成帝の時、道を蜀に假り、以て晉に通ず。駿、卒す。子重華、立つ。晉使を遣し、仍つて、西平公に拜す。重華、自ら王となる。後趙の石鑑、其主遵を弑して、自立す。石閔、又鑑を幽し、之をこと〓〓殺して自立し、國號を改めて魏といひ、虎の三十八孫を殺し、盡さく石氏を滅す。閔、姓は冉、石氏に養はる。是に至つて、其姓に復す。後、燕に破られ、執へて之を殺す。蒲洪、自ら三秦王と稱し、姓を苻と改む。洪、先に趙將麻秋を擒東晉-孝宗穆皇帝-四二三 十八史略卷之四四二回にす。殺さずして、其言を用ゐ、宴するに因つて、秋に鴆せらる。千萬元秋を斬り、代つて、洪の衆を領す。健、長安に入り、自ら秦天王と稱し、旣にして、帝と稱す。燕王雋、帝と稱す。趙の姚襄、晉に歸し、復た叛す。襄の父弋仲は、南安赤亭の羌曾なり。懷帝の末、戎夏、襁負して、之に從ふ者數萬、自ら扶風公と稱す。其後前趙の劉曜に服し、又、後趙の石勒、石虎に事ふ。虎、甚だ之を重んじ、以て冠軍大將軍となす。虎死し、趙亂る。冉閔、趙を滅すに至つて、七仲、使を遣して、晉に降る。七仲、卒す。寒、其衆を率ゐて、晉に來る。襄に詔して、誰城に屯せしし)む。後、歷陽に屯す。揚豫州の都督般浩、壽春に在り。襄の强盛を1惡み、將をして之を襲はしむ。襄に斬らる。之より先、朝廷、中原大に亂ると聞き、復た進取を謀る。浩.任を受け、連年北伐して功なし。是に至つて、諸軍を率ゐて、再擧す。襄、甲を伏せて、之を邀ふ。浩、山桑に至る。襄縱擊す。浩、大に敗れて走る。凉の張重華卒す。子曜靈立つ。其下、之を廢して張祚を立つ。晉の桓溫、殷浩の敗に因つて、請うて、浩を廢し、免じて庶人となす。朝廷、初め、浩を以て溫に抗す。浩、廢す。是より、內外の大權、一に溫に歸す。浩、愁怨すと雖も、辭色に形はさず、嘗て、とつ!さ、空に書して、咄咄怪事の字を作る。之に久しうして、郗超、溫に勸東營-孝宗穆皇帝-四二五 十八史略卷之四四二六評を誤殷非非非たて空十慮あ浩數つら答所亦を囘てん書め、浩をして、令僕に處らしめ、書を以て、之に〓ぐ。浩、欣然た似似似亡達竟開事にり。答書、誤あらむことを慮つて、開閉すること十數、竟に空函而而而びしに閉英る身函を達す。溫、大に怒つて、遂に絕つ。謫所に卒す。學者雄桓溫、師を師ゐて、秦を伐ち、大に秦兵を藍田に敗り、轉戰して國士を暴灞上に至る。秦主苻健、長安の小城を閉ぢて、自ら守り、三輔、皆と露のいす眞ふる相べし來り降る。溫、居民を撫諭して、安堵せしむ。民、爭つて、牛酒を持して迎勞し、男女路を夾んで之を觀、耆老泣を垂るる者あり、日く圖らざりき、今日復た官軍を觀むとはと。北海の王猛、字は景王猛虱を捫談ず旁若無つて當世を略個儻にして大志あり、華陰に隱居す。溫の關に入るを聞いて、人褐を披いて、之に謁し、虱を捫つて、當世の務を談ず、旁に人なき評が若し。之を異とし、猛に問うて曰く、吾、命を奉じて、殘賊る桓天失遂の溫に明人溫、く見王なを猛ふてを下ひを併を除く、然るに、三秦の豪傑、未だ至る者あらざるは、何ぞや。猛失せは曰く、公、數千里を遠しとせず、深く敵境に入る。今、長安は咫尺なり。而して、滿水を渡らず、百姓未だ公の心を知らず、至らざる所以なりと。溫、默然として以て應ずるなし。溫、秦兵と白鹿原に戰ふ、利あらず。秦人、野を〓む。溫の軍、食に乏し。猛と倶に還らむと欲す、猛、就かず。秦主健、卒す。子生、立つ。凉の張祚、淫虐にして弑せらる。子玄觀立つ。上姚襄、燕に降り、北、許昌に據り、又洛陽を攻む。桓溫、諸軍を東膏-孝宗穆皇帝-四二七 十八史略卷之四四二八督して、襄を討ち、進んで河上に至り、寮屬と共に平乘樓に登り、北、中原を望んで歎じて曰く、神州をして陸沈せしむる百年、王夷甫諸人、其責に任ぜざるを得ずと。伊水に至る。襄、戰つて、頻りに敗れて走る。溫、金墉に屯し、諸陵に謁し、鎭戍を置いて歸る。襄將に、西、關中を圖らむと欲す。秦、兵を遣し、拒ぎ擊つて、襄を斬る。襄の弟 長、衆を以て秦に降る。秦の苻堅、其君生を弑し、自立して、秦の天王となる。王猛を堅に薦むる者あり、一見、舊の如し。自ら謂ふ、玄德の孔明に於ける苻堅王猛一見如舊が如しと。一歲中、五たび官を遷す。異才を擧げ、廢職を修め、農桑を課し、困窮を恤む。秦民大に悅ぶ。燕主慕容雋、卒す。子障立つ。晉の桓溫、謝安を以て征西司馬となす。安、少にして重名あり、前後徵辟、皆、就かず。士大夫、相謂つて曰く安石出でずむば、蒼生を如何と。年四十餘、乃ち出づ。帝在位十七年、崩ず。改元するもの二、曰く、承和、升平嗣なし成帝の子瑯琊王立つ。之を哀皇帝となす。【哀皇帝】名は不、卽位二年にして疾に寢ね、又一年にして崩ず。改元するもの二、曰く、隆和、興寧。弟瑯琊王立つ、之を帝奕となす。【帝奕】名は奕、成帝の幼子なり。旣に位に卽き、會稽王昱を以て東菅-孝宗穆皇帝-哀皇帝-帝奕-ニ元 十八史略卷之四四三〇じようしやう丞相となす。くわんをんだいしはせうしよ桓溫、哀帝の時より、大司馬となり、中外諸軍事を都督し、尙書ろくやうしうBillう。こじゆくちんうてうの事を錄し、揚州の牧を加へられ、移つて、姑孰に鎭す。郗超を以髯參軍短主わうじゆんしゆほぜんさんぐんたんしゆ簿て參軍となし、王珣を主簿となす。人、語して曰く、髯參軍、短主ぼ上こうよろこいか簿能く公をして喜ばしめ、能く公をして怒らしむと。えんじんらくやうせおとしいじゆしやうをんしひき燕人、洛陽を攻め陷る。戌將、之に死す。溫、師を率ゐて、燕をうばうとうやぶかへ桓溫枋頭の伐ち、枋頭に戰ひ、大に敗れて還る。敗えんぼようすゐしんぐんげきはゐめいひ燕の慕容垂、旣に晉軍を擊破し、威名日に盛なり。燕王、之を忌すゐしんはしむ。垂、秦に奔る。わうまうしよぐんとえんうげふかこ、しんしゆふけん秦の王猛、諸軍を督して、燕を伐ち、遂に鄴を圍む。秦主苻堅、えんしゆぼようゐS鄴に入り、燕主慕容暐を執へて、以て歸る。しんくわんをんふしんたくはまくらたんだん評桓溫述懷晉の桓溫、不臣の志を蓄ふ。嘗て、枕を撫して、歎じて曰く、男の一語なが"text "〓〓じはうまさしうばんねんのこ男兒、芳を百世に流す能はざれば、亦た當に臭を萬年に遺すべしと。野にんる然一年亦心しもにの丈は當しやくばうとうゐ先づ功を立て、還つて九錫を受けむと欲す。枋頭の敗に及びて、威めいとみくじちてうをんす、いくわくだいゐけんもに名頓に挫く、郗超、溫を勸めて、伊霍の事を行ひ、以て大威權を立家て亦止るを後往またいこうにくはいしてしむ。溫、遂に入朝し、太后に白して、帝を廢す。在位六年、改くわいけいわうたかんぶんくわうていのらあし元するもの一、曰く、太和。會稽王立つ、之を簡文皇帝となす。りむいくせいきよくわよくよ【簡文皇帝】名は昱、元帝の子なり。〓虛寡欲、尤も玄談に善し。くわんをんむか桓溫、迎へて位に卽かしむ。九閱月にして不豫なり。急に桓溫を召たすしよかつぶニわうじようしやうこじして、入つて輔けしめ、諸葛武侯、王丞相の故事の如くす。溫東菅-帝奕-簡文皇帝-四三一 十八史略卷之四豐帝の終に臨んで位を禪り、然らざれば、卽ち攝に居らむを望みしが望む所に副はず。時に、謝安、王坦之、朝に在り。溫、坦之と安と、其事を沮みしを疑ひ、心甚だ之を衝む。帝在位、改元するもの一、曰く减安。太子立つ、之を烈宗孝武皇帝となす。【烈宗孝武皇帝】名は昌明、年十歲にして卽位す。し 、桓溫來朝す。謝安、王坦之に詔新亭に迎へしむ。都下恟恟云ふ。王謝を誅し、因つて晉祚を移さむと。坦之、甚だ懼る。安、神色變せず。百官道側に拜す。溫、大に兵衞を陳して、朝士諸侯道あれを延見す。坦之、汗を流して衣を沾し、倒に手板を執る。安、從容ば守四隣に在りとして、席に就き、溫に謂つて曰く、安聞く、諸侯道あれば、守、四隣に在りと。明公、何ぞ、壁後に人を置くを須ゐむや。溫笑つて曰く、正に自ら爾らざる能はずと。遂に命じて之を撤せしめ、安とこ笑語して日を移す。都超、帳中に臥して、其言を聽く、風動いて帳入幕の賓開く。安、笑つて曰く、都生は、入幕の賓といふべしと。溫、疾あずつて、姑孰に還る。疾篤し。諷して、九錫を求む。安、坦之、さらに其事を緩うす。尋いで卒す。秦の丞相王猛卒す。秦主堅、之を哭して曰く、天、吾をして六合を平一せしむるを欲せざるか、何ぞ吾が景略を奪ふの速なるやと猛、終に臨んで、堅に謂つて曰く、骨、江南に僻處すと雖も、然れども、正朔相承け、上下安和。臣沒するの後、願はくは、晉を東晉-烈宗孝武皇帝-四三三 十八史略卷之四詈以て圖となす勿れ。鮮卑、西羌は、我が仇敵、終に人の患を爲さむ。宜しく漸く之を除いて、以て社稷を安んずべしと。凉秦に降る。是より先、張玄靚の叔父天錫、玄觀を殺して自立す。天錫、酒色に荒み、政亂る。秦、之を伐ち、兵、姑臧に至る。天錫、面縛して出づ。長安に送る。代王拓跋什翼犍の世子寔、早く卒す。繼嗣未だ定まらず庶長子遂、其諸弟を殺し、〓せて、什翼犍を殺す。秦兵の代を擊つに會して部衆逃散し、國中大に亂る。秦主苻堅、代を分つて二部と爲し、河より以東は、代の南部大人劉庫仁に屬し、河より以西は、匈奴の劉衞辰に屬し、其衆を統べしむ。代の世子寔の子珪、尙ほ幼なり。母賀氏、珪を以て、走つて賀訥に依り、旣にして、庫仁に依る。庫乞、珪を奉じて恩謹、廢興を以て意を易へず。ちんぎれ晉秦人の强盛なるを以て憂となし、詔して、良將の北方を鎭禦兄の子玄を以て詔に應ず。に玄謝壓をての子すべき者を求む。謝安、郗超、之を歎じて曰く、安の明、乃ち能く衆に違うて親を擧ぐ。玄の才、擧ぐる所に負かず。吾、嘗て、其才を使ふを見るに、展履の間と雖も、未だ嘗て其任を得ずむばあらずと。玄、廣陵に鎭す。劉牢之を得て、參軍となす。戰つて、捷たざるはなく、北府兵と號す。敵人、之を畏る。秦兵を遣し、道を分つて、晉に寇し、諸郡を陷れ、襄陽の刺史東晉-烈宗孝武皇帝-四三五 十八史略卷之四四三六評大家認定食朱序を執へて、大擧を議す。りせのつを妄訓慢以て歸る。既にして、或は曰く、晉に用りを王長江の險在り。堅曰く、吾の衆を以てすれば、鞭を江に投ずるも、所收集中 -其流を斷つべしと。時に中外皆諫む。惟だ慕容垂、姚萇、其黌に乘し失能以をざき所ぜむと欲して、之を勸めて南伐せしむ。堅、遂に長安の戍卒六十餘と、萬、騎二十七萬を發す。晉、謝石を以て征討大都督となし、謝玄を-前鋒都督となし、衆八萬を率ゐて之を防がしむ。劉牢之、精兵五千を帥ゐて、洛瀾に趨き、直に水を渡つて、秦の前鋒梁成を擊つて之を斬る。石等、水陸繼いで進む。堅、壽陽城に登つて望み見るに、晉兵、部陣嚴整なり。又、八公山の草木を望み見て、皆、以て晉兵となし、憮然として懼るる色あり。晉兵、肥水に逼つて陣す。玄、人をして謂はしめて曰く、陣を移して、すこしく却け、我が兵をして渡るを得しめよ。以て勝負を決する、可ならむかと。堅晉兵に聽して、半ば渡る時、之を蹙めむと欲し、兵を摩いて却かしむ。秦兵、退いて、復た止むべからず。朱序、陣後に在り、呼んで曰く、秦兵敗ると。遂に潰ゆ。玄等、勝に乘じて追擊す。秦兵大に敗る。走る者、風聲鶴唳を聞いて、貴、以て晉兵至るとなす。堅狼狽して長安に還る。慕容垂、秦に叛き、河内に起り、自ら燕王と稱す。姚萇、秦に叛き、北地に起り、自ら秦王と稱す。是を後秦となす。慕容冲、秦に叛き、兵を平陽に起して、帝と稱す。之を西燕とな東管-烈宗孝武皇帝-四三七 十八史略卷之四翼す。長安を攻む。秦主苻堅、出奔す。後秦王萇、執へて、之れを弑す。評謂治國の能謝安は所晉の太保謝安、卒す。安、文雅、王導に過ぐ。德量あり、秦寇の臣なり至るに方つて、朝野震動す。安、夷然として、碁を圍んで、墅を賭石ゆにす。捷書至る、安、方に客と碁す。覽畢つて、坐側に實き、喜色なし。客、之を問ふ。徐に曰く、小兒輩、遂に賊を破ると。客、去産る。安、戶に入り、喜ぶこと甚しく、履齒の折るるを覺えず。其情を矯め物を鎭すること、此の如し。秦主苻堅の子丕、帝を晉陽に稱す。拓拔珪、復た立つて代王となる。之より先、劉庫仁、其下に殺され、弟頭眷、代つて其衆を領す。庫仁の子顯、頭眷を殺して自立又珪を殺す。さむと欲す。珪、賀蘭部に奔つて、其舅に依る。諸部せいら、の大人、珪を推して主となし、遂に王位に卽く。徒つて、盛樂に居魏る。後、改めて魏と稱す。燕王垂、帝を中山に稱す。西燕の人、其主冲を弑して、段隨を立つ。又、隨を殺して慕容忠を立つ。又、忠を殺して慕容永を立つ。永、秦主苻不を擊つ。조、敗れて南走し、晉の將軍に邀へ擊たれて殺さる。慕容永、帝を長子に稱す。秦の疏族持登、帝を南安に稱す。東晉-烈宗孝武皇帝-四三九 十八史略卷之四圏後秦の姚長、是より先、旣に、長安に入つて、帝と稱す。苻登、兵を引いて、數ば後秦と戰ふ。互に勝負あり。後秦の主姚萇卒す。子興立つ。登を擊つて之を殺す。燕主垂、西燕を擊つて、長子を拔き、西燕主永を殺す。燕主垂卒す。子寶立つ。苻堅の敗れてより、中原大に亂る。其大なるもの慕容氏、姚氏、迭に大號を擧ぐ。其時に乘じて起る者、秦の故臣呂光の如き、凉州きつぷ!に據つて、凉天王と稱す。鮮卑の乞伏國仁、隴右に據つて西秦王とと稱す。國仁卒し、弟乾歸、之に繼ぐ。又、鮮卑の禿髪烏孤あり、南凉河西に起り、南涼と號す。晉、秦を敗つてより以後、江左無事會稽王道子、政を爲す。帝評底直ちやうせいあら、にご希望酒を嗜んで、·流連するのみ。長星見はる。帝、酒を擧げて、之に向ばんこ挿話む端る 。ほつて曰く、長星、汝に一杯の酒を勸む。世、豈に萬年の天子あらむの前らら國ずずんやと。張貴人、年三十、寵、後宮に冠たり。醉中之に戯れて曰く、汝、年を以てすれば亦た當に廢すべしと。貴人、婢をして其面を蒙はしめて、之を弑す。在位十五年。改元するもの二、曰く寧康、太元太子立つ、之を安皇帝となす。け【安皇帝】名は德宗、幼にして不慧、口言ふ能はず、寒暑飢飽、辨ぜず、飮食寢興、皆己より出づるに非ず。既に、位に卽くや、會稽東晉-烈宗孝武皇帝-安皇帝-圖 十八史略卷之四圖王、太傅を以て政を輔く。魏王拓拔珪、連歲燕を攻め、進んで中山を圍む。燕主慕容寶、出奔す。後、其下に弑せらる。燕の慕容祥、帝と稱す。慕容麟、襲うて祥を殺して自立す。魏王理麟を破つて、之を走らしむ。麟、慕容德に奔り、德の爲に殺さ南燕る。德往いて、廣固に據り、後、帝と稱す。是を南燕となす。北燕燕の慕容盛、帝を龍城に稱す。是を北燕となす。魏王珪、帝と稱し、平城に都す。北涼凉の段業、凉王と稱し、張掖に據る。是を北凉となす。しんせいみだ晉の會稽王道子、專ら政事を以て世子元顯に委す。晉政亂る。東土囂然たり。妖賊孫恩、民心の騒動するに因つて、海島より出でて;劉裕亂を爲す。劉裕、恩を討つて功あるに因つて起る。北凉の沮渠蒙遜、段業を弑して自立す。蒙遜は、匈奴の種なり。後、姑臧に遷る。凉王呂光、卒す。子紹立つ。庶兄纂、弑して之に代る。呂超、し、又纂を弑して、其兄隆を立つ。隆、後、秦に降り、凉亡ぶ。西凉隴西の李暠、燉煌に據る。是を西凉となす。後、酒泉に徒る。柔然、漠北より起り、高車の地を奪つて、之に居り、諸部を呑併す。士馬繁盛、北方に雄たり。其地、西、焉耆に至り、東、朝鮮にん、接し、南、大漠に臨み、旁の小國、皆覊屬し、魏と敵となる東晉-安皇帝-圖 十八史略卷之四■晉の盜孫恩、數ば劉裕等に敗られ、海に赴いて死す。其黨廬循、 徐道覆、復た起る。桓玄反す晉の桓玄、反す。初め、玄、父溫に嗣いで南郡公となる其才地を負み、雄豪を以て自ら處る。嘗て義興に守たり。歎じて曰く、評桓玄豪語父は九州の伯たり、子は五湖の長たりと。官を棄てて國に歸る。後3층江州の刺史となり、尋いで、〓江等八州の軍事を都督し、江陵に據大多數據のを身自すを大る過ぼ失ににずも家て郞る。是に至つて、兵を擧げて、建康に入り、元顯を殺し、又道子をぎすひに亡殺す。玄、相國となつて楚王に封ぜられ、九錫を加ふ。既にして、帝に迫つて、位を禪らしむ。劉裕、兵を京口に起して玄を討ち、玄の兵と戰ひ、大に之を破る。玄、出走す。首を江陵に斬る。帝、位に復す。劉裕、京口に鎭す。かくれんぽつ!秦の赫連勃勃、秦に叛いて、朔方に據り、自ら大夏天王と稱す。勃勃は、故の匈奴の劉衞辰の子なり。晉、南燕を伐つ。之より先、南燕主慕容德卒し、兄の子超立ち、晉邊を侵略す。劉裕、抗表して之を伐つ。専りて北燕、其臣馮跋の爲に滅ぼさる。之より先、北燕主盛、其下に弑せられ、叔父熙立つ。跋罪を熙に得、之を弑して、熙の養子高雲を立つ。未だ幾ならずして、又雲を弑して自立す。魏主、人の夫を殺して其妻を納れ、之と子紹を生む。兒狼無賴。け、珪を弑す。齊王嗣、紹を殺して立つ。珪を道武皇帝と諡し、廟を烈東晉-安皇帝-國立五 十八史略卷之四四四六祖と號す。管の劉裕、廣固を拔き、慕容超を執へ、建康に送つて之を斬る。南燕亡ぶ。盧循、劉裕の北伐に乘じて、番禺より出で、直に下つて建康を襲ふ劉裕、徵されて急に還る。諸軍力戰す。循乃ち退く。裕追うて、之を破る。循交州に走り、刺史の爲に敗らる。首を斬つて建康に送る。西秦の乞伏韓歸、其下の爲に弑せらる。子熾盤立つ。西秦、襲うて南涼を滅す。之より先、南凉主禿髪烏孤、卒す。弟利鹿孤、立つ。卒す。弟侮檀、立つ。是に至つて、乞伏熾盤の爲に襲はる。侮檀を以て歸つて之を殺す。南凉亡ぶ。後秦主姚興、卒す。子泓、立つ。晉の大尉劉裕、之を伐つて、彭城を發し、洛陽より武關、潼關に道して長安に入る。泓敗れて、出でて降る。建康に送つて、之を斬る。後秦亡ぶ。て米干しゆぼつ·夏主勃勃、裕の秦を擊つを聞いて曰く、裕必ず關中を取らむ。然れども、久しく留まる能はず。若し子弟諸將を以て之を守らしめば、吾、之を取ること、芥を拾ふが如きのみと。是に至つて、三秦の父老、裕の將に還らむとするを聞き、門に詣つて流涕して曰く、ひと〓〓殘民、王化に霑はず、今に於て百年。始めて、衣冠を觀、人人相賀す。公、之を捨てて、何に之かむと欲するかと。裕彭城に還る。東賣-安皇帝-麗 十八史略卷之四四四八勃勃、長安を陷れて、帝と稱し、統萬に歸る。晉、裕を以て相國宋公となし、九錫を加ふ。裕識に昌明の後尙は三帝ありと云ふを以て、乃ち人をして音帝を繼らしあて、之を弑す。在位二十三年。改元するもの一一、曰く、隆安、義熙。義熙元年より十四年に至るまでは、乃ち劉裕政を爲すの日なり。弟瑯琊王立つ之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は德、卽位の明年、劉裕、爵を進めて宋王となり、彭だ城より移つて壽陽に鎭す。又明年、裕建康に還る。帝、在位改元するもの一、曰く、元熙。位を裕に禪る。旣にして、弑せらる。東晉は、元皇帝より、是に至るまで、凡そ十一世、一百四年。西晉、東晉、通じて、一百五十六年にして亡ぶ。南北朝南朝は、晉より以て之を宋に傳へ、宋、之を齊に傳へ、齊、梁に傳へ、梁陳に傳ふ。北朝は、諸國、魏に併せられてより魏後、分れて西魏、東魏となり、東魏は北齊に傳へ西魏は後周に傳へ、後周は北齊を併せて、之を隨に傅へ隨陳を滅し、然る後に、南北、混じて一となる。今、南を以て提頭となして、北を其間に附す。東晉-恭皇帝-南北朝國四九 十八史略卷之四四五〇西紀自四二宋○至四七八丁一南を日せ、【宋高祖武皇帝】姓は劉氏、名は裕、彭城の人なり。相傳へて、楚の元王交の後となす。裕生まれて、母死す。父、京口に僑居し、將に之を棄てむとす。從母、救うて、之を乳す。長ずるに及びて、勇健大志あり、わづかに、字を識る小字は寄奴、嘗て行いて 大蛇に遇ひ、擊つて、之を傷く。後、其所に至り、群兒の藥を擣くあらるを見る。裕、問ふ、何をか爲す。答へて曰く、吾が王、劉寄奴に傷けらる。裕曰く、何ぞ之を殺さざる。兒曰く、寄奴は王者なり、死せずと。裕之を叱す、卽ち散じて見えず。初め、劉牢之の軍事に參たり。嘗て、賊を覘はしむ。賊數千人に遇ふ。裕長刀を奮つすて、獨り、之を驅る。衆軍、因つて、勢に乘じて、進み擊つて、大に之を破る。裕、之に因つて、名を知らる。其後、將相たること、二十餘年。桓玄を誅し、孫恩、盧循を平らげ、南燕、後秦を滅して卒に晉の禪を受く。西凉の李暠、卒す。諡して、武昭王といふ。子歌立つて、數年、是に至つて、北涼の沮渠蒙遜に誘はれ、與に戰つて、之に殺さる西凉亡ぶ。宋主在位三年、改元するもの一、曰く永初、殂す。太子立つ、之を廢帝榮陽王となす。南北朝宋WIN 十八史略卷之四豐【廢帝榮陽王】名は義符。年十七にして卽位す。喪に居て禮なく、遊〓度なし。太子立魏主嗣、殂す。明元皇帝と證し、廟を太宗と號す。子燾立つ。宋主主位改元するもの一、曰く、景平。徐羨之、傅亮、謝にひ晦廢して、之を弑す。宜都王立つ、之を太宗文皇帝となす。【文皇帝】名は義隆、素より令望あり。少帝の廢せらるるや、迎へ入れられて位に卽く。夏主勃勃、殂す。子昌、立つ。陶淵明晉の徵士陶潜卒す。潜字は淵明、潯陽の人、侃の會孫なり。少そにして、高趣あり嘗て彭澤の令となる。八十日にして、郡の督郵至る。吏曰く、束帶して之に見ゆべしと。潜歎じて曰く、我、豈に五斗米の爲に、腰を折つて、〓里の小兒に向はむと。卽日、印綬を解いて去り、歸去來辭を賦す。五柳先生傳を著す。徵せども就かず。先世、晉の臣たりしを以て、宋の高祖、王業漸く盛なるより、復た肯て仕へず。是に至つて、世を終る靖節先生と號す。魏數ば夏と戰ふ。是に至つて、其主昌を執へて歸る。夏の赫連定、帝を平凉に稱す。西秦の主乞伏熾盤、卒す。子暮木、立つ。北燕の馮跋、殂す。弟弘立つ。夏主定、西秦を擊ち、暮木を以て歸り之を殺す。西秦亡ぶ。定南北朝宋四五三 十八史略卷之四署うばとよくこん又北凉を擊つて、其地を奪はむと欲す。吐谷渾、其軍を襲ひ、定をとらかとよくこんぼようしべつしゆ執へて、魏に送る。夏、亡ぶ。吐谷渾は、慕容氏の別種なり。ほくりやうそきよまうそんぼくけん北涼の沮渠蒙遜、卒す。子牧犍、立つ。そうしやれいうんちうさんたく評謝靈運は宋の謝靈運、罪を以て誅せらる。靈運、好んで山澤の遊をなす。狂風な國語のみちひらひやくしやうきやうぜうそのいし從者數百人、木を伐つて、徑を開く。百姓驚擾す。或は、其異志りんせんないしいうしこれをさあるを表す。臨川の内史となる有司之を糾し、收めらる。靈運、おこたういつしはうふる兵を興して逃逸し、詩を作つて曰く、韓、亡びて子房奮ひ、秦帝ろれんはつひたうとりこくわうしううつとなつて魯連耻づと。追討して、之を擒にし、廣州に徒す。旣にしきて、棄市せらる。小児えんへうこうかうらいはし魏燕を伐つ。馮弘、高麗に奔る。而して殺さる。燕亡ぶりやうこざうつひぼくけん魏凉を伐つ。姑臧潰ゆ。牧犍降る。後、殺さる。北凉亡ぶ。そのしとさいかうめいげんはうしん暴露して殺崔浩國惡をさる輒ち功あり。すなは魏其司徒崔浩を殺す。道士寇謙之を信じ、だうしこうけんし浩、明元の時より、魏主に勸めて崇奉せしめ、しゆさ旣に謀臣となつて、すうほう天師道てんしだうぢやうぶつゆふ5/4しやもんちうぶつざうぶつしよこぼ場を立つ然も、最も佛法を惡み、沙門を誅し、佛像佛書を毀つかうこくしをさせんせいみなじつ魏主、浩に命じて、國史を修めしむ。先世の事を書するに、皆實をつまびらかかんろたふんけいかう石に刊して、こくあく詳にし、之を衢路に立つ。北人、忿恚し、浩が國惡はくやうしんいかあんそのぞくを暴揚するを譜す。魏帝、大に怒つて、遂に案じて之を誅し、其族を夷す。坐畊は奴に問そうぎれんねんたがひあひしんぱつわうげんぽすたいきよちんけいおいしふ織は宋魏、連年互に相侵伐す。王玄謨、宋に勸めて大擧せしむ。沈慶時間ベしいさかうまさどしよくまさひとし之、諫めて曰く、畊は當に奴に問ふべく、織は當に婢に問ふべし。南北朝宋四五五 十八史略卷之四〓かんはくめんしよはかそうつひ今、國を伐たむと欲す、奈何ぞ、白面の書生と之を謀ると。宋竟げんぼしかうがうくわつだいかこに玄謨をして師を出さしめて硫磁を取り、進んで滑臺を圍む。之よしゆそうかなんわれり先、魏主、宋の河南を取りしを聞き、怒つて曰く、我生れて、はついまかはかなんこ髪未だ乾かざるに、旣に、河南は是れ我が地なるを聞く、今、天時なねつじゆをさかひやうがつまてつき尙ほ熱、しばらく、戌を歛めて北歸し、河氷の合するを俟ち、鐵騎しゆみづかしやうかはわたを以て之を蹂まむと。冬に至つて、魏主自ら將として、河を渡りがうへいここゑふるげんぽおそじんつひ衆百萬と號す。韓鼓の聲、天地に震ふ玄謨、懼れて去る。魏人追げんぼはいそうひなんかくわほニ擊し、玄謨敗走す。魏帝、兵を引いて南下し、、直に瓜步に至の、江せいげんけんかうしんくかたんそうを渡らむと欲すと聲言す。建康震懼し、民、皆、荷擔して立つ宋しゆせきとうじやうほくぼうだんだうさいあ主、石頭城に登り、北望して歎じて曰く、檀道濟、若し在らば、豈は だうさいニぜんてうに胡馬をして此に至らしめむやと。道濟、功を前朝に立て、兵を用ざんをさもくくわうきよさく卽ち汝が萬ゆるに老いたり。之より先、讒を以て收めらる。目光炬の如く、情だつとう里の長城をばんりちやうじやう··壞るを脫して、地に投じて曰く、乃ち汝が萬里の長城を壞ると。旣にごしはいまはばかた誅せらるるや。魏人、之を聞いて喜んで曰く、吳子輩復た憚るに足ちやうくふせそうじんげんぼらずと是に至つて長驅す。能く禦ぐ者なし。宋人、或は玄謨を斬ちんけいしとぶつりゐふるこうちむと欲す。沈慶之、之を止めて曰く、佛狸、威天下に震ふ控げんひやくまんあげんぽあたせんしやう弦百萬豈に玄謨の能く當る所ならむや。戰將を殺して、以て自らよぎしかへさつりやくあはか評弱むるは、得慘一中春て狀語に燕盡を戰葉歸禍ふて計にあらざるなりと。魏師、還る殺掠、勝げて計るべのの林ていさうえいじざんせつさくじやうつらぬばんぶからず。丁壯の者は、嬰兒を斬截し、槊上に貫いて盤舞す。過ぐるせ云おかえりないりひしゆんえんか、りんちうそうしゆくらゐ原作獨春燕、歸つて林中に巢ふ宋主位に卽いてより二十八年の南北朝宋署名 十八史略卷之四四五八間、號して小康となす。是に至つて、兵革の後、邑里蕭條、元嘉の政衰ふ。魏の中常侍宗愛、東宮の官屬を譖し、多く坐して誅死す。太子晃憂を以て卒す。魏主、追悼して巳まず。愛、懼れて主を弑す。後證して、太武皇帝といひ、廟を世祖と號す。晃の子濬、立つ。ら、愛を討つて之を誅す宋の太子劭、巫蠱呪咀す、事覺はる。宋主、之を廢せむと擬す。劭、主を弑して自立す。在位三十年、改元するもの一、曰く元嘉。ん武陵王、兵を擧げて劭を誅す王立つ、之を世祖孝武皇帝となす【孝武皇帝】名は駿、位に卽いて十二年にして殂す。改元するもの二、曰く、孝建、大明。太子立つ、之を廢帝となす。【廢帝】名は子業、位に卽き喪に居るや、傲惰にして、戚容なし。孝武、骨肉を疎忌して、多く誅殺す。是に至つて、尤も甚し魏帝溶、殂す。諡して文成皇帝といひ、廟を高宗と號す。初め、太武、四方を經營し、國、頗る虛耗す。文成、嗣いで以て鎭靜し、中外を懷集す。人心復た安し。子弘、立つ。宋主、諸父湘東王等を畏忌し、殿內に幽して捶曳し、復た人理なく恣に不道を爲す。中外騷然たり。宋人、之を弑す。王、在位二年、改元するもの一曰く、景和。湘東王立つ、之を太宗明皇帝となす南北朝宋四五九 十八史略卷之四四六〇た【明皇帝】名は或、卽位八年にして殂す。改元するもの一、曰く泰か肅道成始。帝の初より、蕭道成、兵に將として、征討功あり。尋いで、淮陰に鎭し、豪俊を收養し、賓客始めて盛なり。旣にして、南充州の、刺史となる。是に至つて、褚淵、薦めて右衞將軍となし、顧命の大臣と共に機事を掌る。太子立つ、之を後廢帝となす。【後廢帝】名は昱、明帝、子なし。昱、實は嬖人李道兒の子なり。明帝、之を子とするや、諸王十五六人を殺し、惟だ昱の立たざるを休範、桂陽王恐る。十歲にして位に卽く。兵を擧げて反し、建康を攻む。蕭道成、擊つて之を斬る。道成、中領軍となる。之より先、魏の獻文帝、位を太子宏に傳へ、自ら太上皇帝と稱10「す。宏の幼なるを以て、仍ほ萬機を總ぶ。太上、聰睿夙成、剛毅にして斷あり、然も、黃老浮屠の學を好む、故に常に遺世の意あり。幸する所の李奕と其母馮太后、いふ者あり、太上に誅せらる。馮太后、怒つて、遂に之を弑して、制を稱す。宋主、驕恣にして殺を嗜み、中外憂 惶す。蕭道成、袁粲、褚淵と廢立を謀る。粲可かず。淵之に賛す。遂に之を弑す。在位六年、改元するもの一、曰く、元徽。安成王立つ。之を順皇帝となす。【順皇帝】名は準、桂陽王休範の子なり。明帝、之を子とす。是に至つて卽位す。南北朝宋要 十八史略卷之四四六二そうゑんさんせうだうせいちよえんそのはかりごと宋の袁粲、蕭道成を殺さむことを謀る。褚淵、其謀を以て、道せきとうじやうかなし城成に〓ぐ。粲、父子共に石頭城に殺さる。百姓、之を哀んで曰く、寧可爲憐褚袁石淵粲頭生死あはれゑんさんちよえん不作憐むべし石頭城、寧ろ袁粲となつて死するも、褚淵となつて生きずちんいうしこうれうあだうせいぐんつひ60沈攸之、亦た兵を江陵に擧げて、道成を討ち、軍潰ゆるや、走ししやうこくせいこうしやくしやくつて縊死す。道成、相國齊公となり、九錫を加へ、旣にして、爵を·しやうあいせい進めて、王となる。宋主在位三年、改元するもの一、曰く昇明齊ゆつだんしこうしんよまてんわうに禪る。泣いて、彈指して曰く、願はくは、後身世世、復た天王のせいそのぞくめつそう評家に生まるるなからむと齊、之を弑して、其族を滅す。宋、高祖天子の種数子様にに王世情國勿|より、是に至るまで、八世、凡そ五十九年にして亡ぶ。盡家くの西紀自四七齊九至五〇二せうしだうせいらんれうあひつた【齊太祖高皇帝】姓は蕭氏、名は道成、蘭陵の人なり。相傳へて、しやうこくかのちしんちんたいりやうはくがくしよく漢の相國何の後となす。深沈にして大量あり、博學にして文を屬かたせきしじつげつじやうす。肩に赤誌あり、日月の狀の如し。宋の時、軍中に在ること久みんかんそのいさうるを言ふ。うたが蕭道成異相し民閒、或は、其異相あ宋、之を疑ふ。而かも、殺すつひせい〓〓けんつねをさ能はず。竟に宋に代皇性〓儉、毎に曰く、我をして天下を治むるまさわうごんあたひおなこと、十年ならしむれば、當に黃金をして土の價に同じからしむべけん〓〓しと。在位四年にして殂す。改元するもの一、曰く、建元。太子立せいそぶくわうていつ、之を世祖武皇帝となす。南北朝齊四六三 十八史略卷之四四六四ちく、【武皇帝】名は噴、位に卽いて十一年にして殂す。改元するもの一曰く、永明。太子長懋、旣に卒す。太孫立つ。之を廢帝鬱林王となす。【廢帝欝林玉名は路業位に卽いて一年、改元して隆昌といふ。西昌侯鸞、之を弑す。新安王立つ。之を廢帝海陵王となす。【廢帝海陵王】名は昭文、鸞の爲に立てらる。延興と改元す。鷺自ら宣城王となる、帝、卽位、未だ四月ならず、廢して、之を弑す。宣城王自立す、之を高宗明皇帝となす。【明皇帝】名は鸞、高帝の兄の子なり。高帝、之を愛すること、(の子に過ぎたり。而して、武帝の太子長懋、最も之を惡む。志を得るに及びて、高武の子孫を殺して、遺類なし。位に卽いて、五年にはい、して殂す。改元するもの二、曰く、建武、永泰。太子立つ、之を廢帝東昏侯となす。【廢帝東昏侯】名は寶卷東宮に在りし時より、學を好まず、嬉戯度なし。既に位に卽くや、朝士に接せず、惟た嬖倖を親信するのみ。屢ば大臣を殺す。だ魏主宏、殂す。在位二十七年。仁孝恭儉、禮を制し、樂を作し、蔚然として、太平の風あり。胡服胡語を禁じ、姓を元氏と改む。都を洛陽に遷す。魏の盛德の主たるが爲に、諡して孝文皇帝といひ、廟を高祖と號す。太子恪、立つ。南北朝齊四六五 十八史略卷之四四六六こんいんきやうしかうはんびきんれんくわつく齊主、昏淫狂恣なり。幸する所の潘妃、金を以て蓮花を爲り、地てうほほほれんくわ上に貼して、之を歩せしめて曰く、是れ步步蓮花を生ずるなりと。さいうことぞくぎやくひたいゐちんけんたつけんかう左右事を用ゐて、賊虐日に甚し。大尉陳顯達、先づ兵を擧げて建康おそはいししやうぐんさいけい!はんしうを襲ふ敗死す。將軍崔慧景、命を受けて出でて叛州を討つ。兵をか、けんかうせまなんよしうししせうい還して、建康に逼る。時に南豫州の刺史蕭懿、兵に將として、近きせいしゆきふめたすけいに在り。齊主、急に召し、入つて援けしむ。慧景、敗死す。懿を以せうしよおとうとなんようしうししえんさて尙書となす。懿の弟南雍州の刺史衍、人をして、懿に勸めて、いくわくこじすみやかれきやうかへ伊霍の故事を行はしめ、爾らざれば亟に歷陽に還れといふ。懿つひたまじやうやうだ、用ゆる能はず、竟に死を賜ふ衍兵を襄陽に起し、引いて、東けんかうかこえんむか建康を圍む。齊人、主を弑して、衍を迎ふ。主、在位三年。改元すえいげんくわくわうているもの一、曰く、永元。時に南康王、先に旣に自立す。之を和皇帝となす。其後ひろ。はうゆうとうこんすゑはうゆうこうれう1(00)【和皇帝】名は寶融。東昏の末、寶融、兵を江陵に起し、旣にしてちうこうとうきせいたいこうせい帝と稱す。改元して、中興といふ。未だ東歸に及ばず、齊太后、制せうえんれうこうしやくっを稱し、蕭衍を以て相國となし、梁公に封じ、九錫を加へ尋いでしやくすしこじゆくいたみことのりれうゆづ爵を進めて、王となす。齊王、姑孰に至る。詔して、梁に禪る。しい位に卽いて、わづかに三年にして弑せらる。齊は、高帝より、是に至るまで、七世、凡そ二十三年にして亡ぶ。四世五五年梁南北朝齊梁四六七 十八史略卷之四髮在位四八年【梁高祖武皇帝】姓は蕭氏、名は術、齊の疎族なり。母張氏、菖(西紀五〇三要800蒲、花を生ずるを見る。旁人は皆見ず。之を呑み、旣にして、衍を生む英達にして文學あり。東昏の初、術襄陽に鎭す。齊の將に亂れむとするを知つて、乃ち密に武備を修む。驍勇を聚むること萬を以て數ふ。材を伐つて、檀溪に沈め、茆を積むこと岡阜の如くす。兄懿、死す。衍牙を建てて衆を集め、檀溪の竹木を出して、艦を裝ひ、之を葺くに茆を以てす。事、皆立どころに辨ず。兵起つて一年餘、遂に建康に入り、禪を受けて帝位に卽く。J魏主恪在位魏主恪、殂す。證して宣武皇帝といふ。廟を世宗と號す。子謝、一六年年五五〇〇立つ甫めて六歲。母胡氏、制を稱す。魏主、既に長ずるに及び六) ()遊騁を好んで、親ら朝を視ず。而して、胡后、方に淫亂、魏の政、始めて亂る。將軍張彜の子仲瑀、封事を上り、武人を排抑す喧こ諺、路に盈つ。榜を大巷に立て、期を尅して、會集して、其家を屠らむとす。彝父子、以て意となさず。是に至つて、羽林虎賁、千人に近く、相率ゐて、尙書省に至り、訴罵して、瓦石を以て省門を擊あPつ。上下懾懼して敢て禁討せず。遂に彜の第に至り、其舍を焚き、彝父子を曳いて、毆擊して火中に投ず。仲瑀、重傷、走つて免る。彝、死す。遠近震駭す。胡后、其免强八人を收めて、之を斬り、餘3は復た治めず、大赦、以て之を安んず。懷朔鎭の凾使高歡、洛陽に至り、張彜の死を見、家に歸り、貲を傾けて以て客に結ぶ。或ひと、南北朝梁四六九 十八史略卷之四四七〇評其故を問ふ、宿衞相率ゐて、大臣の第を焚き、朝廷懼れてて宿焚大衞事てき臣相傾高知問朝の率歡曰く、歡るは廷邸ゐを問はず。政を爲すこと、此の如し、事知るべし、財物、豈に常に守てがべず懼ふ故客費し れ費しるべけむやと。歡先世より、法に坐して、北邊に徒り、遂に鮮卑べあををの俗に習ふ。沈深にして大志あり。候景等と相友とし善し、任俠をけしり結とぶい亦以て〓里に雄たり魏の胡太后、朝に臨んで以來、嬖倖事を用ゐ、政事縱弛盜賊蜂起し、封疆日に蹙まる、魏主謝、漸く長ず。太后、自ら爲す所の不謹なるを知り、務めて壅蔽をなし、母子嫌隙日に深し。時に、六さ州大都督秀容の曾長爾朱榮、兵强し。高歡榮を見、卽ち勸めて、兵を擧げて、君側を〓めしむ。會ま魏主殂す。胡太后、之を鴆するなり。後、諡して孝明皇帝といふ。爾朱榮、兵を擧げ、孝文の姪長か、樂王子攸を立て胡后を河に鎭む。榮を太原王に封ず晉陽に還る。北海王顎、梁に奔る。梁、之を立て、將をして、送つて、洛陽に入らしむ。子攸、出奔す。爾朱榮、河を渡つて、來り救ふ。顯、走つて死す。子攸、歸り、榮に天柱大將軍を加ふ。榮不臣の志を蓄ふ。魏主、陰に榮を誅せむことを謀る。榮入る。手づから、之を刺す。爾朱世隆、爾朱兆と宗室長廣王曄を立てて、洛陽に入る。子攸、弑に遇ふ。後、證して、孝莊皇帝といふ、世隆、又曄の疎遠なるを以て、之を廢して、孝文の孫廣陵王恭を立つ。高歡、兵を起して爾朱氏を誅して、洛陽に入り、恭を廢して、孝文の孫平陽王修南北朝梁里 十八史略卷之四四七二せつびんくわうていを立つ。修、恭を弑す。後、證して、節闘皇帝といふ高歡、大丞y相となり、府を晉陽に建てて、之に居る。魏主、歡を畏れ、晉陽を伐たむと謀る。歡兵を擁して來る。魏主、長安に奔り、關西大都督宇文泰に依り、泰を以て、大丞相となす。歡魏主を追ふ。及ばせいしす。遂に〓河王の世子善見を洛陽に立て、鄴に遷る。魏は、道武より、是に至るまで、十二世、凡を一百四十九年にして、分れて東魏、西紀五三四西魏となる。之より先、焚惑、南斗に入る。梁主曰く、焚惑、南斗に入れば、天子、殿を下つて走ると。乃ち跣して、殿を下り、之を禳ふ。修の出奔を聞くに及び、慙ぢて曰く、虜も亦た天象に應ずるかと。修、長安に至り、半年を踰ゆ。又泰と隙あり。泰之を鴆す。後、諡して、孝武皇帝といふ。孝武、旣に弑に遇ふ。秦、南陽王寶炬を立?。歡泰と連年相攻戰し、互に勝負あり。歡、卒す。遺言して、其子澄に屬して曰く、侯景は飛揚跋扈の志あり、汝の能く御する所に非ず。景に敵するに堪へたるは、惟だ慕容紹宗のみと。景果して、河南を以て、西魏に降り、未だ幾ならずして、復た梁に附く梁、景を封じて河南王となす。景の使、梁に至るや、梁の群臣、皆我國家如金甌納るるを欲せず、梁主、亦た自ら謂ふ、我が國家は、金甌の如く、一の傷缺なし、恐らくは、景を納るれば、因つて、以て、事を生ぜさむと。惟だ朱昇、力め勸めて、之を納る。東魏、慕容紹宗をして、南北朝梁四七三 十八史略卷之四四七四〓景を擊たしむ。景、敗れて南走し、梁の壽春を襲ふて、之に據り、命を請ふ。梁、就いて以て、南豫州の牧となす。旣にして、東魏、成を梁に求め、意.景を得むと欲す。景梁の東魏に通ずるを恨み遂に壽陽に反し、兵を引いて、南に渡り、建康を圍む。梁主、位に卽いてより以來、江左久しく無事、惟だ佛法を崇んで、屢ば身を佛寺に捨て、上下之に化す。景が臺城に逼るに及びて、援兵至る者、景に敗らる。梁主、人をして景と盟はしめ、以て大 相 相丞相となす臺城、圍を受くること五月にして陷る。景入つて見ゆ、引いて、(う評부なを磨梁以と武ての帝有對は三公の位に就く。梁主、神色變ぜず、景に謂つて曰く、卿軍中に名話達、其在ること久し、乃ち勞たるなからむやと。景、敢て仰ぎ視ず、汗をiiてるは仰を叛とを達其所ざぎし逆すに磨道ばの悟深心 ら見て兒る及氏流して、對ふる能はず。景退いて、人に謂つて曰く、吾、常に鞍ずせきこも〓〓くだに跨り、陣に對し、矢石交下るも、了に怖るる心なし。今、蕭公る流侯も·能汗景おのづかを見るに、人をして、自ら畏れしむ、豈に天威犯し難きに非ずや、し亦以む吾以て復た此人を見るべからずと。梁主、景に制せられ、飮膳も亦べざ鍊淺見か神るら修のをた裁損せられ、憂憤、疾を成す、口苦くして蜜を索むれども得ず。しる再び、荷荷といつて、遂に殂す。在位四十八年。改元するもの七、曰く天監、普通、大通、中大通、大同、中大同、太〓。壽八十六。之より先、太子統、仁明孝儉、學を好んで文あり、東宮に在ること三十年にして終る。梁主、嫡孫を捨てて別子を立つ。是に至つて、位に卽く、之を太宗簡文皇帝となす。南北朝梁四七五 十八史略卷之四ナミ【簡文皇帝】名は綱、東宮に在ること十八年、然る後、侯景の亂に遇ひ、既に立つも、制を景に受くるのみ。湘東王繹、江陵に鎭し、自ら假黃鉞大都督中外諸軍承制と稱す。岳陽王警は昭明太子統の第三子なり。襄陽に鎭し、繹と相攻む。賛使を遣して、西魏に降り、以て救を求む。あゆた東魏の大將軍渤海王澄、之より先、其下の爲に殺され、弟洋丞相となり、齊王に封ぜられ、東魏主に逼つて、位を禪らしめ、尋いで、之を弑す。諡して、孝靜皇帝といふ。東魏、國を建つる、一十七年にして亡ぶ。西魏、梁の蕭警を立てて梁主となす。コ西魏主寶炬殂す。諡して文皇帝といふ。太子欽立つ。候景、自立して、漢王となる。梁主を廢して之を弑す。尸位三年に及ばず。改元するもの一、曰く、大寶。景、豫章王棟を立つ。旣にして、位を簒す。之より先、始興の太守陳霸先、兵を起して、景を討つ。湘東王、王僧辨をして、景を討たしむ。景、簒して數月、僧辨、霸先に敗られ、亡げて、吳に走り、海を渡らむと欲し、其下の爲に斬らる。尸を建康に送り、首を江陵に傳へ、其手足を截つて、北齊に送る。湘東王立つ、之を元皇帝とす。【元皇帝】名は繹、一目眇、性殘忍なり。江陵に卽位す。侯景の亂せ、より、州郡、大半、西魏に入り、蜀も亦た魏に有せられ、梁は巴陵南北朝梁七七 十八史略卷之四天人より以下、建康に至るまで、長江を以て限となす。突厥、柔然を攻む。北齊、突厥を擊つて、柔然を遷す。この時、柔然衰へ突厥始めて强大なり。西魏の宇文泰、其主欽を廢して其弟 廓を立つ。欽弑に遇ふ。梁主焚書西魏、柱國于謹を遣し、梁を伐つて、江陵に入る。梁主、古今の圖書十四萬卷を焚いて曰く、文武の道、今夜盡くと。乃ち出でて評我的時刻。讀書萬卷降る。或ひと問ふ、何の意あつて書を焚く。曰く、讀書萬卷、猶(昭和4年)、ほ今日ありと。尋いで殺さる。在位三年、改元するもの一曰く、承聖西魏、襄陽を取り、梁王誉を江陵に徒して、帝と稱せしむ。兵を屯して、之を守る。之を後梁となす。西魏に臣たり。王僧辨、陳霸先、晉安王を奉じて、制を建康に稱す。貞陽侯淵明、之より先、北齊に獲らる。是に至つて、兵を以て、之を納る。王僧辨、奉じて、建康に歸つて、帝と稱す。陳霸先、僧辨を殺し、淵明を廢して、晉安王を立つ、之を敬皇帝となす。【敬皇帝】名は方智、元帝の子なり。年十三にして位に卽く。陳霸先、丞相たり。西魏の太師大家宰安定公字文泰、卒す。世子覺、嗣ぐ、年十五。字文護、之に輔たり。未だ幾ならずして、覺を以て周公となす。西魏主廓、周に禪る。廓弑に遇ふ。後、證して恭皇帝といふ。南北朝梁四七九 十八史略卷之四四八西魏は、國を建つること、四世、二十四年にして亡ぶ。覺周天王と稱す。性剛果、護の專なるを惡む。護、之を弑す。後諡して孝閔皇帝といふ泰の長子毓を立つ。梁の丞相陳霸先、相國となり、陳公に封ぜられ、九錫を加へ、尋きいで、爵を進めて王となる。梁主、改元するもの二、曰く紹泰、曰く太平。尸位、未だ三年ならずして、陳に禪り、尋いで弑に遇ふ。梁は、高祖武帝より、是に至るまで、四世、凡そ五十六年にして亡ぶ。自西紀五七陳七至五八九2【陳高祖武皇帝】姓は陳、名は霸先、吳興の人なり。梁の武帝の大同中、廣州參事となる。廣に亂あり、討つて之を平らぐ。功を以て將軍となる。尋いで、交州司馬西江都護高要太守となり、七郡の諸督し、霸ム軍を屢ば寇亂を平らぐ。侯景の臺城を陷るるや、先、時に始興に守たり。郡中の豪傑に結び、兵を起して、景を討つ。先づ廣州を取り、州の刺史となる。諸軍を會し、卒に以て景を平らぐ。遂に梁に將相となり、以て禪を受くるに至る。位に卽いて三年にして殂す。改元するもの一、曰く永定。子二人、昌、項皆、江陵陷るの時を以て長安に沒入す。臨川王立つ、之を世祖文皇帝となす。【文皇帝】名は蒨、武帝の兄の子なり。武帝、梁の亂を平らぐる時南北朝陳只 十八史略卷之四四八二に在つて、旣に功あり。是に至つて位に卽く。周王毓、帝と稱す。北齊主洋、盡く元氏の族を滅す。洋、殂す。諡して文宣皇帝といふ、周の宇文護、周帝の明敏にして識量あるを憚り、毒を進めて、之5/4を弑す。證して、明皇帝といふ。毓の弟邕立つ。北齊文宣帝の母弟常山王演、其主殷を廢して自立す。尋いで、殷を弑す。演、立つて、一年にして殂す。證して、孝昭皇帝といふ。母弟長廣王湛、又演の子百年を廢して自立す。後、百年を殺す。後梁主警殂す。太子歸立つ。北齊主湛、位を太子緯に傳へ、自ら太上皇帝と稱す。陳主、〓難より起り、民の疾苦を知る。性、明察にして儉勤なり。在位八年にして殂す。改元するもの二、曰く天嘉、曰く天康。太子立つ、之を廢帝臨海工となす。【廢帝臨海王】名は伯宗。在位三年、改元するもの一、曰く廣大安成王項の爲に廢せらる。北齊の上皇湛、殂す。證して、武成皇帝といふ。陳の安成王、自立す、之を高宗宣皇帝となす。【宣皇帝】名は項、初め長安に陷入す。文帝の時、周人、項を送つて、陳に還す。是に至つて、位に卽く。南北朝陳四八三 十八史略卷之四四八四周主邕、宇文護を誅し、始めて、政を親らす。北齊の後主緯、嬖寵多し、政亂る。周、齊を伐つて、鄴に入る。北齊亡ぶ緯を執へ、歸つて之を殺し、其族を夷す。北齊は國を建つる五世、三十年にして亡ぶ。北周武帝周主邕、深沈にして遠識あり、政事嚴明、稱して、賢主となす。西紀五六一齊を滅して、一年にして殂す。壽三十六。證して、武皇帝といふ。隋公楊堅太子贇立つ。皇后楊氏を立つ。后の父隋公楊堅、事を用ゐて、上柱國大司馬となる。賛太子たりし時より、好んで、小人を昵近す。立つて、未だ一年ならずして、位を子闡に傳へ、自ら天元皇帝と稱し、驕侈彌よ甚し。未だ一年ならずして殂す。證して、宣皇帝といふ。楊堅自ら大丞相となり、相國隋王に進み、九錫を加ふ。未だ幾ならずして、周主闡、位を隋に禪る。尋いで弑せらる。隋主、盡く宇文氏の族を滅す。周は、帝と稱してより、是に至るまで、五周亡ぶ世、二十五年にして亡ぶ。陳主在位十四年、改元するもの一、曰く大建。殂す。太子立つ之を後主長城場公となす。【後主長城場公】名は叔寶太子たりしより、詹事江摠と共に、長夜の飮をなす。位に卽いて、未だ幾ならず。臨春、結綺、望仙の閣を起し、各高さ數十丈、連延數十間、皆、沈檀を以て之を爲り、金玉珠翠、之が飾となし、珠簾寶帳、服玩魂麗、近古未だ有らず。南北朝陳四八五 十八史略卷之四四八六其下、石を積んで山となし、水を引いて池となし、花卉を雜植す。陳主は、臨春閣に居り、貴妃張麗華は、結綺に居り、襲孔の二貴嬪は、望仙に居り、複道より往來す。江摠、宰輔となり、政事を親らせず。。日に孔範等文士と後庭に侍宴し、之を狎客といひ、諸貴嬪を評玉樹の曲、して、客と唱和せしむ。其曲に玉樹後庭花等あり。君臣酣歌し、タ後庭花長曲くわん〓〓きんじふ宦官近習貨賂公行す。窮し夜極ての而宗威縱橫、孔るざす土飮しより旦に達す。内外連結、1ん國を而)木範貴嬪と結んで兄弟となる。範自ら謂ふ、文武の才能、擧朝及んと亡やすび得ぶなしと。將帥微しく過失あれば、卽ち兵權を奪ふ。之に由つて、文武解體し、以て覆滅に至る。後梁主歸、殂す。太子琮、立つ。隋主、廢して、之を滅す。營、後梁亡ぶ帝を江陵に稱してより、西魏、周、隋に臣とし、統ぶる所は、數郡のみ。凡そ、三十三年にして亡ぶ。隋、晉王廣を以て元帥となし、師を師ゐて陳を伐たしむ。楊素、韓擒虎、賀若弼、道を分つて出づ。高額、元帥の長史となり、薛道衡に問ふ、江東克つべきか。對へて曰く、之に克たむ。郭璞の言に、江東分れて主たること三百年にして、中國と合す、といふこの數、將に周からむとすと。陳主、隋兵ありと聞き、近臣に謂つて曰く、王氣是に在り。彼何する者ぞ。孔範曰く、長江は天塹、豈に能く飛渡せむや。臣、毎に官の卑きを患ふ。虜若し江を渡らば11定めて大尉公と作らむと。陳主、以て然りとなし、伎を奏し、酒を南北朝陳四八七 十八史略卷之四要縱にし、詩を賦して輟まず。賀若弼、廣漢より江を濟り、韓擒虎、§橫江より宵に釆石に濟る。守者、皆、醉ふ。擒虎、遂に新林より進んで、直に朱雀門に入る。陳主、自ら景陽の井中に投ず。軍人、井を窺ひ、將に右を下さむとす。乃ち叫ぶ。繩を以て、之を引けば、わ張麗華孔貴嬪と同じく束ねて上る。俘へて以て歸る。後主、在位と七年、改元するもの二、曰く至德、曰く禎明。陳は、高祖武帝より是に至るまで五世、凡そ二十二年にして亡ぶ。西紀自五八隋一至六一八【隋高祖文皇帝】姓は楊氏、名は堅、弘農の人なり。相傳へて、東漢の太尉震の後となす。父忠、魏及び周に仕へ、功を以て、隋公に封ぜらる。堅、爵を襲ぐ。堅、生まれて異あり。宅旁に尼寺あり、一尼拘き歸つて、自ら之を鞠ふ。一日、尼出づるや、其母に付して自ら抱かしむ。角出で、鱗起る。母、太に驚いて、之を地に墜す。尼、心動き、亟に還つて之を見て曰く、我が兒を驚かし、晩く天下を得しむるを致すと。長ずるに及びて、相表奇異。周人、嘗て武帝に〓げ、普六茹堅、反相ありといふ堅、之を聞いて、深く自ら晦し)匿す。女、周の宣帝の后となる。周の靜帝、立つ。堅、太后の父を以て政を秉り、遂に周祚を移す。位に卽いて九年、陳を平らげて、天下一となる。開皇二十年、太子勇を廢して、庶人となす。初め、南北朝隋四八九 十八史略卷之四四九〇帝、勇をして政事を參決せしむ、時に損益あり。勇、性寬厚率意にして矯飾なし。帝は性節儉、勇は服用修れり。恩寵始めて衰ふ。勇、內寵多く、妃寵なくして死して、庶子多し。獨孤皇后、深く之を惡む。晉王廣、彌よ自ら矯飾して、嫡を奪ふの計を爲す。后、帝を贊して、勇を廢せしめ、而して廣を立てて太子となす。龍門の王通、闕に詣つて、太平の十二策を獻ず。帝、用ゆる能は龍門の王通表示は、す。罷めて歸る。河汾の間に〓授す。弟子、遠きより至る者、甚だ製作所獻衆し。仁壽四年、帝、不豫なり。太子を召し、入つて殿中に居る。太子p豫め帝の不諱後の事を擬し、書を爲り、僕射楊素に問うて、報を得せしむ。宮人、誤つて、帝の所に送る。帝、之を覽て、大に恚る。帝の寵する所の陳夫人、出でて更衣す。太子に逼られ、之を拒んで、免るるを得たり。帝、其神色の異あるを怪んで、故を問評ふ夫人、法然として曰く、太子無禮なり。帝、恚つて、床を抵つにとにんのての之不畜を其と妾妄情を豫煬生殺父しをりな憂に帝なすと又犯にくふ乘父遂さ父却るじのて曰く、畜生、何ぞ大事を付するに足らむ、獨孤、我を誤ると。將に故の太子勇を召さむとす。廣、之を聞いて、右庶子張衡をして、入つて、疾に侍せしめ、因つて、帝を弑し、人をして、勇を縊り殺り眞兄さしむ。帝、性嚴重、政事に勤め、令行はれ、禁止む。財に嗇なりと雖も、功を賞して吝ならず。百姓を愛養し、農桑を勸課し、徭を輕くし、賦を薄くし、自ら奉ずること、儉薄なり。天下之に化す南北朝隋四九一 十八史略卷之四四九二受禪の初、民戶四百萬に滿たず、末年には、八百萬に踰ゆ。然れども、詐力を以て天下を得、猜忌苛察にして、讒言を信受し、功臣故舊、終始保全する者なし。在位二十四年、改元するもの二、曰く、開皇、仁壽。太子立つ、之を煬皇帝となす。【煬皇帝】名は廣開皇の末、立つて太子となる。この日、天下地震ふ位に卽いて、首として、洛陽の顯仁宮を營み、江嶺の奇材異石を發し、又海內の嘉木異草珍禽奇獸を求め、以て苑囿に實たし、又通濟渠を開き、長安の西苑より穀洛の水を引いて河に達し、河を引いて汴に入り、汴を引いて泗に入れ、以て淮に達す。又民を發し邦溝を開いて江に入れ、傍に御道を築き、樹うるに柳を以てし、長安より江都に至るまで、離宮を置くこと四十餘所。人を遣して、江南に徃いて龍舟及び雜舟數萬艘を造らしめ、以て遊幸の用に{備ふ西苑は周二百里、其內に海を爲る。周十餘里、蓬萊、方丈(だいくわんきうでん5瀛洲の諸山を爲り、高さ百餘尺、臺觀宮殿山上に羅絡す。海北に渠あり、榮紆して、海に注ぎ、渠に緣つて十六院を作り、門、皆〓渠に臨み、華麗を窮極す宮樹凋落すれば、剪綵して、花葉を爲つて、之を綴り、沼內も亦た剪綵して、荷芝菱茨を爲り、色渝れば、新しきものに易ふ。好んで、月夜を以て、宮女數十騎を從へて、西〓夜遊の曲苑に遊び、〓夜遊の曲を作つて、馬上に之を奏す。後、又、永濟渠を開き、沁水を引いて、南.河に達し、北、涿郡南北朝隋四九三 十八史略卷之四四九四上に通ず。又、汾陽宮を營み、又、江南の河を穿つ、京口より、餘杭に至るまで、八百餘里。洛口倉を鞏の東南の原上に置く、城は周二十餘里、三千窖を穿評脫むには 大阪府県の荒後主然三百害を穿つ。窖は皆のど過其氣つ興洛倉を洛陽の北に置く、城は周十里、ほくじゆん。似漢所て帝のに偉八千石を容る。帝、或は洛陽に如き、或は江都に如き、或は北巡したのる孝てし以文も武極を蓄のあ·て、楡林、金河に至り、或は五原に如き、長城を巡り、或は河右を傾積儉りけせ素巡り、營造巡遊、虛歲なし。天下の鷹師を徵す。至る者萬餘人。天窮便に民設就木せの生々河土下の散樂を徵す。諸蕃來朝するや、百戯を端門に陳す。絲竹を執るは中殘大衆偶運り利活庶開者萬八千人、終月にして罷む、費巨萬。歲毎に、以て常となす。を至大高麗王を徵して、入朝せしむ。至らず。大業七年、帝、自ら將として高麗を擊ち、天下の兵を徴して泳郡に會せしめ、河南、淮南江南に敕して、戎車五萬乘を造らしめて、衣甲等を供載し、河南河北の民夫を發して、軍須に供し、江淮以南の民夫は、船を以て、黎陽及び洛口諸倉の米を運ばしむ。舳艫千里、徃還常に數十萬人、晝夜絕えず、死者相枕す。天下騒動、百姓窮困し、始めて、相聚まつて盜を爲す。實建德漳南寳建德の兵起る。帝、徵す所の四方の兵、皆、涿郡に集まり、一百一十三萬。餽運上する者は、之に倍す。首尾千餘里に亙る。帝、遼東に至り、城を攻めて克たず。諸軍、大に敗れて還る。明年、再び兵を徵し、自ら將南北朝隋四九五 十八史略卷之四四九六として之を擊つ。楚公楊玄感、朝政の日に紊るるを見て、潜に亂を作さむを謀る。是に至つて、黎陽に督運して遂に反す。帝、軍を引いて還り、將を遣して、之を擊つ。玄感、洛陽より兵を引いて、潼關に趨り、兵敗れ、走つて死す。帝、又、涿郡に如いて、高麗を伐つ。高麗、使を遣して、降を請ふ。帝、長安に還る。旣にして、洛陽に如き、汾陽に如き、江都に如き、巡遊、仍ほ虛歲なし。李密蒲山公李密の兵起る。密、少にして才略あり、志氣雄達、財を輕んじ、士を好む。嘗て、黃牛に乘じ、漢書を以て牛角に掛けて、之を讀む。楚公楊素、遇うて、之を奇とし、之に因つて、素の子玄感と遊ぶ。初め、玄感に從つて、兵を起す。玄感敗る。密、姓名を變じげじて、匿る。時人皆云ふ、楊氏將に滅びむとし、李氏將に起らむとすと。又、民謠あり、歌うて曰く、桃李子。皇后走楊州。宛轉花園裏。勿浪語。誰道許。と。桃李子といふは、逃亡李氏の子なり。勿浪語、唯道許とは、密にするなり。密、遂に群盗程讓等と起つて榮陽を攻めて之を下し、牙を建て、諸部を統べ、西行して、說いて諸城を下して、大に獲たり。や) ;鄙陽の賊帥林士弘、楚帝と稱して、江南に據る。杜伏威、歷陽に據る。南北朝隋四九七 十八史略卷之四四九八竇建德、長樂王と稱す。おの〓〓んん馬邑の校尉劉武周、朔方の郞將梁師都、各郡に據つて兵を起す。二·李密、興洛倉に據り、河南諸郡を略取して、魏公と稱す。突厥、劉武周を立てて、定陽可汗となし、樓煩、定襄、雁門の諸郡を取る。梁師都、雕陰、弘化、延安等の郡を取り、自ら梁帝と稱す。金城の校尉薜擧、兵を隴西に起し、自ら西秦の霸王と稱す。武威の司馬李軌、兵を河西に起し、自ら凉王と稱す。薜擧、自ら秦帝と稱し、徒つで天水に據る。蕭銑、兵を巴陵に起し、自ら梁王と稱す。唐公李淵唐公李淵、兵を太原に起し、諸郡に克つて、長安に入る。時に、隋の大業十二年。帝、江都に在り、淵、はるかに尊んで、太上皇となして、代王を立つ、之を恭皇帝となす。【恭皇帝】名は侑、煬帝の孫なり。年十三にして李淵の爲に立てらひる。大業十三年を改めて、義寧となし、淵を大丞相となし、唐王に封ず。煬帝、江都に在り、淫虐日に甚しく、酒扈口を離さず。中原か、の已に亂れしを見て、北歸に心なし。從駕、關中の人多く、歸るを思うて遂に謀叛し、許公宇文化及を以て主となし、夜兵を引いて、3)宮に入つて煬帝を縊り殺す。宗室、少長となく、皆死す。惟だ、秦王浩を存して、之を立て、而して、自ら大丞相となり、衆を擁し南北朝隋四九九 十八史略卷之四五〇〇て西す。梁の蕭銑、帝を江陵に稱す。隋帝侑、位に卽いて、半年にして唐に禪る。隋は、高祖より、是に至るまで、三世、凡そ三十七年にして亡ぶ。譯新十八史略卷之五西紀自六八至九〇七一唐ろうぜい!〓【唐高祖神堯皇帝】姓は李氏、名は淵、隴西成紀の人なり。西凉の武昭王暠の後。祖虎、西魏に仕へて功あり、隴西公に封ぜらる。父昞周の世に於て、唐公に封ぜらる。隋の煬帝、淵を以て、弘化の留守となす。衆を御すること寬簡、人多く之に附く。煬帝、淵の相表奇異にして、名、圖識に應ずるを以て之を忌む。淵、懼れ、酒を恣にし、賂を納れて、以て自ら晦ます。天下、盜起る。淵を以て、唐-高祖神堯皇帝-五〇一 十八史略卷之五五〇一山西河東の撫慰大使となす。制を承けて黜陟し、群盜を討捕して、多く捷つ。突厥、邊に寇す。淵に詔して、之を擊たしむ。淵の次子世民有安天世民、聰明勇決識量人に過ぐ。隋室の方に亂るるを見て、陰に天下下之志を安んずるの志あり。晉陽の宮監裴寂、晉陽の令劉文靜と相結ぶ。文靜、世民に謂つて曰く、今、主上、南巡し、群盜萬數、この際に當つて、眞主あつて、驅駕して之を用ゆれば、天下を取ること掌か、を反すが如きのみ。太原の百姓、收拾すれば、十萬人を得べく、尊ー)天公、將たる所の兵復た數萬、之を以て、虛に乘じて關に入つて、下を號令すれば、半年に過ぎずして、帝業成らむ。世民、笑つて日く君の言、正に我が意に合へりと。乃ち陰に部署す。然も、淵は知らざるなり。淵の兵、突厥を拒いで利あらず、罪を獲むことを恐るるに會し、世民、閒に乘じて淵に說き、民心に順つて義兵を興せば、禍を轉じて福となさむといふ。淵.大に驚いて曰く、汝、安んぞ此言を爲すを得む。吾、今、汝を執へて縣官に〓げむ。世民、徐に曰く、世民、天時人事を觀るに、此の如し。故に敢て言を發す、必ず執へて〓ぐるとも、敢て死を辭せず。淵曰く、吾、豈に〓ぐるに忍びむや。汝、愼んで口より出すなかれと。明日、復た說いて曰く人、皆、傳ふ、李氏當に圖識に應ずべしと。故に、李金才、故上なくして族滅せらる。大人、能く賊を盡せば、功高くして賞せられず、身益す危からむ。惟だ昨日の言、以て禍を救ふべし。是れ萬全唐-高祖神堯皇帝-五〇三 十八史略卷之五五〇四の策、願はくは疑ふ勿れ。淵、歎じて曰く、吾、一ク、汝の言を思ふに、亦た大に理あり。今日、家を破り身を亡すも、亦た汝に由らむ。家を化し國となすも、亦た汝に由らむと。之より先、裴寂、私に晉陽の宮人を以て淵に侍せしむ。淵、寂に從つて飮む。酒酣なる時、寂曰く、二郞、陰に士馬を養ひ、大事を擧げむと欲す。正に寂が宮人を以て公に侍せしめ、事覺はるれば、併せて誅せられむを恐るるが爲のみと、會ま場帝、淵が寇を禦ぐ能はざるを以て、使者をして、執へて江都に詣らしむ。世民、寂等と復た說いて曰く、事旣に迫れり。宜しく、急に計を定むべし。且つ、晉陽は士馬精强、だいわう六うちうだ、宮監の蓄積巨萬、代王幼沖、關中の豪傑、並に起る。公、若し鼓行して西し、撫して之を有すれば囊中の物を探るが如きのみと。淵乃ち召募して、兵を起す。遠近赴き集まる。仍つて、使を遣して、兵を突厥に借る。世民、兵を引いて、西河を擊つて、之を拔き、郡P丞高德儒を斬り、之を數めて曰く、汝、野鳥を指して以て鸞となんだし、以て人主を欺く。吾、義兵を興す、正に侫人を誅するが爲のみと。兵を進めて、霍邑を取り、臨汾、絳郡に克つて、韓城を下し、馮翊を降す。淵、兵を留めて、河東を圍み、自ら兵を引いて西し、世子建成をして潼關を守らしむ。世民、渭北を徇ふ。關中の豪傑、悉く淵に降る。諸軍を合せて、長安を圍んで、之に克ち、恭帝を立て、淵、大丞相唐王となり九錫を加ふ。尋いで、禪を受け、子建唐-高祖神堯皇帝-五〇五 十八史略卷之五五〇六せいくわうたいししんわうげんきつせいわう成を立てて皇太子となし、世民を秦王となし、元吉を齊王となす。ずゐとうとりうしゆゑつわうどうそんしゆう隋の東都の留守越王侗は、煬帝の孫なり、亦た衆に立てられ、帝らくやうを洛陽に稱す。しんしゆせつきよこじんかう秦主薛擧、卒す。子仁杲、立つ。ニみつずゐへいたゝかたいはいたうくだ魏公李密、隋兵と戰ひ、大敗して、唐に降る。うぶんくわきふしゆかうしいきよてい宇文化及、其立つる所の主浩を弑して、自ら許帝と稱す。りやうわうりき凉王李軌、帝と稱す。しんわうせいみんしんわうせつじんかうちやうあんいち唐の秦王世民、秦を破る。秦王薛仁杲、降る。長安に送つて、市きに斬る。みつきうきやう李密の將徐世勣しやうじよせいせきよ徐世動密の舊境に據つて唐に降り、姓李を賜ふ。とうけんとくかほくしよしうかわう竇建德、河北の諸州を取つて、自ら夏王と稱す。そむたうじんとら李密、唐に叛く。唐人、獲へて之を斬る。かしゆとうけんとくうぶんくわきふちう夏主竇建德、宇文化及を破つて、之を誅す。ずゐしゆどうわうせいじうはいじりつていてい隋主伺、立つて一年。王世充、之を廢し、自立して鄭帝となり、つどうしい尋いで伺を弑す。たうしやうりやうしゆりきおそとらから唐、將を遣して、凉主李軌を襲ひ、執へ歸つて、之を殺し、河西たひ平らぐ。ちんはふこうひれうれうわう沈法興、毗陵に梁王と稱す。しつうこうとごてい李子通、江都に吳帝と稱す。とふくゐ杜伏威、唐に降る。唐-高祖神堯皇帝-五〇七 十八史略卷之五五〇八唐の秦王世民、定陽の將宋金剛を擊つて、之を破る。定陽の可汗劉武周、及び金剛、皆、走つて死す。唐の秦王世民、諸軍を督して鄭を伐つ。吳王李子通、梁を襲ふ。梁王沈法興、走つて死す。夏主寶建德、鄭を救ふ。唐の秦王世民、大に破つて之を擒にす。鄭主王世充降る。世民、長安に至り、黃金の甲を被り、二十五將、建德を市に斬と、其後に從ひ、鐵騎萬匹、甲士三萬、俘を太廟に獻じ、り、世充を赦す。尋いで、人をして、潜に之を殺さしむ。竇建德の故將劉黑闥、始めて、兵を漳南に起す。唐、將李靖を遣して、梁を伐たしむ。梁主蕭銑降る。長安に送つて、之を斬る。杜伏威、吳主李子通を擊ち、執へて長安に送り、誅に伏す。劉黑闥、自ら漢東王と稱す。楚主林士弘、卒す。其衆、遂に散ず。漢東の將、黑闥を執へて、唐に降る。之を斬る。唐の淮南道の行臺僕射輔公祏、丹陽に反す。唐將、擊つて、之を斬る。慶州の都督楊文幹、反す。秦王世民を遣して、之を討平せしむ。突厥、入寇す。秦王世民を遣して、之を禦がしむ。豳州に遇ふ。世民、騎を帥ゐ、馳せて虜陣に詣り、之に告げて曰く、我は秦王な唐-高祖神堯皇帝-五〇九 十八史略卷之五五一〇りと。虜、敢て戰はず。盟を受けて退く。唐、興つて七年。僭僞皆亡び、天下旣に定まる。此歲、始めて、州縣の郷學を置き、帝、親ら國子學に詣つて先聖、先師に釋奠し、に·始めて官制始めて、官制を定め、新律令を頒つ。均田租庸調の法を定む。丁中東京市小石川區西江篤疾は十の六を減じ、令を知りの民、田一頃を給し、寡妻妾は七を減じ、皆一丁毎に歲に租粟二石十の二を以て世業となし、八を口分となし、を入れ、調は土地の宜しき所に隨ひ、綾絹純布、歲役二旬、役せざれば、其傭を收むる日に三尺。事あつて役を加ふる者は、旬有五日にして、其調を免じ、三旬なれば租調共に免ず。水旱蟲霜、十にして四以上を損すれば、租を免じ、六以上を損すれば調を免じ、七以上を損すれば、課役共に免ず。民の質業は、九等に分ち、百戶を里となし、五里を〓となし、四家を鄰となし、四鄰を保となし、城邑に在る者を坊となし、田野の者は村となす。祿を食むの家は、民と利を爭ふを得るなく、工商雜類は、士伍に預るなし。男女、始めて黄、小、中、生まるるを黃となし、四歲を小となし、十六を中となし、二十を丁T)老となし、六十を老となす。歲每に計帳を造り、三歲に戶籍を造る。初め、唐の晉陽に起る、皆、世民の謀なり。帝、世民を以て、儲嗣となさむと欲す。世民、固辭して止む。太子建成、酒色遊〓を喜び、齊王元吉、過失多し。而して、世民、功名日に盛なり。建成、乃ち元吉と謀を協せて、世民を傾けむとし、意を曲げて、諸唐-高祖神堯皇帝-五二 十八史略卷之五五三妃嬪に謂事す。世民、獨り、之を事とせず。之に由つて、左右、皆建成、元吉を譽めて、世民を短る。武德九年六月、太白、天に經り、秦の分に見はる。建成、元吉、世民を殺さむと欲す。秦府の僚屬、王に勸めて周公の事を行はしむ。力め請うて、乃ち決す。是に於て、密奏す。兄弟專ら臣を殺さむと欲し、世充、建德の爲に響を報ぜむとするに似たりと。明日、兵玄武門の變を師ゐて、玄武門に伏す。建成、元吉、入つて變あるを覺り還らむと欲す。世民、追うて、建成を射て之を殺し、尉遲敬德、元吉を射殺す。遂に世民を立てて太子となし、軍國の事、悉く太子に委し魏徴て處決せしめ、然る後に聞奏す。初め、東宮の官屬魏徵、屢ば建成さに勸めて、世民を除かむとす。是に及びて、世民、徵を召し、責む3)るに兄弟を離開するを以てす。徵擧止自若、對へて屈せず。世民之を禮す。王珪も、亦た、嘗て建成の爲に謀る。皆、以て諫議大夫となす。帝、自ら稱して、太上皇帝といひ、詔して、位を太子に傳ふ。之を太宗文武皇帝となす。【太宗文武皇帝】名は世民。幼なりし日、書生あり、之を見て曰く、〓評秦王世民龍鳳の姿、天日の表、其年、冠に幾くして、必ず能く世を濟ひ、民相貌特異英人り最を安んぜんと。高祖、人をして之を追はしむ。見えず、乃ち其語を而る 安其成採つて名となす。李密、始めて高長謂邁と果年十八、義兵を擧ぐ。唐に降り、もを所服神祖に見え、色、尙ほ傲れり。秦王を見るに及びて、敢て仰ぎ視ず。唐-高祖神堯皇帝-太宗文武皇帝-五一三 十八史略卷之五五一四に記載して退いて、歎じて曰く、眞の英主なりと。高祖、秦王の功高きを以て降李仰王てるえ時唐是て秦り傲見のがと,特に天策上將を置く。位王公の上に在り。秦王を以て之となす。電して、の色祖ま府を開き、屬を置き、館を開き、以て文學の士を延く。杜如晦、房玄齡、虞世南、褚亮、姚志廉、李玄道、蔡允恭、薛元敬、顏相時十りり見遇なざぎにあ後りにあめり唯を 明、 文 斯 にて那以は蘇〓顯ねし于志寧、李守素、だ致し朝支所蘇世長、薛收、陸德明、孔穎達、葢文達、二許敬宗を文學館の學士となす。分つて三番となし、日を更へて直宿し宗中高ち者し太創てあ頃祖初あ者平業漢乃三せてす。王の暇日には、輒ち館中に至つて、文籍を討論し、或は夜分に至る。唐りに閣立本をして、像を圖せしめ、褚亮をして賛を爲らしめ、十宗宋而太八學士と號す。士大夫、其選に預るを得るもの時人、之を登瀛洲太祖といふ。時に府僚多く外に補せられ、如晦亦た出づ。玄齡曰く、餘人は惜むに足らず、如晦は王佐の才、大王、四方を經營せむと欲太宗と絕はふのに所謂い代眞とベ英し主せば、如晦に非ざれば、不可なりと。王、卽ち奏して、之を留め、帷幄に參謀せしむ。剖決流るるが如し。玄齡、入つて事を奏する每に、高祖曰く、玄齡、吾が子の爲に事を謀る。千里を隔つと雖も、對面して語るが如しと。秦王の功、天下を葢ひ、身、幾んど危し。房玄齡杜如玄齡、如晦に賴つて、策を決す。是に至つて、位に卽く。首として、晦宮女三千餘人を放つ。突厥の頡利、突利の二可汗、十餘萬騎を合はせて入寇し、進んで渭水便橋の北に至る。上、自ら房玄齡等六騎と、徑に渭水の上に詣やり、頡利と水を隔てて語り、責むるに、約に負くを以てす。突厥、唐-太宗文武皇帝-五一五 十八史略卷之五五一六大に驚き、皆、馬を下つて羅拜す。俄にして、諸軍、繼いで至り、旗甲野を蔽ふ。頡利懼れ、盟を請うて退く。弘文館を置き、四部二十餘萬を聚む。天下文學の士を選び、虞世南等、本官を以て、學士を兼ね朝を聽くの隙、內殿に引き入れ、前言往行を講論し、政事を商權し、或は夜分にして、乃ち罷む。三品以上の子孫を取つて、弘文館學士に充つ。上書して侫臣を去らむことを請ふ者あり。曰く、願はくは、陽り評怒つて、以て之を試みよ。理を執つて屈せざる者は直臣なり威をしの政所這銘家訓個との中太外宗お べ右爲の畏れて旨に順ふ者は侫臣なりと。上曰く、吾、自ら詐をなせば、何す座を以て臣下の直を責めむや。朕、方に至誠を以て天下を治めむと。或ひと法を重くして盜を禁ぜむことを請ふ。上曰く、當に奢を去つて費を省き、徭を輕くし、賦を薄くし、廉吏を選用し、民の衣食をして餘あらしむれば、自ら盜を爲さず。安んぞ、重法を用ゐむやと。之より數年の後、路、遺ちたるを拾はず。商旅野宿す。上、嘗て曰く、君は國に依り、國は民に依る。民を刻して、以て君に奉ずた、るは、猶ほ肉を割いて以て腹を充たすが如く、腹飽けども身斃れ、君、富めども國亡びむと。又嘗て侍臣に謂つて曰く、聞く、西域の賈胡、美珠を得れば、身を剖いて之を藏むと。是れ有りや。曰く、之あり。曰く、吏の賊を受けて、法に抵ると、帝王の奢欲に狗ひて國を亡すと、何を以て、此胡の笑ふべきに異ならむやと。魏徵曰く、唐-太宗文武皇帝-五一七 十八史略卷之五五一八宅むかし、魯の哀公、孔子に謂つて曰く、人好く忘るるものあり、またはな〓〓を徒して其妻を忘る。孔子曰く、又甚しきものあり、桀紂は、乃ち其身を忘ると。亦た猶ほ是の如きなりと。張蘊古大賣張蘊古、大寶箴を獻ず。曰へるあり、一人を以て天下を治む、天箴を獻ず下を以て一人に奉ぜずと。又曰く、九重を内に壯にすれども、居る所は、膝を容るるに過ぎず。かの昏にして知らざるは、其臺を瑤にし其室を瑀にす。八珍を前に羅ぬれども、食ふ所は口に適ふに過ぎず。惟れ狂にして念ふなきは、其糟を丘にして、其酒を池にすと。ら又曰く、沒沒として闇きこと勿れ、察察として明なること勿れ冕旒目を蔽ふと雖も、無形に視よ。〓續耳を塞ぐと雖も、無聲に聽けと。上、其言を嘉す。天下を分つて十道となす、山川の形便に因る。曰く關內、河南、河東、河北、山南、隴右、淮南、江南、劍南、嶺南將を遣して、梁師都を討つ。其下、之を殺して以て降る。其地を以て夏州となす。太常祖孝孫、唐の雅樂を奏す。貞觀二年、又、宮女三千餘人を出す。軍國の大事は、故事、中書舍人、各所見を雜署し、之を五花判事といひ、中書侍郞、中書令、之を省審し、給事中、黃門侍郞、之を駁正す。上王珪に謂つて曰く、國家、もと中書門下を置いて以て唐-太宗文武皇帝-五一九 十八史略卷之五五二〇相檢察す。卿曹、雷同すること勿れと。時に、珪、侍中たり。房玄評反女齡杜齡杜如晦、僕射たり。魏徵、祕書監に守たり。朝政に參預す。如明治3年間唐初三名玄齡、事を謀る、必ず曰く、如晦に非ざれば決する能はずと。如臣な異忠りの魏徵の臣相ずたきる臣良晦至るに及びて、卒に玄齡の策を用ゆ。蓋し、玄齡善く謀り、如晦のに味論ら々如やる滋あ深善く斷ず。二人、心を同じうして、國に徇ふ。故に、唐の世、賢相を稱する、房杜を推す。魏徵、嘗て上に告げて曰く、願はくは、臣をして良臣たらしめよ、臣をして忠臣たらしむる勿れ。上曰く、忠良異なれりや。徵曰く、稷契、皐陶、君臣心を協せて、共に尊榮を享く、謂ゆる良臣なり。龍逢、比干、面接廷爭、身誅せられ、國亡ぶ、謂ゆる忠臣なりと。上、悅ぶ。5初め、突厥、旣に强く、敕勒諸部、分散し、薛延陀、囘紇等の十五部あり。皆、磧北に居る。額利、政亂れ、薛延陀、囘紘等之に叛く加ふるに、民、大に飢ゑ、羊馬多く死す。使を奉ずる者還り、及び邊帥、皆、突厥取るべきの狀を言ふ。詔して、李靖を以て、定襄道の行軍總管となし、諸軍を統べて、之を討たしむ。靖、突厥を陰山に襲ひ破る。頡利可汗、遁れ走る。唐將、之を擒にして以て獻ず。時に、突利可汗、先に己に入朝す。上、突厥の降衆を處するに、東は幽州より西は靈州に至らしむ。突利の地を分つて四州となし、頡利の地を分つて六州となし、左に定襄都督を置き、右に雲中都督を置き、以て其衆を統べ、突利を以て順州都督となし、額利を唐-太宗文武皇帝-至二 十八史略卷之五五二二右衞大將軍となす。林邑、使を遣して入貢す。伊吾、來り降る。伊西州を置く。高昌王麴文泰入朝す。評之より先、四夷の君長、闕に詣り、帝に天可汗とならむを請ふ。何行可子は太ぞは汗た大宗壯んのり唐言又のふる言を下天我事上曰く、我は大唐の天子たり、又、下、可汗の事を行はむかと。群な乎臣及び四夷、皆萬歲と稱す。之より後、璽書、西北の君長に賜ふには、皆、天可汗と稱す。蔡公如晦卒貞觀四年、蔡公如晦、卒す。上語、及べば、必ず涕を流す。す此歲、大に年あり。上、初め位に卽くや、常に群臣と語つて、〓化に及ぶ。曰く、大亂の後、それ治め難きか。魏徵、對へて曰く、〓12饑ゆる者は食を爲し易く、渴する者は飮を爲し易し。封德彝曰く、三代以還、人漸く澆訛、故に秦は法律に任じ、漢は霸道を雜ふ。蓋し、化せむと欲するも能はざればなり、豈に之を能くして、然も欲せざらむや。徵曰く、五帝三王、民を易へずして化す。湯武は、皆評國民大學大亂の後に乘じて、身、太平を致し、帝道を行うて帝たり、王道をふ)行うて王たり。行ふ所、如何を顧るのみと。上卒に徵の言に從ふ.元年、關中饑ゆ、斗米、絹一匹に直る。二年、天下蝗あり。三鑑道一加土り蓋著工具り、年、大水あり。上、勤めて、之を撫す、未だ嘗て嗟怨せず。是に至じつて、天下、大に稔る。米、斗、三四錢。終歲、死刑を斷ずる、わ唐-太宗文武皇帝-五二三 十八史略卷之五五二四づかに十九人。東海に至り、南.五嶺に及ぶまで、皆、外戶閉ぢす、ず、行旅糧を齎らさず、給を道路に取る。上曰く、魏徵、我に勸めて、仁義を行はしむ。今、旣に效あり。惜むらくは、封德彜をして之を見せしめずと。盖し、德彜は、元年六月に死せり。五年。林邑、新羅、入貢す。黨項、內附す。其地を開いて、十六州となす。支店内七銀丸功の安七年。春、玄武門に宴し、七德九功の舞を奏す。徵上が武を偃舞せ文を修めむことを欲す。宴に侍する每に、七德の舞を見ては輒一)ち首を俛して視ず。七德の舞は、秦王破陣の曲なり。九功の舞を見れば則ち之を諦觀す。王珪、罷む。徵侍中となる。る評の事後世論太宗縱囚上親ら囚徒を錄し、死に應ずる者を見て、之を憫み、縱つて、議ある所な家に歸らしめ、期するに、來秋を以てして死に就かしむ。仍つて、)今省採世り三者のの轉向用事件天下の死囚に敕して、皆、縱ち遣り、期に至つて、京師に來り詣らせししむ。是に至つて、皆期の如く、自ら朝堂に詣る。上、皆之を赦す。凡そ三百九十人。上太上皇を奉じて、未央宮に置酒す。上皇、頡利可汗に命じて古起つて舞はしむ。馮智戴、詩を詠ず。笑つて曰く、胡越一家、しへより未だ有らざるなりと。八年。吐蕃、使を遣して入貢す。高祖崩ず九年。太上皇、崩ず。上皇、卽位九年にして位を禪り、是に至る唐-太宗文武皇帝-五二五 十八史略卷之五五二六まで又九年。吐谷渾、之より先、凉州に入寇す。李靖を以て諸軍に帥たらしめ、討つて之を破る。十年。吐谷渾、子を遣して入侍せしむ。治書侍御史權萬紀言ふ、宣饒、銀、大に發す。之を采らば、歲毎に、數百萬を得べしと。上曰く、卿未だ嘗て一賢才を進めず、然も專ら銀の利を言ふ。むかし、堯舜、壁を山に抛ち、珠を谷に投じ、漢の桓靈、乃ち錢を聚めて私藏となす。卿桓靈を以て我を俟たむとするかと。之を黜く。府兵を定む、凡そ十道。府を置く、六百三十四。而して、關内はす二百六十一、皆、諸衞及び東宮六率に隸し、上府の兵は凡そ千二百中府は千人、人下府は八百人。三百人を團となし、團に校尉あり、ちやう、五十人を隊となし、隊に正あり、十人を火となし、火に長あり、人毎に兵甲粮裝、各 數あり。之を庫に輸し、征行には之を給す。二十なにして兵となり、六十にして免す。能く騎射する者は越騎となし、其餘は、步兵となす。統軍別將を更命して、折衝果毅都尉となし、歲の季毎に、各折衝都尉、帥ゐて以て戰を〓へ當に馬を給すべき者には、官より直を與へ當に宿衞すべき者は、番上し、兵部は遠とほき·そ近を以て番を給し、遠は疎、近は數皆、一月にして更る。十三年。夏、旱す。五品以上に詔 して、事を言はしむ。魏徵、唐-太宗文武皇帝-五二七 十八史略卷之五五二八言ふ、陛下、貞觀の初に比して漸く終を克くせざるもの十條と。上、深く賞歎す。十四年。上國子監に詣り、親ら釋奠す。この時、大に天下の名儒を徵して學官となし、屢ば國子監に幸し、之をして講論せしむ。學は能く一經已上に明かなる者は、皆官に補するを得。學舍を增築すること、千二百間、學生を增して、三千二百六十員に滿たしむ。屯營飛騎よりしても、亦た博士を給して經を授け、能く經に通ずる者あれば貢擧を得るを聽す。是に於て、四方の學者、京師に雲集し、乃ち高麗、百濟、新羅、高昌、吐蕃の諸會長に至るまで、亦た子弟を遣し、請うて、國學に入らしめ、講筵に昇る者八千餘人に至る。上、師說多門にして、章句繁雜なるを以て、孔頴達に命じて、諸儒と共に五經の疏を定めしむ。之を正義といふ。高昌王麴文泰、之より先、西域の朝貢を遏絕し、及び中國の人を拘留す。侯君集を以て交河大總管となし、兵に將として、之を擊たしむ。是に至つて、高昌を滅ぼし、其地を以て西州となす。十五年。吐蕃、婚を求む。文成公主を以て之に嫁せしむ。鄭公魏徵卒十七年。鄭公魏徵、卒す。上曰く、銅を以て鏡となせば、衣冠をすた古しへを以て鏡となせば、評魏徵は謀正すべく、興替を見るべく、人を以て鏡者氏乃木真んもとなせば、得失を知るべし。徵沒して、朕、一鏡を亡ふと。徵·はふむ葬るや、上、自ら碑を製して石に書す。唐-太宗文武皇帝-五二九 十八史略卷之五五三〇功臣を凌烟功臣長孫無忌、趙郡王孝恭、杜如晦、魏徵、房玄齡、高士廉、尉閣に圖畫す遲敬德、李靖、蕭瑀、段志玄、劉弘基、屈突通、殷開山、柴紹、長孫順德、張亮、侯君集、張公謹、程知節、虞世南、劉政會唐儉、李勣、秦叔寶等を凌煙閣に圖畫す。太子承乾、不才なり。魏王泰、多能にして寵あり、潜に嫡を奪ふ(うの志あり。侯君集、功を負んで、怨望し、承乾の暗劣を以て釁に乘さぜむと欲し、因つて之に反を勸む。事覺はる。廢して庶人となし、君集坐して誅せらる。泰も、亦た險詐を以ててられず。晉王治をす立てて太子となす。魏徵、嘗て君集を薦む。上、初め、徵の阿黨するを疑ふ。又、徵自ら前後の諫辭を錄して、起居郞褚遂良に示すといふ者あり。上、愈よ悅ばず。徵、終に臨む時、上、公主を面指して、其子叔玉に妻はさむと欲す。是に至つて、其婚を停め、立つる所の碑を踏す。十八年。上、親ら高麗を征す。之より先、高麗の泉蓋蘇文、其君を弑し、新羅、又、使を遣して言ふ、百濟、高麗と兵を連ねて、新い羅入貢の路を絕たむを謀る。乞ふ兵をもつて救援せよと。上、遂に之を討たむとし、先づ洛陽に如く。十九年。上、洛陽を發して、定州に至り、諸軍を進む。上、遼水を渡り、遼東城を拔き、白巖城を降し、安市城を攻め、大に其救兵を城下に破る。安市城、險にして兵精、堅守して下らず、議者、烏唐-太滑文武皇帝-垂 十八史略卷之五五三二骨城を拔き、鴨綠水を渡り、直に平壤を取らむとし、其本根を覆さば、餘は戰はずして降すべしといふ。或ひと又謂ふ、親征は諸將と異なり、危きに乘ずべからずと。上、遼左早寒、草枯れ水凍つて、士卒久しく留め難く、且つ粮將に盡きむとするを以て、敕して、師を班す。この行、十城を拔き、戶口七萬を徒し、三たび大戰して、斬首四萬餘級。然れども、戰士死する者、幾んど三千人、戰馬の死13する、什に七八、功を成す能はず。深く之を悔い、歎じて曰く、魏徵若し在らば、我をして、此行あらしめざるなりと。命じて、騎を馳せ、徵を祀るに少牢を以てし、復た製する所の碑を立つ。二十年上靈州に行く。李世勣をして、薛延陀を擊たしめ、破つて之を降し、敕勒の諸部を詔諭す。囘乾等十一姓、各、使を遣しわ、て、命に歸し、官司を置かむを乞ふ。詔して曰く、朕聊か偏師に命じて顏利を逐擒し、始めて、廟略を弘む。旣に、延陀を滅し、鐵動百餘萬戶、請うて州郡となる。混元以來、殊に未だ前聞せず。大家上評百詩王|宜しく、禮を備へて廟に〓ぐべしと。仍つて、天下に頒示す。上雪(さ除詩を爲つて曰く、耻を雪いで百王に酬い兇を除いて千古に報ず意氣爽なと石を靈州に刻す。司空房玄齡卒す二十二年、司空梁公房玄齡、卒す。上悲んで、自ら勝へず。玄評スキ房相當國齡上を佐けて、天下を定め、相位に終るに及ぶまで三十二年、號けんしや·之原子しやったして賢相となす。然れども、跡の尋ぬべきものなし。上、禍亂を定唐-太宗文武皇帝-五三三 十八史略卷之五五三四5上な。然も房杜功を言はず。王魏善く諫諍す。然も房杜其賢を讓る。英衞善く兵に將たり。然も房杜其道を行ふ。理、太平を致し、善人主に歸す。唐の宗臣たり。二十三年。上、疾あり。太子に謂つて曰く、李世勣、才知、餘あり。然れども、汝、之に恩なし。我、今、之を黜けむ。我死せば、用ゐて僕射となして、之に親任せよ。若し徘徊顧望すれば、則ち當きに之を殺すべきのみと。乃ち疊州都督に左遷す。詔を受くるや、家に至らずして去る。太宗言行上崩ず。在位二十四年。改元するもの一曰く貞觀上、武功を以て、禍亂を定むと雖も、終に文德を以て海內を綏んず。常に自ら驕侈を以て懼となす。嘗て曰く、人主惟だ一心、之を攻むる者衆し。或は勇力を以てし、或は辯口を以てし、或は諂諛を以てし、或は姦詐を以てし、或は嗜欲を以てし、輻輳して、各、自ら售らむことを求む。人主少しく解つて、其一を受くれば、危亡之に隨ふ、是れ難き所以なりと。嘗て、侍臣に問ふ、創業守成、孰れか難き。玄齡曰く、草味の初群雄並び起り、力を角して後に、之を臣とす、創業難し。魏徵曰く、古しへより、帝王、之を艱難に得て、之を安逸に失はざるはなし、守成難し。上曰く、玄齡、吾と共に天下を取り百死を出でて一生を得たり、故に創業の難きを知る。徵吾と1/3共に天下を安んじ、常に驕奢は富貴に生じ、禍亂は忽にする所に生唐-太宗文武皇帝-五三五 十八史略卷之五五三六ずるを恐る、故に守成の難きを知る。然れども創業の難は、往けり、守成の難は、方に諸公と之を愼まむと。自ら神采の臣下に畏れらるるを知り、常に溫顏にして群臣に接し、人を導いて諫めしめ、諫むる者を賞し、以て之を來す。惟だ末年東征の役、褚遂良、嘗て諫むれども聽かず、太子立つ、之を高宗皇帝となす。【高宗皇帝】名は治、母は長孫皇后。承乾の廢せらるるや、長孫さ、無忌、力めて太宗に勸めて治を立つ。東宮に在ること七年。太宗、こと〓〓帝範十二篇嘗て帝範十二篇を作つて、以て賜うて曰く、修身治國、盡く其中に在り。一旦不諱更に言なしと。是に至つて卽位す。長孫無忌、褚せ七遂良、先帝の遺詔を受けて、政を輔け、李勣を以て左僕射となし、尋いで、司空となす。業大夫お宗る次儀才でと人赤水焼永徽五年。太宗の才人武氏を以て昭儀となす。)后とな六年。上、皇后王氏を廢して、武昭儀を立てて后となさむとす。以て李勣に問ふ。許敬宗、李義府、之を賛す。褚遂良、可かず。勣曰く、是れ陛下の家事、何ぞ必ずしも、更に外人に問はむと。事、義府-李猫遂に決す。褚遂良、貶せられ、義府、參知政事たり。義府、貌溫ミ評多し當世李猫恭なるが若く、人と嬉怡し、然も、狡險忌克。人謂ふ、笑中刀あり、柔にして物を害す、之を李猫といふと。武后、長孫無忌が己を助けざりしを以て、深く之を怨み、顯慶四官を削つて、年、無忌の黔州に安置す。遂良、先つこと一年にして唐-高宗皇帝-五三七 十八史略卷之五五三八卒す。是に至つて、無忌、初の議者、柳奭、韓瑗と共に皆殺さる。だじやうげん〓〓乾封元年上、泰山に封じ、毫州に至り、老君を尊んで太上玄元皇帝となす。李勣を以て遼東大總管となし、高麗を伐つ。總章元年李勣、平壤を拔き、其王を降し、高麗悉く平らぐ。安東都護府を置く。上元元年。帝、天皇と稱し、后、天后と稱す。二)は初め、帝、賤妾の子忠を以て太子となす。武后、之を廢して、后の子弘を立つ。弘、仁孝、中外心を屬す。后の意に忤ふ。之を鴆す。其次を立つ、賢といふ。又、事を以て之を廢して、其次哲を立つ。上、在位改元するもの十三、曰く、永徽、顯慶、龍朔、麟德、乾じやうげん封總章咸享、上元儀凰、永隆、開耀、永淳、弘道、凡そ三十四年。而して、政、中宮に在るもの三十年。褚遂良等、死せしより後、群臣敢て諫むる者なし。李善感、嘗て、事に因つて、一たび諫む。人、以て、鳳朝陽に鳴くとなす。上、崩ず。太子哲、位に卽く之を中宗皇帝となす。【中宗皇帝】初名は顯、哲と改名す。旣に位に卽き、韋妃を立てて)3后となし、改元して嗣聖といふ。明年、武后、帝を廢して廬陵王となして、其弟旦を立つ。旦、虛器を擁するもの七年、改元して垂唐-高宗皇帝-中宗皇帝ー五三九 十八史略卷之五五四〇撰といひ、永昌といふ。太后、旦を廢して皇嗣となして帝と稱す。之を則天武氏となす。C則天武氏則天武氏は、故の〓州都督武士護の女なり。太原の人。年十四。太宗、其美を聞き、召して、後宮に入れ、貞觀十一年を以て、才人さとなる。時に、天下の歌曲を斌媚娘と名づく。旣に識を成す。貞觀の末、太白屢ば晝現はる。太史、占して云ふ、女主昌ならむと。又秘記を傳ふ、唐三世の後、女主武王、代つて天下を有たむと。太宗、之を惡む。嘗て、群臣と宴するや、各をして小名を言はしむ。武衞將軍李君羨、官稱封邑、皆武の字あり。而して、小名は五娘。太宗、愕いて曰く、何物の女子ぞ乃ち爾かく健なるかと。或ひと奏す、君羨、不軌を謀ると。遂に之を誅す。密に太史李淳風に問ふ。對へて曰く、臣、仰いで天象を觀、俯して曆數を察するに、其人、旣に陛下の宮中に在り、三十年を過ぎずして、當に天下に王たるべく唐の子孫を殺して、殆んど盡きむ、其兆、旣に成れりと。太宗崩ず。才人年二十四、尼となる。高宗、寺に幸す、之を見て泣く。時に、さ王皇后、蕭淑妃と寵を爭ふ。密に髪を長くせしめ、高宗に勸めて之を納る。·既に入つて、后と淑妃と、皆寵を失ふ。武氏、年三父士護に十二、遂に昭儀より后となり、王、蕭、皆殺さる。周國公を尋いで、太原王を加贈す。贈り、高宗、風眩に苦んで、百司の奏事せいめいびんを視る能はず。或は皇后をして、之を決せしむ。后、性明敏、文史唐-中宗皇帝-雷 十八史略卷之五五四二政事を涉獵し、事を處して、皆、旨に稱ふ。之に由つて、委するにを以てし、權人主に伴しく、人、之を二聖といふ。高宗の世に在一)子哲位つて、后、自ら子弘を殺し、子賢を廢す。高宗、旣に崩じ、に卽くや、廢して廬陵王となして、子旦を立つ。后、朝に臨んで、ま制を稱し、武氏の七廟を立つ。一抔の土、未だ英公李敬業、兵を起して、之を討つ。檄に曰く、六尺孤安く乾かず、六尺の孤、安にか在る。又曰く、試に今日の域中を觀よ、にか在る擊つて之を殺す。越竟に是れ誰が家の天下ぞと。太后、將を遣し、遂に大に唐の王貞、又兵を擧げて匡復す、克たずして死す。太后、宗室を殺し、自ら墨と名づけ、皇帝と稱し、國を周と號し、旦を以て皇嗣となし、姓を武と改む。時に塁年六十七。初め、僧懷義を寵し、後に張易之、張昌宗を寵し、兄弟中に居て、事を用ゆ。易之は五郞、昌宗は六郞侫者曰く、人は言ふ、六郞は蓮花に似たり。吾は謂ふ。蓮花は六郞に似たるのみと。墨、人心の服せざるを知り且つ內行正しからず、人の己を議せむことを畏れて、盛に〓密の門を開き、酷吏侯思止、索元禮、周興、來俊臣、吉項等を用ゐて、鍛鍊羅織し、率ね反逆を以て、人を誣ひ、誅殺勝げて紀すべからず。之を用ゐて、天下を拑制す。然れども、權數あつて善く人を用ゐ、に賢才も、亦た之が爲に用ゐらるるを樂む。徐有功、仁恕にして、法;)を執る。嬰、毎に意を屈して、之に從ふ。將相、多く人を得たり。唐-中宗皇帝-五四三 十八史略卷之五魏元忠、婁師德、狄仁傑、姚元崇皆名相宋環、亦た朝に顯はる。と、くわんこうせいしん師德、寬厚〓愼犯せども校せず。弟代州の刺史に除せらる。師1/5德謂ふ。兄弟、榮寵過盛なるは、人の惡む所なり何を以て、之を免れむ。弟曰く、今より、人某の面に唾すと雖も、之を拭はむのみ師德、愀然として曰く、是れ吾が憂たる所以なり。人、汝の面に唾するは、汝を怒らしめむとするなり。然るに之を拭はば、其意に逆つて其怒を重ねむ。唾は拭はざるも、自ら乾く、當に笑つて之き···を受くべきのみと。師德、每に仁傑を薦む、然も、仁傑、毎に師德せを毀る。墨、仁傑に語つて曰く、朕、卿を用ゐしは、師德の薦むる所なりと。仁傑退いて歎じて曰く、婁公盛德、我容れらるること久しと。武承嗣、三思、太子たらむを營求す。仁傑、從容として塁に言つて曰く、太宗、櫛風沐雨、親ら鋒鏑を冐し、以て天下を定ためて之を子孫に傳へ太帝二子を以て陛下に托す。今乃ち之を他族に移さむと欲す。乃ち天意に非ざるなきか。姑姪と母子と、孰れか親しき。陛下、子を立つれば、則ち千秋萬歲の後太廟に配食せむ。一姪を立つれば、則ち未だ、姪、天子となつて、姑を廟に祔する者を聞さかざるなりと。嬰、やや悟る。旣にして、又力めて勸む。遂に房州よか、り廬陵王を召して、都に還らしめ、立てて皇太子となし、子旦を以て相王となす。仁傑、最も信重せられ、面折廷爭を好む。嬰、常に屈從し、稱して、國老となして、名いはず。仁傑、卒す、嬰、泣い唐-中宗皇帝-五四五 十八史略卷之五五四六げんかうちうはくがくたつうきかんおほて數ず。元行冲、博學多通なり。仁傑、之を重んず。行冲、規諫多めいこうちんみおほやくぶつまつそなし。曰く、明公の門には、珍味多し、請ふ藥物の末を備へむ。仁傑やくらうちうえうげん笑つて曰く、吾が藥籠中の物、何ぞ一日も無かるべけむやと。姚元すうとうす、たうり崇等、數十人、皆仁傑が薦むる所。或は曰く、天下の桃李、悉く公けんすの門に在り。仁傑曰く、賢を薦むるは、國の爲にして、私の爲にすせうかしるに非ざるなりと。嬰、嘗て仁傑に問ひ、一佳士を得て、之を用ゐちやうかんしむと欲すといふ。仁傑曰く、張東之といふ者あり、老いたりと雖もさいしやうつひかんししやうやまひい宰相の才ありと。後、竟に東之を用ゐて、相となす。墨、疾に寝ねはなはだかんしさいげんきけいきくわんげんはんゑんじよきうりんしやうぐんりて甚し。東之、崔玄暉、敬暉、桓彥範袁恕己と共に、羽林將軍李たそらひきあないらんとうきうむかくわん多祚等を率ゐ、兵を擧げて、內亂を討ち、太子を東宮に迎へ、關をえきししやうそうかせうじやうやうきううつそんがう斬つて入り、易之、昌宗を庶下に斬り、塁を上陽宮に遷し、尊號をそくてんだいせいくわうていそか武后殂す上つて、則天大聖皇帝といふ。この冬、殂す、年八十二。唐を易へ(西紀七〇五)かいげんてんじゆじよいて周となすもの、十有六年。改元するもの十、曰く、天授、如意、ちやうじゆえんさいばんさいつうてんじんこうせいれさきうしたいそくちやうあん長壽、延載。曰く萬歲通天。曰く神功、聖曆、久視、大足、長安ちやうあんくらゐさがうはい長安の五年、帝、位に復す、唐と號す。帝、卽位二月にして廢せきんしうばうしうかへられ、均州に居る者一年、房州に居る者十三年、還つて太子となるせいかへゐしじやうばうれう者又八年、然る後に、正に反り、韋氏復た皇后となる。上、房陵にじさつごとこうつねとじひそかちか評武在つて、自殺せむと欲する毎に、后每に之を止む。六共に私に誓を送禍り氏本でのいじさいわひまてんじつたほつきん氏のふ異時幸に復た天日を見ば、唯だ欲するままにして禁ぜずと。是てうのぞごとゐまんほどこでんじやうてうせいに至つて、朝に臨む每に、后、必ず帷幔を施し、殿上に坐して朝政唐-中宗皇帝-五四七 十八史略卷之五五四八を預り聞くこと、武氏の高宗の世に在るが如し。上の女安樂公主武三思の子に適く。三思、之を以て、宮禁に入るを得て、韋后に通ず。后、三思と雙陸す。而して上、爲に點籌す。土、遂に三思とちやうかんしとう政事を圖議す。張東之等、皆、制を受く。五人、·黄王爵を賜うてい政を罷む。旣にして、遠く貶して之を殺す。安樂公主等、勢に依つて事を用ゐ、請謁賊を受け、墨敕を降して、官に除し、斜封して中書に付す、時に之を斜封官といふ。凡そ數千人。人、上言するあり、皇后淫亂なりと。土、之を面詰す。其人、抗言して撓まず。せ、中書令宗楚客、制を矯めて之を撲殺す。上の意、快々たり。后及び其黨、始めて懼る。馬秦客、楊均、皆、后に幸せらる。事の泄れむ;)ことを恐れ、安樂公主も、亦た后が朝に臨み、己を以て皇太女となささむを欲し、乃ち相與に餅餤の中に於て、毒を進む。上、位に復して改元するもの二、曰く、神龍、景龍。景龍四年にして、弑に遇ふ。 溫王重茂を立て、后、攝政す。相王の子隆基、兵を起して亂を討ち、后及び安樂公主を斬り、其黨を併せて、皆之を誅し、重茂を廢し、相王を奉じて、之を立つ、之を睿宗皇帝となす。【虐宗皇帝】名は旦。初め高宗崩じ、中宗廢せらるるや、武氏、旦を立つ。帝たる者七年、然も廢せられて、周の皇嗣となる者九年、相王に改封せらるる者十年。是に至つて、復た帝となる。隆基を立てて太子となす。宋環、姚元之、政を爲す。二人心を協せて、弊政唐-中宗皇帝-睿宗皇帝ー五四九 十八史略卷之五五五〇あらたちうりやうふせうしりぞしやうばつこうつくせいたくおこなを革め、忠良を進め、不肖を退け、賞罰公を盡し、請托行はれず、者こうしうきよたうじきふぜんしゆくきんめいら〓んうまひ八風の舞紀綱修擧す。當時翕然たり。祝欽明等を貶す。欽明、嘗て八風の舞つくけいちはらを爲る。人曰ぐ、五經地を掃ふと。いもうとたいへいこうしゆちやうちうゐし帝の妹太平公主、二張を誅し、韋氏を誅する時に於て、皆、力しばしたいこういきほひそんちようともあり。既に屢ば大功を立て勢あつて尊重せらる。上、嘗て、與にけんじんしゆかたむえいぶはゞか政を議し、權人主を傾け、其門、市の如し。太子の英武を憚つてかろあんせきぞうえいちやうせつえうげんしらじやうかんご之を易へむと欲す。韋安布、宋環、張說姚元之等、上の意を感悟しよぶんまするに賴つて、政事、皆太子の處分を取る。よ復た帝となつてけいうんたいきよくより、改元するもの二、曰く、景雲、太極是に至つて三年、自らだじやうくわうしようつたげんそうめいくわうてい太上皇と稱し、位を太子に傳ふ、之を玄宋明皇帝となす。りんしわうゐしちんひそかさい西紀自七一二至七五六ゆう【玄宗明皇帝】名は隆基。あつひそかきやうふく初め、はか臨淄王となる。げうゆう韋氏の亂、えら陰に才ひやくき勇の士を聚めて、密に匡復を謀る。太宗、初め驍勇を選んで、百騎ぶこうませんきさいううりんれいはんきとなし、武后增して千騎となし、左右羽林に隸す。中宗、之を萬騎しおりやうりうきみなあつそのがうけつむすといひ、使を置いて、之を領せしむ。隆基、皆厚く其豪傑に結び、つひえいそうほうへいわうまさ卒に韋氏を誅し、睿宗を奉ず。封ぜられて、平王となる。睿宗、將ちよしちやうしせいきいうこうつとに儲嗣を立てむとす。長子成器、平王の有功なるを以て、力めて之ゆづゆづりに讓り、遂に太子となり、尋いで、禪を受く。かいげんぐわんねんかうりきしいうかんもんしやうぐんないじせにら開元元年高力士、右監門將軍となり、内侍省事に知たり。初せいほんくわんくわういりんしよくめ、太宗、制を定め、內侍省には三品官を置かず、黃衣廩食、門をめいつたほんしやうぐんじよやうや守り、命を傳ふるのみ。是に至つて、三品將軍に敍する者、漸く多唐-玄宗明皇帝-堊 十八史略卷之五五五二くわん〓〓ま堂官增して三千人に至る。内侍の盛なる、是に始まる。姚崇、紫微令となる二年太常、俗樂を併典すべからざるを以て、左右〓坊を置き、之を皇帝梨園の弟子といふ。珠玉錦繡を殿前に焚く。興慶宮を作り、樓を置き、西を花蕚相輝といひ、南を勤政務本といひ、宋王成器等の宅、其側を環る。三年虚懷愼、黃門監となる懷愼、〓謹儉素、妻子、饑寒を免れず。居る所、風雨を蔽はず。姚崇、嘗て謁〓すること十餘日、政{事委積す。懷愼、決する能はず。崇、出づ。須臾に裁決し盡す。顧みて、齊澣に謂つて曰く、我、相たる如何。澣曰く、時を救ふの相といふべしと。懷愼、才の及ばざるを知り、事毎に崇を推す。時に盧懷愼伴食之を伴食宰相といふ宰相四年姚崇、罷む。宋環、黄門監となる。環相となるや、務め顔を犯て人を擇び、百官、各其職を得たり。好んで、して正諫す。え上、甚だ之を敬憚す。環姚崇と相繼いで政を爲す、崇は善く變に應じ、環は善く文を守り、志操同じからず、然れども、心を協せて輔佐し、賦役をして寛平ならしめ、刑罰〓省、百姓富庶。唐世のま、施工匠杜後正姚房宋賢相前には房杜を稱し、後には姚宋を稱し、佗は比するを得るなし二人進見する每に、上輙ち之が爲に起ち、去れば、軒に臨んで唐-玄宗明皇帝-五五三 十八史略卷之五五五四之を送る。八年。宋環、罷む。うぶんゆうここうたういこうぎはなは九年。宇文融、言ふ、天下の戶口逃移し、巧僞甚だ多し、請ふ、けんくわつどうへいしやうじげんけんえうさんせいゆうくわんのう評勸農使誅檢括を加へむと。同平章事、源乾曜、之を賛成す。融を以て、勸農求の具となしくわんのうはんくわんにんぶんかうきそる善政酷吏使となし、奏して、勸農判官十人を置く。天下を分行して、競う好せに例らスポのルる〓イこくきうしうけんふううらうぜうひやくしやうこれくるして刻急をなし、州縣風を承けて勞擾し、百姓之に苦む。どうほんちやうぜつせうぼじゆんじつせいへいまん同三品張說、建議し、壯士を召募して、旬日、精兵十三萬を得たしよゑいぶんれいかうばんじやうげへいのう50諸衞に分隸し、更番上下す。兵農の分るる、是に始まる。ちやうじうしゆくゑいあらたなくわうき十三年。長從宿衞を更め命づけて壙騎となす。かんきうどうへいしやうじひとなせうちよくえん二十一年。韓休、同平章事たり。休、人と爲り峭直。上、或は宴いうせうくわすなはいかんきうげんをは遊小過あれば、輒ち左右に謂つて曰く、韓休、知るや否やと。言終かんそへいかミきうつて、諫疏、旣に至る。左右曰く、休、相となり、陛下殊に舊よりやたんも瘠せたり。土、歎じて曰く、吾は瘠せたりと雖も、天下は肥えむきうやもやうきうれいつと休罷む。張九齡、之に繼ぐ。ちうしよれいりりんほじう評に李て甫柔二十二年。九齡、中書令となり、李林甫、同三品たり。林甫、柔侫其多 Cafe狡ねいかうすうおほくわんくわんおよひひんむすどうせいうか亦數多電壓侫にして狡數多く、深く宦官及び妃嬪の家に結び、上の動靜を伺そうたに旨に稱ふ。かなひ、之を知らざるなし。之に由つて、奏對する每に常いうしうせつどしちやうしゆけいはいぐんしやうあんろくざんとらけいし安祿山二十四年、幽州の節度使張守珪敗軍の將安祿山を執へて、京師ちやうきうれいひぐんれいに送る張九齡、批して曰く、守珪の軍令、若し行はるれば、祿山よろまぬかそのさいゆうをしゆる宜しく死を免るべからずと。上、其才勇を惜んで、之を赦す。九唐-玄宗明皇帝-五五五 十八史略卷之五五五六齡、力爭して曰く、祿山、反相あり、誅せざれば、必ず後患をなさ무む。上曰く、卿王夷甫が石勒を識るを以て、枉げて忠良を害する勿れと。竟に誅せず。祿山はもと營州の雜胡なり。初名は阿犖山。の母、再び安氏に適く。故に其姓を冒す。部落破散して、逃れ來る。狡點にして、守珪に愛せらる。又、史翠子といふ者あり、祿山と里閉を同じうし、又驍勇なり。守珪、入つて、事を奏せしむ。上、名ゆ史思明を思明と賜ふ千秋節に、群臣、皆、寶鏡を獻ず。九齡、前世の興廢を述べて、張九齡千秋千秋金鑑錄五卷を爲つて、之を上る。金金像を上九齡、罷む。李林甫、中書令を兼ぬ。上、在位久しく、漸く奢欲を肆にす。林甫、遂に政を專らにするを得たり。二十六年、忠王を立てて太子となす。二十九年。安祿山を以て營州都督となす。祿山、傾巧にして、善く人に事ふ。上の左右、平盧に至れば皆厚く賄ふ。歸つて、之を譽む。上、益す以て賢となす。天寶元年祿山を以て平盧節度使となす。二年。祿山、入朝す。三年。年を改めて、載と曰ふ。祿山を以て、范陽節度使を兼ねしむ。楊貴妃四載楊太眞を以て、貴妃となす。故の蜀州司戶玄琰の女なり。唐-玄宗明皇帝-五五七 十八史略卷之五〓評上の子壽王の妃たること十年。上、其美を見て、自ら其意を以て乞倫配方配玄超市 其實且つ壽王の爲に別に要り、然る後に之を納れ、凡唐人うて女官たらしめ、禍て朝女な鑑闇のりみ門遂に寵を專らにす。發きす六載。祿山を以て、御史大夫を兼ねしむ。祿山、請うて、楊貴妃の兒となる。九載。祿山に爵を東平郡王と賜ひ、河北道採訪處置使を兼ねしむ。祿山入朝す。楊釗、兄弟姉妹、皆戲水に往いて之を迎ふ釗は貴妃の從祖兄なり。禁中に出入するを得たり。之より先、判度支、屢ば帑藏充物すと奏す。上、群臣を師ゐて、之を觀る。之ミに由つて、金帛を視ること糞土の如く、賞賜限なし。釗に名を國忠と賜ふ。十載。安祿山の爲に第を起し、華麗を窮極す。上、日に諸楊を遣し、之と遊ばしむ。祿山、體肥大上、嘗て、其腹を指して曰く、此胡の腹中、何の有る所ぞ。對へて曰く、赤心あるのみと。祿山、禁中に入るや、先づ貴妃を拜す。上、其故を問ふ。曰く、胡人、母上を先にして父を後にすと。祿山の生日、賜予甚だ厚し。後三日召(し入れ、貴妃、錦繡を以て大〓褓を爲り、宮人をして、綵興を以て之を昇かしむ。上、聞いて歡笑して、故を問ふ。左右、貴妃、祿兒?を洗ふを以て對ふ。上、妃に浴兒の金銀錢を賜ひ、歡を盡して罷む。之より宮掖に出入し、通宵出でず、頗る醜聲あり、外に聞こゆ;)るも、上、亦た疑ばず。又、祿山を以て河東節度使を兼ねしむ。李唐-玄宗明皇帝-五五九 十八史略卷之五五六〇林甫、祿山と語り、毎に其情を描り知つて先づ之を言ふ。祿山、驚服し、見る毎に盛冬にも必ず汗す。林甫を謂つて、十郞となす。旣に范陽に歸るや、其下、長安より歸れば、必ず問ふ十郞何をか言ひしと。美言を得れば則ち喜ぶ。或は但だ云ふ、安大夫に語れ、須らく好く點檢すべしと。卽ち曰く、噫嘻、我死なむと。李林甫、十一載。卒す。林甫、上の左右に媚事して、上の意を迎合して以て寵を固うす。言路を杜絕し、聰明を掩蔽す。嘗て、諸御李林甫曰く史に語つて曰く、仗に立つの馬を見ずや、一たび鳴けば、輒ち斥け加藤兒香芋焼およびせい去らると。賢を妬み能を嫉み、己に勝る者を排抑し、性陰險なり。人以て、口に蜜あり腹に劍ありとなす。毎夜、偃月堂に獨坐し、深思する所あれば、明日必ず誅殺あり。屢ば大獄を起す。太子より以下、皆、之を畏る。相位に在ること十九年、天下の亂を養成し、然も、土、悟らず。然れども、祿山、林甫の術數を畏る。故に、其世て反せず。を終るまで、未だ敢この歲、國忠、相となる。祿山、必ず反せむといひ、且つ曰く、試に召せ、必ず來らずと。十三載。祿山、召を聞いて卽ち至る。上、之に由つて、國忠の言を信ぜず。祿山に、左僕射を加へて歸らしむ。十四載。祿山、蕃將を以て、漢將に代へむと請ふ。上、猶は疑はす。表して、馬三千匹を獻じ、毎匹、二人、鞋を執り、二十二の將部をもつて河南に送らんと請ふ。上、始めて、之を疑ひ、使を遣して唐-玄宗明皇帝-五六一 十八史略卷之五五六二其獻を止む。祿山、床に踞して、拜せずして曰く、馬、獻ぜざるもき)亦た可なり、十月當に京師に詣るべしと。使還る亦た表なし。この安祿山遂に冬、祿山、遂に反し、所部の兵及び奚契丹を發し、凡そ十五萬、范陽反すを發し、引いて南す。步騎精銳、煙塵千里。時に承平久しく、百姓、額眞卿兵革を識らず、州縣、皆、風を望んで瓦解す。進んで、東京を陷る。評文天歲平日天然天あの平原の太守顏眞卿、兵を起して賊を討つ。上、初め、河北、賊に守り誠原は子卿不從ふと聞き、歎じて曰く、二十四郡嘗て一人の義士なきかと。眞卿く 知長し斯 名安の奏至るに及び、大に喜んで曰く、朕、眞卿何の狀たるを識らず、の紊如れしるらてく國と乃ち能く此の如しと。ん欲やす得常山の太守顏杲卿、兵を起して賊を討つ。河北諸郡、貨之に應ず。十五載。安祿山、僭號して大燕皇帝と稱す。賊將史思明、常山を陷れ、顏杲卿を執へて、洛陽に送る。祿山、其己に反するを責む。呆卿曰く、我、國の爲に賊を討つ。恨むらくは、汝を斬らず、何ぞ反といふや。臊羯狗、何ぞ速に我を殺さざる20祿山、大に怒り、縛して、之を咼す。死する比まで、罵つて、口を絕たず。げん、ヘ張巡眞源の令張巡、吏民を帥ゐて、玄元皇帝の廟に哭し、兵を雍丘に起して賊を討つ。郭子儀、李光弼朔方節度使郭子儀、河北節度使李光弼、賊將史思明と戰ひ、大に唐-玄宗明皇帝-番 十八史略卷之五番〓之を破り、首として、河北の數郡を復す。副元帥哥舒翰、賊と戰つて、大に敗る。麾下、翰を執へて、賊に降る。賊遂に關に入る。上、出奔して、馬嵬に次す。將士飢疲して、皆、憤怒し、楊國忠等〓を殺し、及び上に逼つて、貴妃を縊殺し、然る後に發す。父老道をと遮つて留まらむことを請ふ。上、太子に命じて、之を慰撫せしむ。父老、太子の馬を擁して、復た行くを得ざらしむ。皇孫俶をして、上に白せしむ。上曰く、天なりと。太子に喩さしめて曰く、汝、之を勉めよ。西北の諸胡、吾、之を撫すること、素より厚し、必ず其馬嵬の勅力を得むと。且つ、宣旨、位を傳へむと欲す。太子、平凉に至る。朔方の留後杜鴻漸、靈武に迎へ入れ、馬嵬の命に遵はむことを請ふ。牋五たび上る、乃ち許す。上を尊んで、上皇天帝となす。上在位四十五年、改元するもの三、曰く、先天、開元、天寶。太子立つ、之を肅宗皇帝となす。西紀自七五六至七六二【肅宗皇帝】初 名は瑣亨と改名す。忠王として太子となつてより、二十年にして、祿山の亂に遇ひ、是に至つて、位に卽く。京兆の李泌、幼より才敏を以て聞こゆ。上、東宮に在るや、嘗て、泌と布衣の交をなす。使を遣して、之を召し、靈武に謁見し、事、大小となく、之と謀る上皇、成都に至り、冊寶を遣して、靈武に行かしむ。使を遣して、兵を囘紇に徵す。唐-玄宗明皇帝-肅宗皇帝-五六五 十八史略卷之五五六六評招討節度使房琯、大に敗陳家孟を邪甫ず大軍賊と陳濤邪に戰ふ。陳濤杜詠の官琯、車戰を用ゐて、囘都仍歸日四天中血郡日敗死萬〓水作良く戰る冬十子陶澤至德二載。安慶〓、祿山を殺す。祿山、兵を起してより以來、目軍戰野同聲曠義無昏し、是に至つて、復た物を見ず。又疽を病で、躁暴なり。嬖妾の切北京歌詞號第一號人飮箭胡、子を以て、慶〓に代へて嗣となさむと欲す。慶〓、人をして、之を唱來夷雪し、首市、、弑せしめて自立す。祿山僭號、わづかに一年餘。日夜只上、鳳翔に至る。囘紇、子葉護を遣し、精兵四千人に將として至軍至安祿山殺さらしむ。天下兵馬都元帥廣平王俶、副元帥郭子儀、朔方等の軍及び囘紘、西域の衆を將ゐて、鳳翔を發し、長安に至つて賊を擊つ。と賊大に潰ゆ。大軍、西京に入る。俶留まつて鎭撫すること三日、軍を引いて、東に出でて、洛陽に至り、囘紇と夾擊す。賊、大ぶたに敗れ、遂に東京を復す。安慶〓、走つて、鄴を保つ。唯陽城陷り賊將尹子奇、唯陽を陷る。張巡許遠、之に死す。巡、さきに雍張貼許遠文化財丘を守る。軍を寧陵に移し、屢ば賊を破る。旣にして唯陽に入り、遠と共に守つて、屢ば賊を却く。食盡く。或は城を棄てむと欲す。巡遠謀つて曰く、唯陽は、江淮の保障なり。若し之を棄つれば、賊、必ず長驅せむ。是れ江淮なきなり。如かず、堅守して、以て救〓を待たむにはと。茶紙を食ふ。盡く。遂に馬を食ふ。馬盡く。雀を羅し、鼠を取る。雀鼠、又盡く。巡愛妾を殺し、以て士に食はしむ。四萬人、わづかに四百を餘すのみ、終に叛く者なし。賊城に唐-肅宗皇帝-五六七 、十八史略卷之五奏登る。將士、困病して、戰ふ能はず。巡西向再拜して曰く、臣、な力竭く。生きては、旣に以て陛下に報ずるなし。死しては、當に属鬼となつて以て賊を殺すべしと。城遂に陷る、巡遠、執へらる。南霽雲、雷萬春等、三十六人、皆殺さる。上皇蜀郡を發して、西京に還る。乾元元年郭子儀等、九節度に命じて、安慶〓を討たしむ。二年史思明、兵を引いて慶〓を救ふ。九節度の兵、鄴に潰ゆら思明、慶〓を殺し、范陽に還つて僭號す。李光弼、郭子儀に代つて、朔方節度使兵馬元帥となる。光弼、號令嚴整。初め至るや、號令一たび施せば、士卒壁壘、旗幟精明、皆變ず。史思明と戰つて、屢ば之を敗る。上元元年太僕卿李輔國、上皇を西內に遷す。上皇、興慶宮を愛し、蜀より歸るや、卽ち之に居る。多く樓に御す。父老、過ぐるわう·〓〓せんはい者、往往瞻拜して萬歲と呼ぶ。上皇、常に樓下に於て、賜ふに酒食を以てす。又、嘗て、將軍郭英又等を召して、樓に上らしめて、宴を賜ふ。輔國言ふ、上皇、興慶に居り、日に外人と交通し、陳玄上に不利ならむことを謀ると、じ禮高力士、數ば上に啓して、之を遷さむとす。許さず。上、不豫、衆を率ゐて劫遷す。上皇、日に以て懌ばず。因つて革を茹はず、穀を避け、寝く以て疾を成す。二年。史朝義、史思明を殺す。思明、少子を愛して朝義を惡み、唐-肅宗皇帝-五六九 十八史略卷之五五七〇其敗軍に因つて、之を斬らむと欲す。朝義、人をして、思明を射殺せしめて自立す。李光弼、大尉となり、八道の行營を統べ、臨淮に鎭す。寶應元年郭子儀、諸道節度行營に知とし、興平、定國等の軍の副元帥を兼ね、復た朔方に入る。上皇、西內に崩ず。位を傳へし後、七年なり。壽七十八。に上、疾に寢す。上皇の登退を聞いて、轉た劇しく、遂に崩ず。在位七年改元するもの四、曰く、至德、乾元、上元、寶應。初め、ミ張皇后、李輔國と相表裏し、權を專らにし、事を用ゆ。晩に更に隙あり。上、疾篤し。后、太子を召し、謂つて曰く、輔國、久しく禁兵を典り、陰に亂を作さむことを謀る、誅せざるべからずと。太子、上の體を震驚せむことを恐れて可かず。輔國、其謀を聞く。上、崩ずるや、后を殺して而して後に太子を引いて之を立つ、之を代宗皇帝となす。【代宗皇帝】初名は俶。廣平王に封ぜらる。元帥となつて、兩京を定め、楚王に封ぜられ、成王に改められ、旣にして太子となり、豫と改名す。是に至つて位に卽き、李輔國を誅す。雍王适を以て、天下兵馬元帥となし、諸將及び囘紇の援兵を率ゐて、史朝義を討たしめ、大に之を敗る。賊將李懷仙、朝義を斬つて以て降る賊將張志忠を以て成德軍を鎭せしめ、姓名を李寶臣と賜ふ。薛蒿、相衞邢唐-肅宗皇帝-代宗皇帝-毛 十八史略卷之五毛い洛貝、磁等の州を鎭し、田承嗣は魏博、德、滄、瀛等の州を鎭し、李懷仙は盧龍を鎭す。朝廷、兵革を厭苦し、無事を苟冀し、因つて、之に授く諸鎭、自ら黨援をなし、河朔、敢て朝命に抗する、是に始まる。廣德元年吐蕃、入寇す。上、陝州に出奔す。吐蕃、長安に入る關內副元帥郭子儀、之を擊つ吐蕃、遁れ走る。くわんじやていげんしん二年宦者程元振を流す。元振、初め、李輔國に附く。輔國、死するや、元振、權を專らにし、自ら恣にすること最も甚しく、諸將の大功ある者を忌んで、皆、之を害せむと欲す。吐蕃、入る。元振掩蔽して、時を以て奏せず、上の狼狽を致す。中外切齒す。是に至つて、湊州に流さる。臨淮王李光弼、卒す。上の陝に幸するや、光弼至らず、上、之を撫すること、厚きを加ふ。素より子儀と名を齊しうす。徐州に在るに及びて、兵を擁して朝せず。麾下の諸大將、復た尊畏せず、光弼愧恨疾を成して死す。え永泰元年平盧の將李懷玉、節度使侯希逸を逐うて、自ら留後に知たり詔して、因つて之に授け、名を正己と賜ふ。百を取にんしやう?叛將僕固懷恩囘紇吐蕃を誘うて入寇す。郭子儀を召して、涇陽に屯せしむ。懷恩、道に死す。二虜、長を爭うて睦しからず。子儀、人をして、囘紇に說かしめ、共に吐蕃を擊たむと欲す。之より先、懷恩、囘乾を欺いて、子儀旣に死せりといふ。使至る。囘紇、唐-代宗皇帝-五七三 十八史略卷之五毛信ぜずして曰く、郭公在らば、見るを得べきかと、使、還り報す。子儀、數騎と出で、人をして、傳呼せしめて曰く、令公來ると。囘紇、大に驚き、藥葛羅、弓矢を執つて陣前に立つ。子儀、冑を免ぎ甲を釋いて進む。諸會長相顧みて曰く、是れなりと。皆、馬を下つて羅拜す。子儀、亦た馬を下り、手を執つて之と語り、酒を取つん·て相與に誓約して還る。吐蕃、之を聞いて、夜遁る。諸軍囘紇と共に追ひ、大に之を破る、三年。幽州の將朱希彩、李懷仙を殺す。詔して、因つて、希彩を以て鎭を移さしむ。大阪府社宦者魚朝恩を誅す。朝恩、肅宗の時に在つて、觀軍容使となる。軍容の名、是に始まる。九節度相州の敗は、其時なり天下觀軍容宣慰廣德の初に至り、處置使となり、專ら禁兵を總べ、焼勢、朝野を傾く大曆の初、國子監に判たり座に升り、鼎餗;を覆すを講じ、以て宰相を譏る王増は怒り、元載は怡然たり朝恩曰く、怒る者は常情、笑ふ者は測るべからざるなりと。朝政、預らざる者あれば、輒ち怒つて曰く、天下の事、我に由らざるものありやと。上、之を聞いて懌ばず。載閒に乘じて、其專恣不軌を奏す、遂に之を誅す七年。盧龍の將、朱希彩を殺して、朱泚を以て鎭を領せしむ。詔して、因つて之を授く。唐-代宗皇帝-五七五 十八史略卷之五五七六九年。朱泚、弟滔を以て、鎭を領せしめて入朝す。十二年元載不軌を圖ると告ぐる者あり案問して死を賜ふ胡椒八百斛に至り、ミ其家を籍す。他物、是に稱ふ。楊縮、常衰を以て、同平章事となす。縮素より〓儉。制下るや、郭子儀、方に宴し、坐中の聲樂五分の四を減す。京兆尹黎韓止だ十騎を存す。驅從甚だ盛なり卽日、之を省き縮相たること三月にして卒す。上、之を痛悼して曰く天なるか朕の太平を致すを欲せず、何ぞ朕が楊縮を奪ふの速なるやと十四年田承嗣卒す。姪悅、之に代る淮西の將李希烈、節度使を逐ふ。詔して、因つて、鎭を以て希烈に授く。上在位十八年。改元するもの三、曰く廣德、永泰大曆。崩ず。太子立つ、之を德宗皇帝となす。【德宗皇帝】名は适雍王より太子となる。是に至つて卽位すじゃうこん欺罔を以て貶せらる。常衰崔祐甫、同平章事たり。祐甫、時望を收めむと欲す未だ二百日ならず、官に除する者、八百人。上曰卿の用ゆる所、く人多く親故に涉るを謗るは何ぞや。對へて曰評言親祐KTB陛下の爲に人を擇ぶ、ず所く臣、敢て愼まずむばあらず、故に非親に非ず、四季的肉麵を故に非ざれば、何を以て、其才行を諳んじて之を用ゐむと。用ん其じ者四十四溜靑の李正己、ゐ上の威名を畏れ、表して、錢三十萬緡を獻ず。崔唐-代宗皇帝-德宗皇帝-五七七 十八史略卷之五美とんい云とよふわべ名し言祐甫、請うて、使をして溜靑の將士を慰勞せしめ、因つて、以て之航れ往を賜ふ、正己、慚服す。天下、以爲へらく、太平、庶幾はくは望む比にて黨々れ周し弊朋を免ずのべしと。むはあほR튀上方に精を勵まし、治を求め、不次に人を用ゆ。祐甫、楊炎をす、薦む、司馬より除せられて同平章事となる。旣にして、祐甫、病んで、事を視ずい直防止けんちうぐわんねん。財制稅制を建中元年始めて、兩稅法を作る。唐初賦歛の法、田あれば租あ整理すり身あれば庸あり戶あれば調あり。玄宗の末、版籍漸く壞る。至德兵起り所在の賦歛、迫趣して取辨し、復た常準なし。下戸、困弊に勝へず率ゐて皆逃れ徒る。是に至つて、楊炎、建議し、先出を計りて入を制すづ州縣毎歲用ゆる所、及び上供の數を計つて、人に賦し、出を量り、以て入を制す。戶に主客なく、見居を以て簿となし、人は丁中とな特貧富を以て差となし、行商をなす者は在所の州縣三十の一を稅し居人の稅は、秋夏に之を兩徵し、其租庸調雜徭は、悉く省く。打千萬崔祐甫、卒す。天下の忠州刺史劉晏を殺す。晏、善く財計を治む。肅宗、代宗より以來身)有戶部度支鑄錢鹽鐵轉運等の事を領し、同平章事を以て、使に充つ轉運を通じ鹽利を幹し、百貨の低昂を制し、軍國の用、賴つて以て充足す。然れども、久しく、利權を典り、衆頗る之を疾む。又楊炎と相悅ばず竟に忠州に貶せらる。人、炎の旨を希ひ、晏唐-德宗皇帝-乳 十八史略卷之五五八〇の怨望を〓ぐ。上、人を遣して之を縊らしむ。ia二二。成德の李寶臣卒す。子惟嶽、自ら軍務を領す。後、王武俊、斬つて之に代る。評盧杞藍面楊炎、盧杞、同平章事たり。炎、未だ幾ならずして罷む。杞藍鬼色好惡酷薄の相なり面鬼色、口辯あり。上、之を悅ぶ。郭子儀卒す尙父大尉中書令汾陽忠武王郭子儀卒す。子儀、身を以て、天下の安危をなすもの、三十年功、天下を蓋ふ。然も、主、疑はず。は評子儀は位人臣を極む、然も、衆疾まず。嘗て、使をして、魏博に至らと處理ふのみし者しむ。田承嗣、西望して之を拜して曰く、此膝、人に屈せざること久し。今、公の爲に拜すと。中書令を校する、凡そ二十四考、家人こと〓〓三千人、八子六婿皆顯はる。諸孫數十人、安を問ふ毎に、盡く辯ずる能はず、之を額するのみ。年八十三にして終る。せいき平盧の李正己卒す。子納自ら鎭を領す。朱滔、田悅、王武俊、李"納、先後して皆反す。三年。四人、皆自ら王と稱す。李希烈、反す。兩河、兵を用ゆ。府庫支へざること數月。先づ富商の錢を括し、諸道の稅を增し、四年、稅間架を行ひ、陌錢等の法を除く。李希烈、襄城に寇す。詔して、淫原等の道の兵を發して、之を救ふ淫原の節度使姚令言、兵を率ゐて、京師を過ぐ、師を犒ふに、唐-德宗皇帝-五八一 十八史略卷之五五八二惟だ糖食菜燄のみ。衆怒つて亂をなして城に入る。上、出奔す。朱泚亂兵、太尉朱泚を奉じて、主となす。司農卿段秀實。泚を誅せむことを謀る。克たず。泚衆を召して帝と稱せむことを議す。秀實、た其面に唾し、大に罵り、笏を以て泚の額を擊つ血、地に濃ぐ、洲、之を殺し、遂に大秦皇帝と僭號す。之より先、術士桑道茂といふ者あり言ふ、數年の後、宮を離るるの厄あらむ、奉天に天子の氣あり、其城を高大にし、以て非常に備ふべしと、上、之に從ふ。是に至つて遂に奉天に奔る泚奉天を犯す李最兵を率ゐて、赴き援く。渾瑊、批を擊つて之を破る。奉天圍解く、李懷光、難に赴き、亦た批の兵を破つて、奉天に至る。入つて、盧杞の姦を白せむと欲す。杞、之を隔て、入つて見るを得ずして行く。表を上つて、杞の惡を暴す。衆論、亦た喧騰して、杞を咎む。上、已むを得ずして、之を遠貶す。興元元年大赦す。陸贄、上に勸め、己を罪して、以て天下に謝せしむ。奉天より下す所の書詔、驕將悍卒も、之を聞いて、感激して涕を揮はざるなし。王武俊、田悅、李納、表を上つて罪を謝す。李希烈、大楚皇帝と僭號す。ごになる瓊林の大盈庫を行宮に置く。陸贄、諫めて、其榜を去らしむ。李懷光、反す。上、梁州に走る。魏博の田〓、田悅を殺し、自ら軍府を領す。唐-德宗皇帝-五八三 十八史略卷之五五百李晟、長安を克服す。朱泚、走る。其將、之を斬つて以て降る。晟、露布し、行在に至つて曰く、臣、旣に宮禁を肅〓し、寢園に祗謁し、鐘簾移らず、廟貌故の如しと。上、之を覽て、泣いて曰く、天、李晟を生じ以て稷の爲にす、朕の爲にするに非ざるなりと。車駕、長安に還る。ま顏眞〓殺さ顏眞卿李希烈に殺さる之より先、眞卿、盧杞に陷れられ、使を希烈の所に奉ぜしむ。人、言ふ一元老を失ふ。國家の爲に羞づとと賊中に至る之を留むる、將に二歲ならむとす。屈せず。竟に賊に縊らる。貞元元年盧杞、量移せられ、將に再び入らむとして卒す。幽州の朱滔、卒す。書籍廣告馬燧及び諸軍、河中を平らぐ。縊れて死す。二年。淮西の將陳仙奇、李希烈を殺して、以て降る。吳少誠、仙奇を殺す。朝廷、因つて、少誠を以て鎭を領せしむ。中三年。張延賞、同平章事たり。之より先、吐蕃の尙結賛、鹽夏州に據る李晟、嘗て、其一堡を破る渾城馬燧、各、兵を擧げて、之に臨む。懼れて、和を請ふ。辭を卑くし、禮を厚くして、馬燧に求む。燧信じて、朝に請ふ。最曰く、戎狄信なし、之を擊つに如かずと。延賞、晟と隙あり、數ば和を便なりといふ渾瑊をして、吐蕃と平梁に盟はしむ。吐蕃、盟を切 す。瑊走り免る。吐唐-德宗皇帝-五八五 十八史略卷之五五八六蕃、晟、燧城を畏る。曰く、此三人を去れば、唐は圖るべきなりカと是に於て晟を離間し、燧に因つて、以て盟を求め、城を執へ、以て燧を賣り、併せて、罪を得せしめ、因つて、兵を縱つて、直に長安を犯さむと欲す。會ま、瑊を失して止む。李泌、同平章事たり。上、泌と、從容として、卽位以來の宰相を評李泌論じ、人盧杞を姦邪といふも、朕殊に覺らずといふ泌曰く、是しり道杞と破許お迎えください。れ乃ち姦邪たる所以なり。若し、之を覺らば、豈に建中の亂あらむやと泌、謀略あり、然も、好んで神仙を談じて詭誕なり。故に世に輕んぜらる。相たること、未だ三歲ならずして卒す。八年陸贄、同平章事たり。九年。太尉中書令西平忠武王李晟、卒す。十年。陸贄、罷む。〓十一年。贊を忠州別駕に貶す。賛、奉天より以來、力を宣ぶること最も多く、事に隨つて論諫し、百奏を劃切にす。帝、言を盡くせしを追仇す。夏縣の陽城又譖せらる。故に貶せらる初め、夏縣の陽城、處士を以て、徵されて諫議太夫となる。皆風采を想望す。職に在るこはんたくし はいえんれいと七年にして諫めず。韓愈、爭臣論を作つて之を譏る。是に於て、判度支裴延齡、贄を譖す。城諸諫官を率ゐ、闕を守つて、延齡の姦邪、贄の無罪を論ず。時に朝廷、延齡を相とせむとす。城曰く、若し延齡を以て相となせば、當に白麻を取つて之を壞るべしと。庭唐-德宗皇帝-五八七 十八史略卷之五天八どうこくはぐこくししさせんだうしうしに働哭す。遂に沮む。城、國子司業に左遷せられ、後、又、道州刺しへんそのかう史に貶せらる。民を治むる、家を治むるが如し。自ら其考に書してぶじこころらうさいくわせいせつかう曰く、撫字心勞し、催科は政拙、考は下の下と。わいさいごせうせはん十四年。淮西の吳少誠、叛す。けんちう二十一年。上崩ず。在位二十七年。改元するもの三、曰く建中、こうげんていげんまつりごとせいめいものさいうきもちはん興元、貞元。初め、政〓明なる者二歲にして、盧杞用ゐられ、叛じゆんそうくわうていらんあひつ末年は姑息のみ。まつ亂相繼ぎ、太子立つ、之を順宗皇帝となす。しようわうひ【順宗皇帝】名は誦太子たりし時、書を善くする者王伾、棋を善ものわうしゆくぶんごヒばうしやうくする者王叔文あり。共に、出入して娯侍す。因つて言ふ、某は相しやういじつこれひそかがくしんとすべく、某は將とすべく、幸に異日之を用ゐんと。密に、學士韋しつぎおよてうしそくしんりくじゆんりよおんけいけん執誼及び朝士の有名にして速進を求むる者、り陸淳、呂溫、李景儉、かんえふかんたいちんかんりうそうげんりううしやくらむすしいう韓曄、韓泰、陳諫、柳宗元、劉禹錫等に結び、定めて死友となし、と0いうしよしようせききひそのたんげん日に與に游處し、縱跡詭祕、其端倪を知る者あるなし。德宗崩じ、ふうしつおんうしなえつげつひしゆく太子位に卽く。之より先、風疾あり、音を失ふこと五閱月。任、叔ぶんら文等、事を用ゆ。りくしやうじやう陸贄、陽城を追うて、京に赴かしむ。未だ至らずして卒す。じやうざいゐえいていだじやうくわう上在位、改元して永貞といふ。僅かに八月、自ら太上皇と稱し、つたけんそうしやうぶくわうてい位を太子に傳ふ、之を憲宗章武皇帝となす。じゆんかんこく【憲宗皇帝】名は純年二十八、太子となつて監國たり。尋いで、わうひわうしゆくぶんへんそのたう位に卽き、王伾、王叔文を貶す。伾病んで死す。其黨、皆遠く貶唐-順宗皇帝-意宗皇帝ー五八九 十八史略卷之五五九〇せらる、す、元和元年。西川の節度使劉闢〓す。同平章事杜黃裳、高崇文を薦めで、之を討たしむ。夏州の留後楊惠琳、朝命を拒む。詔して、之を討つ。兵馬使に斬らる。高崇文、成都に克ち、劉闢を擒にす。京師に送つて、之を斬る。二年。鎭海節度使李錡反す。詔して、之を討つ。兵馬使、錡を執へ京師に送つて之を斬る。三年。沙陀の朱邪盡忠、其子執宜と來り降る。沙陀、勁勇、諸胡に冠たり。吐蕃、戰ふ毎に、以て前鋒となす。後、其囘體に貳あるを疑ひ、之を河外に遷さむと欲す。懼れて、唐に歸す。之を靈州に置く。用ゐて征討するや、皆捷つ。杜黃裳より以後、相繼いで、相たる者、武元衡、李吉甫、裴均、李藩、李絳、皆、賢相たり。塩、嘗て、李吉甫の爲に人才を疏する?三十餘、數月に用ゐ盡す。翕然として、稱して人を得たりとなす。じん〓〓あえ塩、器局峻整、人人敢て干すに私を以てせず。藩、嘗て、給事中と制敕不可なるものあれば、なる、卽ち之を批す。吏、更に素紙を連ねむことを請ふ。藩曰く、かくの如くすれば狀なり、何ぞ批敕と名·1づけむと、垣、之を薦めて相となす。知つて言はざるなし。絳〓直、吉甫は善く逢迎す。絳、與に上の前に爭論する每に、上多く絡を唐-憲宗皇帝- -晃 五九二十八史略卷之五讜讜として直。直とす。時に、在朝、崔群、白居易等の如き、皆、元和の世、朝廷〓明なること、此を以てなり。以て節度七年。魏博の兵馬使田興、吏を請うて奉貢す、詔して、使となし、裴度を遣して宣慰し、錢百五十萬緡を賜ひ其軍を犒ふ。六州の百姓。皆、給復すること一年軍賜を受けて、歡聲、雷の如し。成德、衰、〓、諸鎭の使者、之を見て、相顧みて色を失ふ。(うう興に名を弘歎じて曰く、倔强なる者、果して、何の益かあらむと。正と賜ふ。初め、彰義節度使吳少誠死し、弟少陽、自ら軍府を領す。少陽、陰に亡命を養ふ。少陽、死す。子元濟、自ら軍府を領し、兵を縱つて、侵掠して、東畿に及ぶ。詔して、十六道の兵を發して、之を討つ。平盧節度使李師道、元濟を赦さむことを請ふ。許さず、裴度、淮西の行營を宣慰す。還つて曰ふ、淮西、決して取るべしと。上、悉く兵事を以て、同平章事武元衡に委す。師道、素より、刺客姦人を養ふ。客請ふ、密に往いて元衡を刺さば、他相は必ず爭うて、天子に勸めて、兵を罷めむと。元衡、入朝す。賊暗に之を射殺し。文、度を擊つて、首を傷つく。上、怒る。賊を討つ、愈よ急なり。度を以て、同平章事とす。上曰く、吾、度一人に倚つて、賊を破るに足れりと。度に命じて、彰義節度使を兼ねしめ、淮西宣慰招討使に充て、諸軍を督して進討す。唐郵節度使李愬、先づ賊將丁士良、唐-憲宗皇帝-五九三 十八史略卷之五五九四吳秀琳、李祐を擒にし、釋して、之を用ふ。祐の計を用ゐ、雪夜七十里、兵を引いて蔡州城に入り、鵝鴨池を擊つて、軍聲を混じ、上鷄鳴、入つて元濟の外宅に據る。元濟、牙城に登つて拒戰す。旣にして、擒に就く、檻して、京師に送つて、之を斬る。叛より誅に及ぶまで、凡そ兵を用ゆること二歲。時に元和十二年なり。淮西、旣に平らぐ。上、寝や驕侈なり。之より先二歲、既に、李逢吉を用ゐて、同平章事とし、十三年に至つて、又度支使皇甫簿を用ゆ。鹽鐵す使程昇、羨餘を進めて寵あり。並に同平章事たり。朝野駭愕す。元和の政、非なり。十四年。風翔法門寺の塔の佛指骨を迎へて、京師に至らしめ、禁中に留むる三日、諸寺に歷送す。王公士民、瞻奉捨施して、惟だ及韓愈佛骨表ばざるを恐る。侍郞韓愈、上表極諫し、以て之を水火に投ぜむこを奉るとを乞ふ。上、大に怒り、潮州刺史に貶す。平盧の將、李師道を執へ斬る裴度、罷む。十五年。上、暴に崩ず。上、金丹を服して多躁、左右罪を獲て死する者あり。人人、自から危む。宦者陳弘志、弑逆す。其黨、之を諱んで、但だ藥發すといふ。在位十二年改元するもの一、曰く元和太子立つ、之を穆宗皇帝となす。【穆宗皇帝】名は恆位に卽き、改元して、長慶といふ。四年にし唐-憲宗皇帝-穆宗皇帝ー五九五 十八史略卷之五五九六て崩ず太子立つ、之を敬宗皇帝といふ。【敬宗皇帝】名は湛。位に卽いて、荒淫なり。嬖倖事を用ゆ。ずの李六條線を得る李德裕、丹展の六箴を獻ず一に曰く宵衣、二に曰く正服、三になふくわい曰く罷獻、四に曰く納誨五に曰く辨邪、六に曰く防微と。上遊戯度なく、性復た褊急。宦官、動もすれば捶撻に遭ひ、皆怨む。夜獵して宮に還り、酒酣なる時、宦者劉克明に弑せらる。在位三年。改元するもの一曰く寶曆江王立つ。之を文宗皇帝となす。【文宗皇帝】名は涵、穆宗の子なり。宦者王守澄に立てらる。後、〓と改名す。太和二年、親ら策して、人を制擧す。官者益す橫、天子を建置する、其掌握に在り、權人主の右に出づ。人、敢て言ふなし。賢良方正劉貰、對策して、之を極言す。考官、皆歎服す。か然も敢て取らず、第に中る者は、裴休、李郃、杜牧、崔愼由等、二十二人。皆、官に除す。物論囂然として、屈と稱す。部曰く、劉黃下第し、我輩登科す。能く顏厚なるなからむやと。上疏して、授くる所の官を黃に囘さむと乞ふ。報ぜず。太和五年。上、同平章事宋申錫と共に宣官を誅せむことを謀る。克たず申錫貶死す。九年。上、李訓、鄭注等と宦官を誅せむことを謀る。克たず。注は、もと宦者王守澄の引く所。訓、本の名は仲言、又注に引かれて守唐-敬宗皇帝-文宗皇帝-五九七 十八史略卷之五五九八す、澄に見るを得たり。守澄、上に薦む。個儻にして氣を尙び、文辭口辯あり。權數多し。上、之を悅ぶ。訓、注、上の意を揣り知り、數ば徵言を以て、上を動かす。上、其大事を謀るべきを意ひ、誠を以て之を告ぐ。訓注、遂に宦者を誅するを以て、己の任となす。訓旣に注と勢位共に盛なり。頗る注を忌み、託するに中外勢を協すを以てし、注を出して、鳳翔を鎭せしめ、宦者仇士良を進擢し、以て王守澄の權を分つ。訓、同平章事たり。守澄を除かむことを請ひ、中使をして、之を鴆殺せしむ。注初め、訓と謀つて鎭に至り、壯評ず其げふ小得て人少ず功功を仍つて、ら今遂爭か古を士數百をして、入つて守澄の葬を護せしめ、請うて、內官例こと〓〓をして盡く送らしめ、然る後、之を殺さば、遺類なからむといふ。訓、心に以爲へらく、かくの如くすれば、功、專ら注に歸せむと。乃ち先づ發せむことを謀り、人をして、金吾廳事後の石榴に甘露あす。りと奏せしめ、宰相百官を師ゐて拜賀し、後、上に勸めて往いて觀せしむ。上、宰相をして、先づ往いて視せしむ。訓陽つて言しよくわん〓〓ふ、眞に非ずと。上、仇士良を顧み、諸宦官を師ゐて、往いて見せき、しむ。士良等、旣に至り、風幕を吹いて起し、兵を執る者無數なるを見、驚き走つて、變を告ぐ。訓、金吾の衞士等を呼んで、殿に上らしめ、僅かに擊つて、宦者十餘人を死傷し、事の濟らざるを知つて走る。士良等、神策兵に命じて、金吾の吏卒を殺さしめ、宰相王涯、賈鍊、舒元輿等を執へて、誣ふるに、謀反を以てして、之を唐-文宗皇帝-五九九 十八史略卷之五六〇〇腰斬す。訓の謀、惟だ元興、之を知るのみ。他相は、實に知らざるなり。之より、天下の事、皆、北司に決し、宰相は、文書を行ふのみ。李訓、人に殺されて、首を傳へ鄭注も亦た風翔監軍の宦者の爲に殺さる。開成三年、司徒中書令晉公裴度、卒す。度、憲宗の時、相を罷めてより後、世事に意なく、園池を治め、綠野堂、子午橋等、別墅の勝あり、詩人と觴詠して、自ら娛む。穆宗。敬宗の時、皆嘗て一へいしやうぐん」)くちやうじ度、入つて政を輔け、上の世に至つて、亦た嘗て平章軍國重 事たり時と浮沈するのみ。然れども、四朝の將相、威望遠く四夷に達たす。四夷、唐使を見れば、輙ち度の安否を問ふ。身を以て國家の輕重に繋ぎ、郭子儀の如き者二十餘年。五年。上、崩ず。上、卽位の初、精を勵まし、治を求め、奢を去り、儉に從ひ、中外、翕然として、太平冀ふべしといふ。然れども,宦寺に制せられ、竟に爲すある能はず。嘗て、宰相に問ふ何の時か、太平ならむと。牛僧孺、答ふるに太平家なきを以てす。末年、嘗て近臣に問ふ。朕は周赧、漢獻に如何と。對ふる者、憮然たり。上曰く、赧獻は制を强臣に受く、今、朕は制を家奴に受く。殆んど如かざるなりと。在位十五年。改元するもの二、曰く、太和、開成。弟潁王立つ。之を武宗皇帝となす。【武宗皇帝】名は瀝、穆宗の子なり。文宗、嘗て敬宗の子成美を立唐-文宗皇帝-武宗皇帝-六〇一 十八史略卷之五六〇二てて太子となす。崩ずるに臨み、成美を以て、國を監せしめむと欲す宦者、以爲へらく、立つこと己に由らずと。之を廢して、渥を立てて太弟となし、遂に成美を殺して位に卽く。後に炎と改名す。李德裕を以て同平章事とす。德裕、穆宗の初に在つて學士となり、た李宗閔といふ者嘗て制策に對して、其父吉甫を議切せしを以て、之を恨み、宗閔を構陷す。之より、各、朋黨を分つて更る相排軋朋黨の弊する者四十年にんとす。文宗の時に在つて、德裕、侍郞たり。表度、其相となるべきを薦む。宗閔、宦官の助あつて、遂に相たり。德裕の己に逼るを惡んで、之を出し、且つ牛僧孺を引いて並に相とし、相與に德裕の黨を排擯す。尋いで、德裕を以て、西川を鎭せしむ。德裕、籌邊樓を作つて蜀の地形を圖し、南、南詔に入り、西、吐蕃に達す。日に軍旅に老い邊事に習ふ者を召して、訪ふに、險易遠近を以てし、皆、身歷するが如くす。士卒を練り、堡障を葺し、以て邊に備ふ。吐蕃の將悉怛謀維州を以て來降す。維州は、もと漢地兵を入るの路、吐蕃之を得、號して無憂城といふ。德裕、極め5て此州を得るを以て便となす。牛僧孺、以て納るべからずとなし、か、牛李の怨城を以て、叛將に併せて歸す。吐蕃、之を境上に誅し、慘酷を極む。河北の賊を牛李の怨、之より愈よ深し。僧孺等、尋いで罷む。德裕、入つて相しを朝去るのはは朋易く延る黨たり。宗閔、亦た罷む。宗関、再び相たり。德裕又罷む。二黨互に去難ほ、相擠援す。文宗、毎に歎じて曰く、河北の賊を去るは易く、朝廷の唐-武宗皇帝-六〇三 十八史略卷之五六〇四朋黨を去るは難しと。德裕、しきりに貶黜せらる。上の立つに及びて、德裕を召して之を相とす。德裕、上に言つて曰く正人は邪人を指して邪人となし、邪人も亦た正人を指して邪となす、人主の之を辨するに在りと。上、嘉納す。德裕、維州の事を追論し、悉怛謀に褒贈を加ふ。〓昭義節度使劉從諫、卒す。姪稹、自ら軍府を領す。德裕謂ふ、澤潞の事體、河朔三鎭と同じからず、河朔は亂に習ふこと、旣に久しく累朝之を度外に置く、澤潞は、近く心腹に在り、若し又、因つて之に授くれば、威令復た諸鎭に行はれずと。上、問ふ、何を以て之を制せむ。曰く、稱の恃む所のものは三鎭。惟だ鎭魏之と同せざるを得ば、槇能く爲すなきなり。重臣を遣し、鎭魏に諭して、之を討たむと。詔して曰く、澤澤の一鎭、卿が事體と同じからず子孫の謀をなして輔車の勢を存せしむる勿れと。鎭魏、悚息して、命を聽く。二鎭の兵、朝廷遣す所の行營の將王宰、石雄と各進討す。河東の都將楊弁、亂を作し、節度使を逐ふ。中使馬元實をして曉諭し、且つ之を覗はしむ。元實、賂を受けて還り、衆中に大言す、相公須らく早く之に節を與ふべし、牙門より柳子に至るまで、十五里に列し、地に光明甲を曳く、之を如何にして、之を取らむと。i德裕、之を詰る。辭届す。奏す、微賊決して恕すべからず、若し國力支へざれば、寧ろ、劉稹を捨てむと。河東の兵出でて成る者、朝唐-武宗皇帝-六〇五 十八史略卷之五六〇六延、客軍をして、太原を取らしむるを聞き、妻孥の屠られむことを恐れ、乃ち歸つて、弁を擒にして、京師に送り、之を斬る。未だ幾澤潞ならずして、劉稹、勢窮蹙す。潞人、稘を殺して以て降り、平らぐ。德裕に、太尉衞國公を加へ、牛僧需を貶して循州長史となし、李宗閔を封州に流す。士良致仕之より先、評一良の宦者仇士良の官爵を削り、其家を籍沒す。訣壟、金金、印象、斷る主し秘を內し、其黨、歸るを送る、士良之に〓へて曰く、天子は、閒ならしむべからず、常に宜しく、奢靡を以て、之を娛ますべく、他事に及ぶ書を讀み、儒生を親近せしに暇なからしめよ。愼んで、之をして、疏斥せらむる勿れ。前代の興亡を見て、心に憂懼を知らば、吾輩、れむと。天下の佛寺を毀ち、僧尼は勤して歸俗せしむ。會昌六年、上、崩ず。在位七年。改元するもの一、曰く會昌。光王立つ、之を宣宗皇帝となす。【宣宗皇帝】名は怡憲宗の子なり。幼にして不慧と號し、太和の後、益す自ら韜匿す。文宗、好んで其言を誘うて、以て笑となす。武宗豪邁、尤も之を禮せず、名づけて光叔となす。武宗、疾篤し、子幼なり。宦官、策を禁中に定め、決して、怡を立てて皇太叔となし、更めて忱と名づけ、權に軍國の事を勾當せしむ、裁決、咸な理に當る。人始めて、其隱德を知る。尋いで卽位す。唐-武宗皇帝-宣宗皇帝-六〇七 十八史略卷之五六〇八李德裕、罷む。僧孺、宗関等、北遷す。德裕、三たび貶せられ、崖州司戶に至つて死す。令狐綯、同平章事たり。之より先、絢學士たり。上、嘗て、太宗撰する所の金鏡錄を以て、編に授けて之を讀ましめ、又、貞觀政要を屏風に書するや、毎に色を正しうし、拱手して讀む。嘗て、學士畢誠と邊事を論ずるや、誠具に方略を陳ぶ。上曰く、意はざBilりき、頗牧、吾が禁中に在らむとはと。卽ち用ゐて邊帥となす。果して、其任に稱ふ。上、聰察强記なり。嘗て、密に學士章澳をして處分語州縣の境土風物及び諸利害を纂次せしめ、號して、處分語といふ。刺史、入つて謝して出づる者あれば、曰く、上、本州の事を處分して、人を驚かすと、建州の刺史、入つて辭す。上、問ふ、建州、京師を去ること幾何ぞ。曰く、八千里。上曰く、卿彼に到つて、政此階前は萬里なりをなす。朕、皆之を知れり。遠しといふ勿れ。此階前は、萬里なりと。令狐綯、奏して、李遠を杭州の刺史に擬す。上曰く、吾聞く、長日惟だ消す一局の碁と、遠の詩に云ふ、安んぞ能く人を理めむ。絢曰く、詩人、この高興に托す、未だ必ずしも實に然らずと嘗て詔す、刺史、外より徒るを得るなく、必ず京に至つて察せしめよと綯嘗て、故人を徒して鄰州となし、便道より官に之かしむ。上之に問うて曰く、詔命、旣に行はる。直に廢格して用ゐず、宰相は權ありといふべしと。時方に寒、絢汗、重裘に透る。上、朝唐-宣宗皇帝-六〇九 十八史略卷之五六一〇に臨んで、群臣に對するに、未だ嘗て惰容あらず。宰相、事を奏する毎に、旁に一人なく、威嚴、仰視すべからず。事を奏して畢れば、忽ち怡然として聞語すること、一刻ばかり、徐に復た容を整へ上て曰く、卿輩、善く之を爲せ。常に恐らくは、卿輩、朕に背いて、再び相見るを得ざるをと。綯嘗て、人に謂つて曰く、吾、十年政を秉り、最も恩遇を承く。延英に事を奏する每に、未だ嘗て、汗、衣を沾さずむばあらざるなりと。嘗て、學士章澳を召し、左右を屏けて、之に問うて曰く、近日內侍の權勢如何。對へて曰く、陛下の威斷、前朝の比に非ず。上、目を閉ぢ、首を搖かして曰く、全くは未だし、全くは未だし、尙ほ之を畏るること在りと。又、嘗て、綯と謀つて、盡く宦官を誅せむとし、濫して無辜に及ぶを恐る。絢。評謂令蛋糕的所(電車密に奏して曰く、但だ罪あらば捨るす勿れ、缺あるも補ふ勿れ。自て自もればらた整啻云る耗勿あすあんる理に々にしれる勿れま法のにんく消ふ缺、然消耗して、盡くるに至らむと。宦臣、ひそかに其奏を見る。之に止妙官豈ら盡然補由つて、益す朝士と相惡み、南北司、水火の如し。やにの官は至大中十三年上、崩ず。在位十四年。改元するもの一。長子立つ、之を懿宗皇帝となす。【懿宗皇帝】初名は溫、〓王に封ぜらる。寵なきを以て、太子たるを得ず。宣宗崩ず、宦者之を立つ、更めて灌と名づく。浙東の賊裘甫起る。聲中原に振ふ觀察使王式、討つて、之を斬る唐-宣宗皇帝-懿宗皇帝六二 十八史略卷之五六一二九年。徐州の賊龐動起る。之より先、南詔、大理皇帝と稱し、兵を擧げて入寇し、播邕交趾を陷る徐酒の兵に敕して、桂州に戌せしむ。期を過ぎて代らず。遂に亂を作す。助粮料判官となる。戍卒、推して、以て主となし、兵を擁して、北に還り過ぐる所、剽掠す。徐州に至り、因つて節度使を殺し、諸郡を陷る。招討使康ん承訓、之を擊ち、沙陀の朱邪赤心を以て前鋒となす。訓、敗死す。李國昌赤心に、姓名を李國昌と賜ひ、大同軍節度使となし、又、振武節度使となす。こ咸通十四年、上、崩ず。在位十五年。改元するもの一子晉王立つ、之を僖宗皇帝となす。【僖宗皇帝】名は優。懿宗の少子なり。年十三、宦官に立てらる。懿宗より以來、奢侈日に甚しく、兵を用ゐて息まず。歛賦愈よ急水旱實を以て聞せず。百姓流殍控訴する所なく、所在相聚まつて黃集盜をなす。濮州の人王仙芝、起る。曹州寃句の人黃巢、之に應ず。巢騎射を善くし、任侠を喜ぶ。嘗て、進士に擧げられて第せず。仙芝と共に私鹽を販る。是に至つて、衆を聚めて、州縣を攻剽す。窮民、之に歸する、數月に數萬。仙芝、汝鄭唐郵を攻陷し、鄂州に寇し、安州を陷れ、〓南に寇す。招討曹元裕と申州に戰つて大敗す。又黃梅に大敗す。之を斬る。黃巢鄲沂濮を陷れ、宋汴を掠む。南に渡つて、洪虔吉饒信を陷る。宣州に寇し、浙東に入る。鎭海節唐-僖宗皇帝-六二三 十八史略卷之五六一四度使高駢に破らる。遂に廣南に趨り、廣州を陷る。潭州に出で、北に渡つて襄陽に向ふ。〓門に敗れ、復た引いて南し、宣州を陷る。釆石より江を渡る。旣にして、淮を渡り、申州を陷れ、穎宋徐衰の境に入る。東都を陷れ、引いて西し、潼關に入り長安に入る。上、蜀に出奔す。巢大齊皇帝と僭號す。諸道、兵を發して赴き援く。國昌の子李之より先、沙陀李國昌の子克用、兵馬使となり、蔚州大同の軍を戌克用る、諸將、謀つて曰く、今、天下大に亂れ、朝廷の號令、復た四方に行はれず。是れ乃ち英雄功名富貴の秋なり。李振武、名、天下に聞こえ、其子、勇、諸軍に冠たり。若し輔けて以て事を擧ぐれば、代北は平らぐるに足らざるなりと。人をして、潛に蔚州に詣つて、克用に說かしむ。克用、雲州に趨いて、之を取る。河東の招義、之を討つて大敗す。克用忻代に寇し、晉陽に逼る。旣にして、大に盧龍の兵の爲に敗らる。蔚朔の兵も亦た討つて其父國昌を敗る。父子、亡げて達旦に走る。朝廷、其罪を赦し、其兵を召して、賊を討鴉軍たしむ。克用、沙陀を將ゐて來る。賊.之を憚つて曰く、鴉軍至るさと。しきりに、賊を破つて、長安を復す。巢宮室を焚いて遁れ、蔡州に至る。節度秦宗權、之に降る。巢、汴州に趨く。克用等、追擊して、大に之を破る。未だ幾ならずして、賊黨、巢を斬つて、以て降る。朱全忠克用の汴州に至るや、朱全忠之を襲ふ。全忠は巢の將朱溫なり。唐-僖宗皇帝-六一五 十八史略卷之五六一六先に巢に遣されて、同華を攻陷し、尋いで、華州を以て降り、名を全忠と賜ひ、宣武節度使となる。克用を館して、甚だ恭し。克用、酒に乘じて、頗る之を侵す。全忠、不平なり。兵を發して、驛を圍んで之を攻む。克用醉ふ。左右、水を以て、其面に沃いで之に告ぐ。克用、乃ち目を張り、弓を援つて、起つて走る。大雷雨晦冥なるに會し、醉を扶け、電光に乘じ、城に縋して出づ。汴人、橋をくわた扼す。從者力戰して度るを得て免る。克用、晉陽に還り、甲兵を治め、表して全忠を討たむことを乞ふ。詔して之を和解す。聽かず上、成都を發して、長安に還る。秦宗權、僭號す。上の蜀に奔るや、宦者田令孜、實に之を挾む、自ら以て功となし、權、己より出づ。河中の王重榮前に亂を作して自立す。令玫、朱玫等を遣して、之を攻む。重榮、救を克用に求む。克用、方に朝廷の全忠を罪せざるを怨む。上言す。攻等、全忠と相表裏して、共に臣を滅せむと欲すと。兵を引いて、河中に赴く京師震恐す。令孜、上を劫して、鳳翔に奔る。朱攻、追ひ逼れども及ばず。肅宗の玄孫裏王熅を立てて帝となす。攻の將王行瑜、玫を斬る。爆河中に奔る。王重榮、首を斬つて、行在に送る。上、長安に還る。上在位十五年。改元するもの五、曰く乾符、廣明、中和、光啓文德。日に宦官と相處るのみ。天下大亂、盜賊蜂起、豪傑因つて其唐-僖宗皇帝-六一七 十八史略卷之五六一八閒に起り、互に相呑噬す。朝廷制する能はず。上崩ず、壽王立つ之を昭宗皇帝となす。【昭宗皇帝】名は傑、僖宗の弟なり。信宗大漸、室者之を立てて太弟となし、遂に位に卽く。後、名を曄と更む。帝、明粹にして英氣あり。文學を喜ぶ。信宗の威令振はず、朝廷日に卑きを以て、前烈を恢復するの志あり。踐祚の初、中外忻忻たり。然れども、内、宦寺に制せられ、外に强鎭あり、初志竟に遂げず。越州の董昌僭號す。昌、さきに杭州に據る。錢鏐、兵馬使たり朝廷、昌に命じて、漸東に帥たらしむ。鏐、杭州を領す。是に至つて、昌、帝を越に稱するや、鏐に詔して之を討つ。す三鎭闕を犯鳳翔の李茂貞、華州の韓建、那州の王行瑜、三鎭、兵を擧げて闕を犯し、宰相を殺し廢立を謀る。李克用、來り討つと聞き、乃ち去る克用、邪州を攻めて行瑜を斬り、將に兵を岐華に移さむとす。貴近、沙陀の甚だ盛なるを恐れて、之を止む。克用、隴西郡王より爵を晉王に進む。兵を引いて晉陽に還る。錢鏐越州に克つ。董昌、誅に伏す。初め、李克用、渭北に屯す。李茂貞、韓建、之を憚り、朝廷に事ふること、甚だ恭し。克用去る。二鎭、復た驕慢なり。茂貞、兵を擧げて闕を犯す。上、華州に出奔す。克用、援を遣す。又、朱全忠六·が洛陽に營して駕を迎へむとするを聞ぎ、茂貞、建と皆懼れ、上を唐-昭宗皇帝-六一九 十八史略卷之五층)奉じて、長安に還る。之より先、嘗て、諸王をして、兵に將として巡警せしめ、又四方に出して、藩鎭を撫慰せしめむと欲す。南北司、事を用ゆる者、其己に利あらざるを恐れ、交も諫めて以て不可くわん〓〓となす。上、已むを得ずして、之を罷む。上、華に在りし時、宦官劉季述、諸王十一人を圍殺す。是に至つて、季述、上を少陽院に幽して、太子裕を立つ。同平章事崔胤、神策の將に說いて、季述を討之誅し、土、位に復す。宦官、胤を去らむことを謀る。時に朱全忠、天子を挾んで諸侯に令するの意あり。胤書を以て、之を召す。全忠兵を擧げて來る。室者韓全誨等、上を却して、鳳翔に如かしむ。全忠、之を圍む。李茂貞、遂に全誨等を殺し、上を奉じて、長こと〓〓安に還らしむ。全忠、兵を以て、宦官を驅つて、盡く之を殺す。其出でて諸方に使する者は、所在に詔して、之を誅せしめ、黄衣幼弱評三十人を存して、洒掃に備ふ。宦官は、文宗より已後、武而唐氏し代則百廢置、加る官漸次以て三其掌遂到女天年で降握に在り、定策國老、門生天子の號あるに至る。是に至つて、大に相にり禍くか、宦事誅殺せらる。全忠、東平王より爵を梁王に進められ、汴に還る。を用ゆふを致し、全忠、威、天下に震ひ、纂奪の志あり。胤懼れて、之が爲に備白芝麻雀湯獨立て行くり難3.0全忠、表して、胤を除かむことを請ひ、密に其黨をして之を殺至れさしめ、遂に上に請うて東京に遷都せしめ、百官を促して東行し、士民を驅り徒す。上、侍臣に謂つて曰く、鄙語に云ふ、紇于山頭、雀を凍殺す。何ぞ飛び去つて生處に樂まざると。朕、今、漂泊して、唐-昭宗皇帝-〓三 十八史略卷之五六三竟に何の所に落つるを知らずと。泣下つて、巾を沾す。上、洛陽に至る。李茂貞等、檄を移し、興復を以て辭となす。全忠、將に西討せむとし、上の英氣あるを以て變を生ぜむことを恐れ、人を遣し、洛に入つて、之を弑せしむ。上、位に卽いてより、賢豪を夢想せざるに非ざるも、卒に之を用3評作宰歌ゐず。嘗て、朝士鄭緊といふ者あり、該諧を好み、歇後の詩を爲つ可知て、時事を嘲る。上、其所蘊あるを意ひ、手づから班簿に注して以皮鄭國肉緊命絕頂て相となす。堂吏、走つて告ぐれども信ぜず。旣にして賀客至る。見頽る勢が如綮、首を搔いて曰く。歇後の鄭五宰相となる。時事知るべしと。上、在位十七年。改元するもの七、曰く、龍紀、大順、景福、乾む寧光化、天復、天祐。子立つ、之を哀皇帝となす。【哀皇帝】初名は祚。昭宗、廢太子裕あり、既に壯。全忠、之を惡む。祚、幼を以て立つを得たり。名を祝と更む。全忠、裕等九人を殺す、皆、昭宗の子なり。全忠、相國となり、九錫を加ふ。帝、在位、仍ほ天祐と稱す。四年ならずして梁に禪り、尋いで弑せらる。唐は高祖より、是に至るまで、二十世、凡そ二百九十年。唐-昭宗皇帝-哀皇帝-六二三 評譯十八史略卷之六五代梁西紀自九〇【梁太祖皇帝】初名は溫、姓は朱氏、陽山の人、朱五經の子なり。七至九二三少にして無賴、黃巢に從つて、盜をなし、唐に降つて、名を全忠と賜ふ。初め、汴に鎭し、徐州、兗州、〓州を攻併し、河北、河東の諸郡を攻め、屢ば李克用と兵を交へ尋いで河中、晉、絳を取り、兵を華岐に用ゐ、東、靑州を降し、南、〓襄を取り、諸鎭の間を橫五代-梁六二五 十八史略卷之六六二六「(行し、唐都を洛に劫遷し、遂に唐を簒し、名を晃と更む。其兄全昱評製造販売、を封じて、王となす。嘗て、之を罵つて曰く、朱三、汝、天子とな天子おねえの 赤か云々全昱るか汝、黄巢に從つて、賊を作す。天子、汝を用ゐて、四鎭節度しします溫をな評遺憾使となす、何をか汝に負く。奈何ぞ、唐家三百年の社稷を滅して、自〓くようら帝王となるや、行く當に族滅すべしと。此時、李克用、晉に王たり。李茂貞、岐に王たり。楊行密、吳王となつて、淮南に王たり。行密、旣に卒す。子渥、之に代る。王健、蜀に王たり。錢鏐、兩浙に王たり。王潮、聞に據る。旣に卒す。弟審知、之に代る。馬殷、湖南に據る。劉隱、廣に據る。皆、唐末より以來、諸州に割據す。梁主、馬殷を以て楚王となす。蜀主王健、帝と稱す。克用、晉王李卒す。初め、克用、養子あり、存孝といふ。最も驍ゆう。(1勇にして功あり。養子存信、疾んで、之を讃す。存孝、禍を懼れて叛す。克用、討つて獲て、囚へ歸り、其才を惜み、意に刑に臨み、必ず之が爲に請ふ者あらむを意ふ、諸將、其能を疾み、竟に一人の言ふなく、遂に死す。又、薛阿檀といふ者あり、亦た勇、密に存孝と通じ、事の泄るるを恐れて自殺す。之より、克用の兵勢、寝く弱し。唐末、數ば汁人に攻められて、數州を失ふ。汴兵、直に晉陽城下に抵る。克用、城に登つて備禦し、寢食に遑あらず。後に、汴か兵、再び晉陽を圍み、疫を以て還る。克用、幾んど走らむと欲す。五代-梁六二七 十八史略卷之六奈人h汴兵の去るに會して止む。克用、汴人と爭ふ能はざるもの累年、悒い存勗悒以て卒するに至る。子存勗立つ。時に、梁兵、晉を侵して、潞州を圍む。晉の李嗣昭、城を開ぢ、固守して年を踰ゆ。梁夾寨を築いて、之を守る。存勗、諸將と謀つて曰く、朱溫の憚る所のものは先王のみ。吾が新に立つを聞かば、以て童子となして、必ず驕怠の心あらむ。もし精兵を簡び、道を倍して、之に趨き、其不意に出づれば、威を取り、覇を定むる、この一擧に在り、失ふべからざるすなりと。兵を師ゐて晉陽を發し、三垂岡下に伏し、旦に大霧に乘じて、直に夾寒に抵り、塹を塡め、鼓譟して入る。梁兵、大に潰ゆ遂に潞の圍を解く淮南の將張頴、徐溫、楊渥を弑す。溫、復た顎を殺す。將吏、楊隆演を推立す。徐溫、自ら昇州を領し、養子徐知誥を以て、往いて之を治めしむ。梁、王審知を以て聞王となす。梁、劉守光を以て燕王となす。守光は、盧龍節度使仁恭の子なり。之より先、其父を囚へて、自ら軍府を領す。梁の夏州亂る。節度李彝昌を殺し、其族父仁福を以て、之に代らしむ。夏州の李氏、本姓は拓跋、上世、唐より姓を賜ひ、鎭を領すること久し。廣州の劉隱、卒す。弟巖、之に代る。五代-梁六二九 十八史略卷之六六三〇劉守光、燕帝と稱す。鎭州の王鎔、定州の王處直、晉王を推して、盟主となす。梁、鎭州を攻め、諸郡を襲ひ取る。晉王、其兵を柏〓に伐つて、大に之を破る。晉、二鎭を帥ゐて燕を伐つ。梁主、之を救ひ、大に敗れて、走り歸る。之より先、梁主、旣に疾あり。是に至つて、慙憤して曰太原の遺孽 我、天下を經營すること三十年、意はざりき、太原の遺孽更に昌熾、かくの如くならむとは。吾、其志を觀るに、小ならず。我死せば、諸兒、彼の敵に非ざるなり。吾、葬地なからむと。疾愈よ劇且つ課怒を加ふ。假子、友文の妻を愛し、將に友文を立てて嗣となさむとす。遂に其子友珪に私せらる。在位六年。改元するもの二、曰く、開平、乾化。初め、汴州を以て東都開封府となし、洛陽を西都となし、遷つて洛陽に都するもの凡そ四年。友珪、自立す。尋いで、誅に伏す。均王立つ。【均王】名は友貞、初め東都指揮使たり。友珪の簒弑するや、兵を起して、之を誅して、汴に卽位し、名を塡と更む。晉王、幽州に入り、燕の劉仁恭及び守光を執へ、歸つて之を斬る梁、荊南節度使高季昌に爵を賜うて王となす。保契丹の阿保機は、古しへの東胡の種なり。其國、の機契大阪府中央局さきに橫山の南り遼に在り、もと鮮卑の舊地、元魏の時、自ら契丹と號す、初め、太賀五代-梁六三一 十八史略卷之六六三二氏、八子あり、八部太人と號す。一人を推して主となし、三歲一たび代る。唐の開元中、邵固といふ者あり、衆を統ぶ。詔して、襲いで王たるを許す。是に至つて、諸部、耶律斡里の少子阿保機を以阿保二九機西至紀九自六一は六て主となす。奚、渤海を並せ、始めて、元を建て、復た代を受けす。國人、之を天皇王といふ。廣州の劉巖、越王と稱す。既にして、帝と稱し、國號を改めて、漢といふ。後、また、名を襲と更む。な吳の徐溫、徒つて昇州に治し、徐知詰を以て入つて吳政を輔けしむ。蜀主王建、殂す。子宗衍、立つ。吳主楊隆演、卒す。弟博普、立つ。梁錢鏐を以て吳越國王となす。晉、梁と連歲兵を交ふ。梁の魏州、晉に降る。晉王、魏に入つて德州、澶州を拔く。梁の劉郭、晉陽を襲ひ、克たずして還る。鎭定の營を攻むるや、晉師、之を敗る。鄂魏州を攻む。晉王、又之を敗る。梁、又兵を遣して晉陽を襲ふ。晉人、擊つて之を郤く。晉、5衞、磁、洛、相邢、滄、貝の州に克ち。濮鄲を掠む。梁人、河を決して、以て晉を限る。晉王、攻めて其四寨を拔く。既にして、3大擧して、梁を伐ち、胡柳に戰ふ。晉の周德威、敗死す。晉王、兵を收めて、復た戰ひ、大に梁軍を敗る。晉、德勝南北の兩城を築五代-梁六三三 十八史略卷之六六三四かせふたうわうさんしんかく。梁、之を攻む、克たず。梁の招討王瓚、晉の爲に敗られ、梁の河ちうしんてうわうよう中晉に降る。鎭州の將、趙王王鎔を弑す。晉王、討つて之を平らぐ。ごしよくしばしさ之より先、吳蜀、數ば書を以て、晉王に勸めて、帝と稱せしむ。晉いせんわうゐげんまさつとたうしやしよくふく王、自ら謂ふ、先王遺言あり。當に務めて唐の社稷を復すべしとでんこくほうしううしやうしみながくわんしん旣にして、傳國の寶を魏州に得、將士皆賀し、勸進して己まず、遂ていゐたうげん李嗣源を遣して、しうんしうに帝位に魏に卽いて、國を唐と號し、梁の〓州をれうわうげんしやうもつせうたうとくしやう襲ひ取らしむ。梁、王彥章を以て招討となす。唐主、德勝の守者をいましわうてつさうゆうけつつゝし王鐵槍は勇決なり戒めて曰く、王鐵槍は勇決なり、しよさいやうりう之を謹めと。りよくこう彥章果して、か南城を拔き、進んで諸寨を拔き、楊劉に至つて力攻す。克たずして退く。うんたうしゆ梁、彥章をして鄲を攻めしむ。唐主、之を救ふ。梁、敗れ、彥章死しげんぜんぱうたいれうな評弟み主屋 を し て も て て つ てす。唐、嗣源を以て、前鋒となし、五日、大梁に入る。梁主、猶ほに所兄臨梁尙しよきやうだいあやふじようおもんほかこと〓〓殺す諸世諸兄弟危きに乘じて亂を謀らむを慮つて、盡く之を殺し、尋いおのれで、其下に命じて、己を殺さしむ。在位十一年。改元するもの二、一個大正貳年ていめいりようとくたいそていべし曰く、貞明、龍德。梁は、太祖帝と稱せしより、是に至るまで、二世一十七年にして亡ぶ。唐そんきよくしやだしゆやせんせい【唐莊宗皇帝】名は存勗、沙陀の人なり。本姓は朱邪、先世、功をちゝこくようゆうりやくもくびべうどくがんりう立てて姓李を賜ふ。父克用、勇略あり、一目微眇、獨眼龍と號す。たうくわうさうたひたいこうしゆしあだ唐の爲に、黄巢を平らげ、大功を立て、晉に王たり。朱氏と仇とな五代-梁-唐六三五 十八史略卷之六六三六る.暮年頗る爲に蹙められ、憂、色に形はる存勗、幼にして進言して曰く、朱氏、凶を窮め、暴を極む。人怨み、神怒る。極めて將に斃いとれむとす。至此一、世、忠貞を襲ぬ。大人、當に遵養時晦、以て其かろ〓〓衰を待つべし。奈何ぞ、輕しく、沮喪を爲し、群下をして望を失はミしめむやと。克用說ぶ。終に臨んで、立てて嗣となし、其下に謂つて曰く、この子、志氣遠大、必ず能く吾が事を爲さむと。年十七、晉王の位を嗣ぎ、卽ち兵を擧げて、梁を破り、潞の圍を解き、之よしば梁祖、子を生まば、當に李亞子の如の當子如にをく 李生歎じて曰く、大吾な亞まり、連りに勝つ。子酒店、のがるくなるべし。吾が兒は、豚犬のみと。存勗、東、幽州を併せ、北、ペはし豚み兒契丹を郤け、南、梁と河を夾んで百戰す。之より先、晉陽の監軍張せつおうと!?承業晉王の爲に財賦を招拾し、兵馬を召補す。攻戰連年、接應乏さしからざるは、皆承業の力なり。承業の意は、唐の宗社を復するに在り。王の將に帝と稱せむとするを聞き、力諫す。止むべからざるを知るや、慟哭して曰く、諸侯血戰、もと唐家の爲にす。今、王、自ら之を取り、老奴を誤ると。悒悒、疾を成して卒す。王、位に卽き、音を改めて唐となし、唐の祀を奉ず。汴に入り、梁を滅し、大梁に都し、旣にして、洛陽に遷る。侍中郭崇韜、謀略あり、是に至(か、つて、權內外を兼ね、謀猷規益、忠を竭して隱すなく、人物を薦引す。他相は成を受くるのみ。〓南の高季興、入朝す。季興は、季昌の改名なり。唐、以て南平五代-唐毫 十八史略卷之六六三八わう王となす。しよくしゆわうえんはんゆういんめんたうおこくわうしけいきふくわくすうたう蜀主王術、盤遊淫酒、國亂れ、盜起る。唐、皇子繼岌と郭崇韜とほろぼそのぞくせきけいきふを遣し、之を伐つて遂に蜀を滅す、行、降る。其族を赤す、繼岌、ざんすうたうかへ讒を信じ、崇韜を殺して還る。孟知祥を以て西節度使となす。まうちしせいせんせつどし唐、かやうやおごはじめれいじん唐帝、梁に克つてより後、漸く驕り、首に伶人を以て、刺史となえうおんりつならふんぼくいうじんす。帝、幼より、音律を習ひ、或は時に粉墨を傅けて、優人と共に李天下たはむいうめいてんかりてんか戯る。優名を李天下といふ。嘗て、自ら呼んで、李天下、李天下というじんけいしんまにはかすそのほゝうしんきいぶ。優人敬新磨、遽に前んで其類を批つ。帝、色を失ふ。新磨、おもむろおさなたれ徐に曰く、天下を理むるは、只だ一人なり。尙ほ誰をか呼ぶやと。よろこしよれいきうえきしんろうふんしつ帝、悅ぶ。諸伶、宮掖に出入し、指紳を侮弄す。群臣、憤疾するもあひぶあへて相附託し、くわてん敢て氣を出す者なく、亦た反つ貨を納れ、展轉して、おんたくもとせいほしひまゝざんとく以て恩澤を干むる者あり、政を〓し、人を害し、恣に讒慝をなす。しゆくしやうあはれしばしいうれうじうせん帝、宿將を疎忌し、軍士を恤まず、數ば出でて遊獵し、民田を蹂踐じやうかしゑんyはくしやうぐわけうましまとし、上下咨怨す。魏博の將、瓦橋を成る。代つて歸るや、復た留まばいしうてうざいれいほうげふとつて貝州に屯せしむ。遂に亂をなし、趙在禮を奉じ、入つて、鄴都しやうりしげんじやうかぐんしに據る。唐、將李嗣源をして之を討たしむ。城下に至る。軍士、大さわせんに課いで曰く、將士、主上に從ひ、十年百戰、以て天下を得たり。ばいしうじゆそつしゆじやうゆるじうばちよくすうそつけんきやう今、貝州の成卒、歸るを思ふ、主上赦さず、從馬直の數卒、喧競すにはかそのぞくわがはいはんしんるも、遽に其族を誅せむと欲す。我輩、初めより、叛心なし、惟だ五代-唐亮元 十八史略卷之六六四〇死を畏るるのみ。今、城中と勢を合せむと欲すと。白刄を拔き、嗣源を擁して城中に入る。城中、外兵を受けず、之を逆へ擊つ。皆、潰ゆ。嗣源、詭辭して、出づるを得たり。將に兵を召して亂者を攻めむとす。安重誨曰く、公、元帥たり。不幸にして、凶人に劫かさる。若かず、星行して、闕に詣つて、天子に見えむには庶はくは、自ら明かにすべしと。嗣源、乃ち、南相州に趨る。譜者奏す、嗣源、既に叛すと。嗣源上章して、自ら理す。遏めて、通ずるを得ず。始めて、疑懼す。石敬塘曰く、安んぞ、上將、叛卒と共に城に入つて、佗日恙なきを保するを得る者あらむや。大梁は、天下の都會。願はくは、先づ往いて、之を取れ。始めて、自ら全うすべし。康義誠曰く、主上無道、軍民怨望す。公、衆に從へば生きむ、節を守れば必ず死せむと。嗣源、乃ち敬塘を以て先鋒となし、李從珂を殿となし、兵を引いて、大梁に入る。唐主、關東に如き、嗣源、既に大梁に據つて諸軍離叛すと聞き、神色沮喪、歎じて曰か、く吾、濟らずと。卽ち命じて師を旋す。從馬直郭從謙、兵を帥ゐて帝を氾水に攻む。唐主、流矢に中つて殂す。帝と稱する、わづかに三歲にして弑に遇ふ。改元するもの一、曰く同光伶人、樂器を歛め、屍を覆うて、之を焚く。嗣源、之を聞いて痛哭す。乃ち、洛陽に入る。百官、牋を上つて、勸進すれども許さず。又三たび、嗣源に請うて國を監せしむ。乃ち之を許す。繼岌、蜀より歸り、途に內五代-唐査 十八史略卷之六六四二なんじさつかんこくためいそうくわうてい難を聞き、長安に至つて自殺す。監國立つ、之を明宗皇帝となす。じんばくきつれつしんわうこくようしげん【明宗皇帝】もと胡人選佶烈なり。晉主克用の養子となり、嗣源とさうそうほろぼちうしよれいばんかんばほ名づく。莊宗、梁を滅すや、嗣源、功、最も高し。中書令蕃漢馬步そうくわんげふはんそつげふ總管となり、令を受けて、鄴を討ち、叛卒の推す所となる。鄴よりべんおもむらくたん汴に趨き、洛に入り、遂に位に卽く。名を壹と改む。きつたんあはうきしゆつとくくわうた契丹の阿保機卒す。子德光立つ。リ塗裝大大正師のなしゆつえんかんたけういんざんばうしいそのびんわうしんち子延輸立つ。閩王王審知卒す。驕淫殘暴、其下、之を弑して、其おとうとえんきんりんあらた弟延鈞を立つ。後、帝と稱す。、名を璘と更む。ごわうやうふ吳王楊溥、帝と稱す。なんへいわうかうきこうこしようくわいた南平王高季興卒す。子從誨立つ。せいたのちきはんた楚王馬殷卒す。子希聲立つ。後、希聲卒す。希範立つ。こゑつわうせんりうしゆつこげんくわんた吳越王錢鏐卒す。子元瓘立つ。かしうじんふくしゆつこいてうつ夏州の李仁福卒す。子彝超嗣ぐ。せいせんまうちしやうあはしよくわう西川の孟知祥、東川を併す。知祥を以て蜀王となす。しんわうしようえいけうこんじろんし唐の秦王從榮驕狠なり。自ら時論の與みせざるを知り、常に嗣おそたうしゆやまひしんにはかがないひきたんたるを得ざるを懼る。唐主、疾に寢す。遽に牙兵千人を率ゐて、端もんきんゑいしようえいへいつひ門の下に至り、將に入らむとす。禁衞、之を討つ。從榮の兵潰ゆ。くわうじやうしたうしゆひがいやまひはげそ走つて、府に歸る皇城使、之を斬る。唐主悲駭、疾劇し、遂に殂さいききそとうきよくす。唐主、性、猜忌せず、物と競ふなし。登極の年、旣に六十を踰かうたしゆくばうじん毎夕、宮中に於て、香を焚いて天に祝して曰く、某は胡人、亂五代-唐六四三 十八史略卷之六資しゆうたねがせいじんしやうせいみんしゆに因つて衆に推さる。願はくは、天、早く聖人を生じて、生民の主てんせいちやうこうせいとなせと。在位八年。改元するもの二、曰く、天成、長興。內に聲しよくいうでんくわん〓〓にんうちざうこはいれんりしやう評外に遊〓なく、藏庫を廢し、廉吏を賞唐なじ亂宗の君通離明色なく、宦官に任ぜず、内、の記憶ざうとあんがふねんこくしばしし、贓盡を治す。書を知らずと雖も、行ふ所、道に暗合し、年穀屢Dreamゆたかへいかくもちまれsほぜうかうば豊に、兵革用ゆる罕なり。五代に校ぶるに、粗ば小康となす。子そうわうたびんてい宋王立つ、之を関帝となす。じうこうめいそうじしちこころざし【閔帝】名は從厚、明宗の次子なり。位に卽いて、治を爲すに志そのえうくわんじうだんすくなあり。然れども、其要を知らず、寛柔にして斷少し。まうちしやう蜀の孟知祥、帝と稱す。ろわうほうしやうはんちやうくらくやうびんてい唐の潞王、鳳翔に反す。兵を擧げ、長驅して洛陽に至る。閔帝、しゆつぼんおうじゆんかいげんろわうた出奔す。位に在つて、應順と改元す。潞王立つ。しようかほんせいわうしめいそう【潞王】名は從珂、本姓は王氏、明宗の養子なり。少にして、明宗せいばつこうみやうしゆうしん5に從ひ、征伐して功名あり、衆心を得たり。事を用ゆる者、之を忌ほうしやうちんびんていかとううつしやうさおむ。從珂、鳳翔に鎭す。閔帝、命じて、鎭を河東に移す。將佐、以はなまつたげきりんだううつ爲へらく、鎭を離るれば必ず全き理なしと。乃ち檄を鄰道に移し、ていそくきよせんむか兵を起して入りて、帝側を〓む。從珂、陝に至る。諸軍、皆、迎へくだらくさいしやうへうどうとうひやくくわんはんけい降る。洛に至る。宰相馬道等、百官班迎し、遂に位に卽き、人をゑいしうちんさつ遣して、関帝を衞州に鴆殺す。しよくしゆまうちしやうそこちやうた蜀主孟知祥殂す。子昶立つ。てうしゆつあにいじん夏州の李舜超卒す。い兄彜殷、之に代る。五代-唐六四五 十八史略卷之六六四六聞人、其王璘を殺して、其子繼鵬を立て、名を昶と更む。石敬塘唐主、初め、河東節度使石敬塘と、素より相悅ばず。唐主立つ。敬塘、己むを得ずして入朝し、尋いで、鎭に歸り、陰に自全の計を評石唐主、る聯蔣にに權敬勢塘なす。之を移す。援を契丹に求む。契丹、唐兵を同依石むをのが遂に反し、る契爲自所丹め家援敗り、敬塘を立てて晉帝となす。兵を引いて、洛陽に向ふ。唐主、とに介求自ら焚いて死す。在位三年ならず、改元するもの一、曰く〓泰。唐一賴が賴轍すソは、莊宗より、是に至るまで、四主、凡そ一十四年。晉【警高祖皇帝】姓は石氏、名は敬塘、沙陀の人、唐の明宗の婿なり。ふ初め、從珂と共に、皆、勇力あつて善く鬭ふ。明宗に事へて、皆功あり、內相忌む。從珂、帝と稱す。敬塘、河東より來朝す。將佐、と皆勸めて、之を留めしむ。時に久しく病んで骨立す。唐主、以て虞となさず、遂に鎭に歸るを得たり。公主、洛陽に在り、辭して歸るや、唐主、醉うて曰く、何ぞ、暫らく留まらずして、遽に歸るや。石郞と反せむと欲するかと。敬塘、之を聞いて益す懼る。尋いで、命じて、移つて、鄲州を鎭せしむ。敬塘、命を拒む。唐主、兵を發石敬塘表しして、之を討つ。桑維翰、敬塘の爲に、表を草して、契丹に臣と稱て契丹に臣事すし、事ふるに、父の禮を以てし、約す、事捷たば、地を割かむと。劉知遠、以爲へらく、太だ過ぎたり、厚く金帛を賂はば、其兵を致五代-唐六四七
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/404.html
唐書巻二百二十五上 列伝第一百五十上 逆臣上 安禄山 慶緒 高尚 孫孝哲 史思明 朝義 安禄山は、営州柳城(熱河省朝陽県)出身のトルコ人とソグド人のあいのこである。本姓を康といった。母は突厥の阿史徳族の出で、巫(みこ)となり、突厥の中にいた。子種にめぐまれず、軋犖山に祈った。これは、突厥の軍神といわれているものである。やがてみごもり、出産するに至ったとき、光がさし込み、テントを照らし、獣が一斉にほえた。占(うらない)をする者が、これを瑞祥といった。范陽節度使の張仁愿は、これを異変の兆候と感じ、テントの中をさがさせ、一人残らず殺そうとしたが、かくまわれて、のがれることができた。母は、神のお告げに従って、姫山と名付けた。幼いとき孤児となり、母が突厥の将軍安延偃に再婚するのについて行った。開元年間(713-741)初頭、安延偃が彼をつれて国に帰った。安延偃の一族の安道買のわすれがたみらも、みな彼の家に頼ってきた。だから安道買の子の季節、貞節は、安延偃を徳とし、約束して両家の子を義兄弟とした。そこで姓を安とし、名を禄山と改めた。成長するにつれ、忍耐強く、賢く、よく人の心を読みとるようになった。六か国語に通じ、貿易ブローカーとなった。 張守珪が節度使となって幽州(河北省大興県)に来たとき、安禄山は羊を盗んで捕えられた。張守珪がこれを殺そうとすると、彼は、「公は、奚・契丹の両蕃を滅ぼしたいと思われないのか。それなのに、なぜ私のような役に立つ者を殺そうとなされるのか」と叫んだ。張守珪は、その言葉を壮とし、また体堂々として明哲なのをみ、これを釈(ゆる)した。同郷の史思明とともに、捕虜を率いる捉生将となった。彼は、山川の状況や水のある所を熟知しており、あるとき、たった五騎で契丹数十人を捕えてきた。張守珪は、不思議な男だと思い、少しその部下を増した。討伐があると必ず勝ち、そこで一万の大将に抜擢した。彼は大変ふとっていたが、張守珪がそれを醜いと嫌がっていたので、減食し、その気に入るようにつとめた。それによって張守珪は、彼を養子とした。 開元二十八 (740)年、平盧兵馬使となり、翌二十九年、特進幽州節度副使に抜擢された。このとき御史中丞の張利貞が、河北採訪使となって平盧にやって来た。安禄山は、さまざまな手を使ってへつらい、左右の者に銭を遣って私恩を売った。張利貞は朝廷に帰ると、さかんに安禄山をほめ、それによって安禄山は、営州都督・平盧軍使を授った。使者が往来するたびに、ひそかに賄賂を遣って機嫌をとり、それぞれに自分のことを朝廷に推称するようにしむけた。かくして玄宗は、彼を材能のある者と思うようになった。 天宝元年(742)、范陽節度使を分け、平盧節度を新設した。安禄山はその節度使となり、柳城太守・押両蕃・渤海・黒水四府経略使を兼ねた。翌二年に入朝し、奏対が天子の御心にかない、驃騎大将軍に進み、また翌年、裴寛に代って范陽節度・河北採訪使となり、平盧節度使を兼任した。安禄山が鎮に帰るにあたり、帝は中書・門下・尚書三省の正員の長官と御史中丞に命じ、鴻臚亭で送別の会を開かせた。 天宝四載(745)、奚と契丹が唐から降嫁した公主を殺し、離反した。安禄山は、手柄をたてる絶好の機会と考え、彼らの侵掠をのばなしにし、対中国関係を悪化させ、そのうえで兵を出し、契丹を討って帰った。そのとき彼は上奏し、「臣が契丹を討つため北平郡にさしかかったとき、突厥遠征で知られた国初の名将李靖と李勣が臣に食を求めたのを夢みたので、廟を建てて祭ったところ、神座の梁に芝が生え、一本が十茎に分かれ、珊瑚盤が重なったようになりました。これは臣の忠誠心が、神霊に通じたからに違いありません」と言った。帝は史館に付して、その功績を顕彰させたが、帝がこのようなデタラメを信じて疑わなかったことは、かくの如くであった。席豫が河北黜陟使になって来ると、またこれに贈賄し、席豫は都に帰ると安禄山をほめそやした。当時、宰相李林甫は、儒臣が軍功で出世し、帝の寵愛が薄れるのを恐れ、専ら蕃人の将軍を採用するよう、帝にすすめた。だから帝は、ますます安禄山を寵愛された。しかし群臣たちは、李林甫の権力を恐れ、反対することができなかった。それから間もなく安禄山が反乱を起こしたが、それは李林甫が原因を作ったようなものである。 安禄山は表面愚鈍をよそおい、よこしまな心をかくしていた。帝の下問があると、「臣は蕃戎の生れにもかかわらず、恩寵を受けて栄進すること、身に余るものがあります。臣には特別陛下のお役に立つような才能があるわけではありませんから、身をもって陛下のために死にたいと存じます」と奏上した。帝はそれをまことと信じ、憐れまれた。あるとき、皇太子に謁見させたところ、拝礼しなかった。左右の者がつついて注意すると、彼は、「臣は朝廷の儀礼を知りません。皇太子とは一体どのような官でしょうか」と言った。 そこで帝が、「朕が百歳ののち、天子の位を譲るべき者だ」と言うと、「臣は愚なため、陛下を知るだけで、皇太子を知りませんでした。この罪は万死にあたりましょう」と謝り、再拝した。 当時、帝は楊貴妃を盲愛されていた。そこで安禄山は、貴妃の養子になりたいと願いで、帝はそれを許可された。いつも入認するとき、貴妃を先に拝し、帝を後にした。帝が不可解に思われ、尋ねると、「蕃人は母を先にし、父を後にします」と答えた。帝は大変愉快がられ、楊貴妃の兄の楊銛と姉の韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人の三夫人と、兄弟とされた。帝の彼に対する盲信がそのような状態であったため、やがて彼は天下を奪う野心を持ちはじめた。そして部下の劉駱谷に命じ、都に居て朝廷の隙をうかがわせた。 天宝六載(747)、御史大夫に進み、妻の段氏は国夫人に封じられた。当時、李林甫が宰相の位にあり、権勢並ぶ者なく、群臣中敢えて対等の礼をする者がなかった。ただ安禄山は、帝の恩寵をたのんで、謁見の仕方が傲慢であった。李林甫は、これをそれとなく悟らせようとし、王鉷にいいつけ、いつも安禄山と一緒に居させた。王鉷も彼と同じ大夫の位にあったが、李林甫が王鉷をみると、王鉷は身をちぢめて拝した。それをみて安禄山も、その権勢にうたれ、思わず襟を正した。李林甫は、一緒に話をすると、いつも安禄山の心の内をみぬいてしまった。そのため安禄山は大層おどろき、神わざだと思い、謁見するときは真冬でも冷汗を流した。李林甫は、このようにしておいて、次第に安禄山に彼を厚遇し、中書に引きたて、自分の支配下においた。そのため安禄山は李林甫を徳とし、彼を「十郎さま」と呼んだ。劉駱谷が上奏して都から帰ってくると、彼はまず、「十郎さまの御機嫌はどうだったか」と問い、李林甫がほめていたと聞くと喜び、「安大夫はよい検校だ」と言っていたとでも言おうものなら、手をかえし、椅子にそりかえり、「ああ、俺は死にそうだ」と言って大喜びした。宮廷役者の李亀年がその仕草をまねると、帝はころがって笑われた。 年をとるに従い、ますます肥り、腹が緩んで膝まで垂れてきた。そのため両肩を振るい、車を引くような格好をして、ようやく歩くことができる有様となった。しかしそれにもかかわらず、サマルカンドの胡旋舞が得意で、疾風のようにくるくると舞った。帝はその腹をみて、「胡の腹中には何が入っていて、そんなに大きいのか」とからかうと、彼は「ただ誠心だけです」と答えた。いつも駅馬に乗って入するときには、半道ごとに必ず馬を取り換え、人々はこれを「大夫の換馬台」と言った。そのようにしないと、馬が仆れてしまうからである。彼の馬は、五石のものを載せて走るものでなければ、役に立たなかった。 帝は安禄山のため、親仁坊に第宅を造らせた。宦官に命じて工事を監督させ、これにいましめて、「みんなよく部署をつくせ、安禄山の目玉は大きいから、へたなことをして朕を笑い者にさせないように注意してくれ」と言った。くさりの形をきざんだ宮門、いろいろに組み合わせたすかしぼり、台観や池沼を造り、華やかでおごったとばりをめぐらし、あかね色のぬいとりと金銀を使ってみのや籠やまがきをつくり、衣服や車馬も、天子のものより贅沢であった。 ある日、勤政楼で祝宴を開き、安禄山の座席を玉座の左にしつらえ、金鶏をあしらった障子を設け、前に特製のこしかけを置き、詔して簾をまきあげさせ、その寵愛ぶりを群臣に示した。皇太子が、「昔から幡坐は、人臣の坐るべきところではありません。陛下が余りに安禄山を寵愛されると、必ずや驕りたかぶった気持ちを起こしましょう」と諌めると、「あの胡人には、異相がある。朕はこれを抑えつけておこうとしているのだ」と答えられた。 その頃は太平が続き、人々は戦を忘れていた。帝は高齢のうえ、楊貴妃に首ったけで、李林甫と楊国忠がかわるがわる政権を握り、政治の大綱は乱れに乱れていた。そのようなわけで、安禄山は、天下を奪おうとする野心をますますはげしくもやしていた。いつも朝堂に昇る竜尾道を通るときには、南北をにらみすえ、しばらくして立ち去った。范陽の北に城砦を築き、雄武城と号した。兵を集め、穀物を積み、同羅(トンラ)や降ってきた奚や契丹やアラブの奴隷八千人を養って仮子とし、家奴の中から弓矢の上手なものを選んで厚遇し、戦馬三万・牛羊五万匹をたくわえた。張通儒・李廷堅・平洌・李史魚・独孤問俗を引きたてて幕府に入れ、高尚に書記をつかさどらせ、厳荘に財物の出納を管理させ、阿史那承慶・安太清・安守忠・李帰仁・孫孝哲・蔡希徳・牛廷玠・向潤客・高邈・李欽湊・李立節・崔乾祐・尹子奇・何千年・武令珣・能元晧・田承嗣・田乾真を兵卒から引き抜いて大将とした。たくみに胡人の商人を諸道につかわし、毎歳百万を輸納させた。大会のときには、大きな椅子に腰掛け、香をたき、珍奇な品を並べ、胡人数百を左右にはべらせ、商人たちを引見した。犠牲を並べ、坐前で女巫を舞わせ、自分を神になぞらえさせた。また多くの商人に 命じ、錦・綵・朱や紫の衣服数万を買い、謀反の資金とした。一方、毎月、牛やラクダや臓や犬や珍らしい鳥や変った物を進献し、帝の心を毒した。そのようなやり方をみて、人々は、安禄山が何かをしでかすのではないかと不安がった。 彼は、さしたる功労がないのに出世したので、何か手柄を立てたいと思っていたが、帝がさかんに国外経略をしているのをみて、契丹の酋長たちを欺いて招待し、酒に毒を盛り、酔ったところで首をはね、前後数千人を殺し、それらの首を献上した。帝はその真相を知らず、武動を賞する鉄券を賜わり、柳城郡公に封じた。ときに天宝七載(748)のことである。また故安延偃に范陽大都督の位を追贈し、安禄山に爵を賜わり、東平郡王に封じた。唐の将帥で王になったのは、彼がはじめてである。 この年、河北道採訪処置を兼ね、永寧園を賜わり、使院とした。その秋入朝したときには、楊国忠兄弟や虢国夫人の姉妹が新豊まで出迎え、御馳走を賜わった。途中温泉があると、将校たちはみな浴を許された。帝は望春宮に行幸して彼を待ち、彼は捕虜八千人を献じた。詔により、永穆公主の庭園を賜わり、燕遊地とした。新第に移ったとき、彼は墨勅を請い、宰相をよんで宴会したいと願い出た。丁度そのとき、帝は撃毬の会を催されていたが、会を止め、宰相に命じてみな行かせた。帝は苑中で狩をされ、新しい獲物をとられると、必ず馬を馳せて安禄山に下賜された。 天宝十載(751)、彼は河東節度使を兼任したいと願い出、ついに雲中太守・河東節度使を拝した。かくして彼は三道(平盧・范陽・河東)節度使を兼ね、ますます矯慢になった。男子が全部で十一人いたが、帝は安慶宗に太僕卿、安慶緒に鴻臚卿、安慶長に秘書監を授けられた。 この年八月、河東の兵を率いて契丹を討った。奚に告げ、「彼が盟約に背いたから、討とうとしているのである。汝らは我が軍に協力をしないか」と言った。奚は、歩兵二千を出して先導となった。土護真河(奚王の牙帳)に至ったとき、安禄山は、「道は遠いが、疾駆して敵陣に至り、その不備を襲えば、勝利は確実であろう」と計り、人々に網を持たせ、契丹をことごとく生りにしようとした。昼夜兼行して 行くこと三百里(百七十キロ)。天門嶺まで来たとき、大雨に遭い、弓が弛み、矢羽が脱け、使うことができなくなってしまった。それでも安禄山は、はげしく督戦した。大将何思徳が、「兵士は非常に疲れているから、少し休むべきだ。そして使者を遣わし、有利な降服条件を並べたて、敵を動じさせれば、敵は必ず降ってくるでしょう」と言うと、安禄山は非常に怒り、彼を斬って軍に命令しようとした。それで何思徳はやむなく先陣をかって出た。彼は顔立ちが安禄山に似ていたので、戦闘になると、敵は矛をそろえ、矢を集中してこれを迎え撃ち、擒にし、口々に「安禄山をつかまえたぞ」と言った。それを聞いた奚は、急に寝返り、安禄山を鋏み討ちにした。護衛兵はことごとく逃れ、安禄山は流れ矢にあたった。奚の少年兵数十をひきつれ、衆兵を棄てて山に逃げ、馬から落ちた。安慶緒と孫孝哲がかかえおこし、夜陰に乗じて平盧に走った。部将の史定方が兵を指揮して大奮闘したので、敵はようやく囲みを解いて去った。 安禄山はうらみをはらすため、兵を総動員し、二十万と号し契丹を討とうとした。帝はこれを聞き、朔方節度使の阿布思に詔し、軍を率いて安禄山と会させようとした。この阿布思という者は、九姓鉄勒の首領で、 堂々たる容貌をもち、策略に富んでいた。開元年間初頭、東突厥の黙啜可汗のために苦しめられ、唐に内属した。帝は彼を寵愛されたが、安禄山は常に彼の才を忌み、敵意を抱いており、隙があればこれを襲奪しようとしていた。だからこのとき、わざわざ上奏し、阿布思に援助させるように求めたのである。阿布思はそれを懼れ、離反して漠北に入ってしまった。安禄山は進軍せず、兵を分けてとどまった。ところが阿布思は、回紇に侵寇され、彼は葛邏禄(カルルク)に奔った。そこで安禄山は、九姓鉄部に対し、厚遇する条件で部民を募ったので、彼らの多くは安禄山に降った。一方葛邏禄は、唐の意向を懼れ、逃げてきた阿布思を捕え、北庭都護府に送り、これを長安に献じた。かくして安禄山は、阿布思の軍を手に入れ、天下無双となりいよいよ専横となった。 皇太子と宰相は、しばしば安禄山が謀反をしそうだと上言した。しかし帝はそれを信じなかった。 このとき楊国忠は、安禄山との溝が深くなっていたのを心配し、「安禄山を朝廷に呼び帰し、 彼の様子をしらべよう」と建言した。安禄山はその謀を察知し、先手を採って急遽入謁したので、帝はついに安心された。それから以後、帝は楊国忠の言うことを、全くとりあげられなくなってしまった。 天宝十三載(754)、入朝し、驪山山麓の華清宮で帝に拝謁し、「臣は蕃人で文字も解せぬのに、陛下は破格のおひき立てをしてくださいました。ですから楊国忠は、臣を殺し、自分の思いのままにしようとするに違いありません」と言って泣いた。帝は慰め安心させ、尚書左僕射にし、実封千戸を賜わり、それに相応した奴婢・第宅等を下された。また帝に請うて閑厩隴右群等使となり、吉温を推薦して副使とし、更に部下のために恩賞を求め、功によって将軍となったもの五百人、中郎将となったもの二千人に及んだ。三月、詔により范陽に帰ったが、そのとき帝は、望春亭に御して送別され、御衣を脱いで賜わった。彼は驚懼感激したが、また引きとめられるのではないかと不安になり、疾駆して去った。淇門に至り、軽舟に乗り、流れに従って黄河を下った。大勢の水夫が、綱を持ち、舟につないでこれを引き、一日三百里(百七十キロ)下った。彼はすでに閑牧を総監していたので、良馬を選んで范陽に入れ、また張文儼の馬を奪い、軍馬を蓄えた。反状はすでに明白となったが、帝だけは信じられず、告げる者があると、これを縛って安禄山に与えた。 翌年、楊国忠が計略を立て、安禄山に宰相職たる同中書門下平章事を授けると言って、彼を長安に召し帰らせようとした。その任官の詔書がまだ下りないうち、帝は宦官輔璆琳に賜わりものの大柑(みかん)を持たせ、彼の様子を探らせにやった。安禄山は、これに多額の賄賂を贈った。それで輔璆琳が「安禄山には二心がありません」と報告したため、帝は遂に安禄山を召されるのをやめられた。輔璆琳の収賄は、しばらくして発覚し、帝は別な罪状に託してこれを殺した。ここに至り、帝ははじめて安禄山を疑われた。 しかし安禄山の方でも、朝廷が自分を暗殺しようとしているのではないかと疑い懼れ、使者が来るたびに、病気と称して出なかった。そして、護衛を厳重にしたのち、はじめてこれに謁見した。黜陟使の裴士淹が郡県を視察して范陽に行ったとき、二十日間も会おうとせず、武士が左右からはさむ様にして面会し、臣下の礼をとらなかった。裴士淹は、詔を伝えて帰ったが、後難を懼れ、敢えてそのことを言わなかった。 帝は、安禄山の息子の安慶宗に宗室の娘を妻わせ、御自分で詔を書き、安禄山に婚礼に参加するようさそわれたが、病気が重いからと言って上京しなかった。彼は、馬三千匹を献上すると称し、手綱をひく者六千人、車三百両、各車ごとに兵三人を配し、それによって京師を襲おうとした。 河南尹の達奚珣が、「馬をつれて来る兵士たちを、入れてはいけません」と、はげしく反対したので、帝は詔してそれに従った。帝は、安禄山に書を賜い、「卿のために一湯を造ったから、十月に上京して来るように。朕は卿を華清宮に待とう」と伝えた。使者が至っても、安禄山は椅子によりかかったまま、「天子様は安穏でいらせられますか」と言っただけで、使者を別館に送り、閉じ込めてしまった。数日後、そこから脱出して帰った使者は、「すんでのことで殺されるところでした」と報告した。 冬十一月、范陽で起兵した。「密詔を奉じて奸臣楊国忠を討つ」と語り、高札を県にかかげた。高尚と厳荘を主とし、孫孝哲・高邈・張通儒・張通晤を腹心とし、総勢十五万で、二十万と号し、一日六十里(約三十四キロ)進軍した。それより三日前、安禄山は大将たちを集め、酒を出し、絵図を見させた。それには范陽から洛陽に至る間の山川の険易や攻守のやり方が細かく書いてあった。人々に金帛とともにその絵図を与え、会合の期日を打ち合わせ、「違背する者は斬る」と命じた。かくしてここに至り、はじめの打ち合わせの如くなったわけである。 安禄山は、旗本百余騎を従え、城北に行き、祖先の墓を祭って出発した。賈循に留守をまかせ、呂知誨に平盧を守らせ、 高秀巌に大同を守らせた。燕(北京地方)の老人が、馬を叩いて諌めたが、安禄山は厳荘に命じてなだめさせ、「私は国家の危機を憂いて起兵したのであり、私心のためではない」と言い、礼を厚くして帰らせた。そこで命令を下し、「軍を阻げる者は、父母兄弟妻子を死罪にする」とふれた。 七日目に、安禄山謀反の報せが玄宗の耳に達した。帝は丁度そのとき華清宮におられたが、内外の者たちは、その報せに接し、色を失った。帝の御車が長安に帰り、安慶宗を斬り、妻の康氏と慶宗の妻の栄義郡主に死を賜った。詔を下し、安禄山をきびしく非難するとともに、帰順するようよびかけた。しかし彼の答書は傲慢で、とても我慢できるものではなかった。彼は高邈と臧均を遣わし、騎射の兵二十人を率い、馬を馳せて太原に入らせ、太原尹の楊光翽を捕えて、これを殺し、張献誠に定州を守らせた。 安禄山は、反逆を計画してから十余年間、降服してきた蕃夷にはすべて恩義をもって接し、服従しない者があれば兵を用いて脅し従わせた。捕虜の縛を解き、湯浴みや衣服を支給し、何人もの通訳を使って自分の意のあるところを知らせた。だから蕃夷の心のうちをことごとく知ることができた。彼自身蕃夷の言葉に通じていたから、みずから親しく彼らを慰撫した。このようにして釈放した捕虜を、みな戦士にしたてた。それ故、部下の者は彼のためなら死をいとわず、戦うところ、敵する者がなかった。彼の部下のうち、高邈が一番戦略にとんでいた。彼は、安禄山に薦め、李光弼を味方にいれ、左司馬にしようとしたが、聞き入れられなかった。彼はこのときすでに謀反に加担したことを後悔し、暗い顔をしていたが、しばらくして、「史思明を左司馬にしたらよろしかろう」と進言した。反乱に先立ち、高邈は、「捕虜を進献すると言って、直ちに洛陽を取るべきだ。楊光翽は殺すべきでない。天下広しといえども、彼ほどの知者はいないからだ」と計略を薦めたが、彼は従わなかった。また何千年が賊にすすめ、「高秀巌に命じ、兵三万をもって振武に出、朔方軍を降し、諸蕃をさそい、塩州・夏州・鄜州・坊州をとらせ、李帰仁・張通儒をして兵二万をもって雲中に通って太原を取り、弩兵一万五千を集めて蒲関に入り、関中を動揺させ、安禄山みずからは、兵五万を率いて河陽から黄河を渡り、洛陽を取り、蔡希徳・賈循に命じ、兵二万をもって山東海岸に出、淄州・青州を収め、江淮地方を揺りうごかさせば、天下の形勢は、再びくつがえすことができなくなるであろう」と献策した。しかし、安禄山はその策を用いなかった。 反乱が暴発的に起こったため、州県では、官の甲冑や剣仗が、みなぼろぼろに腐り、錆びたり折れたりしていて用をなさず、やむなく棒をもって戦ったが、とうていかなうものではなかった。役人は、みな城を棄てて隠れ、あるいは自殺し、そうでない者は捕虜となり、そんなことが毎日となく続いた。禁衛の兵は、みな市井の徒で、甲冑をうけても、弓の腰衣、剣の紐を解くことすらできなかった。そこで左蔵庫の絹布を出して兵士を大募集した。また封常清を范場・平盧節度使に、郭子儀を朔方節度使・関内支度副大使に、右羽林大将軍王承業を太原尹に、衛尉の張介然を汴州刺史に、金吾将軍の程千里を潞州長史にし、栄王を元帥とし、高仙芝を副使とし、駅を馳せて賊を討たせた。 安禄山は鉅鹿に至ったとき、急に止まり、「鹿は私の名だ」と驚いて言い、そこ去って沙河に行った。ある者が、「これは漢の高祖が、柏人は人に迫るに通じると言って、柏人に宿らなかったのと同じです」と、賊に諂った。賊は黄河に草を投げ、木を倒し、長縄で舟や筏をつなぎ、流氷を結ばせた。一夜にして河が凍り、河を渡った。霊昌をおとし、また三日で陳留・滎陽をくだし、甖子谷に達した。将軍の荔非守瑜がこれを迎え討ち、数百人を殺した。流れ矢が安禄山の輿にあたり、そのため賊は敢えて進まず、改めて谷の南に出た。荔非守瑜は、矢尽き、河で死んだ。安禄山はまた封常清を破り、東都洛陽を占領した。封常清は陝州に逃げ、留守の李憕・御史中丞盧奕は殺され、河南尹の達奚珣は賊に臣従した。 このとき、高仙芝は陝州に駐屯していたが、封常清が破れたのを聞き、甲冑を棄てて潼関にたてこもった。太守の竇廷芝は河東に逃げた。しかし常山太守の顔杲卿は、賊将の李欽湊を殺し、高邈と何千年を捕虜にした。ここに至り、趙郡・鉅鹿・広平・清河・河間・景城の六郡は、みな国家のために守備した。だから、安禄山が支配したところは、わずかに盧竜(范陽)・盧龍・密雲・漁陽・汲・鄴・陳留・滎陽・陝郡・臨汝だけであった。 賊は東都に入ると、その宮殿の尊厳雄大なのを見て、帝位を僭称しようとする野心を、ますます強くした。だから久しく西進しなかった。そのため政府軍は、やや諸道の兵を集めることができた。賊将の尹子奇は、陳留に屯し、東方を経略しようとした。しかし丁度そのころ、済南太守の李随、単父尉の賈賁・濮陽の人の尚衡・東平太守の嗣呉王李祗・真源令の張巡が相ついで起兵し、十日にして衆数万を集めたので、尹子奇は襄邑まで来て引きあげた。 翌年(756)正月、雄武皇帝と僭称し、国号を燕とし、聖武と建元した。子の安慶緒を晋王とし、安慶和を鄭王とし、達奚珣を左相とし、張通儒を右相とし、厳荘を御史大夫とし、百官を拝署した。 また常山を取り、顔杲卿を殺し、安思義を真定に駐屯させた。しかし李光弼が土門に出て常山を救援したので、安思義は降服した。李光弼は博陵も降した。そのため賊は、藁城と九門二県を守るだけとなった。史思明・李立節・蔡希徳は、饒陽を攻めたが勝てず、軍を引いて石邑を攻めた。しかし張奉璋が固守し、朔方節度使郭子儀が雲中から兵を引いて李光弼と合し、史思明を九門で破った。李立節はここで戦死し、蔡希徳は鉅鹿に奔り、史思明は趙郡に行き、鼓城から博陵を襲い、またこれに拠った。そこで李光弼は趙郡を抜き、引き返して博陵を囲み、恒陽に布陣した。蔡希徳は援軍を求め、それに応じて賊は二万騎をもって河を渡り、博陵に入り、牛廷玠が媯州・檀州等の兵一万人を動して来援した。それによって史思明軍は強化されたが、李光弼と戦い、嘉山で破れた。李光弼は十三郡を奪回し、河南の諸郡もみな兵を厳にして守り、潼関は固く閉ざされた。 安禄山は懼れをなし、范陽に帰ろうと言いだした。そして厳荘と高尚を呼び出し、「私が挙兵しようとしたとき、君達は絶対に大丈夫だと言ったではないか。しかるに今や我を囲む四方の敵は、日々ますます盛んになり、潼関以西は牛の歩みのように遅々として軍を進めることができないでいる。君達はどんな作戦があって、私に会わす顔があるのか」と責め、高尚らを追い出してしまった。それから数日後、田乾真が潼関攻撃から帰ってきて、安禄山をはげまし、「昔からいやしくも王朝を興す戦いは、勝ったり負けたりしたのち、ようやくにして大業を成すもので、一挙に天下を取った者はおりません。いま四方の敵が多いと言っても、烏合の衆で、我が軍の敵ではありません。不幸にして事が成就しないようなことがあっても、我々は数万の兵を擁し、天下横行して十年の計をなすことができます。しかも、高尚と厳荘は、陛下が帝位につかれたのを援けた元勲です。それなのに陛下は、何で急に二人を遠ざけ、みずから禍いの種をまこうとされるのですか」といさめた。それを聞いた安禄山は、大層喜び、田乾真を幼名で呼んで、「阿浩よ。君でなければ誰が私を悟してくれたであろうか。それなら一体どうしたらよいのか」と言った。田乾真は「彼らを召され、慰安なさればよいでしょう」と答えた。安禄山は、高尚らを呼び、一緒に酒を飲んだ。安禄山はみずから歌い、君臣は初めのように睦まじくなった。 そこで直ちに孫孝哲・安神威を遣わし、西進して長安を攻めさせた。たまたま副元帥の高仙芝らが死に、哥舒翰が潼関を守っていたが、崔乾祐がこれを破り、捕虜にした。しかし賊は、天子がよもや急遽都を去るとは思わず、兵を潼関にとどめ、十日ののち、はじめて西に向った。そのとき、天子は既に扶風に至っていた。かくして汧水、隴山以東は、みな賊の手に没した。安禄山は、張通儒に長安を守らせ、田乾真を京兆尹とし、安守忠を宮城内に駐屯させた。 安禄山が長安につくまえ、士大夫たちはみな山谷に逃げ、東西二百里(約十一キロ)の間、避難者の往来がたえず、女官たちはちりぢりに匿れ、奔りながら泣いた。将軍大臣の第宅では、宝物を道に棄て、その数たるや、計りきれない程であった。不逞の輩が争ってこれを取り、数日たってもなお尽きなかった。彼らは、政府の倉や天子の倉や役所の倉を略奪し、残ったものに火をつけて焼いた。長安についた安禄山は、大いに怒り、三日に渡って探しまわり、民間の財物をことごとく奪った。 府県は根こそぎに税物を徴発し、そのため人々はいよいよ騒いだ。安禄山は、息子の安慶宗が殺されたのを怨み、帝の親族の霍国長公主以下諸王妃妾の子孫、姻戚ら百余人を殺し、安慶宗の霊を祭った。また群臣で天子に従って西行した者は、その宗族を誅滅した。およそ夷というものは、生来、欲するものを得ると、残虐をほしいままにするもので、そのため人々はますます離反した。安禄山は、部下を統禦するのに、恩情がなく、腹心、故知も、仇敵の如くあつかった。配下の将軍が作戦の決定を求めてきても、直接には会わず、みな厳荘を通して裁定を下した。そのようなやり方であったので、彼の支配下の郡県では、こぞって守将を殺し、官軍を迎えた。かくして、十数度も取ったり取られたりしたため、城邑は廃墟と化してしまった。 粛宗が霊武で即位して軍を治められると、天下の人々は、首を長くして長安が奪回されるのを待ち望んだ。しかし都の人々は、「太子が西方から来られた」と聞くと、再び戦闘になるのを懼れ、一斉に東走した。そのため、長安市内は空になってしまった。一方、畿内の豪傑で賊の官吏を殺し、官軍に附帰してくる者が毎日続いた。賊は、これらを斬ってこらしめたが、止めることができなかった。また賊将たちは、慓敢勇猛であるが、遠謀がなく、日々酒に酔い、女性や財物に浮かれていた。だから、その隙に帝は四川に入ることができ、ついに追跡されることがなかった。 側近の李猪児なる者は、もとは捕虜として捕えられてきた小姓であった。幼いときから安禄山に仕え、甚だ謹ましかった。安禄山はこれを宦官とし、ますます信用した。安禄山は腹が大きく、膝まで垂れさがっており、衣裳をかえるときは、いつも左右の者がこれを持ちあげ、猪児が帯をむすんだ。安禄山が華清宮に浴を賜わったときも、お伴を許された。 安禄山は年をとるとますます肥え太り、腋の下や内股に、いつもおできができていた。反乱を起こしてから、心の不安をおさえきれず、わけもなく怒ったり、懼れたりした。しかも盲目になってしまい、また急に悪性のはれものができて、非常にイライラしていた。左右給侍の者は、罪もないのに殺され、あるいは鞭うたれ、しかりはずかしめられた。李猪児が最も多かった。厳荘のような腹心でも、時々鞭うたれ、はずかしめられた。だから二人は、非常に安禄山を怨んでいた。安慶緒は、幼少から射が巧みで、成年に達する以前に鴻臚卿を拝し、周囲から嘱望されていた。ところが、安禄山が帝位を僭称すると、段夫人を寵愛し、その生んだ安慶恩を愛して皇太子にしようとした。安慶緒は、自分がなれなくなるのではないかと疑い、厳荘もまた難問題が起これば、自分が不利になるのを懼れていた。そこで厳荘は、ひそかに安慶緒にささやき、「あなたは「大義、親(しん)を滅す」という言葉をお聞きになったことがありませんか。昔から、まことに止むを得ずしてなすことがあります」と言った。安慶は、暗にこれを承知し、「はい、はい」と答えた。また李猪児に語り、「おまえは、お上に仕えて以来、受けた罰を数えることができるか。大事を決行しなければ、殺される日も間近いであろう」と言った。かくして三人は、陰謀を定めた。 至徳二載(757)正月元日、安禄山は群臣を朝見しようとしたが、できものが悪化したのでとりやめた。その夜、厳荘と安慶緒が、兵を率いて門に待ち、李猪児が帳下に入り、大刀をもって安禄山の腹に切りつけた。安禄山は盲目になっていたので、佩刀を探したがわからず、帷幄の柱を振るい、「家中の者の裏切りだな」と呼んだ。しかし急に腸がつぶれ、床の上にて即死した。ときに年五十余。死体を毛布で包み、床の下に埋めた。そして病状が非常に悪化したといいふらし、偽の詔物を作り、安慶緒を立てて皇太子とした。ついで、安禄山が慶緒に位を譲ったといつわり、安禄山に太上皇の尊号をたてまつった。 すでに安慶緒が偽帝位を継ぐと、載初元年と改元し、そこでほしいままに飲酒を楽しみ、政務を厳荘に委ねてこれ兄として敬い、張通儒・安守忠らを長安に駐屯させ、史思明に范陽を領有させ、恒陽軍を鎮めて、牛廷玠を安陽に駐屯させ、張忠志に井陘を守らせ、それぞれ兵士を募集させた。 ここに広平王(後の代宗)は軍を率いて東に討伐し、李嗣業を前軍の将とし、郭子儀を中軍の将とし、王思礼を後軍の将とし、回紇の葉護も兵を率いて従った。張通儒らは兵十万を集め長安中に陣どったが、賊はすべて奚であったから、もとより回紇を恐れており、回紇が合流すると、驚きかつ騒いだ。広平王は精兵を分けて李嗣業とともに合せてこれを攻撃し、安守忠らは大敗し、東に撤退し、張通儒は妻子を棄てて陝郡に逃げた。王師は長安に入り、王思礼は宮殿を清めた。僕固懐恩は回紇・南蛮・大食の兵を先鋒とし、広平王は全軍で賊を追撃したが、厳荘は自ら兵十万を率いて張通儒と合流し、鉦鼓は百里あまりも響かせた。尹子奇はすでに張巡を殺し、全軍十万でやってきて、厳荘と合流して陝西に駐屯し、曲沃に至った。これより以前、回紇は南山の傍らに伏兵し、軍を嶺北に駐屯させて待機した。厳荘は大いに新店で戦い、騎兵で戦いを挑んできて、六たび戦ったがたちまち敗北した。王師は追撃して賊の堡塁に入ったが、賊は両翼よりこれを攻撃し、追撃してきた兵は壊滅し、王師は混乱し、しばらく指揮が困難であった。李嗣業は馳せ参じ、ことさらに死闘し、回紇が南山より回り込んでその背後を攻撃し、賊は驚き、遂に混乱し、王師は再び勢いを取り戻し、合流して攻撃し、殺害すること数え切れず、賊は大敗し、五十里あまりを追撃し、死体は累々と穴や溝に満ち溢れ、鎧や剣は散乱し、陝より洛陽に至るまでその有様であった。厳荘は飛んで逃げ帰り、慶緒・安守忠・張通儒らは残軍をかすめて鄴郡に敗走した。 広平王が洛陽に入ると、大いに兵を天津橋に列べ、偽侍中の陳希烈ら三百人は素服で叩頭して罪を待ったが、広平王は労って、「公らは汚らわしい奴らに脅やかされただけで、叛いたわけではない。天子は詔があって罪を赦されるだろうから、皆はまた官に戻られよ」と言い、衆は大いに喜んだ。ここに陳留は賊将尹子奇を殺して降伏した。厳荘の妻の薛氏は獲嘉に家があり、 永王の娘を騙して、軍営にいたり、広平王に謁見すると、「厳荘は降伏したいと思っています。願わくば信じるに値する証をください」と述べたから、広平王と郭子儀は謀って、厳荘がもし来たならば余党を諭させて降伏させようと、そこで厳荘に約束して鉄券を賜った。厳荘はそこで降伏し、駱駝に乗って京師に到り、粛宗に引見し、死を赦され、司農卿を授けられた。阿史那承慶はその軍三万を率いて恒州・趙州に逃げ、または范陽に逃げた。慶緒に従う者は、傷病兵がわずかに千人あまりであった。 その時、蔡希徳が上党より、田承嗣が潁川より、武令珣が南陽より、それぞれ軍を引き連れて来て、邢州・衛州・洺州・魏州より兵を募ると少しづつ集まり、軍勢六万となり、賊はまた復活した。相州を成安府とし、太守を尹とし、天和と改元し、高尚・平洌を宰相とし、崔乾祐・孫孝哲・牛廷玠を将とし、阿史那承慶を献城郡王とし、安守忠を左威衛大将軍、阿史那従礼を左羽林大将軍とした。しかし部党はますます離反していき、そこで能元晧を偽淄青節度使とし、高秀巌を河東節度使として従わせた。徳州刺史の王暕・貝州刺史の宇文寛は皆賊に叛いて唐に帰順し、河北の諸軍はそれぞれ城を取り巻いて守らせたが、賊は蔡希徳・安雄俊・安太清らに兵で攻撃させて陥落させ、市で殺戮してその肉を膾にした。 慶緒は人が己に二心あるのを恐れて、壇を設けて誓約文を加え、群臣と血盟した。しかし阿史那承慶ら十人あまりに密書を送り、詔して阿史那承慶を太保・定襄郡王とし、安守忠を左羽林軍大将軍・帰徳郡王とし、阿史那従礼を太傅・順義郡王とし、蔡希徳を徳州刺史とし、李廷訓を邢州刺史とし、苻敬超を洺州刺史とし、楊宗を太子左諭徳とし、任瑗を明州刺史とし、独孤允を陳州刺史とし、楊日休を洋州刺史とし、薛栄光を岐陽令とした。将兵らはしばしば国のために賊の間諜となった。しかし慶緒は宮室・庭園・池沼を治めるだけで、楼船を浮かべて水上で遊び、長夜痛飲した。張通儒らは権力を争って一つにまとまっていなかったから、だいたい建白があっても、衆は共に欺いてこれを阻んだ。蔡希徳は最も謀があり、剛直かつ狷介で、慶緒を謀殺して内応しようとしたが、張通儒は他の理由によってこれを惨殺したから、麾下数千人は皆逃れ去った。蔡希徳はもとより兵士の心をつかんでいたから、全軍が恨み歎いた。慶緒は崔乾祐を天下兵馬使とし、権力は内外に震い、傲慢で恩を与えることが少なく、兵士は靡かなかった。 乾元元年(758)秋九月、帝は郭子儀に詔して九節度使の兵およそ二十万を率いて慶緒を討伐させ、衛州を攻め、遂に黄河を渡り、軍を背水の陣をしいて待ち受けた。慶緒は安太清を派遣して防戦させ、衛州がすでに包囲されたことを聞くと、そこで鼓を打って南に向け、三軍を編成して、崔乾祐を上軍の将とし、安雄俊・王福徳に補佐させた。田承嗣を下軍の将とし、栄敬を補佐とした。慶緒は自ら中軍を率い、孫孝哲・薛嵩を補佐とした。戦いが始まると、唐軍は偽って退却し、慶緒はこれを追撃したが、伏兵に遭遇して壊滅し、慶緒は逃走し、その弟の安慶和を捕虜とし、京師で斬刑に処した。郭子儀は軍を率いて賊を蹂躙し、愁思崗で戦い、賊はまた敗北し、これより精兵は消耗してしまった。鄴が包囲されると自ら守りを固め、薛嵩を派遣して財物によって史思明に救援を求めた。史思明は李帰仁と将兵一万三千を派遣して滏陽を守らせようとしたが、出発する前に、王師にすでに包囲網を固められ、城を築いて三重の堀を掘削し、安陽の水を決壊させて城に流し込んだ。城中は筏が居場所となってしまい、兵糧はつき、口にできる物は食べ、米は一斗あたり銭七万あまり、鼠一匹で銭数千にもなり、松を砕いて馬に飼料として与え、垣根を破壊して藁を取り、糞を洗って藁を取り出した。城中は降伏しようにも出来なかった。賊はさらに安太清を崔乾祐の代将とした。 ここに史思明が軍十三万を有しており、その軍を三分して鄴に急行した。翌年三月、安陽に駐屯した。慶緒は急行し、そこで太清を派遣して皇帝の璽綬を奉って史思明に譲り、史思明は書で軍中に示したから、皆万歳を叫び、そこで史思明は慶緒と盟約して兄弟となり、その書を返却したから、慶緒は大いに喜んだ。王師は不利となり、九節度使は逃げ帰り、郭子儀は河陽の橋を断って、穀水を守った。史思明は進撃して鄴の南に駐屯した。慶緒は官軍の遺棄した兵糧を収容すると十万石あまりにもなった。孫孝哲らを呼び寄せて史思明を排除する謀略を行ったが、諸将は皆、「今日どうしてまた史王(史思明)に背くことができましょうか?」と言い、張通儒・高尚・平洌は皆、自ら行って史思明に謝罪することを願い、慶緒は許諾した。史思明は謁見すると、涙を流し、厚礼して帰された。三日、慶緒が出かける前に、史思明は慶緒が血をすすって盟約を結ぶことを願ったので、やむをえず五百騎で史思明の軍に詣でた。それより以前、史思明は軍中に甲冑を着させて待機させていた。慶緒は到着すると、再拝して地に伏して謝して、「臣は重荷を担うのにたえられず、両都(長安・洛陽)を棄て、重囲に陥り、不意に大王は太上皇(安禄山)との縁故のために、にわかに軍を遠くから遣わされてお助けくださいました。臣の罪はただ王がおはかりください」と言ったが、史思明は怒って、「兵の有利不利はどうもいったことではない。だが人の子でありながら、父を殺して即位するのは、大逆ではないのか?私はだから太上皇のために賊を討とう」と言い、左右を顧みて引き出させて慶緒を斬った。慶緒は何度か周万志を見たが、周万志は進み出て、「安慶緒を君主とした者には死を賜うべきです」と言い、そこで四人の弟を絞殺した。また高尚・孫孝哲・崔乾祐を誅殺し、とくに死体を晒した。史思明は安禄山を改葬して王の礼を以て葬り、慶緒に燕剌王と偽謚した。安禄山父子が帝位を僭称してから三年で滅亡した。 それより以前、安禄山は東京(洛陽)を陥落させると、張万頃を河南尹としたが、士人や宗室は頼んで、生き残った者が多く、粛宗はその仁を嘉しとし、濮陽太守を拝命した。帝は賊が国難を招いたことから、その姓を聞くことを嫌がり、京師の坊里で「安」字があるものは、すべて変えてしまった。 高尚は、雍奴の人である。母は老い、乞食となって生計を立て、尚は河朔の客となって帰るのをよしとしなかった。令狐潮と親しく、その婢と通じて一女を産ませ、ついに定住した。しかし学にあつく文辞をよくし、かつて嘆息して汝南の周銑に、「私は賊となって死んだとしても、草の根を食べてまで生きることはできない」と言った。李斉物が新平郡の太守となると、朝廷に仕えることを勧められ、銭三万を餞に贈られ、これを仲立ちに高力士にまみえると、高力士は才能があるとして門下に加え、家の事をすべて相談し、近臣にその才能があるのをほのめかして、左領軍倉曹参軍に抜擢された。 高力士が尚のことを安禄山に語り、上表して平盧節度使の書記となり、そのため安禄山の寝室に出入りした。安禄山は寝てばかりいて、尚はかつて筆を持って侍り、夜通し眠らなかったから、これに従って親愛の情を得た。ついに厳荘と図讖を語って安禄山を謀反に導いた。東都(洛陽)が陥落すると、偽の中書侍郎に任命された。大抵、安禄山が赦令を下したものは、すべて尚が行ったものである。厳荘が降伏してからは、尚は一人で政事を司り、偽の侍中に任じられた。 孫孝哲は、契丹部の人である。母は色香があり、安禄山と密通し、そのため孝哲も慣れ親しかった。身長は七尺(約207センチ)、強健で知謀があった。安禄山は側門で帝のお召しを待ったが、衣や帯が破れてしまうと、どうすることもできなかったが、孝哲は針や糸を用いて次第にほつれを結び直したから、安禄山は大いに喜んだ。最も安禄山に行動に先んじてその気持ちを読み取ることができた。安禄山の身体は大きかったから、孝哲でなければ衣を縫うことができなかった。天宝年間(742-756)末、官職は大将軍となった。 賊(安禄山)が帝位を僭称すると、偽の殿中監・閑厩使に任命され、爵位は王となり、厳荘と寵を争って不和となった。革の衣服や馬は派手で奢侈となり、食は珍味ばかりを好んだ。賊は張通儒らを監として長安を守らせ、人々は皆注目した。妃・主・宗室の子百人あまりを殺し、楊国忠・高力士の郎党および賊(安禄山)に逆らう者を殺すこと数え切れないほどで、首をえぐり四肢を裂き、街道に散乱した。安禄山が死ぬと、厳荘は閑厩使の職を剥奪して鄧季陽に与えた。安慶緒が逃走すると、厳荘は恐れて計略し、そこで投降した。 胡の商人の康謙なる者がいて、天宝年間(742-756)に安南都護となり、楊国忠に付属して将軍となった。上元年間(760-761)、家財を出して山南の駅の米庫の助けとしたから、粛宗はその助けを喜び、これを許し、鴻臚卿に累進した。しかし婿が賊中にいたから、その謀反を告げる者があり、連座して誅殺された。事件は厳荘に連座し、獄に繋がれ、難江尉に左遷された。京兆尹の劉晏が官吏を動かして厳荘の家を捜索したから、厳荘は恨んだ。にわかに詔があって罪が許されると、厳荘は入朝して代宗に謁見し、劉晏が常に功績を誇ってお上を恨み、禁中の事を外部に漏らしていると誣告したから、劉晏は遂に左遷されたという。 史思明は、寧夷州の突厥の種族で、初名を窣于といい、玄宗にその名を賜った。姿は極度に痩せ、いかり肩でせむし、目はつりあがり横鼻、髭や髪は少なく、気が強くて狡猾であった。安禄山と郷里が一緒で、安禄山より一日前に生まれ、そのため成長してからも互いに仲良かった。若くして特進の烏知義に仕え、軽騎兵で敵を探り、多く捕虜や首級をあげた。六蕃もの言葉に通じ、また互市郎となった。しばらくして官銭を借財し、返済することができず、まさに奚に逃走しようとし、まだ奚に到着する前に巡邏の騎兵に捕らえられ、殺されようとしている時に欺いて、「私は使人である。もし天子の使者を殺せば、その国に不幸があるだろう。私を王に見えさせるにこしたことはない。王が私を生かせば、功績は自然とお前のものになるだろう」といい、巡邏はそうだと思い、護送して王の所に至った。王に拝礼せずに、「天子の使者が小国の君主にまみえるのには拝礼しない。これは礼である」と言う、王は怒り、しかし本当の使者であるかと疑い、ついに館を授け、接待するのに礼をもってした。まさに帰還しようとすると、百人をして入朝に従わせた。奚に部将の瑣高なる者があり、名は国中に知られていた。思明は捕らえて罪を贖いたいと思い、王に「私に従う者は多いが、ともに天子に謁見するのに足る者はいない。思うに瑣高は優れた人材であるから、ともに中国に来るべきであろう」とを誘うと、王は喜び、瑣高に命じて帳下三百倶を率いさせた。平盧に来ると、衛戍隊長に、「奚の兵が数百、表向きは入朝と言っているが、本当の実態は盗賊だ。備えられよ」と言い、衛戍隊長は軍を潜ませて迎えて宴会し、その衆を殺し、瑣高を捕らえて献じた。幽州節度使の張守珪はその功績を特に優れたものとし、上表して折衝に任じ、安禄山とともに捉生となった。 天宝年間(742-756)初頭、功績を重ねて将軍・知平盧軍事となった。入朝して上奏すると、帝は席とお言葉を賜ったが、思明を特に優れた者と思い、年を聞くと、「四十です」と答えたから、その背中を撫でて、「お前が貴くなるのは晩年であろう。よく勉めなさい」と言い、大将軍・北平太守に任じた。安禄山に従い契丹を攻撃したが、安禄山は敗れ、単騎で師州に逃げ、その配下の左賢の哥解と魚承仙を殺して自ら釈明した。思明は山中に逃げ、十日ほどして散り散りとなった兵を褒めて七百人となり、追って安禄山と平盧で見え、安禄山は喜んで、手を握って、「計略では死んでいた。今ここにいるのだから、私はなんの心配することがあろうか!」と言ったが、思明は親密に語って、「私は進退の状況を聞いてましたが、早めに来ていたら、哥解と一緒にあの世行きでしたね」と言った。契丹は師州を奪取し、守捉使の劉客奴は逃亡したが、安禄山は思明に攻撃させて敗走させ、上表して平盧兵馬使に任じた。 思明は若い時は卑賎で、郷里から移り住んだ。大豪族の辛氏に娘があり、婿を求めていて思明を狙い、その親に、「必ず私は思明に嫁ぎます」と告げ、宗属は許可しなかったが、娘の決意は固く思明のもとに行った。思明はまた自負して、「私に嫁が来れば、官は休まず、男子を多く産み、皆貴くなるんだ!」と言った。 安禄山が叛乱すると、思明をして河北を攻略・平定させ、たまたま賈循が死ぬと、思明を留めて范陽を守らせた。常山の顔杲卿らが檄文を伝えて賊を拒んだから、安禄山は向潤客らに交代し、思明を遣わして常山を攻撃させ、九日で顔杲卿を捕らえた。進撃して饒陽にせまったが、盧全誠は守って防ぎ、河間・景城・平原・楽安・清河・博平の六郡をしばらく募兵して自ら守った。河間の李奐が兵七千で饒陽に救援し、景城の李暐が兵八千で河間を助け、平原の顔真卿が兵六千で清河を助けたが、すべて思明のために敗北し、李暐の子の李杞は戦死し、饒陽はますます固く守った。その時李光弼が常山を回収したから、思明はにわかに饒陽の包囲を解き、迎撃すべく昼夜兼行で二百里を急行したが、持久戦となり勝敗は決しなかった。郭子儀が趙郡を奪取すると、兵を合流させて賊を攻撃した。数戦したがすべて大敗し、敗走して博陵に入った。李光弼は追撃して城に布陣し、何城かを陥落させた。たまたま潼関が壊滅したから、粛宗は朔方・河東の兵を召喚し、李光弼は引き還し、王俌に常山を守らせた。賊は李光弼を井陘に追撃したが、敗れて帰還した。平盧を攻撃したが、劉正臣は軽視して備えを怠っており、敗れて北平を保ったが、兵の財貨二千乗はすべて奪われてしまった。思明はその精兵を得て、非常に勢いが盛んとなり、謀って常山を攻撃した。王俌は降伏しようとしたから、諸将は王俌を殺し、使者を派遣して信都に到り、刺史の烏承恩を迎えて守将としようとしたが、許されなかった。思明は土門を攻め、城中では甲兵を伏兵して降伏を偽り、賊が城にやってくると、伏兵が攻撃し、賊は殲滅され、思明も戟で刺され、扶けられて免れた。再度攻撃して陥落させ、家屋を焼き払い、戟で刺した人とその種族を誅殺した。藁城を奪取すると、守将の白嘉祐は趙郡に逃げ、思明は趙郡を包囲すること五日で入城し、白嘉祐はさらに太原に逃げ、思明は再度常山を陥落させた。賊の別帥尹子奇は河間を包囲し、顔真卿は和琳に将兵一万人あまりを遣わして救援させた。この時北風が強く吹き、鼓が聞こえないほどで、兵士は進まなかった。賊はほしいままに攻撃し、大いに破り、和琳を捕らえ、軍を率いて城を攻め、李奐を捕虜とした。また景城を陥落させ、李暐は黄河に飛び込んで死んだ。楽安に降伏を勧め、楽安は降伏した。遂に平原を攻撃し、まだ到着する前に顔真卿は郡を放棄して逃れた。進んで清河を破り、太守の王懐忠を捕らえ、博平に入って、遂に信都を包囲した。それより以前、賊は烏承恩の母・妻および子を捕らえたから、そのため烏承恩は降伏して、兵は五万、騎兵三千になんなんとした。饒陽を攻撃し、李系は焼身自殺した。 思明の兵が向かう所は、その配下はほしいままに人を撃ち殺して略奪し、人の妻女を奪って姦淫し、そのため兵士は最も奮った。この当時、河北をあげてことごとく賊が侵入し、生きる人や財産は地を掃くように消え失せ、勇壮な者はかえって敗北をもたらし、老人や嬰児は殺し、戯れに人を殺した。安禄山は偽の范陽節度使に任じた。当初、麾下の騎兵はわずか二千で、同羅(トンラ)の歩兵の曳落河(同羅の徴発兵)三千を留め、すでに数勝をあげ、兵は最強で、狂心で江や漢に食らいつく心があった。精兵五万を尹子奇に与え、黄河を渡って北海を略奪して淮州・徐州を震撼させた。たまたま回紇が范陽を襲い、范陽は閉ざして出ず、尹子奇がそこで救援のため帰還するも、遂に勝てなかった。至徳二載(757)、蔡希徳・高秀巌とともに兵を合わせて十万で太原を攻撃した。この時、李光弼は部将の張奉璋に兵で故関を守らせたが、思明は攻めて陥落させ、張奉璋は楽平に逃走した。思明は攻め取って山東を掌握し、張奉璋は兵士を広陽に匿い、服を改め欺いて賊の使者となり、その後機会を捉えて攻め、数人を斬り、軍を率いて太原に帰還させた。李光弼は固守すること十ヶ月になり、陥落させることができなかった。安慶緒は位を継ぎ、史思明に安姓、名を栄国を賜い、媯川郡王に封じた。 賊が両京(長安・洛陽)を陥落させると、常に駱駝で禁府の珍宝を移送して范陽に積み、小山のようになっていた。思明が富強となり、怒りっぽく傲慢となり、これを自分の物にしたいと思った。そのうちに安慶緒は相州に敗走し、敗残兵三万は北に帰還したが、所属するところがなく、思明は数千人を撃ち殺して降伏させた。安慶緒は思明の二心があるのを知って、阿史那承慶・安守忠・李立節に思明のところに赴かせてこの事を議させ、かつ共にこれを謀った。判官の耿仁智は大義で賊を動かそうと思い、手隙のうちに、「公は高貴かつ賢者で、御麾下にはこの謀を行う者はいません。ですから一言いわせてください」と願い出ると、思明は、「私のためなら言ってみよ」と言い、答えて、「安禄山は強かったので、誰も敢えて心服してはいませんでした。大夫(史思明)はこれに仕えてましたが、もとより罪はありません。今の天子は聡明かつ勇気と知恵があり、古の帝王の少康・宣王の風格があります。公は誠心から使を遣わして誠心をつくせば、受け入れられないなんてことはありません。この災い転じて福となす好機です」と言い、思明は「よし」と言った。阿史那承慶らはそのことを知らず、五千騎でやって来た。思明は付き添って労ったが、その前に、「公らが来たから、兵士は喜びにあふれている。だが辺兵はもとより使者の威を憚って、不安な気持ちになっている。弓を弛めてから入ってくれ」と言ったから従った。思明が阿史那承慶らと飲むと、ただちに拘束し、その兵を収容し、財貨を給付して派遣し、安守忠・李立節を斬って全軍に布告した。 李光弼は思明が安慶緒との関係を絶ったと聞いて、人をして思明を招かせた。その前に烏承恩はすでに帰国していたから、帝は告誡のため派遣して説諭させ、思明は牙門の金如意に十三郡、兵八万を奉って朝廷に帰順し、ここに高秀巌も河東で自ら帰順した。詔して思明を帰義郡王・范陽長史・河北節度使とし、諸子を列卿とし、高秀巌を雲中太守とし、またその子らに官位を授けた。烏承恩と中人の李思敬を遣わして慰撫し、賊の残党の討伐を促した。思明はそこで張忠志を遣わして幽州を守らせ、薛㟧を任じて恒州刺史とし、趙州刺史の陸済を招いて降伏させ、史朝義に兵五千を授けて冀州を守らせ、令狐彰を博州刺史に任じ、滑州を守らせた。 しかし思明は、表向きは朝廷の命に従い、心内では本当は賊と通じており、さらに兵を募っていた。帝はこれを知って、思明が烏承恩の父烏知義に仕えていたから、嫌がることはないと願い、そこで烏承恩を抜擢して河北節度副大使に任じ、思明の意図をはからせた。烏承恩は范陽に到り、粗末な服で夜に諸将を過ぎ、密かに謀を告げた。諸将はかえって思明に報告したが、疑ったものの未だに証拠はなかった。たまたま烏承恩と李思敬が奏事のため帰還することになると、思明はこれを館に留め、帷幄を寝床とし、二人をその下に伏せさせた。烏承恩の子が入見し、そのため留って眠った。夜半にその子に語って、「私はこの逆胡を除く命を受けている」と言ったから、二人は思明に報告し、そこで烏承恩を捉え、衣袋を探ると阿史那承慶に賜う鉄券と李光弼の牒を得て、また書かれた数枚の薄紙があり、すべて誅殺すべき将兵の姓名が書かれていた。賊は大いに怒り、「私がお前に何をしてこのようなことになったのか!」と言い、そこで答えて、「これは太尉李光弼の謀で、お上はご存知ではありません」と言った。思明は官吏を官衙に召して、西に向かって、「私の真心は国に認められず、どうして私を殺そうとするのですか?」と哭泣して、そこで烏承恩父子および支党二百人あまりを杖殺し、李思敬を捕らえて上奏した。帝は使者を派遣して、「この事は烏承恩から出たことであって、朕と李光弼の意から出たものではない」と説諭した。また三司議の陳希烈ら死刑になったことを聞き、思明は恐れて、「陳希烈らは皆大臣で、上皇(玄宗)は彼らを棄てて西行してしまった。すでに復位したから、本来なら彼らを労われるべきなのに、かえって殺した。ましてや私はもとから安禄山に従って叛いていたのだからなおさらだ」と言い、諸将は皆、思明に対して天子に上表して李光弼を誅殺するよう勧め、思明は耿仁智・張不矜に上疏して李光弼を斬るよう願い、そうでなければ太原を攻撃するとした。上疏は箱に入れられたが、耿仁智はただちに撤去して別のに換えたから、左右の者が思明に密告し、二人を捕らえて、「お前は私を裏切ったのか!」と言い、斬るよう命じた。死罪を免れようと願っていると思い、また召して、「耿仁智は私に仕えること三十年、今日で私はお前を忘れたとでもいうのか?」と責めると、耿仁智は怒って、「人にはもともと死ぬものだ。大夫は邪説を受け入れて、再び叛こうとしている。私は生きていたとしても死ぬにこしたことはない!」と言ったから、思明は怒り、撲殺した。九節度使が相州を激しく包囲し、安慶緒は間道より救援を求めたが、思明は王師を恐れて、出発することができなかった。にわかに蕭華が魏州を挙げて天子に帰順し、崔光遠を代わりの守将としたが、思明はそこで兵を率いて魏州を攻撃し、陥落させて数万人を殺した。 乾元二年(758)正月朔日、壇を築いて大聖周王と僭称し、応天と建元し、周贄を司馬とした。相州を救援し、王師を迎え撃ち、安慶緒を殺し、その軍を併呑し、西へ攻略しようとしたが、根本が未だに固まっていないことを恐れ、そこで史朝義を留めて相州を守らせ、自らは引き還した。夏四月、さらに国号を大燕とし、順天と建元し、応天皇帝と自称した。妻の辛氏を皇后とし、史朝義を懐王とし、周贄を宰相とし、李帰仁を将とした。范陽を燕京と号し、洛陽を周京、長安を秦京とした。さらに州を郡とし、「順天得一」の銭を鋳造した。郊祀や藉田の祭祀をしたいと思い、儒生を招いて制度を講義させたが、ある者が上書して、「北に両蕃があり、西には二都があり、勝負はまだわかりません。太平の事がなるのは難しいのです」と言ったから、思明は喜ばず、ついに上帝を祀った。この日大風が吹き、郊祀することができなかった。 子の史朝清を留めて幽州を守らせ、阿史那玉・向貢・張通儒・高如震・高久仁・王東武らにこれを補佐させた。兵は四たび出撃して河南に侵入し、自らは濮陽に出撃して、令狐彰に黎陽を遮断させ、史朝義は白高に出撃し、周万志は胡良より黄河を渡って汴州を包囲した。ここに節度使の許叔冀、濮州刺史の董秦、梁浦・田神功は皆賊につき、そこで許叔冀と李祥に命じて汴州を守らせ、董秦らの家を平盧に移して、梁浦・田神功を江州・淮州に下し、「地を得たら、一人あたり財宝を舟二艘分取らせる」と約束し、思明は勝ちに乗じて軍鼓を打ち鳴らして行軍し、西は洛陽を陥落させ、汝州・鄭州・滑州の三州を破り、李光弼を河陽で包囲したが陥落させることはできなかった。安太清に懐州を奪取・防備させたが、李光弼が攻撃したため、安太清は降伏した。思明はまた田承嗣を派遣して申州・光州などの州を攻撃させ、王同芝に陳州を攻撃させ、敬釭に兗州・鄆州を攻撃させ、薛㟧に曹州を攻撃させた。上元二年(761)二月、思明は李光弼の兵を北邙に破ろうと図り、王師は河陽・懐州を放棄し、京師は震撼し、ますなす兵は陝州に駐屯した。思明は遂に西行し、史朝義を先鋒とし、自らは宜陽より続いて進発した。 史朝義は陝州を攻撃し、姜子坂で敗れ、退却して永寧に立て籠もった。思明は大いに怒り、史朝義および駱悦・蔡文景・許季常を召喚し、まさに誅殺して釈明しようとし、詫びて、「史朝義は臆病で、私の事業を行うことはできない!」と言い、史朝清を自らの副官にしようとした。また史朝義に勅して三角城を築城して兵糧を運ばせ、一日を終わらせてしまったが、まだ壁に土を塗る前に思明がやって来て、約束のようにしなかったことを怒ったから、「兵士が疲れているから少し休息させているだけです」と弁解したが、思明は、「お前は兵士を惜しんで私の命令に背くのか?」と言い、馬上から指図して壁に土を塗り終わって去り、振り返って、「朝に陝州を下さなかったら、夕に此奴を斬ってやる」と言ったから、史朝義は恐れた。思明は客舎にいたが、寵愛する曹将軍に鍋や銅鑼を打たせて守らせた。駱悦らも打たれていたから、そこで共に史朝義に説いて、「行って兵が敗れば、駱悦と王が死ぬのも遠くありません。曹将軍を招いてともに大事を謀るのにこしたことはありません」と説いたが、史朝義は表立って答えなかったから、駱悦は、「王が本当に忍びないというのでしたら、私らは唐に帰順しましょう。王に仕えることはできません」と言ったから、史朝義は許し、許季常に曹将軍を説得させた。曹将軍は諸将を恐れてあえて拒まなかった。思明は道化を愛し、寝食は常に側にあったが、道化の方は耐え忍んでいて恨んでいた。この夜、思明は驚き、寝床で叱りつけ、道化はその理由を聞くと、「私は夢で群鹿が水を渡り、鹿が死んで水が乾いていた。どういうことか?」と答え、にわかにうわ言のように、人相見が、「どうして命が尽きましょうか!」と言い、しばらくして駱悦が兵を率いて侵入し、思明の所在を聞き、未だ答えがないと、たちまち数人を殺したから、みなが溝を指さした。思明は乱がおこったのを知り、垣を超えて出て、厩下に到り、馬に乗って逃げようとしたが、駱悦の麾下の周子俊がその臂を射たからら落馬した。乱がおこったところを聞くと、「懐王(史朝義)である」と言われた。思明は、「明朝の失言の結果はここにあるのだろう。だが私を殺すのが早ければ、私に長安を取らせることはできなくなるぞ」と言い、大声で懐王(史朝義)を呼ぶこと三度、「私を捕らえてもいいが、父殺しの名を取ってはならん!」と言い、また曹将軍を罵って、「どうして私を誤らせたのか!」と言い、左右はかえって史思明を縛り、柳泉の客舎に送った。駱悦は戻って報告すると、史朝義は、「聖人を驚かせないか?聖人を傷つけないか?」と言ったが、駱悦は、「そんなことはないでしょう」と言った。その時周贄と許叔冀は後軍で福昌に駐屯しており、許季常は許叔冀の子であり、史朝義は許季常に報告させた。周贄は聞いて驚いて卒倒した。史朝義が兵を率いて帰還すると、周贄らは出迎えたが、駱悦はその二心を憎んで、そこで周贄を殺した。柳泉に行き、駱悦は軍衆が思明を嫌っていないのをみて恐れ、思明を扼殺し、毛布で死体を包んで、駱駝に乗せて東京に戻った。史朝義はそこで即位し、顕聖と建元した。 それより以前、思明の諸子には嫡庶の区別はなく、年少の者を尊んでいた。朝義は、庶長子で、心は寛く情に厚く、部下の多くは付き従った。兵乱が起こると、密かに向貢・阿史那玉らに史朝清のことを謀らせた。史朝清は狩猟を好み、人を傷つけたりすることは思明に似ていて、下品でみだらなことは度を過ぎており、帳下に三千人を養い、皆追い剥ぎをして命を軽んじた。向貢は謀って、「お上(史思明)は王(史朝清)を太子にしたいと思っていると聞いています。しかし車駕(史思明)は遠くにいますから、王が入侍なさるべきです」とあざむき、史朝清はそうだと思い、帳下に赴き旅支度をして出で、向貢は高久仁・高如震をして壮士を率いて牙城に入った。史朝清はその理由を聞くと、ある者が、「軍の叛乱です」といったから、そこで甲冑を着用して楼に登り、向貢らを責めて、兵士は楼の下に陣取り、史朝清は自ら数人を射殺したが、阿史那玉の軍が敗北を偽り、史朝清が楼下に降りてきたから、捕らえて、母の辛氏とともに死んだ。張通儒はそのことを知らず、兵を率いて城中で戦ったが、数日したが勝てず、同じく死んだ。向貢は軍事を司ったが、しばらくもしないうちに、阿史那玉は襲撃して向貢を殺し、自らは長史となり、史朝清を殺した罪をおさめようとし、そこで高久仁を梟首し、全軍に布告した。高如震は恐れ、兵を擁して守った。五日して、阿史那玉は武清に敗走し、史朝義は人をして招いたが、東都に到ると、たいていの胡面の者は、老幼の区別なくすべて誅殺した。李懐仙を幽州節度使とし、高如震を斬り、幽州は平定された。 朝義は軽んじられて配下にへりくだり、事はすべて大臣が決したが、しかし経略の才がなかった。この時になって、洛陽の諸郡の人は互いに人食する有様で、城邑は荒野となった。また諸将は皆安禄山の旧臣で、史思明と同僚であったから、朝義に屈するのを恥じ、兵を召喚されても簡単には来ず、幽州に戻りたいと願っていた。 その雍王(後の徳宗)は河東・朔方・回紇の兵十万あまりで賊を討伐し、僕固懐恩と回紇は左殺を先鋒とし、魚朝恩・郭英乂は殿(しんがり)となり、黽池より侵入して、李抱玉は河陽に迫り、李光弼は陳留を経て兵を合流させた。それより以前、代宗は南北軍の諸将を召喚してどうやって賊を討伐するか作戦を聞いた。開府儀同三司の管崇嗣は、「我らは回紇を得たのだから、勝てないということはありません」と言ったが、帝は、「まだそうなっていない」と言った。右金吾大将軍の薛景仙は、「我らがもし勝てなかったら、勇士二万を先鋒にして突撃して賊を殺しましょう」と言った。帝は、「壮絶だ!」と言った。右金吾大将軍の長孫全緒は、「賊はもし城を背にして戦ったのなら、必ず破ることができます。もし城を閉ざして死を賭して留まったのなら、奪取することができません。また回紇に短期間の攻城をさせれば、持久の勢いはまた阻まれるでしょう。我らがもし兵士を休ませて勢いを保って賊を膠着させ、李光弼に陳留を取らせ、李抱玉に河北を叩かせ、まずその手足を裁ち、その後に賊の軍中を蹂躙すれば、彼は従う者を脅して互いに疑心暗鬼となり、そこで滅ぶのを待つべきです」と言うと、帝は「よし」と言い、潼関・陝州に命じて警備を厳とした。軍は洛陽に行き、兵を馳せて懐州に下り、王師の部隊は粛然としたから、賊の顔色に恐れが浮かんだ。 朝義は軍十万を横水に隔てたが、戦ったが大敗し、捕虜・斬首はおよそ六万、鹵獲された牛・馬・兵器・甲冑は数えられないほどであった。朝義は明堂を焼き、東は汴州に逃げたが、偽節度使の張献誠が受け入れなかったから、濮より逃げて幽州に行った。東都は再び混乱し、郭英乂・魚朝恩らは軍をおさめることができず、回紇と略奪をほしいままにし、鄭州・汝州にまで拡大し、村里は炊事の煙がおこらない有様となった。まさに寒くなろうとし、人は皆紙を連ねて書を剥いで衣服とした。賊は逃げて下博に到ると、僕固瑒は追撃し、朝義はまた敗れた。河東の守将の李竭誠、成徳の李令崇は皆賊に叛いて前後呼応して戦った。漳水に到るも、舟がなく、諸将は降伏を勧めたが、朝義は喜ばなかった。田承嗣は車で円陣を組んで本営とすることを願い、女や子供を車中に入れ、輜重はその次とし、伏兵で待ち伏せた。戦っては退き、王師が追撃すると財貨に群がり、賊は奇兵を率いて囲みを出て、また伏兵を発して、王師は退いて数十里で停止した。朝義は遂に莫州に逃走し、僕固瑒は追撃して包囲した。四十日を過ぎ、賊は八戦するも八戦とも敗れた。翌年(763)正月、精兵を閲兵し、死を決しようと思った。田承嗣は朝義に、「ご自身で精鋭を率いて幽州に戻るにこしたことはなく、李懐仙に全兵力五万で戦いに戻らせ、勢力を伸長すれば、勝利は万全となるでしょう。臣には防備を固めさせてください。僕固瑒が強いといっても、にわかに下すことはできません」と言い、朝義はそうだと思い受け入れ、騎兵五千で夜に出て、出発する頃おいに、田承嗣の手を握って、存亡を託し、田承嗣は頓首して涙を流した。出発しようとして、また、「行く先々の関門は百もあって、母は老いて子は幼い。今公に委ねよう」と言い、田承嗣は拝命した。しばらくして諸将を集めて、「私と公らは燕に仕え、河北の百五十城あまりを降し、人の墳墓をあばき、人の家々を焼き払い、人の玉帛を奪い、壮年の者は刃で殺し、弱き者は溝に生き埋めにして殺した。公は名門につらなって私に従い、斉の姜氏・宋の子氏といった古代以来の名族は私のために一掃されてしまった。今天が降って鑑みたならば、我らはどうして命を帰するところなぞあろうか。古代より禍福はまた常ならざるものであるが、よく改めて今を修正するなら、危きを転じて即ち安全となる。夜明けに出て降伏しようと思うが、公らはどうするか?」と言い、諸将は皆、「よいことです」と言った。夜が明けると、人に城上の上で、「史朝義は夜半に逃走した。どうして賊を追跡しないのか?」と叫ばせた。僕固瑒はいまだに信じられなかったが、田承嗣が朝義の母および妻子を率いて僕固瑒の陣に行ったから、ここに諸軍は軽騎兵を率いて追跡した。 朝義が范陽に到ると、李懐仙の部将の李抱忠は壁を閉ざして受け入れず、「この頃すでに天子の命を受け、一年のうち、降伏したり叛いたりしたが、二度も三度もどちらが深刻だというのか!」と言った。朝義は飢えを訴えたから、李抱忠は野に糧食を贈った。朝義は食事し、軍もまた食事したが、食事が終わると、軍の子弟は少しづつ去っていった。朝義は涙を流して田承嗣を罵って、「老いぼれが私を誤ったのだ!」と言い、去って梁郷に到り、史思明の墓を拝し、東は広陽に逃走したが、受け入れられなかった。謀って両蕃に走り、李懐仙はこれを招いたが、漁陽より回って幽州で止まり、医巫の里祠の下で縊死した。李懐仙はその首を斬って長安に伝え、もと将軍を召してその死体を収容した。李懐仙は服を改めて哭礼し、士は皆慟哭した。葬られたが、その場所は不明となっている。偽恒州刺史の張忠志・趙州刺史の盧俶・定州刺史の程元勝・徐州刺史の劉如伶・相州節度使の薛嵩および李懐仙・田承嗣らは皆その地を挙げて帰順した。史思明父子が帝号を僭称することおよそ四年にして滅んだ。史朝義が死ぬと、部送将士の妻百人あまりを分けて官に送り、役人は司農に隷属させることを願った。帝は、「これは皆良家の子であって、脅されて掠われてここに至ったのだ」と言い、食を給付することを命じてその親元に帰し、帰るところがない者は、官が費用を出して遣した。 賛にいわく、安禄山・史思明は夷奴餓俘でありながら、天子から恩幸をかりて遂に天下を乱した。彼は臣でありながら君に叛いたから、その子もまた賊となってその父を殺したのだ。事はよく巡るもので、天道はもとよりこの通りだったのである。しかし民は災いにあい、必ず手を人に仮りる者は、そのため二賊はにわかに興ってしばらくして滅んだのである。張謂は劉裕を批判して、「近くは曹氏(曹魏)・司馬氏(晋)になろうとして、遠くは斉の桓公・晋の文公を棄てたから、禍は両朝に及び、福はいまだ三年にも満たなかった。血族は世嗣を伝え、六君は天寿を全うしなかったが、天の報施することは、それは明らかなことだ!」と述べた。杜牧は、「人相見は隋の文帝を称して帝となるべき者としたが、後に帝位を簒奪したから果たしてその予言を得たのである。北周の末期、楊氏は八柱国となり、公侯は相続して久しかった。一旦男子が帝位を奪おうと窺うと、二・三十年もしないうちに、壮年・老人・嬰児は皆死に方がよくなかった。彼が人相見を知っていれば、まさにこれを必ず楊氏の禍というべきなのであり、そこで優れた人相見であるとした」と述べた。張謂・杜牧が論を確定すると、今に到るまで多くがこれを自説とした。安禄山・史思明のように、劉裕・楊堅となることを願って至らなかった者は、これをもってその論を著すのである。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百二十四下 列伝第一百四十九下 『新唐書』巻二百二十五上 列伝第一百五十上 巻二百二十五中 列伝第一百五十中
https://w.atwiki.jp/mangaaa/pages/1597.html
#aapro{{{{ 名前 : ◆FM7G1S9FEo 投稿日 :2008/08/21(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ,. -┬- 、 / ´ ̄| ̄` \ /__ ≡=| 「`丶 \ /¬__) | |___) ヽ {_____|_____} __ __ _ _ __ __ __ / // / // / / // /_/ / // / / ̄  ̄ ̄// / / // /¬ ̄// /  ̄/ / 7 /  ̄ / // ニ′// / __ / / / / __ノ // / / // / l l / / / //´ ノ  ̄ / // ー‐┘ l  ̄  ̄  ̄ ̄  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ SDガンダム (バンダイ) 名前 : ◆ULtRaP0Y6U 投稿日 :2011/11/24(火) 03 12 29 ID qJLrCBag | | | | | | ) | | |、 i ∧ i /{ | | | \ |!_ }V{ _i| / /L | | |i \\ /Vl/ W \lV\ / /% /! . r ‐rヘi| | |ミ久\lr</ X{Ж}X l/>ヘ/ ‰∨/ . l_lll_ r\r| | |`≪ 、久rr 《 〈《》〉 》ヘ久}/ フ≫/ ハ . |二H\l | | |i>ミr |o」l\lVVVl/l_o!_l ≫/ 〈三〉 . ∨ ̄\ i| | |i\从ノ>トミ . | . _ イ、トi ∨ i| i | マol二l_| | |/{ |ノl_乂 UrYrU 乂ノト| / rーヘ r /\_i| i | . ∨二o| | |iミ/\|ノl l l`T´=`T´! l トl< //⌒〈〈>┴| ̄Vl┐ _/ o ̄i| | |iゝ)☆\ミヽl_ヽ∧/_//_ iト|\l> 〈〈/ ̄二/| 〈 《》|〈\ . l_| _| | |_ ☆辷}i>====lTTニVニl_》__rl二二〈 rヘ_〉 厶 \//\ \ _r|/ __|\∧/|__ \l」」l>====l l l∵†∵l| \l_|) ̄\| 〈\〉ミtoヘ\l》《l \i| _r≪/〔_≪二二〔o〕二二≫_〕=彡――┤\∴∴l| \l_|___| | 〈 } ノフ〈l∨l〉rrf | ェェェェr≪i」‐/ /! / ≪二Ⅹ二≫ ∨∧ (◯)==<_「l_二〕〔_「\lノ_辷辷| |二ム \}i=l∨l }゚} |  ̄ ゙̄¨´ / //l i| Ο「l三l三)_O |i ∨ 7/====《(/  ̄∨l<〔_〕ミ弌彡| |i )。ノ、_|《》|={ {i | /》// .〈 i|/l/|i|三l三)、\l二二/\__/|l___〉==lノXニ) | |ゝ ⌒Y^ー‐|∨|ノ_r〉 | il// . . . \/ Vl」三l三)ノ . /\____//\/|\l\/\\_{i| |> __|_|_, |ー=====‐-ミ ´ ―≪≫-/ }ニ}  ̄リニ _/ /| // | |\|/\ \〉_\\ \\//´/l /⌒´ i|___|__,/ i}二i辷彡 ⌒ | i|o/ //| \∧ |\| \_/|\〉 \\__ 〉 。〈l // / ー=ニ二 _ ⌒/ | l_il/_/ \ミ∨/__\ {} /\! \i \\0\Oハ// / ` ⌒ー‐-=ニ_ 7ーi/\/ \\ ∧lヽ/`7-/\V/  ̄\_ >-、\\/ o // / rヘ///\  ̄ ̄\∨ ハ__{ヽ{《》 〉ー―≪≫ ⌒ヽー\\\//⌒´ //〉´ \/ /l  ̄|_ノ L 乂_ノ 》 l} / ̄〉´\/ /〈/ /\ l/ | `⌒´¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨´ ̄ ̄ 〈__/ \___/  ̄ ̄ ̄ ̄ キングガンダム2世 (SDガンダム外伝 円卓の騎士) 名前 : ◆ULtRaP0Y6U 投稿日 :2011/11/24(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ( ) ト、}\ i ∧ i /{ 」 トミ \ |!_ }V{ _i| / /L ト、》№\\ /Vl/ W \lV\ / /% /! . r ‐rヘ \`≪久\lr</ X{Ж}X l/>ヘ/ ‰∨/ . l_lll_ r\\ \`≪ 、久rr 《 〈《》〉 》ヘ久l/ フ≫/ ハ . |二H\l\\ <>ミr |o」l\lVVVl/l_o!_l ≫/ 〈三〉 . ∨ ̄\\l\\ \从ノ>トミ . | . _ イ、トi ∨ i| i | . マol二l_ol\l_∧/ l |ノl_乂 UrYrU 乂ノト| / rーヘ r /\_i| i | . ∨二O二O\r=ミ/\|ノl l l`T´=`T´! l トl< //⌒〈〈>┴| ̄Vl┐ _/ o ̄\ \l乂_)☆\ミヽl_ヽ∧/_//_ iト|\l> 〈〈/ ̄二/| 〈 《》|〈\ . l_| _/ |\/ ☆辷}i>====lTTニVニl_》__rl二二〈 rヘ_〉 厶 \//\ \ _r|/ _|ゝ \l」」」」l>====l l l∵†∵l| \l_|) ̄\| 〈\〉ミtoヘ\l》《l \i| _r≪/に二二二二/ `ヽヽ ___彡ー――┤\∴∴l| \l_|___| | 〈 } ノフ〈l∨l〉rrf | ェェェェr≪i」‐/ /! || || / `ヽ ∨_∧ (◯)==<_「l_二〕〔_「\lノ_辷辷| |二ム \}i=l∨l }゚} |  ̄ ゙̄¨´ / //l || 「l三l三) ∨/ ∨ 7/====《(/  ̄∨l<〔_〕ミ弌彡| |i )。ノ、_|《》|={ {i | /》// .〈 《》 || |i|三l三)、に二二_/\__/|l___〉==lノXニ) | |ゝ ⌒Y^ー‐|∨|ノ_r〉 | il// . . . \/ Vl」三l三)ノ /\____//\/|\l\/\\_{i| |> __|_|_, |ー=====‐-ミ ´ ―≪≫-/ 《}  ̄リニ _/ /| // | |\|/\ \〉_\\ \\//´/l /⌒´ i|___|__,/ ⌒辷彡 ⌒ | i|o/ //| \∧ |\| \_/|\〉 \\__ 〉 。〈l // / ー=ニ二 _ / | l_il/_/ \ミ∨/__\ {} /\! \i \\0\Oハ// / ` ⌒ー‐-=ニ_ 7ーi/\/ \\ ∧lヽ/`7-/\V/  ̄\_ >-、\\/ o // / rヘ///\  ̄ ̄\∨ ハ__{ヽ{《》 〉ー―≪≫ ⌒ヽー\\\//⌒´ //〉´ \/ /l  ̄|_ノ L 乂_ノ 》 l} / ̄〉´\/ /〈/ /\ l/ | `⌒´¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨¨´ ̄ ̄ 〈__/ \___/  ̄ ̄ ̄ ̄ キングガンダム2世 (SDガンダム外伝 円卓の騎士) 剣なしVer. 名前 :名無しさん@├\├\廾□`/ 投稿日 :2011/03/04(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ,. .< ヽ、____ / /ヾ >、 / \ / .ヘ / ヘ ./ ... . . . . .. . . . ヘ /. . . . l / .ハ , , .. . .| .| | .. .| , | , | | | , | , / l {ヘ { ヽ ,l | | | , | | ̄ ̄\‐-ヘ .|l/ ̄ ,ィ"´ ̄`| | |l | |ィニァ=-、\ .- "‐,,,ィ=ァ=、,.| | | .| {ヽ人ッタノヽ .ィ人ッタノ ノ l | . , ヘ ``"´´ ```""´ , | . , ヘ , | | 、 ヘ l / | ヘ ヘ``ヽ ` ノ.l , Y ヽ ヽ ニニ ノ ./ / , . | \ - /| / l . |ヘ . rヾ.ヽ ∠/彡./.. .. | , ヽ 〉ィ  ̄` =< ̄ ̄` / ノ , ヽ Y | / / | | ヽ |.|. . . .| , / | ──| | 丿 ,/ l / |、__ / l .. | ‐-/-‐ . | , / | | , { ノ__,, ノ } , / | | .|ヘ ヘ ヽ〈_ | , / | | , | \ ヽ / ``─‐ ..ノ ノ / フローレンス・キリシマ (SDガンダム Gジェネレーション) 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/18(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 呂布トールギスの全身で投下し損ね。 /! l l j l, , l / _l l リl,ィ ´`i ハ/ { ヽ,} l l ,7リ l l l〉, l 〈l l〉、l. l〉l . /!, ! ,/! l l l l, . ,!!, / .l l l ∨ヽ. / ヘ / / _|イ`゙ 、 \ ヾヽ .∧ .ヒィ´ /. / 7 l__,イ´ヽ,rヽ、ヾ, 〉)`ヘ /ィ ヒァ ヘ _,.ィ ィ l i{ ,ィ .> `ヘ ヘ、.Y .ア リ./.、ソ` ャ .ヾ `´_つゝ、 l l`ト、 / i≧r、∨ィソ ´i i`ー、 } ̄_つ \ l l ,. < r Oィァエ ァ‐ヲ, ゞ, _`ア㌔.ァ、 /ヽ ,. <´////へ、_√! Y /エj ,ヾ、ュィ ´ \ ´ `ヽ/`ヽ! ////////////,ヘ 〈三三i!ィ‐´、_/ `丶/ヽ ∨////////////,i≧! __ /片!ュ、  ̄ ∨//////,.< ̄ ア ̄  ̄ , J, i `ヽ、 ∨//// .イ/ , 、ヾ,.ュヽ ,.ィ ´ /ヘ´// ヽ ´ ̄ ̄ ̄ `ヽ. ヽ/ヽ ´\ / L/./ ,イ ´ ,.ィァ==ュ、 ∧ィ´ ュヽユ ` i/ ’!コュ,/.ヘ / i! ヘ /ヘ ヘー、_ . ィ´ア /i / ! ! ,1 `ヽ/´、 ̄ _ ,/ l / i Y l / ,  ̄ / ` ・ 1 i .l 、./ ∧ / `ゝ、「i∨ ∧ l } ∧ , .ヽ, ィ l, ∨ / , .l i ∧ / ` ・、 / , ! ∧ _.1、iヘ ∧ l / 1 ヘ/ ヘ 二 l l}!∨ r ´ , 〉 /` ・、 / , .∧ ,一, l l ´・j. ヘ / ` / i ∧,_、ヽ/ ,ィ j , _ ∧ / / ヘ ∧ ヽ,j、ィノ!.} ∨´ `i,ィ / / ヽ.i ``i! i リ ト、 ,.ィ i, /` ・、/ ヘ i i! l , i, / , i ) , , /ソ ヘ/ `丶、/ i _ ユ, / l y ´ ヘ ` ー一 ´ j´ , ` ー─一’ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 呂布トールギス、しばらく連投します。 ! l.l `、 、 l .l ! ヽ ヽ ,.ィ= レ ヽ/ l l! _ l `ヽ. \ `丶 、 /. 〉ヘ/!, i.l /. ! \ ヽ, ヾ、 ヾ´., _ ,./ i {, l / / l r=.、 `、 \ ̄ヾ ヘ!/ ,.ィニl l \.ィ l>,!、 ト ーュ、 r 、 ≦ヽ ∠リ二ニl ヘ! _/ ./ ` ャ,`ヽl lヘ.!,.ィ` ー、ァュソ二ニィ/ヘ ト、 / / / ./l ! /`ヘ, /イリ>=- , 〉 _ ,.ィ ´ ` 、 ,r ,イ ≧ュ/ヘイl/∧/ i,__ ∨oi〈ヽヘl . /i≧ー " / / `ソ i l,ヘ `i´二二二ュi l 〉´ィ、`ヽ!l //\`ヽ、 / /` ァ "l 〉== , i 〉7 ̄´l ´ ヽ ヘ . ´ `< ー・イ、/_ 〉 `ー, L_ l ! // l l `` /// ,.ィ } l斤! j _>ー─一〈ュ、ト、二l_ ´ ´ トー=ュ! /´ L / { { ( ) }}/ヘ//ソl! l i .ィ、ヘ /==ll≧ ト`ー=一! ヘ一 └ 、,>”/ r=ll´ }ヘ i l l l .ィ ! i´ヽ.>l / / `ヘ, ! .l リ,`丶、l l / ャ、 ノ ヽ, l〉 ,ィ, ∧ く l r _ イ l>、 /iY´二ュ∧iュ l´ `i ュ、 >、 l, ハ Yl l. lゝェイ / `ヽ `ー、 /i l 〉´ヘ {´ ` ー=──一トヘ _ 、 `l ;.〈 ´ i_/ └.ァ./ー=" ↑ └ キットの画像トレスのため細身 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ! ,ィ! /i i.l ,イ /.∧ !. , ! lヘ / .l l! , , i, l l 〉》 / / , i ∨∧ ∧∧ イ / / ,ィ 〉 , _ ∨,∧ ,.ィ´j.∨ l ` _l, / / / l i /!´_` ヽ,∨ ヘ ,ィ´ ∧ ∧ ヘ / / __ / ./ l /`! l , ヽ、 iヘ , ゝ、 ∧∧ ∧ ,.ィ´ / i > i O / 〉ヘ ∨ / ヽ lr、ヾ ゞ イァ´/ ヒ ,.ィ >´∧ ! / ∧ ∨ ´ `ヾ ∨、 `r.、 ミY彡 _,. ァー// l i´ > ´,.ヘ / ∧/ヽ、 >、 , ∨ァヘ ` ヽ_,, ´,.イ、i , / `! ">´ ∧ ,.ィ ヘ∧/ ∧ / .i. ∨ Y /ヽ、 ,.ィ` ´、, /i ´>´ > ´ / 〉` ,.∧/ /、. __,.i〕≧ュi/、,ィ、 ∨ ,リ ,.ィヘi〉 ∨. >´ ´= \ / ̄ ̄ / /´ 〈.0 / ノ,〉 ◎ i,イヘイ二二ソ◎)ソ、 ∨Oi´ イ、 ヽ、─ヽ,ィュ、 /ー──/ /、 ヾ `ア ´ Yーュ、イ ̄ ̄ ̄`!,` ´ iソ `ーヘ-‐ ´riュ、ヽ `丶イ ヽ. /ー──// 〉 〉,ィ´ノ i≧ュ ヘ ̄` ´ ̄ ,ィ仁 / 〉=i i ∧ ` ヽ、i.ヘヘ、 l /ヽ _// ヘ/ / ,.ィ´ ̄ユ!ヘ 二二二彡> ´ユヘ / l´ 二ュi ヽi ヽ! / lーイ/>く `, / /ー ´ ム 〉_二二ニソ ‐ >ri〉、 ∨lヒ,‐-ュリl .l / 入r、l ゙iュ`´iヘ__/ー´ ム 二//  ̄ ̄∨, /l ト、 /´`i, l〉l  ̄  ̄ ̄ ̄ ̄`i ! l! l l l,_r 〈 ム ´ /〈 〉〉 └∨, ト ー┤ i./二ニ ─────=ソ L.ノ┴┴┘ l l〕 / / i`ー┬┬┬一i ヘ i∨三i二ソ/ l / ̄│/ヽ、i ! l i ! ィ´ヘ j l,. ト、 1 ! l /  ̄`l´ /二二ニ/lヘ_1 ∧,ィ´〉 二二-i li /=─ァ.=ァ=、ノュ、 l i、j / ∧`〈 __,/ / ,i ∧_ ヾj ,ィュ/ i i, l /ィニニl lリニニュi三} l ./ ∨-l l l. ,ィーュ/ l l〉,r ー〈 i! ヘ ! l /, _ヘ _ _ , l/ ー=┴、 !´ ∨ { i , / i / ´  ̄ ,, /´ ̄ ̄ ´ ↑ └ コミック版をトレス 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag /! l l j l, , l / _l l リl,ィ lヽ、 __ ´`i ハ/ { \__ヽ ̄l`ヽヘ ヽ,} l l  ̄`ヘ ヘ ,7リ l } ノ l l〉, l /l/7´l/ 〈l l〉、l. ∧ / l ソ /.! l〉l l∧, , .l ´ /./ r─ァ l lヘ , _ ∨ヘ j ∧´ヽ,.ィ´ / / / l l ソ、. ヘ ヽ. ´〈 〉 ,.イ / ̄ ̄ ̄l / l l./ ー 、 、 ト、,ヘY>アイソ l´二二二ニl/ l l / ./ /ヽ∨≧、,ィ´l,イl/、´∧__,.ィ ´ , r‐Hェュ、ヽ./ 〈≧>ー<≦l7 入 ヽ. ,j 二lリ ヘュ、 _,ィ 〔ニoニ〕 ム ゝ‐-,.イム ∨ ヽ. / ! _l´ ノ ノ ´ ト `ー一 ´  ̄ i/ 〈  ̄ ヘ∨ ヽ _/ .ムl l─一 ´ r≧ュニニィ≦iリー、 l l ∨. > ´ / 二/ l l / / ∨∧ ゝh  ̄〉 ∨ ´ l l ./ / 、 ,.ィヘ .∧ 〉、 ,.ィ l l / 〈 / l 〉 ∧ l l l l \ / l l l l /l ,〉─ュ、∧ lム ´∨ 「 l ´ 〉 / ∨ 〈 [三] / l l \ ∧ ,ィ l , lNl l. ヽ、_ /l l`丶 ヘ、 l.M〉ュ、 /l ∨  ̄  ̄ / ヽ.∧_ ,ヽ ,l M;〉、ヘ/./ ヽ.ヽ二二ソノ l_./ ∧∨ イl,l∧l;/ / _ _ 「 l ri r´ /TTTT.〉‐ュ,≦〈 〉≧イリ __ _ _> ´ \ ∧\ヘ /  ̄ヽィ ̄ , 〈__l_l_l_l./ヽ ヘト、`´ィ仁l rト─ l l´ / /  ̄ \ l l ∧_ ,.ィ ─ -.、ヽ. .lユY ≦> ´l ̄l ̄l/、 〈──〈=── l ∨L ./ ∧ュ───── 〉‐、ヽヘュ┴┴┴──┴ュヽ── 、 \ \_ \_ / /─.〈 〉. _____ /..〉 l l 〉─= ""  ̄トィェ/lエエエ). \ >,. _ / ∨/ ィヘ 〈 l l!__/ ̄ /ll L / //ィ二ィソ、l ミl l─=〈_l_l_l_ィ \ ` ∨ l l 〉 〉、`ー ´` ̄ l / l ol r=二 ヘ ∨ ,.ィヘl ∨_,.ヘ__/ l ∧ // ,ィ、 ol Lヒ ユ,ィl `∨´ `! / ` ∨ ̄l// /.  ̄ l l r .r ´l/, l l / l / ´ `l_ 〉、! l l ィ∧ 〈 l /ヽ/∨/ _ ∨ l 、>≦ ヘ ∨. 〉  ̄ / ̄/l  ̄∨ l___ ヽヘ ∨ / / / l 〉  ̄ ̄ ∨ ∨_l ./___/ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag _ __ \  ̄二 ̄ ノ _ ________,≧二ニ≦_,.ィェ、_,,ュ、 ,,-, ` `丶、_ <_ ─── 〉< 、 \ 〉〉 i K ニニニニニ〈ノ l二二二巛巛》》≫≫ェュ  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄` ー-ヘへ.r ´`ー ´l><T l. .∧ l 三 l  ̄` ー ´ ̄ ̄ 〈 L 〉 ∨ l lH .!lィ .ィ.l ニ l \l ,ヘ. ∨il l l !.l|lュ,.ィ´/ l三三l ` 〉.∨l ̄_ ̄l| 〉 > ´ , / 〉 ´\ヽ ̄ト、`´/l / ./ / , 〉〉 ̄liュl_イヘi ´ ̄ 〉 ,.ィ ´ 〉.`水 リ ヽ ヽ./ `ヽ. _,.ィ ´ // `ーァ,ィ〉i´` ニニ, ∧ / ,>ァ-、/ `〉 `ー=.イ∨ ∧ l/ l / ,ィ≦ミ/´二二ヘ ∨ l ` / / K〈 .l! ∨. /∨ / / / lヾヽェェェィト.ト, ∨ /、_,ィ>7 ! i`Y´i リli l / ソ l .l/>、へ.__,.ィ ´ li/ l / l/lニ /7 /トーイ ∧__/∧` 〉 ∧ュ、 / ュ.∧l_イ、 _ 、へi l l`ヽ l Ⅵ i `! l Yソr ´ ̄ヽ´へ_,ィ `ート,_lィ-‐ ´ `ー.┴.─‐┴-一 ´ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ∧ ∧ / ∧__ ∧ l ヘィ´_ ̄_  ̄.l ∨ .l __ rュ ∨ l ∨l l l ∨ ∧ l _l二_/ ∨__l l 〉 7 .、 l´ l l!=-ュ〈─〈 / / ヽ ∨/l l! l_lイ、./ 丶.ヽ .ゝl i. l`丶i//lノ ,/ lヽ、/、 /∧ヽ-‐イ .l l ./、>! 、._>l〈 〉レァヒ´.l l r " ∨l.,_三ト、ヽ、,イ; l , /l l _r─────=l ∨ ヽ ヘ;;;;/ ,l// ! .l ヘ \l ヽ. __,.ィ´∨ ,.ィ l≧><ソ イ! .l l . l `´ _ > "ヽ ´,. , ` \/ .l l ── l〉 二ヽ _l _ > " _ > "〉─ュi / ` 丶. _,l l _/ !<二ヘ / ∨ _ > " / `ヽ/ /丶、 l . l ̄ / /`  ̄ ̄´ ,.イ i ヽ、 ,/.〉、 / ィ .l .l  ̄ ̄ ̄ ̄´ /,ィ l ヽ //, >、 l 〉- , ´ ∨_≧ニソ l Y y>、/、_rュ、 l ,.ヘィ彡 〉ヽ. >ヘ 人_.l ヽ_l l l-´ 〈 l_/イ 〉 /. l l /,ヘ >,.イ/ . l l /.〉 / /、/ l二l /./ / ヽ / _ _/ ̄h!ヘ_ . 〈./ / / ´ `ヽ `丶._r ´ i | i 〕────一ァ / /、/ l .l Fュ≧ュ、 ,.ィ≦>.l二二二二/ / ´ , / E l ,ィユ 、 r ´ / > ´ `〉´ ´ ̄ へ l./ヽ へ. l /〈 /ヘ ,.ィ´./ ∨ l / ∨ / ∨ / ∨ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag n n n n l .l .l l l.l _ ∧ l ヘ,イー=- ´,. l .l ヽ_ 丶_ l´ l l, l ̄  ̄l l l, . l ‐ ─.-l 、 l l、. l lィ仁三三三三三l\ \ 、 ∨∧ヾー ´l二l l二l三三三三三三ミl_\ 、 \ ヽ、 〉、 〉≧_ l〉 _ノ`丶三三三三三三l´. ` ..\ \ `ヽー ´.> ´ ,ィ/  ̄ l三三三三三三l ..\\ `ー、 ,.r.、 l! l ,仁三三三三三ill\ \\ ,.ヘ lヘ \llrヘ イ彡∨ム三三三三l/ \\ /lili/ヽ- ‐>-‐=ユ∧`ー=i´/! ∨∧三三三/ム, \\ ,ィ´li三il , ´ o ィ ‐l /ヽ l ; .l ∨∧三三/ `ヽ \\ _,.ィ仁三三lヘ´ o ヽo ,ィェィ´ ヽ / ∨∧三イ ,., ´ ヽ,`y´ jヽ. ̄ ̄l ̄l ヽ o ´ l l `ー〈´丶!ュ., `ー.、ミl _,., ´ r ´ j 丶 ヘ リ リ ヽ ´ ,.ィュ l,.ィ´  ̄/ 〈 `丶、 ,.ィ´ヽ.´ゝ ィ´ヽ丿 / / 、ヘ ュイ リ..l /ヽ∧ ヽ. /丶三il`丶ヽ ´ノュ、ェ-=‐ ア ´ ∨ / >‐┼l ヘ / ,. ,ヘ三三i`ー ´ゞ \/〈`ー.、,.-ィ´。, ∨ ´ ∨ \ l ´ ∨三三三\X , \y 〉.Y , 〉、/ ∨ \ ,ィ l ∨三三ミi/\X , \ !l 〉/三 , ´ ヘ / l`エへ / ,.ヘi三l〈 \X , \!ム /〈三三〉/ , / l l ` ` ´ 〉ヽ \X ィ `丶l!三三 , / ! l /!. 〉 ´`丶._ _リ ヽ\ 〈,.ュ、三ilrヘ 二 ` ´l`ヽ、 / ,ィ 、 lヽ l`ヘ\/\ ヽ ヽ. ´/ _ 〉 ∧ 〉´ `r ´ ̄ヽ.ノ . ∨\/ .lヽ. `/ , ∨三`丶 ヘ,. K l. l l l l \ \l _ヽ、.l l ∨三三三\/、 ,.r≦三≧、 ,< `ー .ソ ヽ._ /\ ∧ソ ∨三三三三≧ュ\ /仁三三三ヘ/\___ヘ `ヽ. \∧ ∨三三三三三≧ュ,.l  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄  ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag /三三三三三三三三三三三 __ / 三> ´`丶、三三三三三 / { }.rュ r.、 ,/ 三/ ,ィ `ヽ.三三三 / { i ヒ レ、 /i三l〈. // _,三三 ∠ } ´フ ´二ユ/三三三` / .i ,.ィ´ / ´ ̄ ̄フ r "j二iリ´ ´ l ヘ三三三i/ィ .{イi " / ム  ̄ ∨ l {i三三i∧ jィ´/ l /-‐ " ̄> ´ ∨ , }三三il| / l i / > ´三三 ヘ l ∧、,.ィ´} l j> ´ヽr "三三 > ´ ∨ l ∧_ ,i ∧/ハ{三三l l > ´ > ´ | l トヘトヘ / {  ̄/ > ´ > ´三三三 ∨ `ヽ l 、 l l ⊿ {ア /´> ´三三三三 〉 ヽl、∧ ,ィ仁ニ彡 〈 〈三三三三 > ‐ ilムヘヾ∨イソ ノ ∨ ,三三,.,< ∧ iリ lヘト、;,.ィ一 ´/ _,∨ ・ " > ´ _,.イiA、.ソ‐┴‐ト≦ュ , ト,< > 仁三 _ ,.ト二二 ‐<、´ ̄> ´ > 仁三三三 ,.,<`<三>、 ヽ ,.,< > ´,ィ仁三三三 ,.,< _ _ ´ ∧´ > .i ∨三三三三 ,.,< >´∧<.∧∨ ∧ > iリ ト ,ィ´ ∨三三三三 // \i´ ∧ ∧∨ ∧ > ´ i l ∨三三三 !´ ∧l ´  ̄ l ∧∨ ∧> ´i l / ,.イ ヽニ三三 l/ l l , ∧∨ l / / ソ/ 、 ,.,< 、 l、 l/ヘ l ,`ー " / / > ´ / ` ヽ ,.,< ヽ. ノ ∨ l/∧` "´ ´ `ー ´、 〉ー "´ > ´ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ∨ ヽ / ヘ , ,ィ i ∨, ∨ l ,ヽ l ヽ l,i / l_ ,.ィ´ ∨, ∨l ヽ`丶.ィ/丶 ヽ、,l l ,. j l /l`丶,、 / 〉 .ヘl ヽ ヽ /` ー一.l !/ iィ´ リ,/ .lヘヒヘ ,/ .ィ ヽ _ _` ∠i l ! .l / /イ!`丶i , , ィヽ..ヘ ´ ヽ、 l l ,` ー-〈.,/, .i. , i l二ュェ __,/ j ヽ _l、 j ヘ _ノ / l─´ lニl / > ヽ, ./  ̄ ∧ ヽ l ヘ j ´ イ ./ャ二l─l!ソ / / ∨ 〈丶、〈ャェィヒ ィ、ソ l;ィヘノ // 〉 ´\ 〉 〉、{_,.ィ´アl l 0 i} ´ ソ `ヽ、ィ, / i,≧ャ. /,ヘl /》、ヘ., {/=.r=─-ァ.∨i, iレヘ y ヘ〉/ / . l ∨/ ./ /∨i リ 〉‐-‐、> / l /──./ /. ∨i, ´ ` ヽ ヘ> " / j=-ュ、 /── / /<ヘ∨i, ヽ,ィ´!≧!>" `ヽ、 /` .〈─ /`´ / l ィ ∨i, r, i,l>‐-ィ r‐ `iヽ `ヽ、 /、 ノー イ/ヽ / > l ∨i,ヘゝ,》 , ¨ l l` 丶, /\ , >-‐ヘ /´´\ ゝ, 《 ヘ彡彡ilリ´ /, l`ヽ、/ュ、 、 i / ´ / ∨ \ >"、ヘヘ 彡ィi! ヽ、 ,.ィ´ /、 ,l `ヽ ∨、 ァ ,.イ_,ィ´`´ / 〉、ヘ 彡"ヘ、 ` r `〈 `丶イ ヽ!/i /,.ィー "─ ┐ ∨i, l! 1 lヽ /ヘ / ,.ィ´ ̄ ´ ,l┘┌=┐L / ∨i,─-ュ__/ ヽ/ ∧ュ, ,ィ! 〉─└=┴、ヽソ ∨i, / / / l ,ヘ / l─ァ‐〈 〉、 _/ 〉 `, l ´ `! l / ,ヘ_,.ヘ / /´ュ l ` ヽ ´ lヘ, ∨ ∧ l、 ,i l ソ i/ \ / l iィーュ、ヘ l l l ∨ ∧ `ー─────┴─‐一` 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ,イ ,.ィ ´ / / / l ,/ ./ / /l / l/ ,ィ´` = " ,/ リ ´ ̄ / ∨ / r ´/iノ / 〕〈,.ィーァ l l l 〈// ./ `丶´`丶、一 ` ∨ム l,/メ/ ./,./`ヽ `ヽ、 〕` ., ∨ム /メ/ / <. 〉 i 、 〉 l三二ュ.__ ∨ r ´〆i,/ ,l( ゝヽ / ´ l三三三三三 ∨, ュヒ/ iィ ‐ァヘリ. i へ〈 /l三三三三三 / i/,/;イソ l l l .〉 イ´ 〉-、三三三 / .ィ ´ i三i,.イヽ! /-≦ / .i} ∨三三 / /_ト、r =!ヘ i!ヘl∨ /ィヘ i! l三三 / / ̄ `丶 ∨、l ∨/_∧ 〉ヘ_ l三三 / / ∨、_ヒ く´.`>─三ュ、jヘ /二二 / / `ヽ ト、,ヒエi/〈/ r‐-ェュ仁!ヘト,_.> " ̄ ̄ ̄ / /i i ヽ、,ェ>└、._ir‐ー "rァ! / / ,. 、 /! / ハ二!` ーァ / // ___/ /,.r 〔二ニヘ >i´┘ .l l_./ ,i` / / イ´ ,イ i ヽ , 丶O i > ´∨ , > ´ _.≧ュ ┴┬─ュ≧イ二ニィ! 斤└ィ、/ヽヘ r,.>i´ヘ__l / ,.ィ ´,.ィ´/ / ̄ 7ィ´` ・.、_/ 〈Lヘ/ 〉 ソ l l l .l i/ィ´,.ィ´ ∧ ,/ ,ィ  ̄;;;;;;;`ー ヽ`ヽ ,ヾ / / ./ リ i l .l_.ィ ,.ィ´ > ´ ̄ 〈 ;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`! l!ヽ / `ァ´.l> ェ ィノ ./ ´,.ィ´ / /ヘ ∨;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;i li ∧ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ここから騎上 /l l ∧ /ヽ / リ l , / l / 〈 / , >-ヘ l ヽ / l,ィ , / / .〈 ,ィ ´ ∧ .〉ヾ.`丶、ソ/ , / / く l.,`ヘ __ , ∨ ∧´`ヽイヒ_〈l l /ヽ.ァ-,._ l l / l <ヽ  ̄` ー ´ ∨o 〉.巛 , `ー、`l l/l ,// l 、l/ィ´`丶、 ヽ _,., ", "ゝュィ ´ rへヘ ヘ! l 、 l _ l リィ´、ヽ //フヽ <))ニニ仁> ´ _/`ーュィェェ仁二l l-、 、 , ,.}/ユ! `ー=(> ̄ `ー一 ´ l´ `// ヽ ─-/ヘ リ‐- ! i ヒ.ィ彡リ } // ,ァ!≧ュ/ ∨l lFl lil彡 l 〈ィソ/l /l ソli } !{_ l l /ムソ. / l ´ヘ ∨ l l} `Y l /// lノ ´ ∨ l `ー、_,ィ´∧ _rュ/ l〉 l! .∨ (仁/〈 l ∧ ∧ 〈/ 7 _〈 〉 ∨ l 〉__/ ∨、 / i,.ィ´ / l . n / ∨ .l r ´ ̄`! / ヽ. . / , 〉´ 〉、_. /´ ` 丶、〉. .l l‐-‐--l;l / ─ュ! / , 、ヘィ/  ̄_> 、 l .ll!‐-‐- l l / 「i ─l l / ノ 7r,ィ / ̄ 一 ´ / / / l ‐-‐--l, リヘl .l  ̄ 〈 ソ l / l /´`、 /三ュィ/ ‐-‐-.リ/iliイ r ´ `l! _/〈/ ` !ヘ._ ソ //`ー ´` ー_ィ仁ニl l 〉、 _,ィ! l i/ j , ili!´ |三三リ 〈 l /l7〉 , lili! l三三l l l , ./. _/ lill l三三l l l / / ,´仁三ユャ、 }三三l l ´ ̄`〉 // lイ___`ヽ l }三三ヘ. 〈 ,.ィ´ `ヘ´ l ; ilil }三三〈 l〉 ´ `l! l l ilil l三三ⅲ l l l二二二ュ! ilil l!三三三! .l l  ̄ ̄ ̄ ̄ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag キットの画像そのまま li l.i ,. l l , / lュ ,ィ l ,l j.!/ヘ j ,.ィ /. 〉 ,.ィ ´>‐-‐ュ l l / ! ,. ´ ,.ィ ´/ 〈 l / ´ ,.ィ‐-ヘー、ィ} { /ヽ ヘ,.ィ´ / ヘ / ∨` ・ャ , " >、ヾ } 〈 `イ´ / ヽ \ l !, ! ヘ}ィア≦ リィ 丿、 >、ヽ、 .ノ`ァj.y ´イ /` ∨、 > ´ `ヽ ノヽ. , 、ゞ、 ー ".i二@j≧ェ ェir@ア、 _.ィ´ヽ. /  ̄ //` ´`ヽj 〉二ュ三三三>´ \ ヽ、 ,.ィ // , /` ヾ、`ニニイヘ ゝ,.ィ`丶 ,、 // l〉iヘ r〈 l ヒ ヨl iィi ヘ`ヽ、 //`ヽヾ , l ヽ、 ./ヾ " } l.ィ }∧ / 〉ーーィ ! l, i, ` `´ l ゝ ,/〉 / j./ / } ∧ ; i iリイヽ lュ ヘ { L `.ソ ィ´_ ヽ〉 イ.__l 〉ァ ´`ヽ、 ∨`iヘ l } トーイ ソ´, l,.へ!.ィi 〈/ 〉 lヘ ´` ヘヽ} ,/ヽ // /ヘ //ヽ/, l ./  ̄ヘヘ!.l`ヽリ / / ̄l / / ヘ , i l l i / , l 〈 l i / / l, ゝュイ ∨__jーl, i/ , l ・ヘ! ”i / / 〈,. 、ヘ l _ , _ゝi , / 〉 〉 / / l、 i リソ .ll }`丶, / /ーァ /,.ィ `´ ̄´ヘ l l=、. i j_ ノ `." l,ソ、_丿 / / ,/ / _ノヘ. / / ヽ、i ` ・ 、ィ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 赤兎馬のみ140%に拡大 ! li l.i ,. l l , / lュ ,ィ l ,l j.!/ヘ j ,.ィ /. 〉 ,.ィ ´>‐-‐ュ l l / ! ,. ´ ,.ィ ´/ 〈 l / ´ ,.ィ‐-ヘー、ィ} { /ヽ ヘ,.ィ´ / ヘ / ∨` ・ャ , " >、ヾ } 〈 `イ´ / ヽ \ l !, ! ヘ}ィア≦ リィ 丿、. __ >、ヽ、 .ノ`ァj.y ´イ /` ∨、 > ´ `ヽ ノヽ. , 、ゞ、 ー ".i二@j≧ェ ェir@ア、 _.ィ´ヽ. /  ̄ ` //` ´`ヽj 〉二ュ三三三>´ \イヽ、 ,.ィ /l ヽ!ヘ. /` ヾ、≧ `ニニイヘ ゝゝ,.ィ`丶 ,、 //l j l ヽ、ヘ √三`ーl一l´ヘ __ //`ヽヾ , l ヽ、 ./ヾ " l y ´アi ∧、 __ _,リ .l l `/.` ヽ ,`´ l ゝ ,/〉 / j / / l .∧ i i リ l l ./ 彡 7 L `.ソ ィ´_ ∨ 〉 / `丶、i ,.ィ’ ` ヽ.ヽ `ー"! l 彡 i トーイ ソ´, ゙i ヘ // ヽ,ヘ\ィヘヽ,/ l ,/ヽ // j /二/i, /ユヽ / ̄ `,l ヽ〉 〈 / / ̄l / /二ュ //ヽ/ ソ ´ , / i l /,_ / / / l, /─- / /i ゝ/ i // , l ̄ l 〈`´ / / l_ _ / /. } , i 彡 // l ヘ i, / / ヽ_ヽ/ュ、 ヘ、` ー,!レ イ , l .トェェイ /,.ィ 〈 ∧/ ゞ,> , _ j i l l / H i〉 ̄l ~. i `.! / , ーァi Ⅵ ,.ェュソ ’/ i l i / j 丿  ̄ `ヽ_ソ 〈i´ `, i / `ー ’ ∨ リ i´j j ‐"ァ ´ / / /、 / 〈 ` ´,l / ヘ._/ /. `ヽj ` ・.,_/ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag . l l l l ,ゝ /! l l / `ー,、_____/ .l l l`丶/ ./ ヽ,rュ、 ⊥, l ̄` i _ l l ュi / / ,ィ` ´ .イ .l、 ソヘ /! ,.ィ/ l i{ ヽ>、_,., .ィ. 、 / l i,、`ヘィ、ノ / ./ .ィ r " l、 ,ゝ、 i // //`ヽゞ リヾ、i , / / i l rュ li ´ └化__/ーィ i / 〉 `丶 .ト, ノ i, l l _ . Ⅵ .lリ 〉,_ _,ィヘ,くi ゙i ,’‐"、 _ _ ,.,ィ ヘ! ` ´/` ・、 l .l_ l ュ〉、 Kュ.レ /ヽィ´j i j`!,\ ┤ i .´ 「__」 __.〉ュ_ ヘ lュ,、ヽ、〉 ´ィi Lュィ , /,ノl l , ト、_ヘ ヽ / , ´ ア //、. }、 L_ ーァ、ヾ ´i Kl `ヽ, }‐ャ’j `丶 _ l i l lK´ / .i l 〉`ヽ、 _ソ´ >ァ i´ l l .∨ ト、 j , 丶/ 〉 、 il .ィ ヽ,_/ l l { ` ー .,〈=ァ ´ i l ヾ 、 ∨/ 、 , ー──=´ヘ li /┐. l l ゝュ,_ ∨,.,-‐─ュ、 ヾ 、/./ ヽ, .〉 ヽ. ___ ,/. li l‐┘ l l、 , ヘ ,ゝ ヽ 、 _,イハイ 、 ソ l il `ゞ、. li .> ヘ , ヽj,、ヽ ゝィユェュ、 `! リ ` i li ヘ iュ /,ィァヘ , ヽソ、 , /./ ヘ, 〉、.イ, / ! il lヘ〈 〉, l .// 〉`ァ`イ i !./ l リ .イ l li 〉 `´〈 // 〈 l‐.l ハ .l. ,i /三lュ . , ヘ、. 〈. , ! , 〉i l ‐-∨. j l i /,ソ三三三ユ_ ゝ、 ノ二ニ.`! l >、. 〉 ヽl l T T T 7 l, 三三三三三二二二二三二ア 三三三三i/ / ∧  ̄ ̄l /` ーL.⊥.⊥.⊥.」 , 〉三二三三二二二二三三/ 二ニ” l ∨ l レ ´ l ヘヽ, l l ∨ バ. . l .l `ゞべ ´ ヽ、 l l ヽ, ヽ、 l .l l ヽ、 / ` ァ-‐ニア l i!. l ` ーュ,/ / / , . , ` ー─" 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag !, イ lヘ. / .l l ∧ / ! /i /l ,ィ ,、 ∨∧ ,./. Y l,/ ., ハィ / / l l `ヽ、 ∨ ヽ / ハ li i/ ∧ーュ i l! \ ヘ ゝ、 `ゝヘi i .ィ l._,., ∨ , i.ィ l r.´丶.,. 、∨ゝ,r ,_≧il /,、 ∨ 〉, .i y `<ヽ, ∨,∧、 ヽ,j l l 丶、 ー i j / ./ ./ i ヘ._iイ ィ ! , `ヽ、 ヽ.ィ´リ.ィュ、 ソ、 ,.ィ / iてO ´ , ト, `1 ,ィ iリ /‐ 、ヽ / /.ィニニュ〈 ̄/.i i l ̄ ̄ ,.´`, .i ! ノヘ、|! _ /, li l,l.─ lLl≧ュ , j, ヘ ! i , ,y!., 、ノ .ィ! ,.ヘ´ ,.ィ´ i, ヘ!二 !リ / , ´ ヽ、 .l, i lリ `´ / j ,.ィ´ /ゝヘ彡 ニニiヽ、 〉ー=ュ, ∨/丶 ィ.i, l,.ィ/ヽィ=ァ/ ,ソ , .y´ュr==ュ ijoヘ i i !/ ´_ / ,r‐=ャ ゝ,ニl三ilil ヘ i l ゝ、_,._ / / ヘj ェく .ィ l i lili| i ̄ .l i ) 丶´ ィ´ , / ./ ,._リ lili| l l ノ _)_.-‐─‐ァ `ア‐──‐〈ュ、 l. .lilil, ,イ i ,/´ ∧ーヘ ´ l , \ ! .li| ` ー‐.1 .l / ∧ / l l \ i li| i l l ,i l / ∨ _l ヘ、. .li| i l l/, ,  ̄,ヽ /  ̄i, ̄ l i li| ! l l i i i l ヽ.__l l l,| ! l l lリ ヘ、 l ´ ̄  ̄ヽl, li i l リ、 iリ Ⅵ  ̄ ̄ ` i≧ヘ、 i ,.ィ 仁il| , `ー" ,i `ト、_,.ェェュ三ミミ彡三三i| i i 二二ソ ヽili i三三r"`i .l i l!ili `i三リ .l , ∨ ノilili .}三il l _ ヽ、 ` ー=‐ iiilililil j三il| , ´ ,.ィニュ 〉 `ー " ハ三ili, l / _ ヽ ハil三ili, l / ´ ̄  ̄ i ` ̄ ̄´. レ l `ー──一” 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2010/04/11(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ∧ ∧ ∧ l l /∨ , 、 ∨ュ l .l /∨, / .〉 ∨ュ l l /∨. / / ∨ヽ ∧ ∧ , .∨. 〈 〈 _ ∨ ヽ、 ∧ ∧ ノ ∨. __/ O 〉 ト、  ̄l, ∨丶`丶イ \/ ヘ,く r ´r´ _ヽ_/ ヘ .o ヘ>==∨ \ヘ \ / (0リ ,. < ̄ ヽ. ト、 l__ `ュ、 rュ._>ll<≧>´/ヽ 丶 _\ lユェュ`l三ヘ Yェ、 `ヽ! ´,.ィ´ .〈 ヽ, ´ ̄ `ヽ! ,ィ仁`丶、 {l l l l ヘ_l lト、`ヽイ /\ム /ヽo -‐ ´ ̄ > ´>L__ヽ 、 ,ィ lュニ(0リ r、 〉、l ヘヘ ,ィレ 、,ィ 〉Oリ´ ヽ ヽo_-‐,</´ l ヽ`丶、 __ __,., ´丿 /.リ l 〉,ハ,〉ェェェェュ.、 ィ仁ユアl r `´ 〉、 r‐=- ,ィく ノ `丶、二 ̄ 二/ n ´ソ , l l〈rュp,ィュ、 〉//〈/ Lゝュ、,.ィ´r, r┬┬┬ュ \ ,イ l lニユ { l ∨ /=-.} l__ >´ユ。∨ 二!⊆/ l l .l l l `丶、 \ /≧=二飛ュ、_ ` ーlヽ./ /lュ∨三ャ、彡 ´>─= 〔 ヽlニl二lニlニl _`一`三二ィ 一‐─ 、 .,-──.ュ.、_,.、_,.へィ´>l|.二二/ l 三=┬ュ────l /‐┼l_リ/l7ュェァュィ ´。─ュ=ユ.、 [二lニlソ____ノ二三 ┌‐┐ 〆 ヾ l ll 7 ̄ <. <ニニ 二l >ll.二二\ l 三=┴” ̄ ̄ ̄ ̄l/ ̄ lL/o /o.l {二三三ユ}} 〉∧. ̄ ̄ ̄ ̄ ̄lニ三二l__l二弋 ソl l / `ー‐─一 ´ ̄`´~ヽ ´ `Y l -ュ. _.ソ ̄ / o //ヘ 〉 ヘ ヒ! {コソイ=ユ, ∧ `ー──ァコ「」二二ア `ヘヽ. .{ { ,ィ、ム p // l. q. q ol!o b l l ∨∧ / l 〈リl 〉 〉 〉、,.へl 〉 〉、l l l l レ , ,.〈 ̄`ヽ. / / ∨ヘ} ,l ∧ l/r 〆ュ、_ / `l、 l レ ヽ_,ィ ヽ.ヽ、l ,ィ! `ー一´ \l ∧ / トイ l 、 / `´`´ `Y 〉、_,イ l \ l ,ィ´ `丶´>,ユ二ヘ rkェェ≦! l彡イヘ ` ,. /ヘ>‐、 /l ´ヘ. / ∨∧ヽ. ヽ.ヘ/ `ヽ. _,. / `´ 〉 ´ ∨ムトェソ/ ∨ lリ / ` 、/ \ / ,._l __∨ユイ ̄ `ーL三/ ュ__ ヽ  ̄  ̄ ̄  ̄ ̄ ̄´  ̄ ` SDガンダム三国伝から、呂布トールギス。 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/21(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 猛獲ガンダム 〃 }ヽ / ! , 、 }ハ l l / ,N Vl ,、/l l l Yи l,〉′ /ィj }´| ,ィ / l/ / VLl } ll { __rγ´ノ / _/‐ッ/ lイ- r- }.цヘ l V二 ヘ ∠´‐=/ イ゚ ‐、( 〈ヘ l ヘ Y,l ,、〉{O)->_ ィ{, ヽ z_) 〉‐z---_‐ッ ヽ 寸ヽl ry イγ_´<´__, フ フ レ ‐、_,> ´ ヾ{゚ ト金r 、{ゝ ノr-v=j´ /,. ッ 卦、从V, ィ r lヾイ r ´ / . r 、 ryl 、}圦ヒソ〈.弋 ノ イ ‐- ッ r,、-ッ ,.ィフ lヽ弋 ヽ ヽ《lヘ = `チ | 》彡,. イ ノrン/ ´ / ∨(_ l 、 ̄ヘ|r/ ヘィ イ|/_/,. ケ、)γィ ∠, ヽ、O)、__ ´二 ー ´γy/-/_,ィ(O r- ___/ ∨oYγヽ=-∠ r (oヾ / v、, 、 r _∧ lミ弋ノソ ヽ彡ゝ ーフノ γ7、 rヽlヘ / { ン 、 r __‐‐,-、 _ _ヘ ´ ` { l ソ lヽ近 { ィr{ ヾ 、,ハ〈〈 , / ィ,ン´T ニγ´ソλ//.// |_ r 、)l | ベ´v Y´ / rl , ゞ_ヽ . ` 〈/ `テ‐ ,{ 、/トイ | / /ヽ、ヽ_`ニ== 、 =、ヘ. l |ハ 〉l ´ ∨ λ/V_ニニヘ / , -クヽVj ∧/ l ´V/r、 ̄ ヘ} . ,_/ィl _,ニ= 〉、_ ニノ V.∧ ゝヽ ヘ 〈_/´_,. -‐ `l、 ヽ`ハ__lヽ  ̄ `ヽ、_Y_`l 部隊兵 |ヽ ト、.〉 ∨{ ハ . 、 } ヘ 〈 〉 , λ_ r〈 , _-‐ ¬‐- 、 l l 〔〕 l ,l , </ ̄`丶、γ`ヽ ∨γヾイ /v l ゚ l/ ヽ! ∨ Ll ゝ 、 l _,. -{、/,ィ l l `|l` ー ´ jlY。_,.ヘ . l l __ |lトr ニヽ-= イ |。 -‐ヘ_ l l /(´ ` 从ヘ , , l_,. ィl, ィ|。_r。´‐_.ニヽ l l // r ` γニy`ニ´ニo γ´ ヘ ´,.. -‐ヘ l l/ ヽ 〈r‐‐ ‐。、 〈 l、 _,. ヘ z _,二ヘ 〈Ll∠ ̄ヽl `ヽ、 〉 .`‐イ-ペ,.ィ´ ̄)) {ニゝリ| ,ノ,ゝrーr-‐;<三二´{_-=/ } ゞr ´ /∧Y´`ヽ/, ヽ´-‐r _〉7-、ン . l l 〈//`l。___。/ ‐‐`ゝ ゞ〈/ / l l _‐ 、ヘ´_フ` 〈__〉_ v _` ´ 〃 `ヽ`ヾ,=┐ r/,.-‐_‐ヽ / 7ー‐‐ ´ /L...l 〈|ヾ、 〉-、ハ ` ′ー‐ ´ ヽ、! l ヘノ `└‐ ′ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/18(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 周瑜百式 /l /l 、、 l !l // / ∨ヽ、 l 〉〉 r // ∨‐`ー、 !l〈 ∧-=‐、 ノ// ヽl ( J,ヘ l !l 《 〉〉、 l `ヽ ⌒ヽ./, / ヾ 、ヽ`ヘ l !l l Y | ∨ -- ヘ./ィ / ,-、 \ ゝ、\ !L r7`Y´| /彡 ‐ - _/, ヽ. ((0)rョ \ ー‐\ V圦_ | ノ!/r‐= 、ぅヽ イ! l ハ ゙ト イ_|ヨ_ \ `ヽ\ r{. l、ゞ ^ノ、== _ ニ=r仝。rフl l l└r テ \ \ マ h ト、 ノイl. } l ,ノl /./ .l l___/ rニY \ \ r=γ´ ̄`ヽ_V ヘゞ l=-ゞ‐, イ |/_イ-ュ , < ,、 、`ニ -、 \ \ レ {_ _ィ o_´-ハ lヘl. , l !| ノ/lγ_)r rヘ> ヘ ン \ -ヽ、 ヾ⊥ -‐^ | ヘV ヽ ,ノ ´, //; ´/ ゝ -‐チ=〉イ〉 ヽ `ヽヽ、,.rュ Vイ` l|/ 7 7´Y /// - ´ /-r r-イ /イ ヽ`て〉、〈ヽ_ ヽ、_〈ト、= == 、/_イ l ヘ 。_, r v- ヾ_ /) ト ヽ ヽ、ヽヽ lテヽ 7ヘヽヘ , lr //‐-rッ {゚レ l,.、ヽV({ ,トヽ ヽ∠ソ r-、゙ソ_≧ハ ‐l /丿|‐ /イ ヽ__L___、ヽ ヾ∧ }ヘ` r`ヾ ‐ テ、 .〉 ,r 〈 〈 |Y) ヾ /_γ,ィ /ヽ ゝノ ヽヽヘ 、ゞ 、 メ l 〈 ー∧ Y l - 〉イ `l `ト>_,、 /´ ヽ 0 ヽ ヽ___ヽ 个7l o /7l oヽl ヽ_ッ = Y `´ 〉 ∨| } /`7ヾ、l .l__〉| / _; ヽ, ィ=ニヘ } l/ ,r -イメ、 /‐-)Y ` lゞl´ ,-‐ヘニ_} ∨ ,..,< , _ __ヽ -‐´_ == ヾヘ /´ ヘ `ー ---‐‐ ´ \ ヽヘ -‐ ヘ ヽ- -‐ ′ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/18(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 韓当ジムキャノンⅡ // / l . / | / /l ノ 「l| ! / l γ´ ` ヽ、 ノナ! l l lvイ (__, -、 ヽ } // / V∨ vイ、 ,-ゝ- 、、∨l | // / . Vlミ 、 | ヘ ∧、〈 ∨L`l ゝヽ / / / . V ミ、| , ヘ ィ、/ 山 ハ_ __,ィヽ \ λ/ / . V ハ,l∨ , ヽ r(_ ヽY, ´___,. ィ ´〉ノヽ [ニ]. { Y Y Yフヽ. ヽ込_゚ _l__ 、゚_,. - ハ》ス.イハ | ト, ! ト┤ ヾ \V.ト〈q r〉‐  ̄}| ゚ l フ l. | | !l L_! \. l lヘ  ̄ _; イ ノィ | イィ _|__| { ト┤ , r--ヽヽvヘ_ ;/ニ彡 _オ フ=7´r、‐-ヾ┐ . ト┤ //‐- / rヘY -- .〉 /--, l ´_| | ヘ ヾ !. !ー ./, 、‐/ r ニT Tニ TニT | .| rヘ !__,ゝ--_ヽ、 . |. | ヘ ‐- _{ミr== == | l -‐ _,ソ、__,/、 フ . _|_,l=、ィ> -〉.{ ゙, "、 ヾ彡_--_ .チ_ _´ヘV ヽ ´ (__{ Y_} , 〉<_7‐、,‐7/二 __ヘ´ _.{ __/_//ヾ . (ニコ _}ィ‐/ Уハ ´`r ´ ,}、∨rテフ7ヽ.ヽ// T | ̄´l\ イ`´ ´!l_, -‐ヘ 〉.{ (_ 、 /‐ | | __l\ | r ,___r ,! _, -r 、丶__>=ン . ト.l ( 、 、 ー─‐ー ス´ ヽ_ /-‐ ´`ト ,└< _ 、ヽ` gr ノ { /ノ ヘ_,.. -‐┴、 〈_‐- ` -‐`_ッ= -= -‐ ヾl` ヘ ___,. ヘ ` ´  ̄ ̄ `ヽ --‐‐ ′ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/16(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 公孫サンイージーエイト 「! _,....ィ_ !l / `ヽ !| ∨_r--、ヽヽヘ ハ /ニヘ ̄_ヽ ヾ | ,l/ヘ ̄ o`ヽ =ヽl、| ,、/, l | , ハソV ヽ>, |l、 、〉-〈_/ - _ ィニ<ソ ト lト,、◎ ,.rィT 「 } | l /フ _ _ _ マH ゞンr ._ヾニイィ r 、 |,イ _,..,、__ (o)`ヾ、 -ヾ 「|Y ニ=-ニ[ | l´| l !}ヘヘr ´ _ゞシ) _) `テ= - =ニヘ| ゞr_7、__ ィ‐; У-‐_ニハ´ rxヽヘ __ 〈XXxx|_,.-ゝ- = -v‐= =´-{xxxxX///XxxY _/ ハ, l∧xxxr xxx{..ニ,...<xXγ´|ヾ_-= 〈/、Vxxx} { /ゞヽ、. l `,=r{XXXXXXXXXゞ{ ヽニr ´ rヾVVXト リ ヘ `ヾ\ { /xフ`ゞr_{二二ヾ_-‐_´,.゙ニラ.7^TXlxx}V`´| ヽ リ \ヾ、.ケ、 、 7r==|_|_ノr===,ヘヾXxx}__,ニヾX} ヽ- ノノ Y、l 、Y〈xx| | !|XXX〉}ヘヾY´/_ / ヾy l ! ´ /ゝ-ゞ ∧ Lrヽ‐ヽl。ヽ_x/ /ヘ∨ゞ -_ヽ_/ | l / ,==V__{/  ̄l ‐─ _/-V_| n_ヽニ、 ! ! / _/o _,ノ, ^ヽ,ィニヾ ̄ r v ヘ`´,.、ヘ} | | /ニ=-r ┬ ´ l/ { {__}λ___lvrヘ 〉ヽゞ -ヘ─‐ケ ! ∠ニ7 ´ ,ゝ ___,ニ Vl 、- 、_| ̄_ヘ〉, -‐ ヽ==ヽ===-‐ ′ V ` Tニニ l ! ` - ゚---゚‐′ 黄蓋グフ |ヽ __ _/`ヽ_ | ゚lン´ `ヽ、 ,.ッ 〉V´ ヘ | ∨ , -、 ヾシ ´ ヾ´゚ ヘ | ∨ /__ ヽ′ ヾ ゚, ヘ ,l /r气´ ̄`ヽ ヾ- ,〉 _ lヽl´レ / ィ`て/_ハ __ ヾ` ヽ、 `}=ンヘ / /´ { ゝ。Y r=´ノ o]γヽ}ハ ∨ ∧ ヾ- ヘ l { んト、_。___,r= ´|/-Уl_ヲ / } ヾ__゚ヘ l ヘ lニH 弋 ン__; ッイ/_7ィk ___r,ト、 / ヾ-〈,、 ∨//´ `ハ_-ヘ  ̄,ィ-_- ッl^V.//" " ゝ `Y ヾ- ヘ Y-‐ハ { { テλ- 、ト - ゝイ {< )) __二} ヾ-゚ヘ 人`" リ レ ィ7^ハ ハl==ッl´∨、_,.ィ´ ヘヘヽ ヾ_,イ_ Vハ_-/// イ, レ / / l ヽ゚イ r== 、 ′ 〈´_,ヘ`γ^ ‐ヘ 个ニ=-r = --`ニ 〉r ´ヽoヾイ_}l ヾ- ヘ>、/ , r,-,、_-r ,ニ-┴ヾ j -l 彡 ( ^ィ o{! ヾ_ )r Y/ヘj 。l (.ィj } V ,γ ,ソトN W w ソ } ヽ彡Ul ハヽ`´r / l //ゝ y。 !l、M, w / チrヘ l ,、 ノ /ヽ トィ゚ヽy ´/‐,ニ、 ,イ ン`ヽ イヽ/|`´l 〈 /γ -イ_,/ / /′ _,.< ‐-‐ ヘヘィ´ _ ィ V | ヽ、_.二チヾ r r ´`ヽ-‐ ´_. = -‐ ト` ヽ , -‐ヘ ヘ ` ‐゙‐ `  ̄ ` ‐ 、,_-__〉ニl 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/15(火) 03 12 29 ID qJLrCBag BB戦士 三国伝より 馬超ブルーディスティニー }\ . }ヽト `l.ヽ\ ∨ヽゝ、 `lvヽ \ ∧ ∨ ヽ ( ノソ ,l ィl └、o ,ヾ\ r‐/´,r‐ ニ-- l }〈 ヽヾ M ∠二 ヘ ー- 、 `ハ- 、 ,rシ,ィ ,ィ V ヘ ヘヾ、_ ,.、 爿 .F-〈 l ,_ v=ニヽ ソ lン / /,l // ` )´ V 、ヾ` λ {,〉-〉V ) フッ__ン´ ´.イ、 l l // _/ rヽ-ヘ `ヽ\ 从{ヽl´.r‐ フノ,γγヽ/,ィ 7l、ヽ! | // |,ィ | ∨ヘ, ヽ\ VトM ^7[フ ヲ_入 ゙,=r 、_,ィヘ | `l .|,.ッ l レッ l | ゝ彡 `ヽ , M〈_`´__ ,.イ´l l ^l } , } | | 、.| ./ r / Yヘ ヾヽ r- .、 叫l、l!`ニ〈ゝニノ_ノ イハノ .| lヘ` l__,、ハ{ ! ∨ヽ. ヽヽ (ヘ _ `ヽ.NHY´ -r = r イ //ニ/ ,.lヽl , ヾ、 Mリ } ∨| ヽヽ 〃ヽ)_L_ミ.l l l、y ハ l |_|//ヘ´l γ ヽ}lヽ l`ヽ`ヽl´rノ ヾ ヽヽ / ゞyl | l` ‐o}}-ヘヘイ ニ´- ┴r ´ ト=ィ` ニ ゝ- 、λ{ ヽヽ 6// ヽ| l, rγ^ ン ∠∠、 |_ l l/ヽヽ` `、 、ヾrヘ ヽヽ f´ノ ノ、| ゝ| ̄ | |aゞ , 、 | l ゚`´_,ソ‐〈ヾ_ ヽヾ ` 、r ヘ ヽヽニフフ´ ゞ ト-- 、 vニゝ Yニ_-_ィ 〉- l`r-、ーヾ、 ヽ (,、 )} ヽヽK ` 、/イ-r`‐r`-- 、rrヘ ヘヘ__l_r./ | l ノ l ヾv=-=v ´ 〈ヘ 〉 _ヘY/ケ´,r  ̄テ、 r l| ヘヽ __テrフ^ヽ、゙.イ ヽニ廴lУハ-イ_/ 〈゙- ソ l 〉ィl Y 、 / ヾイヘ∨_l_ヘヘヘVl_l___/.イ ヾ _l_Tチ=‐-′ ,.ィy女ニゥ- =r __゙ーー ´ ` Y _={´.ヤ=、、 r 、_< `ヽv-=、ハ rテ/ (`´}__ヘl __/ r ヘ __ { { } / { l ト、 / ニ-´、ヾ /` 7──‐ヘ´ /ゞ=- Y∧Y‐ -エニ_ _ヘ ` ‐ ───‐ ∨_ 「´ _ l ` ´ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/15(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 同じく 典韋アッシマー __ l ハ、 /─‐ヘ |.! / ゝ、 r-‐,、‐, ,..、___,.ノl | .l ./ /、 ` ー- 、_ヾ __,.ニ `イ´,、 、__,ノ_ ! ! l l ´ヽ ( `,l、 |ゝ 人__ノ--イ 〉〈 ! ! ヽ ゝ--、 l ゚ l l トゝ <ィ ´ ト、__/_ヽ__∧ // ! ! ( ゝ .l ゚ l l l、 ヾ´_ 〉ヽ = <,. < (( / l l , r 、 l `l レ ` ̄´ ,.ィ,ニ_{ニヽ`ヽ _,. ゝ r y ヽ .l l ゝ== l l l // 彡|rヘV.ヽヽ.∨ __ゝ_ク ,} . ∨ ∨ ,_/ /´ l o/ l { { ヾ|l ;-∨ハハ V´ ト ⊥.=-γヘニ、 ∨ ヾ´ ` ,> ヘイ_,. イ __V; /弋__ソヽ、Vl_V,ニγ| )、ヽ ヽ l l!L, . ∨ ヽ,/ ヾ O/ ニニ/γ ヽ|l f´lヘ l| l r= ,ヘゝ´ ,.ヘ-‐ヘl_!〈 \ / ヾニl ニニ/ヾr=- Lr L.l テ´‐ 〈 、 ´ >.―‐、 } \l l_l !ニ/o/λr ^ゝ,>勿乍コュ l / 7 、 __/ ノ l ! ̄ ´ {回ニィ トβ ξ |[___l〈゚〈_,ニ〈_,.イ---`、ー _L,!r=、会ゝ.、 {个 lゞ=ニ´ッソ `〉, イ / // ,>ッ} {... ィL_l |》 〉r テy─,ゝ 、´r=ニ У/ロ回λゝ 弋//l }二ニl´lロLカ^L__/´ | l r 〈人フ /ヽ、 ヽ.ヽ// ーrT´ ̄,.-| }_ _ γ | ヾ∨r(Yイ/ /ヽ ヽ) L| ,} l|(_, r__) |---r-、__ヾ=ニヽ ニ´- /ニ l_ヽL=---=ニ_| ,ハヘr ∧ヽ ヽ |_>`丶ー T T ‐r,、} l l l 〉=‐ ヽ{ / メ´ \.l-ゝ / | kノ |∧ __ヘ /r= メ、__\/ ー-‐ ヾ ィ /´_ ヘ ` ‐ ‐  ̄ ヾ∧ ヘ___l ` ´ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/15(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 程普ジムカスタム /l! ヽ、┐ ) l! ヽ`´ l! l! l! /l ヽ ヽ , / .l /! } } __,ノ,! / .l //l { {、 __-- - ‐ , r‐- / / ヽ ヽ 「 ヘ∨ ,ヘ(ヘ´L, 、__/ / l! ,、l! _L==vv ‐=-、 、/ ,.イ ゝLv _/rヽ `テゝ、`ヽ r_ ,ィ_, , ハ l El // `´ ( l `テ= γ,. /ハ ヽ l l Eト、 У{ ) } !(_z _,. _゙= イ{ l ヽ| LFトl } r==、(fチ,.-‐ . ´ . | l l } } λ__} l 〈=ヘ___∨´ . . . . . , ィ !{={ ゚l ノ // T o/ ___V ヘ . . . ;. .,.ィ ´// V }ノ_ ⊥r-----、 / /゙r┤ l ゚ r __H ヤーr ーイ!ロ l _,ハl´ //´三ヘ三! / / ∨! /l !l l -ゝレ〉,n M /ニ-イl ; |l! /∧ γ,三ヘ三、__ ! / ∨!./ ノ 〉= - ,r ニ ハ{w/ノ,}チニl r┤ ー‐〈 ヽ _ >ヘ ̄==ヽ l / ∨!- ,.ィ ロ , - -,- /_/〈 |_ [,ヽ 、 /´ ̄ フ レ ∨!/_,.ィ、-ヘ三Ll ヘ ヘ三彡_-、_ヽ=_ _r,. ^ヽ‐ ´ `ヽ- ∨! 、_\ヽY ,.ニV_∨rテ -r-r- `´{=ql l ヽ (ゝ_ム_} ))∧ 7ィ|`´j /l !lフ } }l 〉_lニ L‐´ \ | ヤ_Lィj ノ` ‐ /{== / .l l└ ´l 「`.Y ,.ィ / \ ヽ| ゝニrヘ v /  ̄ ! lr┐「゚ニ}l ゝ _>、 /゙´ ∨!_ ヽ /=_9==6_ヘ ` _ -ヘ`ヽ__lハトレ ー_ 〉 /` 、/_ `,ニ、)`´ `コ ,-‐=o「´ ヽ ,(=- 、/ ` 7γヽl 「lr l _,. ヘ ‐_,ニヘ ,. -‐ ‐-, ヽ ____,j、ゞソ 7 トリL/ r _ニ´-‐ ヽ V ヽ ´ ` ´__,..- ‐´ ´ ヽ l`´ヘ __,. -ヽ ` ー‐ ´ `丶_v_´. -─ 程昱ワイズワラビー ,. <二 ̄> 、 , ¬ヽo)´ / / ハ } イ== ヽ { ゝ_イ rVヘ ∨ r `_‐ ニ -‐λ ,Vヘ___∨/_/.-‐ ´_,.>、 // / l )ヽ / ノ } r _l ー‐ l_,ノ_,゚ィ -r-、 ノ! l ,L-_‐,..ニ´‐ _, イ| l | ´ / l ヽ ,ヽ.___ノ,._,.ィ |l ; -┤ノl r┬- ゙=_ ィマ __ヾヾ ´ ,._ _ ーェL,ュ -,‐_ _二l } 「 ̄`ヘH ;〈〈ヽ_, イノ,ィ‐γ// ∧ ∧ l _,z.ニr==ニチ- - ニ> // / , ヘ,  ̄ 〉 〈ヘ l´ r __r | O ̄`l レ 〈 - / T‐┤ /ヾ`|O l __l、_ヽ、( ) |、ヽ- テ-イ7 ‐| l /__ 人 /,-ヨ=チ_-∨, イ-`‐-イ/_/ | l . Y (rヘ vイ {_,.┴‐┴、` ナ´ r三 v‐ )7 7ヽ/ ヽノ ヾ-lヘ_ヘ/ // / - ソ!l`!l |.l ゚ Y- 、/ ∨/ ヾ-/〈 // ケ, ー- !l !l __j |、_o`ヾ=_ヽ/イ∧ r Y∨/l )) ゝ ((!l_j ´.-‐ | `l ‐r ´ | L -、 jー──┤, イ l , ヘ,. ⌒ヾ、- | _,. < ,. Lrヘ、__,. イ ∨{`Y \ _,∧_ / r< _,.` ヽ_, -\ _ソ ヾ ト .ヘ´ ヘ ∨_∧_,.. -‐‐  ̄ ̄ ` ヽ、 〉 ´ ̄__〉  ̄ ` ´ ̄ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/07/12(火) 03 12 29 ID qJLrCBag BB戦士 三国伝より 郭嘉ヴァサーゴ _ -‐===‐_、 _ <、 ´ _,( {_}) ヘl r ==r ゚ヽ‐r r ゝ- 、 // ,. <l lヘヽ ヽヘ ヽ_ ,ゝ- ‐‐> , イ ,. < ,ノ/ l ヘー 、 r-ニvγ>n ̄ イ) _Y,. </ イ7/ ∨ヘ ィ〈 ノ レl ), ィ _ - ノ´ / ノ // ∨{ヾ{ Yοク/ ´__ Y彡 //// ∨ヽr、{ ソ´,., rイ} | l /// | |ヘヾ=, (ヽニ _,/// r ノ _r--r---r-゙l ヘ`´ l `。〕l r r┴- - ,-_-‐ 7=r==-、 ∨ l ,、 ヽ , l ∨[]ヘ テ、 r ノイ//´/ /ィ /7 / r ´ / / 7 \ヽl l !_ヘU/Y__,ノイ し/ / l ! / l ´ / / / / /´ ノ \ヽ l y y ,.ィ 、 - ___// l- | ┴‐ / - / / ヽ ヽl ( `{ 二 / r ´ ,ノ、 lノ, { -= ニ ¬‐ イハ . / , ハ ヽl `ヾ、__ヽ ヽ_‐ニ´--r=`´ 〉二ニミ ヽ l / / | l/ ノ }-マ((∨ムr ´∧ヘ  ̄ テ´___ \ハ | ./,ソ ! ハ /( 7/∠/ィ| |二7ヘ∧ У_ソ´/ヽ ヾ | レ λ l/ | __/| r= 、 | |__ / ∧、Vr> /ヽ | | {∧ イゝl l| `| |- / / ゝヽ ` -ニソニ=イ | ∨ v 、 / |´J l|( ,)_ | r,┐ /、Y ,- ヾ´`,==| ヽ | ∨/,ィ‐λ‐ヘ|l , λ-‐ ∨ l ト 〉ゞ ‐、} ヽ | ‐ /、 ヽ l◎,リ `7´ .ト、‐_/ , _ヘ_ Y| . / / ヾ _ ニ´ ´/`-‐ ヽ{ ヽ^∧ ∧ レ . 、 _r __ノ´  ̄ `^V ∧ l ` ┴ ´ 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/06/13(火) 03 12 29 ID qJLrCBag やっつけ気味曹操ガンダム ,イ / .| r―‐、 / , |\ 「 `ヽヽ ,/ / . , ヽ ゙} ゙ ハ ィ /, / , ヽ i! ! ハ , i / / / ヽ 、 ヽ. ト、 !l | ハ , ,l /| / / / ヽ 丶\ | , ,ハ | ∨/ / |/ ,.ィ′ ,/ 丶、 、 \! ヽ !ハ | i 、,//__ / / / ノ ,/ , ト、 ` `i ハ,.!-- !У 〉 ヽ._| / レ ,/ . ヽ ゙ー` ,レ ^ヽ.∧ ,| l二.l / /! / `ヽ,./ ,/ ヽ ゙i 、-、 ヾ.∨レニニ`/ / ´,.ィ/,フ / / ヽ ヽ ゙ミ=-、iY| ノシ-ァー「イァ/,イ,/! / , r-\ヾト、ヽ. , .//-イ_ィr‐-、ノ_ノ!| , ,.イ _, -‐- 、__ 「\i `r、 ゙ゞト∨/」テ/ ,>、 `゙。`゙´┴、,-==-, ヽ \.\!ハ \゙ト/ |//l_j | ンi ,.- ニ´ ̄, | / ヽ. !ハゞ゙シ、/ ゞ= "/〃//,. ⌒ヽ ,/ / ハ , "ト、/゙`ヽ、,ヘ 、////⌒ヽ.ノ _∠_ __ /ー-,_ . !i ヽ. |ハー ニ ヽ_lコ、/ノ/l |. ⌒| ∧!´ .>、 `ヽ、 |l ト.l ,ロヽ/7 , .ノ‐ / ,| 〉、ニ/ ̄ヽレ ´ヽ / ,,..-ゝ、 `ヽ、 ヾ ,.>ー ヽi/´r´ /v ´\/ ヽ \/\/ ,,..-‐´\ \ ヽ./〃 r, `У |,/ r´ ヽ_ゝ X´ ト、 〉/ 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2009/06/13(火) 03 12 29 ID qJLrCBag , ,.イ / | , | / .| , / / -‐ 7´ , . . ,、 -‐´ / ,、 / 小/ / . ,小 , ´ ノ/ ト,_ -‐´ / `ゝ、∠ . ,-イ´/ / | 〈 / / /´ ̄ ト,-‐- 、 . | ./ / / , ム i 、 | j ノ イ L. ´ ヘ i 、 j ノ /, リ ヘ i 、 }.爪Ⅶヽ∠ 〈 ノ . ,-‐ へ , \ }ソ Ⅶ匕´Pノ`´ ノ Ⅶ ヤ v \ 叭 爪卞入 . , . -‐ ;___ 寸/`\ \ 圦 什イ ノi i i i i i i i 刀ヵ (( ノ \ i .`イ j _ _.-. 爪i i i i i i i i イ / 爪 \ ⌒ ` ̄爪 斤i i i i i iイ/ / | | 冫 圦liュ、 /  ̄ ̄ / /│|,-‐ー‐- 、 ,-‐´ リ入 冫 ,小 / │| 丿 liュ-‐´ Ⅶ小 爪 〈 / │| ノヽ -‐ ´ヽ }ソ 少、 ノ 小.ヘ/- --‐/ ./ ̄/ 八 リ 夂/ `ヽ´ 夂/、r--ー, ´ / i`ヽ ヽ ヽ //イ㎞// ,イ 小_ 」 .! ノ 厲 / /庁// / _ _ / 八 j ,.イ ,ィ ト, ト 、 ト ト_.., -- ‐ ´ヽ  ̄ ヽ Y ヘ ,r __ __ { i i\ _,,,......,,,_ ノ i } { i i i i` ー‐- .... ,,_少 ´ ``弋_,, ... -‐ー ´ i i i } { i i i i i i i i i i i i ij i i i i{ 斤i i i i i i i i i i i i i i } 圦 i i i i i i i i i i i i i i i圦 /i i i i i i i i i i i i i i i i/ 圦 i i i i i i i i i i ii i i i i i i\ _,イi i i i i i i i i i i i i i i 斤 ` i 、 i i i i i ,ヘi i i i i i 〕liュ、_ _ イ i i i i i i i,へ i i i i , i ´ ヘ `゙゙゙゙゙´  ̄ ̄`゙゙゙゙゙゙Y"""´ ̄ ̄ `゙゙゙゙゙´ , ヘ \ !" / \ ゙i / 司馬懿サザビー(軍師モード)昨日投稿した分の改良と 顔アップ。 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2009/06/12(火) 03 12 29 ID qJLrCBag ,.ュ / | | / | / / -‐´7 -‐´ / ,、 / 入/ / . ,小 ノ/ ト,_ -‐´ / ゝ、/ . ,-イ / / | 〈 / / /´ ´ -,-‐- 、 . | ./ / / , ム liュ、 人はただ | j ノ イ L. ´ ヘ liュ、 宿命に殉ずるのみ j ノ /, リ ヘ liュ、 }.爪Ⅶヽ∠ 〈 ノ . ,-‐ へ , \ }ソ Ⅶ匕´Pノ`´ ノ Ⅶ ヤ v \ 叭 爪卞入 . , . -‐ ;___ 寸/` \ 圦 什イ ノi i i i i i i i 刀ヵ (( ノ \ i イ . , .-. 爪i i i i i i i i イ / 爪 \ `´ ` 爪 斤i i i i i iイ./ / | | > 圦liュ、 /  ̄ ̄ / /│|,-‐ー‐- 、 ,-‐´ リ入 冫 ,小 /│| liュ、,-‐´ Ⅶ小 爪 〈 / │| }ソ 少 ノ 小.ヘ / `ヽ´ SDガンダム BB戦士三国伝 機駕太傅 司馬懿サザビー(軍師モード) 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/06/06(火) 03 12 29 ID qJLrCBag 龍将飛将 、 | \ ,. ヽ \ / ! _ ,-、. ト、 \ ! /"1 ̄〉\ /ハ ,,.-‐ア、 ヽ \ヽ\ヽ \/ヘ | / ヽ \ ,!、r‐=ア ,// \i=、ヽ. \`ヽ `ー‐、 / ,/| ヽ 〉゙i ^!_.〃// ヾ、 ヾ\_〉, ` ̄,、`) / Уトl }ニr、 / ヽ ト!ヘ| // /ニ/`>r´ ⊂ニ, ソ、!/゙o f=ヽレ /! /j/,/ン フフ1l| ヾヽ>lヽ、レ、/!_ ノ- ヽi l レ^l゙ /-!〃r ,-〈 !/ 〉 r´`Y"!.l" ト二ニl! _ ,.[ニ]l j,ヘr、ト、_r‐゙ T´|/ニァ) 、//"=゙ー `! ├―‐ 「 ゝ-"/=ij jラトユ--」ー、 / 1ソノ_ lj`\ | ! ,,..ァ -、!r1 ^l/゙{三}7\ニッ― ニ)´r=ヾ、「o ト、_ ヽ、 ! ! ,//ゞ ‐-フ ,アレ゙ー 〈 ミ l゙7!7! 「立 フ i!ヽ`^ァー、ニ_ゝヽ | / ァ ,.r" ̄ / 「/、 \\l |゙ー ! iミ| v //〉〉 ,.-、゙^ヽ、 ゙ / // ノ/!´゙ー≧、_ヽ`rl {二} j,、「ソ/// `r´ ヽ`ーl レ ∠ -- ´ !∠二二__フヽj \_/ l`´ // 〉、|! ヽ ヽ__| `´- ヽjー、_〕r ヽ ヽ ヽ \r‐┴‐゙、 \ ヽ__! \_〉___」 名前 : ◆G/mRFv/Ji. 投稿日 :2009/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag _, -──- ._ ///XXX>くr个x 〈フヘ /xr=コ二7 マ二エ¬くハ ヾ ´\rく0)_< O > (◎>ヘ ヾ ,イ}^V r冖ミヘ. /ノ_二ィ トr「\ L爪j { { % r仄´ トV ||人 | j人 /7_彡 ^ヽ` _/_レくTX゙] 「\ |>xY | ,ニ _」/ /ヽ;゙X゙T゙} r ヘ  ̄ 7 | [ ト、 /^ 、} /l/___ノ´リ二ュ | 〉ヘ{¬--ニ ┴ ブ/フ/7T r 冖ミ リ |.|≡|.| | くfヘ\r冖くV 冖k/ ´/ーl | { 農 }〔 レ! L! 人_ト込r-ゞ r公トン, -v_厶ト-rニイくl |// /ミZ __レ ^Vく工T T工ンV T ! V L._ レイ ゙゙̄i 《巛》0∃ミ゙i ゙iヘ ヘノ└゙゙゙┘ V (◎イ》》》》 l -/{ }_《 / lハ` ̄ | l ̄ ̄l |∨ 〈 フ Vニ7\ └くフイr_ >‐、ハ--1__L. --ヘ、 }- ヘ^ zァハ__ソ >、iコ 厂匸-ヘ iコ ー_彡く ̄丁l 《゙, ̄、´ノノ匸(◎ (()´[゙, ̄ ̄,, く〕 / ̄ 7¬-ヘシハ ≦く ̄_匸_厂`く〕 ー─‐ ──┘`-┘└--- ニ二`=┘ 隠密頑駄無 (烈伝版) 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/04/17(火) 03 12 29 ID qJLrCBag _, -──- ._ /// X >くr个x / rコ二7 マ二エ¬くハ rく [_< O > _]i>ヘ ,イ}^V r冖ミヘ. / _二ィ トr「\ L爪j { { / r仄´ トV ||人 | 〈フヘj人 /7_彡 ^ヽ` _/_レくT「 「\ |>xY | ,ニ _」/ /ヽ X| r ヘ  ̄ 7 | ト、 /^ 、} /l/_厂 ,二ュ | 〉、 {¬--ニ ┴ ブ /7T r 冖ミ | 冖| | fヘ r冖くV 冖k /ーl|{ } ,レ! L! 人_ト込r-ゞ r公トン, -v_厶ト-rニイくl | /ミZ __レ ^Vく工T T工ンV T ! V L._ レイ ̄] l -/{ }_ / lハ` ̄ | l l | ∨〈 フ Vニ7 └くフイr_ >‐、ハ--1__L. --ヘ、 }-ヘ^ zァく >、iコ 厂匸-ヘ iコ ー_彡く ̄丁l\ノ / ̄ 7¬-ヘシハ≦く ̄___厂`く〕 ー─‐ ───┘└--- ニ二 `=┘ 名前 :サイコスタッフ ◆AihV7b2qwg 投稿日 :2009/04/15(火) 03 12 29 ID qJLrCBag AAの作成に挑戦してみました もう昔のキャラになりますがSDナイトガンダム物語の悪役 魔王サタンガンダムです ゲーム系の悪側の魔法使いやラスボスなどの 配役に丁度良いのではないでしょうか ,rァ r, 、 ,/ヾ,! `ー ヽ ,l 二l´ `,ニヽ ., ー-l . l二ブ, _ ,lー-、l l,--l、 ,r{ } 、 /ー-、,l . |,-‐‐´ヽ / .{ } ヽ /` ー -、,l l, - ´ゝ, / ..{ } ヽ /`ヾ、ー-、/ `、,/´/` " { } `\ \/ ヽ/ / { } `ヽ、ノ \/´ { } ゝ r´ r 、 { } ,r ァ ,,/´ `ヽ、_., \、ノ^|^l、/ ,イ| ヽ ,r 、 /´ |゙lヽ、(. | .),,/ .l.| ヽ、ヽ, ゝ、_ ,r ,´ / |ヘ (.r_,.儿 ´(O) // -ー´ ヽ ,、ノ、_l / ヾ\`ノ,, 、ヽ`´ノ/ _- ´、 `ヘ / \ ー-`ー 、 ヽ ´ ,=、`Yノ ´ \ ヽ / `\ `ー-ヽ, | |. , ^、 ,イ ,r‐-、 `l ヽ、 . / ヽ、_厂六ヽ r、l,.l, - ´ l´ ヽ ヽ ノi , - ´  ̄ ヘ / `ー´- ンlヾ´ ´ l, ヾ、ノr イ, _,-‐´ヾ、゛ ヽ, ヽ / | ヽ ヽ、_, -‐ァ,r^ソ)ヾ! ,--ァノヽ ヽ /ヾ 、 /´ | ヽ r 、`ー´ノー´ノ)ヾノゝ l´/ \. ヽ . / /ヾ 、 ,/,´ ヽ .! / `! ヽ 八ヾニ=彡ノ,lrヘ,! \丶 / / ヾ 、/ / ヽ | / 丿 )ノ /´ヾー-_´ノ、 ), \ヽ / ,/ ヾl、 `、 } 1 { ,.´ ´/二ニ=`ヾー´,ン ヽゝ . // ヽ` ゝ ,/´ l ,`ヽ、 `, ,/, - ‐_´二`ヽ/l、ゝノ ~ 、 \,´ー、/,/`l | {,_` ヽ´/,. ´ , - ´/`ー 、!__ヽ,) |ヽ`ー.、-`、_`ー´_l__ー´ , -´)ゝ r´ / ´ ,/ーノ` 、ノ ヽ、ヽ、\ ノ` ̄´_、_ノ___/`!ー´ / `l,/,/´ ヽ、 ` ̄`゙゙´ ̄ ̄´ ` ̄` ー´ー --- ‐‐ ´ 名前 :サイコスタッフ ◆AihV7b2qwg 投稿日 :2009/04/15(火) 03 12 29 ID qJLrCBag こちらはサタンガンダムちゅるや.verです サタンの幾つかのAAはmltにまとめておいたので アプロダにうpとmltスレにもリンクを貼っておきますね では失礼しました __ ,____ <,rヽ, , - 个 、 ノ`ヽr‐′ `l,/´`ゝ-/ | ヽー ⌒ヽ ヽj´ / .| `ヽ `ソ ` ´ ,_._|_._, ヾ、 !r‐- 、\,/ ´、/, -―、 、 , l´/ , 兀` イ丁l .! l ゝ.! /,.} ノ 入| l `ヽ ノ l .|‐i | //.| {ヽ (l | | l ● ● l | l ,ゝ´く/,人 ヽヽヾ、ヽ,⊂⊃、_,、_, ⊂⊃´ゝ{(´ ) i´`ヾ, `( ̄`ヽ`ー、‐-v-‐_.´  ̄`(,r.、・・`ー´ノ `l `l .| r´ //ー、_r´ソ | ∠ニ` .| ⌒ゝ ,-´、/ヾ/ l ,! 丿 , `i | i´ /´/ノ´ ̄ヽ.V、 / / ! l 、__! | `-ノ} .{ l、 丿} ヽ、_ ´/ /ノ ノ `ーヘ | r´ノ | ./`了´! | V ソく//´ ,! ノ人 、 ノ /r‐/ i | l ` 名前 :名無しのやる夫さん 投稿日 :2009/04/16(火) 03 12 29 ID qJLrCBag . ヘ / ヽ / | ┌―┐ / l _ || }_ / / __ r " r―‐、/ / 白銀の楯はもらった!! ヽ  ̄ ̄ ―-| | ノ、 `ヽ _., | | ,イ | | | | ||゙lヽ、 l l ,,/ l.| | | ノ、_ l l lヾ\ ① /,,、ヽ①/||||,," ー-`ー 、l ヽY´ ,=、`Y/ ´| r―- ァ /不 (・ ) `ー-,r‐- 、 _!、 , ^、 ,イl__,r‐-、 ヽ . ` ヽ__ / ヽ_l旦l ‐‐、´―-ヽ _l旦l_弐/ /^-―-k __ fヽ◎ノ ll;;,,,, l l三三ll | |三三l ヽ/ o l二lo`、 へ (r-し’ /_ 、へ  ̄二> / ̄ ̄/  ̄ l| l // へ/ ヽノ ≦ O ̄ ̄//);  ̄;)弐ア l| 8 ╋ 8, /// / ヽ__` 、,// `=== ´ / ア レ――-v l___/ /ヽ__/ _へ_/ / `l,/ ヽ、 ‘、___,, ―^ー――ー‐´ 名前 :うなむじ85? ◆DOKURO/J2Y 投稿日 :2007/07/22(火) 03 12 29 ID qJLrCBag /! / | __ト、| __ __,.仁> ´ | |\ fr¬} } frーヂK7 {N `く二ハヘァ _八/⌒ヽ_,.ヘ、 ∨ ,ィ∨∨_⊥厶__ _ -‐ァ r‐K_⊥} く\ `ー´ _/ //7 ⌒})「 / ∨⌒ヽ、r―く\{`ーイ7rrく_{ ≧=仏ヽ/ ∟__,ィ仆Lにコ}`¨^厂上K 厶ィ-、 Y . f≦∠r一f¨匸厂ZZY fr‐Yーくつ }レヘ ,ィ7 ⌒YT≧zクTTf ̄厂了ノーノ {ハ了 . くY/ 彡 トL厂ノヲヘ>{{{rト三ク_フく\ ¨ 厂 ̄ ̄\__TT⌒ヘ ∠二>ヘ ∠ハ二二≧x__リ ト、_Y_,仁二二ム ケンプファー 名前 :(*゚Д゚)さん 投稿日 :2004/08/19(火) 03 12 29 ID qJLrCBag / // フ/_ヽ-ニ_ く ヽニ_ァイ_ | | / /_/} } /l / / ヽヽ \ヽ=-_ノ\ ` | ト/ /7 /メ /`ヽ / | / _,. -イ ̄\ ヽヽ. \ヽ ,-ニヽ / / / `{ { _ノ ヽ ト、 l j / /\ \ \ヽ ヽV/ ヽ } / /ィヽ〉-ヘ \} ヽ. /! / /\. \ \ ヽヽ ヽ{ ノィ! / / j i /} }、 ヽ } ! l / //\ ヽ, -─- .._\ヽヽ ヽヽ j/ / / / //,ハ l リ l ! /_/ /\. ´ ` ヽ. \.ヽ /j ///// } \ ! / ! { Y´ ,ムミミ/ ヽ \V // //-─く/ V | `ーく___//⌒V| \ / / j ヽ } ノ ¬! ヽV! クr ´ / } ノ,.ィ′ i 〉 ! -‐ " ̄ ``ヽ 〈 ノ / ノ _/ ゝ ヽ. ´ ´ ̄`ヽ /`ー ^‐´ {}ヽ -‐7 テ〒=、 __ / {} {} ヽ、 辷 ソ __ ィテ7ヽ_/ {} {} !  ̄ {._ソ _ ,1 []! ヽ  ̄l } \ , ,ィ|{_} _/` 、 ヽ、.__ ,. ,.ィ´ H[] _,. - ´ ̄ヽ `ヽ、_ __,.. -‐ ´ \ _,. -─- < \ (_ノ 丁ヽ ヽ. / \ \ヽノ ヽ , , / \ ヽ ! i l リリ姫 (SDガンダムフォース) 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2007/03/23(火) 03 12 29 ID qJLrCBag /| / | , -rf冖ヽ く | _」Lムト辷ソr─‐-- 、 __,イlヘ | . /r 、 \rー \_| l ! l| || | , | L V7| ,」⊥| } ,、 /´\ 〉 ∨ . l L_ 人 くrヘ〈 ` { 「リ} ト、 ハ /二〉  ̄`ヽ ト、 `^ トr 、 `YヘJヘヽ } `7 /∠イl r 、 |\ iヘ lヽ-勹ュ、 _」 」レイ l| ヽ∠ィ r フ八 rヘ./ ヽト-ヘ` ̄,ニソヘ、\ lフ リ rイ7-,ニY仁 >‐<二‐-、}\ 辷l、 jr个ュ、l | |/イn }レv‐┴‐- 、 `下、ート-、_厂 /7r-ヘ | t辷∠ / 厂 ̄ }_L_j二辷≧ー仁厶-─┘- ` ̄ ̄ ̄ MSN-04 サザビー 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2007/03/23(火) 03 12 29 ID qJLrCBag / // / / /} 7 r- 、_ / / /} rヘミ`ヽ、 / / // | \ \ . l、 / / // l fソrヘ、 \ . | ヽ r辷 _/ ∠/ /l\ 、| Vーヘ 〉_ . | トミ≧-、V辷フ^ ´ / | Vヘ.l Vーヘ 厶 \ . // /\\  ̄`ヽrfミヽ | /^Y/ { { ̄ { }/⌒ヽ ! || | / V 〉 / ヘ`メーイニア´ `Yr¬Tl | . V! ヽ{ _j/L r{_厶7二ト-| _辷ニj厶 | . ヾ>ーrrヘ-イr厂 r‐ ┐}丁 ̄| l、 -{ {__{ }`ニイ/ ` ̄八J }j八 ヽン/ /∠人二| VT __jハT-‐ ´ . トヘニヘイ `¬≦ィ(二>ィくハ| V__/ 〉 . ` ̄/ ̄ フ⌒{fニヽ Y r-ミy| ∨ / >ィヽ 人V〉}人 { j人 / /l /∠ ヽ ̄厂` ̄ ト ^T二 |T/ イ_」 L二ンー l | r l//V `Tヘ ヽ } 〉 `ヽミニ-イ/ ` ̄´ ZM-S14S コンティオ 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2007/03/20(火) 03 12 29 ID qJLrCBag /  ̄ ̄` ヽ、 / 、 /{ }r<} rくl-ト、/ 、 /lヘ ヽ . / ̄ ` <ヽ\ヽ `_7ー ´ /l-|(>ト、 / r─ヘ 、 `≧-┐r 7 / _/, --、 . / / r厂ヽト、/`7 Tニ二V仁r-レ ン^7-} . / / 厶-f二ュ_ `T弌⊆ヲ_r<r<r-ヘ./- 、_ . ヽ / r}c cヽ 7゙ ̄>rヘ ヽ V〉-厂 ̄ / / \ム/人 r j, 斗f^「 l _jー辷ニフ-┘ // ∠ィ仁≦ー=仝ト- 「 トィ≦L二二ニ‐< / 〈厂{_{ _j-ニイ ̄{ 〉 }_冫 ` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ` ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ MS-06FZ ザク改 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2007/03/21(火) 03 12 29 ID qJLrCBag _ ハ ヘ / v- | , ─‐ 、_ / /ri- K ヽ ヽ- \ ⊥. ∠rヘl- |r─--_z∠ニ7 〉 / ィ-、ヽ レ  ゙̄V匸_ { }トく . { lV⌒Y小 Y个ヘ ト-イr-仏__ ヽト--ヘfトY 二Yー ヽ--冖く | . ヽ、_`YV `Vニ¬、 」 人rュ_ . ∠_ ト{ i゙⌒} }¬_辷トくrィ r‐┘ , < ̄ `ニ ヽゝニィヘT「 _,二 └ く r-─<r─-、_ YZ-r≦ニ -─ヽ `ー‐<二__ンー─ ‐─┴─┘ MS-09 ドム 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2006/09/28(火) 03 12 29 ID qJLrCBag , --┐ / | | / |l l ̄ ̄| __ . / ヽリ l // / / ヽ / \ ! /イ | . /しィ / \、 _, -r ,ニヽ // ヽ,ノ^ー ァ / | / l , ヘ 、 | l |Y 〃 / / . | l / /⌒!l厶-ァ \\-┴ // / / . |、__r / / l ′ r-ヽ\ヽ- ハ-イ / __,人_/ ̄ { jr─-、 ー‐ `─ _ V--、/ . | /^ヽ|r-7^>ミ7 l三「 l ̄Ttヘ ̄,ニ,┬! フ V{ } ー| l \ lコ ! `ヽニr ニ`く/r_Y ヽV ハ ヽ \ ヽ、」 l ‐ l !フ_ |ヽrヘく^\ /-ヘ、 ト /^Vレ/ ¬く . l し ^ -ィ>=-イ/ r-ミ`T^ ‐く ヽ __ ∠ヘ トニ〈 /,、 |└┬ーヘ ` ` ァ  ̄ヽニコ厂 ヽ,ニ、 . Lノ ヽくヽィJ ∠ ̄ヽ_ >Y 厶-┘ ヽ// }| . T´ 〈_, -个 r┐ ヽ.__∠イ lく 下VLニ!  ̄ j/ l ヽ、__〉 〉くヘ ヽレ 厂、\ ノ _, ニ、〈 / / /l  ̄l くヽ 丶\ |⌒l/ ヽ ト--イーニr ヽ-ヘ. \\ . rL./^ー─- 、}」 〉 ヽ__jく ヽ \\  ̄` ー─-=ミV{ ヽ rーヘj ヽ \\ `ヽ、rヘ l \ 丶 \ `¬ ` `ヽ-┘ LM312/V04+SD-VB03A Vダッシュガンダム 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2006/09/22(火) 03 12 29 ID qJLrCBag , 1 / | } _」 . Cr、_ ト 〉 /´ | . ト ノ j┐_ k ´| `ー , ヘ、{/| T イヽヘ-、l \ く 八L.ィ . T ヘ く/T-‐} l\ ヽ __/ 厶 . ヽニY ィ/「`ヽ ヽ {ヽ-ニ,-イ L∠_ lr¬i7ハ ノト、 ヽー _// ヽ-ト、 _辷」ト-くイ 」 ヽ _] 「rシヘ r-、 lゝトュ、 . └_ -トr- イYニヽ }⌒レ ¬ヘ ーヘ/ 7 \ > Lトr ´个‐、ノ⌒7ィ´二L く ) ヽ/ } ∠イ- 二| ` 7{`Yく_´ r-ラ _ `< ヽ、 / . 厶ー ,ヘ`く]__/「¨7l <_, r-ヽ} ` ー . /_Z__ヽ- _八_/ トイ___`_Tー_ヽ  ̄ AMX-107 バウ 名前 : ◆Roger5d.Q6 投稿日 :2006/09/22(火) 03 12 29 ID qJLrCBag /l /| , / レ / / l∠ ̄ `ヽ、 ムニ_/ ┐ヽ 、 / , イ / ー┐/ \r ¬r─ -、 .r 7 ̄/ ∠ _厶 _,. ‐ 7 レ _| Lj_ ⊥ r 7 〈 ,r ¬ / rく>  ̄ | l{ ) _} 7 / ヽ 〈 ヽr- ニ_rくン′ i | r-ニ、_ ヽ / 〈 , >ヽ/ {二r ´/_ | | └-、_」「リ| 〉r ^ 、イ ー `¬─-|r--ミト、l 厂`ト、 l} l Y_j ヽ`T ̄`ヽ二ニr 个ー-シくTニ^ゝrく ヽーr-┘ VTf-イ7r< ̄ }¬r--ヘ / { 丁ト、 ヽ、__/ rヘーく_ヽL_V_ l _ 「 ̄ト、`く ヽ>ー┘ . r」_V´_ヽ ___\_ Z´_j_」_ミー-、ヽ_〉 MSN-03 ヤクト・ドーガ 922 名前:(*゚Д゚)さん[sage] 投稿日:02/09/11(水) 05 43 ID ??? ナイトガンダム ,ヽ ,.-─ 、 / ヽ ト、__/ / ゙i ! n \__,/ ,/ / i rヽ __ i∪ ,..,____ ーく ,. -‐| ,.、 ヽ ゙i ` ミ ‐ ., ゙i,/;;; ;; `;; ニ ‐、_ノーヽ ヽ i ,| `` - .,ミ ‐ .,__i^ゝ、__,,.ム ;;;; ,。j /~゙、、 ,ノ ゙i ゝノ `` > ∞{/ { l ,.イー- ー 人ヽ(○),//ヾ ``┘(,. --、 ゝイ \__\,,./ ヾ\____/,..‐‐ / / _,. i i ` 三/ (0)iヽ、`i ー.,、 !//´ ``‐ "~,i´ /,.、\__ノ ゝ, l(´__ノ ~! ! / く´// i ,.ii、__ i i )゙i ,..-- ヾ ヽ~! !,.- |`ti ‐ ,l !ゝ--- / ヽ、 ,. - ´ ー "~ヾ !!/ i ー ,. -‐ " ,. " ,..- ヽ、, ヽ ノ lー‐l / }}}}
https://w.atwiki.jp/tenyushinjyo/pages/27.html
三国群英伝2の仮設HPです。 とりあえず、月旦表(クイズ)の解答集を張ります。(答えは太文字にしました)レイアウト変更はそのうち・・w 三国志正史問題・三国志演義問題・雑学問題 分類問題 答え 国語『枕草子』を書いた平安時代の女性は? 清少納言 国語「いろは歌」で、「ち」の前の文字といえば何? と 国語「御曹司」とは元々誰のこと? 源義経 国語売上世界一の小説作品は、何という作品でしょう? 星の王子さま 国語人格が立派すぎるとかえって人に親しまれないという意味の言葉は「水清ければ●棲まず」? 魚 国語親指姫を救い出した鳥は何?ツバメ 国語ある場所で一生を終えることやある事に一生を捧げることを意味する言葉は「何を埋める」?骨 国語「甲子」とはどれくらいに一度の年月のこと言いますか?60年 国語長寿のお祝いで70歳は何という?古希 国語偉い者にゴマをすることを「何の塵を払う」という?髭 国語食品が腐りやすい様子をたとえて「足が早い」といいますがすぐに暴力を振るうことや異性と関係を結んでしまう様子をたとえて「何が早い」という?手が早い 国語「つまはじき」といえばどんな意味がある?忌み嫌って排除すること 国語虞美人草という別名がある花は?ヒナゲシ 国語「菜の花や月は東に日は西に」という句を詠んだ俳人は?与謝蕪村 国語夏に見かける昆虫「セミ」を漢字で書くと?蝉 国語ギリシャ神話に出てくる死んでアネモネに生まれ変わったとされるのは誰?アドニス 言語裁縫で使う針の穴や食パンの縁の厚くなった部分を何という?耳 言語発音で「バビブベボ」といえば濁音ですが「パピプペポ」といえば何音?半濁音 言語西洋人が呼びかける台詞を日本人が聞き違えたものである幕末から明治にかけて西洋の犬を指して使われた言葉は?カメ(Come!) 言語「きわめてアメリカ的な」という英語の表現にも使われるほどアメリカでポピュラーなお菓子といえば?アップルパイ 言語ア・ラ・カルトとは?一品料理 言語「コットン」とは何のこと?綿 言語「リンス」のもともとの意味は?すすぐ 言語「カジノ」の元の意味?小さな家 言語1月から12月までの英語の名前でジュリアス・シーザーにちなんだ名前を持つのは7月ですがオクタビアヌスにちなんだ名前を持つのは何月?8月(アウグストゥス) 言語「パラボラアンテナ」の「パラボラ」とは英語で何という意味?放物線 言語「多くの中から小さな物を探し出すのは不可能だ」という意味の英語のことわざで、「干草の中から探す」と言われるものは?針 言語英語のアルファベットは全部で26文字ですがロシア語のアルファベットは全部で何文字?33文字 言語数字の「3」のことを英語では「スリー」といいますがドイツ語では何という?ドライ 言語子羊の肉のことをカタカナで何という?ラム 言語中国で、内陸部から北京や上海などの大都市に出てきて仕事をする出稼ぎ労働者のことを何という?民工 言語スペイン語で「テーブル」という意味の、周囲の一部を急な崖で囲まれた、乾燥地帯に見られるテーブル状の高地を何という?メサ 数学1+2×(3+4)を計算すると答えはいくつ?15 数学数学で、「∽」という記号が表すものはどれ?相似 数学数学で、足し算の答えのことを漢字一文字で「和」といいますが、引き算の答えのことを漢字一文字で何という?差 数学数学で、足し算の答えのことを漢字一文字で「和」といいますが、かけ算の答えのことを漢字一文字で何という?積 数学円周率「3.14」の次の数字は?1 数学次の計算のうち有限の小数では割り切れないのは?1÷6 数学「底辺×高さ÷2」という公式で面積が求められる図形は?三角形 数学次のうち「四角形」でないのはどれ?星形 数学正六面体の面の形は?正方形 数学正六面体の面の形は正方形ですが、正八面体の面の形は?正三角形 数学正五角形の対角線の数は5本ですが、正六角形の対角線の数は?9本 数学正六角形の内角の和は720度ですが、正六角形の外角の和は?360度 数学6、28、496、8128などその数以外の正の約数の和がその数自身と等しい自然数を何と呼ぶ?完全数 数学「数学のノーベル賞」とも呼ばれるフィールズ賞を受賞できるのは何歳までの人?40歳 物理音の伝わる速さは秒速約何メートル?約340メートル 物理振り子の等時性を発見した物理学者は?ガリレオ・ガリレイ 生物中国の歴史上の人物にちなむ虞美人草という別名がある花は?ヒナゲシ 生物種間雑種動物であるライガーのお父さんは?ライオン 生物馬に胃袋は1つありますが、牛に胃袋はいくつある?4つ 生物次の動物のうち北極に生息していないのは?ペンギン 生物霊長類と呼ばれる動物は次のうちどれ?サル 生物「プライド」と呼ばれる群れを作る哺乳類は?ライオン 生物「アラレガコ」「アユカケ」などの別名がある魚は?カマキリ 生物クロマニョン人の化石が初めて発見された国は?フランス 生物アウストラロピテクスの化石が初めて発見された国は?南アフリカ 生物次のうち、種子が毛を使って風に飛ばされて散る植物であるのは?タンポポ 生物街路樹として知られる落葉高木で実が鈴に似ていることから「スズカケノキ」とも呼ばれる木は何?プラタナス 生物トロピカルフルーツのマンゴーはウルシ科ですが、パパイアは何科?パパイア科 生物タンパク質分解酵素のブロメリンといえば含まれる果物はパイナップルですがタンパク質分解酵素のパパインといえば含まれる果物は何?パパイヤ 生物世界で一番多い血液型は?O型 生物次の動物のうち、有袋類はどれ?アカカンガルー 生物1994年に日本人宇宙飛行士・向井千秋が宇宙で繁殖の実験を行った生物は何?メダカ 科学X線を発見した人物は誰?レントゲン 化学一般に化学の実験で二酸化炭素を集める時に用いる方法は?下方置換法 化学一般に化学の実験で酸素を集める時に用いる方法は?水上置換法 化学塩化ナトリウムの結晶は次の結合のうちどれによるもの?イオン結合 化学元素記号で「S」で表される元素は?硫黄 化学「銅の悪魔」という意味のドイツ語から命名された元素は?ニッケル 化学化学で使われる分子式でHCLで表される物質は?塩化水素(塩酸) 化学「軽銀」という別名がある金属元素は?アルミニウム 地学赤道の長さは?40000km 地学太陽系にはいくつの惑星がある?9つ 地学月での重力は地球での重力のおよそ何分の1?6分の1 地学次の惑星のうち、自転の方向が他の惑星と異なるのは?金星 地学星座で「北斗七星」が属するのはおおぐま座ですが「南斗六星」が属するのは何座?いて座 地学星座のなかで最も大きいのは何座?うみへび座 地学星の明るさで1等星は2等星の何倍の明るさ?2.5倍 地学日周運動と呼ばれるのは恒星が東から昇ってどの方角へ沈む運動のこと?西 地学日本で、「西高東低」といえばいつの気圧配置?冬 地学雨や雪などが降った量、降水量を表すのに用いる単位は?ミリメートル 地学太陽の光が地球に届くまでにかかる時間は?約8分 歴史縄文時代の人の平均寿命はおよそ何歳?15歳 歴史世界七不思議に数えられる建造物で空中庭園があったとされるのはバビロンですが大灯台があったとされるのは?オリンピア 歴史次のうち、ヨーロッパで栄えていた文明はどれ?クレタ文明 歴史絶世の美女として知られたクレオパトラ7世が結婚した古代ローマの政治家は?アントニウス 歴史「疾きこと風の如く、静かなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとし」という言葉は、次のどの書籍が元となっていますか?(徐かなること林のごとく、侵掠すること火のごとく)孫子兵法(孫武兵法) 歴史平民から興り、帝業を成就させた最初の王朝は何王朝ですか?漢王朝 歴史「背水の陣」という兵法の極意が書かれていた中国の書物は?『史記』 歴史後漢建都の都市はどこですか?洛陽 歴史中国で初めての仏教の廟宇はどれですか?白馬寺 歴史聖徳太子を摂政とした日本初の女性天皇は?推古天皇 歴史京都市右京区にある水尾山陵に埋葬されたため、「水尾帝」の別名がある第56代天皇は誰?清和天皇 歴史年号の覚え方で「いい国つくろう」といえば鎌倉幕府ですが、「なくよウグイス」といえば?平安京 歴史次のうち世界最古の国旗とされているのは?デンマーク 歴史鎌倉幕府の初代将軍は源頼朝ですが、第2代将軍は?源頼家 歴史鎌倉幕府の職制で御家人の統率を行ったのは侍所ですが朝廷の監視や西国の行政を行ったのは何という役職?六波羅探題 歴史鎌倉幕府なら「源実朝」、室町幕府なら「足利義満」、江戸幕府なら「徳川家光」といえば何代将軍?3代 歴史キリスト教を日本に伝えた人は?ザビエル 歴史江戸幕府の初代将軍といえば徳川家康ですが室町幕府の初代将軍と言えば誰?足利尊氏 歴史江戸幕府の将軍で息子2人が将軍になったのは?家光 歴史時代劇でお馴染みの水戸黄門は徳川家康の何に当たる?孫 歴史江戸時代、大名行列を横切ってもよいとされた唯一の職業は?産婆(無論緊急時に限る) 歴史次の人物のうち赤穂四十七士の一員でないのは?大石誠之助 歴史日本の国旗「日の丸」を元々船印として使っていた藩は?薩摩藩 歴史童話作家として有名なシャルル・ペローが使えたフランスの王様は?ルイ14世 歴史ジョージ・ワシントンが子供の頃に切って怒られたとされる木は?桜 歴史1813年に行われたフランス軍が対仏連合軍に敗れナポレオンの失脚を決定づけた戦いは?ライプチヒの戦い 歴史1840年に、世界で初めて郵便切手を発行した国は?イギリス 歴史江戸幕府の14代将軍徳川家茂は、御三家・御三卿のうちの何家の出身?紀伊徳川家 歴史1856年デュッセルドルフで発見されて以来各地に出土している旧人とは?ネアンデルタール人 歴史1922年にツタンカーメンの墓を発見したイギリスの考古学者は?カーター 歴史日本国憲法公布がされた時の日本の年号は?昭和 歴史日本国憲法の公布を記念して設けられた国民の祝日は?文化の日 歴史「アメリカの石油王」と呼ばれた人物と言えば?ロックフェラー 歴史アポロ宇宙船に付けられた愛称でアポロ11号の司令船の愛称は?コロンビア 地理日本の旧国名でかつて「近江(おうみ)」と呼ばれたのは今の何県?滋賀県 地理数多くの寺院が町中に見られることから「八百八寺」という異名を持つ日本の都市はどこ?京都 地理江戸時代の東海道で江戸を出て最初の宿場は品川ですが甲州街道で江戸を出て最初の宿場は?新宿(内藤新宿) 地理甲子園球場がある都道府県は?兵庫県 地理鹿児島、宮崎、熊本3県の県境近くで1981年に発見された国内産出量第1位を誇る金山は?菱刈金山 地理次の色のうちフランスの国旗に使われていないのは?緑 地理アメリカの国旗に描かれている星の数は50個ですがニュージーランドの国旗に描かれている星の数は?4個(南十字星) 地理地元では「マグロの眉」とも呼ばれるオアフ島にある丘でホノルルのビューポイントとして人気が高いのはどこ?ダイヤモンドヘッド 地理マオリの人々は「ラキウラ」と呼ぶ、ニュージーランドで北島、南島に次いで3番目に大きい島は?スチュワート島 地理オーストラリアの巨大な一枚岩エアーズロックの現地での呼び名は?ウルル 地理カリブ海に浮かぶ島国キューバの、主要産品となっている調味料は?砂糖 地理コーヒー豆の生産量が世界一多い国はブラジルですが、カカオ豆の生産量が世界一多い国は?コートジボワール 地理約200万平方メートルと菜の花の作付け面積で日本一を誇る、青森県にある町は?横浜町 地理次のうち日本アルプスに含まれないのは?奥羽山脈 地理紅茶の銘柄でダージリンといえばどこの国のもの?インド 地理ブラジルの首都・ブラジリアは上から見た時、どんな乗り物の形になるよう設計されている?飛行機 地理北極点と赤道の緯度の差は?90度 地理「全米一の嫌煙州」といえば何処?カリフォルニア州 地理アメリカのハワイ諸島はヨーロッパ人に発見された当初は何と呼ばれていたか?サンドイッチ諸島 地理アイスランドとグリーンランドの間にある海峡は?デンマーク海峡 地理アメリカの州の名前に使われていないのは?イースト 地理アメリカの州で面積がもっとも大きいのは?アラスカ州 地理遊牧民が住むまんじゅう型の組立式住居を中国語では何という?パオ 地理「処女、若い乙女」という意味の名前を持つ山は?ユングフラウ 地理次のうち梨の「三水」に含まれないのは?風水 地理特別天然記念物のマリモで有名な北海道の湖は?阿寒湖 地理最も大きい郵便番号である「999-8531」がある都道府県は山形県ですが最も小さい郵便番号である「001-0000」がある都道府県はどこ?北海道 地理日本の最北端は?宗谷岬 地理もっとも多くの都道府県と接している県は?長野県 地理山形県の県の木はサクランボですが香川県の県の木は?オリーブ 地理「備長炭」はどこの県の特産品?和歌山県 地理次のうち、日本に実在しない大学はどれ?平成大学 地理日本の国立公園で最も面積が大きい公園は?大雪山 地理いちばん面積が小さい都道府県は?香川県 地理サツマイモの生産量が全国一である県は?鹿児島県 地理日本で2番目に大きい湖は?霞ヶ浦 地理日本の都道府県で2番目に面積が小さいのは?大阪府 地理次の県のうち、日本の標準時の基準になる東経135度の経線が通過している県は?兵庫県 地理次の県のうち海に面していないのは?山梨県 地理全国47都道府県の中で「都道府県の木」にソメイヨシノを指定しているのは?東京都 地理全国47都道府県の中で「都道府県の木」にソメイヨシノを指定しているのは東京都ですがシダレザクラを指定しているのは?京都府 政経ベンチャー企業に個人で投資する人を何という?エンジェル 政経敵対的買収を仕掛けられた企業が防御のために、逆に相手の会社に対して買収を仕掛けることを「何ディフェンス」という?パックマン 政経「モサド」といえばどこの国?イスラエル 政経OPECの本部がある都市は?ウィーン 政経日本国憲法は全部で何条?103条 政経1958年に始まったアメリカ発の有人宇宙飛行計画は何計画と呼ばれる?マーキュリー計画 政経日本で最初に建築士の資格を取得した人物で、後に内閣総理大臣も務めた政治家といえば?田中角栄 政経日本で、たばこ事業の許認可を行う省庁は?財務省 政経ミサイルに追尾された航空機がレーダー電波を撹乱するために散布する薄い金属片のことを何という?チャフ 政経1993年5月に事実上中止されたアメリカの「戦略防衛構想」をアルファベット3文字で何と略した?SDI 生活次のうち、路上強盗を意味する警察関係者の隠語にあるのは?とんび 生活出生届は出生後何日以内に届け出なければならない?14日 生活家の中でいちばん太い柱を七福神の名を使って何という?大黒柱魏公曹操が東呉を攻めたとき、呉は曹操に何を与え兵を退かせたか?一通の手紙 生活オークションで客が参加を表明するために上げる札を何という?パドル夷陵の戦いで、劉備が永安に兵を退けた後、陸遜が兵を退けた原因は何ですか?魏国が攻め入られるのを心配した(魏国に) 生活近い将来に一大事が起きると予想される日のことをアルファベット1文字を使って何と言う?Xデー陸遜が連営を焼き払った後、魏の侵入を防ぐために誰を濡須の護衛に当たらせましたか?朱桓 生活会席料理で「止め椀」といわれるのは、次のうちどれ?汁物次のうち、もともとは蜀国に属していたものの、最終的に呉国に身を寄せたのは誰ですか?糜芳 生活俗に、技術が未熟でへたくそな医者のことを何という?やぶ医者東呉最後の名将は誰ですか?陸抗 生活俗に「森のバター」とも呼ばれる果物といえば何?アボガド劉備、関羽、張飛の三兄弟のうち、年齢が大きい順で正しいのはどれですか?劉備、関羽、張飛 生活カイワレ、モヤシ、ブロッコリーの新芽、トウミョウ、タケノコなどを総称して何という?スプラウト劉備と公孫[王賛]は若い頃誰に学んでいたか?盧植 生活オイルサーディンに使われる魚は次のうちどれ?イワシ劉備のために袁紹に協力を求める手紙を書いたのは誰?鄭玄 生活ワインクーラーはワインを何で割ったもの?オレンジジュース 三国志 の記載によると、劉備が曹操を裏切り袁紹と手を組もうとした時、劉備が結盟のために派遣した使者は誰ですか?孫乾 生活スパークリングワインの一種スプマンテはイタリアのものですがカヴァはどこの国のもの?スペイン劉備が新野へ落ち延びた時、諸葛亮の助言に従い江夏に使者を遣わして援護を頼みましたが、このとき派遣されなかったのは誰?簡雍(?) 生活日常よく使われる文具品で英語では普通「ステープラー」と呼ばれるものは「ホッチキス」ですが「シャープナー」と呼ばれるものは何?鉛筆けずり孫、簡、糜、伊の四人は劉備が手厚く待遇した人物たちですが、中でも最高は誰ですか?糜竺(孫乾・簡雍・糜竺・伊籍の4文官) 生活釣りで、獲物が全く釣れないことを指す言葉は何?坊主劉備はどこに退守したときに阿斗母子と離れ離れになりましたか?当陽 生活『カチカチボール』とも呼ばれたのはどれ?アメリカンクラッカー長坂の戦いで劉備に趙雲が北へ逃げたと報告した者がいましたが、劉備はこの人に何を投げつけましたか?手戟 生活住宅を傷める原因となる空気中の水分が、壁や窓ガラスに触れて水滴となって付着する現象は?結露次のうち、密謀により劉備を蜀に迎え入れた主謀の一人でないのは誰ですか?黄権 生活リサイクルのための材質表示マークでペットボトルを表す数字は?1劉備が益州を奪う気であると劉璋にいったのは?黄権 生活上向きに開く自動車のドアをガルウイングといいますが、このガルとはどんな鳥のこと?カモメ蜀国を建国したのは誰ですか?劉備 生活次の道路標識のうち円形をしているのはどれ?駐車禁止三国漢中の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか?劉備と曹操による漢中争奪の争い 生活童話『くまのプーさん』に登場するキャラクターで、ティガーといえばトラですがピグレットといえばどんな動物?ブタ蜀漢の五虎名将の子ではないのは?張虎 生活短期大学を卒業すると得られる称号は?準学士次のうち、不当な略奪ではない手段で帝位に就いたのは誰ですか?劉備(選択肢が曹丕・司馬炎・王莽・劉備で、劉備は皇帝僭称、他3名は帝位簒奪に当たる為、劉備が正答になる) 生活昭和20年代の流行語でパチンコに夢中な人々のことを何族と呼んだ?親指三国の中で勢力は最も弱いものの、漢の正統を堅持し、他国と対抗したのはどの国ですか?蜀 生活民法において、飲み屋の「つけ」の消滅時効は何年と規定されている?1年劉備が関羽と張飛の仇を報いるため、兵を派遣して征討しようとしたのは誰ですか?孫権 生活赤い羽根共同募金で、募金者へ贈られる赤い羽根の材料になっている鳥は?ニワトリ劉備が兵を興し、呉国を討って失敗し、このため白帝城に逃げ込み、病に倒れて逝去したのはどの戦いですか?夷陵の戦い 生活商品につけられるバーコードで通常コードと呼ばれるものは13桁の数字がついてますが短縮コードと呼ばれるものは何桁の数字がついている?8ケタ蜀漢国の勢力が衰え出したのは、どの戦いがきっかけでしたか?夷陵の戦い 生活流通量の調整のため1968年には全く製造されなかった日本の貨幣は何円硬貨?1円劉備が亡くなる前に自分の子供を託したのはどこ?永安宮(?) 生活郵政3事業とは?郵便・貯金・簡易保険「身の丈九尺、顔色は棗のごとく」とは、三国のどの人物の風貌を指したものですか?関羽 生活日本のパスポートの表紙にデザインされている花は?キク関羽が曹操に投降した時、曹操とどのようなことを決めましたか?曹操ではなく漢王朝に降伏する 生活海外旅行の際渡航先に必要な予防接種を受けたことを証明するための国際予防接種証明書の通称は?イエローカード三国名将のうち、河北軍の軍容を見た後、「我観るに、顔良は首から売り札を下げるが如し」と言ったのは誰ですか?関羽 生活全てのユーロ紙幣の裏にデザインされているものは次のうちどれ?橋関羽が五関を破り六将を斬った時、関羽は何番目の関で2人の防守将領を斬りましたか?2番目 生活無線通信などで聞き間違いを防ぐための和文通話表に基づいて「ま」は「何のま」と伝達する?マッチ秦琪は誰に殺されましたか?関羽 生活インターネットのWWWは何の略?world wide web楊齢は誰に殺された?関羽 生活ネット上で、インスタント・メッセンジャーを通じて一方的に大量発信される広告目的などのメッセージを何という?スペム?(スパムは×)孔明が博望破を焼き払った時、関羽はどこに潜んでいた?豫山 生活インターネットの国別ドメインで「uk」といえばイギリスですが「ua」といえばどこの国のもの?ウクライナ関羽が参戦したことがあるのはどの戦ですか?夷陵の戦い(誤植?) 生活インターネットの国別ドメインで「uk」といえばイギリスですが「cm」といえばどこの国のもの?カメルーン次のうち、曹操の大将于禁の投降を受け入れ、その名を広く知られたのは誰ですか?関羽 生活世界最大のオンライン書店であるアマゾン・ドット・コムの本社があるアメリカの都市はどこ?シアトル丈八蛇矛を持つのは誰ですか?張飛 文化自ら進んで社会に奉仕する活動に従事した人に送られる褒章は緑綬褒章ですが、仕事に一生懸命励み人々の規範となった人へ贈られる褒章は?黄綬褒章張飛が酔ったふりをして捕えたのは、曹操が劉備を牽制するために遣わした何という大将ですか?劉岱 文化日本で、歴代最年少の36歳で文化勲章を受賞したのは誰?湯川秀樹張飛の妻は誰の姪だと言われていますか?夏侯淵 文化映画「太陽」で昭和天皇を演じたのは?イッセー尾形范彊と張達はなぜ張飛に鞭で打たれたのか?白旗白衣を整えられなかった 文化ベストセラー『脳内革命』を書いた医学博士といえば誰?春山茂雄当初、趙雲は家へもどり喪に服すため、公孫[王賛]に辞意を示しましたが、この時亡くなったのは趙雲の何に当たる人物ですか?兄 文化クロスワードパズルが考案された国はアメリカですが、イラストロジックが考案された国は?日本趙雲を一躍有名にさせた戦いはどれですか?長坂坡の戦い 文化古代エジプトの発祥といわれるセクシーな衣装の女性が官能的な踊りを披露するダンスは何?ベリーダンス「征袍を血に染めて甲まで紅く、当陽誰が敢えて鋒先を争うや」という言葉は誰を指しますか?趙雲 文化ローマの伝説上の建国者ロムルスを育てたとされる動物は?狼(双子の弟にレムス)「一身是肝」とは非常に度胸があることを意味しますが、この言葉は三国のどの将領から生まれた言葉ですか?趙雲 文化ハワイの人々が崇拝する火山の女神の名前は?ペレ馬超の兄弟に当たるのは、次のうち誰ですか?馬鉄 文化1810年に行なわれた皇太子ルートヴィヒの結婚祝祭を起源とする、世界最大規模を誇るドイツミュンヘンのビール祭りは?オクトーバーフェスト馬超が太守韋康を殺したのはどこ?涼州 文化タイで麺料理専門店などのテーブルによく置かれている調味料で、タイ風の魚醤油を何という?ナムプラー「常に先陣を切って陣営を落とし~(中略)」と評されたのは誰?黄忠 文化ミステリー研究会に所属した推理作家で、有栖川有栖といえばその出身大学はどこ?同志社大学黄忠が劉表の手下として長沙を守っていた時、ともに長沙を守ったことがあるのは誰?劉磐 美術絵の具で赤と青と黄を混ぜると何色になる?黒関羽が「大丈夫たるもの、あのような老兵と並ぶことはできぬ」と言いましたが、老兵とは誰のことですか?黄忠 美術ダ・ビンチの絵画『モナリザ』でモナリザは両手をどうしている?重ねている劉備に対し、体は曹操軍にあろうとも、「生涯計謀を立てない」と誓った謀士は誰ですか?徐庶 保健人間の歯の大部分を占めているのは?象牙質「伏竜」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか?諸葛亮 保健人間の永久歯は全部で何本?32本「鳳雛」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか?[广龍]統 保健人間の皮膚にある感覚点のうち最も多くあるのは何点?痛点「可比興周八百年之姜子牙、旺漢四百年之張子房(800年の周朝を興した姜子牙と400年の漢王朝を栄えさせた張子房と比べられる)」のは誰ですか?諸葛亮 諸葛亮の字(あざな)は何ですか?孔明 諸葛亮には何人の兄弟がいましたか?3人(?:史実は2人だが×。族弟の諸葛誕を兄弟に数えているのか?) 三国志正史問題・三国志演義問題・雑学問題諸葛亮は隠居した時に、自分をどう例えていましたか?管仲 創作された架空の出来事ではないのは?三顧の礼 問題答え「初出茅盧」とは、初めて世に出ること、経験に乏しく、駆け出しであることを指しますが、この成語は誰と関係がありますか?諸葛亮 国家末年の際、外戚と宦官が絶えず争っていたため、中央政権が長期にわたり衰弱したのはどの王朝ですか?後漢孔明は博望坡で火を用いましたが、どこで水を用いましたか?白河 三国時代、次のうち「青州」にあった城池はどれですか?北海諸葛亮が東呉に舌戦群儒を挑んだとき、最後にその他の人の弁論を制したのは?黄蓋 三国時代、次のうち「冀州」にあった城池はどれですか?[業β]「集思広益」とは、人々の知恵を集め、幅広く活用する事を指しますが、この成語は誰と関係がありますか?諸葛亮 三国時代、次のうち「雍州」にあった城池はどれですか?安定孟獲が投降するふりをしたのは何度目に生捕りされたときですか?3度目 三国時代、次のうち「徐州」にあった城池はどれですか?下[丕β]「鞠躬尽瘁、死してのちやまん」とは、どの人物を指す言葉ですか?諸葛亮 三国時代、次のうち「豫州」にあった城池はどれですか?汝南諸葛亮が神を装ったのは、どこの麦を刈るためですか?隴上 三国時代、次のうち「荊州」にあった城池はどれですか?新野諸葛亮と司馬懿徒の間では、歴史上実際に発生したのは次のどれですか?(司馬懿との)平五路安居 蜀漢、曹魏、孫呉の正式な立国の順序は次のうちどれですか?曹魏→蜀漢→孫呉杜甫に「万古の霄の一羽毛」と褒められたのは誰ですか?諸葛亮 次の戦略推論のうち、実現しなかったのはどれですか?諸葛亮の「隆中対」[广龍]統の字(あざな)は何ですか?士元 張角は何を教えましたか?道教厳顔 「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」にある「黄天」とは誰を指しますか?太平道「卿ら状なくして我が州を侵奪す、我が州には断頭将軍あるのみ、降将軍はなし」 後漢末期、張角を慕う信徒が数十万人に達し、八州に広がりました。この八州に含まれないのは次のうちどれですか?涼州とは、どの武将の言葉ですか? 三国志 の記載によると、次のうち生捕りになった黄巾賊の将領は誰ですか?ト巳 三国志 の記載によると、馬超が兵を興し曹操を討とうとして失敗した際、劉備が馬超を招き寄せるために派遣した使者は誰ですか?李恢 次のうち、黄巾軍を討伐したことがないのは誰ですか?馬騰馬謖と趙括の類似点でないのは?指揮下手(?) 動物の血を用いて張宝の法術を破ることを提案したのは?朱儁街亭の戦いの時、馬謖とともに街亭を守った副将は誰ですか?王平 霊帝に嘘の訴えをして盧植を都へ返したのは誰?左豊宴会の席で剣舞を舞いながら劉璋を刺すよう命じられたのは?魏延 宮中入りし皇后になったのは何進の身内の誰?妹魏延を重視せず、火花を散らしていたのは誰?楊儀 「黄絹幼婦」という言葉には、どのような隠れた意味がありますか?絶妙なほめ言葉魏延を恨み、桟橋に火をかけたのは誰?楊儀 十常侍が何進を暗殺し、宮廷が大混乱を招いた時、少帝は北[亡β]山で道に迷いましたが、最初に彼を発見したのは誰ですか?閔貢劉?を殺し、?城を献上したのは?張翼 董卓の弟に当たるのは誰ですか?董旻姜維の字(あざな)は何ですか?伯約 赤兎馬の正式名称は?汗血馬(千里は違った)姜維の胆は何のように大きいか?鶏の卵 三国の中で騎馬に長けた弓の名射手で、西漢の名将李広にもかなうと言われ、「飛将」との異名を取ったのは誰ですか?呂布姜維はどこで母親を助けようとして諸葛亮の計謀にはまりましたか?天水 董卓が呂布を説得しようとした時、自ら説得役を買って出た部下は誰ですか?李粛次のうち、諸葛亮に兵法を学んだ名将は誰ですか?姜維 次のうち、天子を脅して長安へ遷都し、洛陽を焼き払ったのは誰ですか?董卓姜維は「陽平関」とどこを失ったら漢中を守りきることはできないと考えていましたか?陰平橋 楚荘王の「武将報恩」の話を用いて董卓が呂布を殺すべきである事情を説明したのは誰ですか?李儒[シ文]山の平康で蛮族の反乱を鎮圧した蜀国の人物は誰ですか?姜維 「千里の草、何ぞ青々たる、十日の卜、生きることを得ず」とは誰を指していますか?董卓蜀で犯罪者として[シ文]山郡に流されたのは?廖立 董卓が京禅に戻り帝位に就くとして騙された時、ビウを守らなかったのは誰?李儒鄧艾に投降した後、妻がその行為を恥じて自ら首を吊り自殺したのは、江油のどの守将ですか?馬[之貌] 殺された後、腹の脂で明かりを灯したと言われるのは、次のうちどの三国人物ですか?董卓 三国志 の記載によると、劉禅は誰から生まれましたか?甘夫人 漢朝の司徒王允はどのようにして亡くなりましたか?董卓の部下に殺された費[示韋]の死後、劉禅はどの宦官を信用し、国政が日に日に衰えて行きましたか?黄皓 董卓の死、誰が乱を続けましたか?李[イ宀隹]と郭汜劉禅が他界した後、晋は彼にどのような諡号を与えましたか?安楽県思公 三国一の猛将呂布が手下となったことがないのは、次のうち誰ですか?司馬懿劉禅は後に人々から「どうしようもない○○」と言われましたが、○○とは何ですか?阿斗 呂布には何人の妻妾がいましたか?3人(厳氏・貂蝉・曹豹の娘) 次のうち、呂布の軍師となったことがあるのは誰ですか?陳宮 下[丕β]の戦いで曹操に水淹の計を提案し、呂布軍を攻撃するよう提案したのは誰ですか?郭嘉(荀攸は×) 侯成は赤兎馬を盗み、誰に贈りましたか?曹操 袁術は玉璽を手にした後、197年に寿春にて自らを天子と名乗り、さらに何と号しましたか?仲家 「袁公路大起七軍、曹孟徳会合三将軍(袁公路、大いに七軍を起こし、曹孟徳は三将を会合せしむ)」の「三将」に含まれないのは、次のうち誰ですか?司馬懿 西暦197年、曹操が袁術の元へ東征した際、袁術は軍を棄てて逃げ、四人だけが[艸革馬]陽に残り曹操への抵抗を続けましたが、この四人に含まれないのは誰ですか?紀霊 西暦197年、曹操が袁術の元へ東征した際、袁術は軍を棄てて逃げ、四人だけが?陽に残り曹操への抵抗を続けましたが、この四人に含まれるのは誰ですか?樂就 公孫[王賛]の手下として働いたことがないのは?雷薄 次のうち、槃河に兵を置き、朝廷に袁紹の十項の罪状をしたため、諸州郡と共に袁紹を討とうとしたのは誰ですか?公孫[王賛] 中国後漢末期の軍閥混乱時期において、袁紹と公孫[王賛]は冀州を奪いあい、どこで戦を起こしましたか?界橋の戦い 「孔融、四歳にして梨を譲る」という言葉は次のどの書物に書かれていますか?三字経 「父母於子女無恩論」父母は子供たちにに対して養育の恩を持つが、出生の恩は持たないと論じていたのは誰?孔融 北海の戦いで、孔融から平原に向かい劉備に援軍を求めよと命じられたのは誰ですか?太史慈 孔融は誰に攻撃され、同郷の太史慈を遣わせて援軍を呼びましたか?黄巾の残党 次のうち、孔融の手下として働いたことがないのは誰ですか?簡雍 次のうち、陶謙の手下として働いたことがないのは誰ですか?太史慈 袁紹は手下を誰に見立てた軍隊を派遣し、公孫越を倒しましたか?孫堅 袁紹はどのような方法で公孫[王賛]の無敵の白馬陣を破りましたか?弓兵 袁紹が易京楼を破るために用いた策は?火攻め 次のうち、袁紹の実績でないものはどれですか?許昌の奇襲 官渡の戦いで、遠征軍の軍糧所在地であるどこを曹操に攻め入られ、袁紹の遠征軍は士気を失い敗退しましたか?烏巣 官渡の戦いで、曹操は袁紹の兵糧がどこにあると知り、勝利のチャンスを得ましたか?烏巣 官渡の戦いノ後、袁紹の手下の将領たちが次々と曹操に投降しましたが、この時に投降しなかったのは誰ですか?田豊 「遁甲天書」はどの仙人が持っていた物ですか?左慈 左慈は三国時代の仙人として伝えられてますが、その道号は何でしたか?烏角先生 次のうち「建安の三神医」でないのは誰ですか?于吉 漢献帝が廃帝された後、曹丕より何を与えられましたか?山陽公 「鼠に石を投げたいが、近くに器があって投げられない」とは、三国の誰を指す言葉ですか??(謝雄×・曹操・李恢×・黄蓋) 次のうち、二人の関係が他と異なるのはどれですか?曹操と曹洪(実の兄弟。他は義兄弟(孫策と周瑜・劉備と関羽・馬騰と韓遂)) 「子は治世の能臣、乱世の奸雄なり」と曹操を評した人物は誰ですか?許劭 「治世の能臣、乱世の奸雄」とは、三国のどの人物を指した言葉ですか?曹操 曹操は黄巾賊を討伐した功績が認められ、何に昇格されましたか?済南相 夏侯惇の字(あざな)は何ですか?元譲 次のうち、14歳の時に師匠から武術を学び、ある人が師匠を侮辱したために、その人物を殺して逃げたのは誰ですか?夏侯惇 曹操に「天子を奉じて衆望に従うこと、比なき大略なり」と勧めたのは誰ですか?荀彧 曹操はどこで天子の名を騙り諸侯に号令しましたか?許昌 曹操が董卓を追撃し、敗戦した時、「天下に公なかるべからず」と言って必死に曹操を助けたのは誰ですか?曹洪 「古き国の司直、我が周昌なり」と曹操から言われたのは?毛[王介] 曹操の父曹嵩は、宦官曹騰の養子となったために曹と姓を改めましたが、本来は何という姓でしたか?夏侯 曹操の父親である曹嵩はなぜ殺されたのですか?財産を狙われたため 西暦193年に曹操はどのような理由で兵を興し、陶謙を討ちましたか?父親が刺されたため 次の魏将のうち戦場で戦死したのは誰ですか?典韋 曹操が[亠兌]州で興したのは何兵ですか?青州兵 曹操が「将軍が忙しい時に、兵を整え、陣を張り、他人の非難をよそに軍に勝利をもたらすとは、古の名将も及ぶところではない」と評価したのは誰ですか?于禁 劉備と呂布を仲違いさせるため、荀彧は曹操に二虎競食の計と何の計を提案しましたか?駆虎呑狼の計 曹操と張繍の宛城の戦いで、曹操に馬を渡し、自分は矢に打たれて死んだのは、曹操のどの息子ですか?曹昂 次のうち、力は虎のように強いが無知だったため、「虎痴」と呼ばれたのは誰ですか?許[示者] 「孤にして大業を成しむ」と曹操が言ったのは誰のこと?郭嘉 「月明るく星稀にして 烏鵲が南に飛び、樹を繞ること三匝、何れの枝にか依る可き」という詩は、誰の作品ですか?曹操 曹操が「上辺だけの小心者で、陰謀を好むが決断力がない」と評したのは誰ですか?袁紹 関羽が劉備の行方を知った時、曹操は誰を派遣し、関羽に自分の元に残る気があるかどうか尋ねましたか?張遼 三国志 によると、官渡の戦いの時に烏巣を守った淳于瓊は。魏国のどの将領に捕らえられましたか?樂進 官渡の戦いにおいて曹操はどのような原因で兵を退けましたか?兵糧不足 官渡の戦いで、曹操はどの謀士の提案を受けて兵を退けず、最終的に勝利しましたか?荀彧 鳥巣を守り、殺害されたのは?麹義(誤植かも?) 次のうち、官渡の戦いの状況に当てはまらないのはどれですか?曹兵が多くて食糧不足になった 「兵は神速を貴ぶ」とは兵を迅速に起用することの大切さを意味しますが、この成語は誰と関係がありますか?郭嘉 借刀殺人の計とは、曹操が袁紹と誰の仲違いを利用し、自分の有利になるよう図った作戦ですか?公孫康(ちなみに借刀殺人という名称は、後代の宋兵法三十六計より。) 「哀しいかな奉孝、痛ましいかな奉孝、惜しいかな奉孝」とは曹操の郭嘉に対する思いですが、郭嘉はどのように亡くなりましたか?病死 曹操は徐庶の家族を脅して投降させましたが、その家族とは誰ですか?母親 船上で象の重さを計る方法を提案したのは?曹沖 曹操はある人物が送った象の重さを知りたがったが、最終的に息子の機知により回答を得ることができました。曹操に象を贈ったのは誰ですか?孫権 曹操が[シ章]河に一楼を築き、贅沢をしたと言われる場所は次のうちどれですか?銅雀台 「銅雀台の賦」は誰が書いたものですか?曹植 銅雀台で弓を射る競争を観るため曹操は部下をどの2色に分けましたか?赤と緑 ある戦いの後、曹操が「若し奉孝あらば、決して我に此の敗戦をもたらさん」と嘆いたのはどの戦いですか?赤壁の戦い 次のうち、 三国志 に記載があるのは誰ですか?蒋幹 赤壁の戦い前に、曹操が蒋幹を遣わせて周瑜に会いに行かせた主な目的は何ですか?周瑜が投降するよう説得するため 赤壁の戦いの時、曹操は黄蓋の火船が近づくのを防ぐため、誰を派遣しましたか?文聘 名将張遼が一番先に頼った人物は誰ですか?丁原 張遼が参戦したことがあるのは?赤壁の戦い 曹操が「天山に登り峻険を踏み越え、陳蘭・梅成を捕まえた盪寇の功績なり」とその仕事ぶりを褒め称えたのは誰ですか?張遼 張遼が合[シ肥]の戦いの後、曹操に与えられた職位は何ですか?征東将軍 司馬懿の字(あざな)は何ですか?仲達 管路が曹操のために詠んだ詩「三八を縦横して、黄猪は虎に遭い、定軍の南に一股を傷つき折る」の中で、「一股を傷つき折る」とはどの将領を指していますか?夏侯淵 渭水の河川で早々は危うく馬超に捕えられるところでしたが、次のどの将領が彼を逃しましたか?許[示者] 荀彧は曹操の重要な謀士の一人ですが、どのような理由から曹操の理念に背き、不仲となりましたか?魏公を封じようと理念に反対した 襄樊の戦いが始まった後、曹操はこれを非常に重視しました。 三国志 の記載によれば、曹操は前後に合計何度の援軍を出しましたか?5回 樊城の戦いで、樊城を死守し、魏軍の援軍を従えて関羽を撃退したのはそれぞれ誰ですか?曹仁と徐晃 曹操はなぜ献帝の董妃を殺そうと考えましたか?曹操を排除しようと知恵したため 中国史上で初めて麻酔を使って病人の手術を手がけた外科医は誰ですか?華佗 「鳥の将に死なんとする其の声や悲し、人の将に死なんとする其の言うことや善し」とは誰の遺言ですか?曹操 「虚名を求めて実害を招くべからず」とは誰の言葉?曹操 曹操は何歳で亡くなった?54歳 三国名将の[广龍]徳が参加しなかったのは、次のどの戦ですか?赤壁の戦い 曹植が作成した賦で、曹操は呉を制した後は、二喬と言われる美女二人を楽しむと誓う、という意味を持つ賦を何と言いますか?銅雀台賦 曹植の「豆を煮るに豆がらを燃やし、豆は釜の中で泣く。本は根を同じくして生ぜしに、相煎ることは何ぞはなはだ急なる」とは、どのような人間関係を例えたものですか?兄弟 曹植は十一年の内に封地を四度遷移しましたが、最後に封じられたのはどこですか?陳王 「九品官人制」とは誰が提示したものですか?陳羣 曹丕は劉備天子が亡くなった後、五路大軍で蜀に攻め入りましたが、この大軍に含まれなかった支軍隊は次のうちどれですか?司馬懿 魏国曹丕の諡号は何ですか?文帝 曹丕は「これまた古の召虎なり」と評したのは、どの名将ですか?樂進(正しくは張遼だが×) 三国時代における「建安三曹」の三曹とは誰を指しますか?曹操、曹植、曹丕 鍾ヨウは曹魏政権の大臣ですが、同時に当時有名な芸術家でもありました。どのような芸術家でしたか?書法家 「車載斗量」とは、量が大変多く、とりたてて価値がないという意味ですが、この成語と関係があるのは次のうち誰ですか?趙咨 「老牛舐犢」とは親が子を溺愛することを意味しますが、この成語は誰と関係がありますか?楊彪 程昱が定住したのはどこですか?東郡 司馬懿の軍隊が反乱を起こしたと聞いて、姉の辛憲英に職位を守り、軽率に動かないよう勧めたのは誰?辛敞 曹真が蜀を討った時、どの地方を越えて進軍することを考え、惜しくも大雨に遭って撤退を余儀なくされたか?子午谷 司馬懿と諸葛亮が対決したとき、司馬懿は誰に道を探すように命じ、街亭に守衛がいれば守衛兵の言うとおりにするよう命じたのは誰ですか??(張?は×) 韓徳はどの武器を持っていましたか?開山大斧 明帝曹叡は、誰かの入朝の際に拝礼をしなくても良いと決めたため、その後三公が病気をしても拝礼をしないことの先例となりました?その誰かとは?鍾ヨウ 西暦240年、曹芳 蘭卿が即位した後、大尉司馬懿とどの大将軍が共同で政権を補佐しましたか?曹爽 [死せる孔明 仲達を走らす」という言葉が生まれたのはどの戦ですか?五丈原の戦い 諸葛家が三国で名を馳せた時に、当時人々は「魏は其の犬を得たり」と言いましたが、犬とは誰を指しますか?諸葛誕 次のうち、鄧艾の息子はは誰ですか?鄧忠 西暦263年、諸葛瞻が綿竹で交戦し、兵力不足のため諸葛瞻と長男の諸葛尚がともに戦死した時の対戦相手は誰ですか?鄧艾 蜀を討伐した司馬昭は、何の官職を与えられましたか?鎮西将軍 「天高くとも上ることもできず、田はあれど見ることもできず」とは誰の言葉?曹髦 孫堅の4人の息子のうち、一番年下なのは誰ですか?孫匡 孫堅はどの城を包囲した時に戦死しましたか?襄陽 孫策の字は何ですか?伯符 孫策は神亭嶺で、どの三国名将と対決しましたか?太史慈 対孫策において太史慈は何を奪いましたか?兜 孫策が小覇王と称されたのは何故か??(一戦いで~ は違った) 西暦200年、孫策が暗殺されると、孫権による相続は多くの人々の不満をあおりましたが、三郡を見回り不満を唱えた人を討伐したのは誰ですか?程普 次のうち、全身12ヶ所を矢で刺されながらも必死で孫権を守ったため、孫権に敬愛されていた名将は誰ですか?周泰 次のうち、間諜として働いたことがないのは誰ですか?魯粛 三国時代、周瑜は誰に軍糧を借り、相手はその半分を分け与えて親友となりましたか?魯粛 次のうち、東呉の「四大都督」に当たるのは誰ですか?陸遜(大都督は周瑜・魯粛・呂蒙・陸遜) 周瑜の水軍が曹操と交戦した時、最初にどこで勝利しましたか?三江口 三国赤壁の戦いの中で、黄蓋はどのような任務を負いましたか?丹陽督尉 次のうち、戦時中に流れ矢に当って水に落ち、救助された時に呉軍が彼を誰だか分からず、厠の寝床に置かれたのは誰ですか?黄蓋 周瑜の死因は?病死 次のうち、臨淮東城の出身は誰ですか?魯粛 諸葛亮は三分天下の計を利用しましたが、二分天下の計を提案したのは誰ですか?魯粛 三国時代の呉国の丞相顧雍は、次のうち誰の門下生ですか?蔡[巛邑] [門敢]沢が定住したのはどこですか?会稽 呂蒙を鄧当に代わって推薦したのは誰?張昭 「士、別れて三日なれば、刮目して相待つ」とは誰の言葉ですか?呂蒙 関羽にうかつにも荊州を失わせてしまったのは東呉の何という将領ですか?呂蒙 劉備は誰から荊州を借り受け、返還しませんでしたか?孫権 南郡の戦いの中で夷陵を攻めた後、曹純と牛金に包囲されたのは誰ですか?甘寧 三国合[シ肥]の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか?孫軍対曹軍の戦い 次のうち、呉国の将領朱桓の功績でないのはどれですか?周泰殺害 関羽を生け捕りにした呉将は誰?潘璋 魏公曹操が東呉を攻めたとき、呉は曹操に何を与え兵を退かせたか?一通の手紙 夷陵の戦いで、劉備が永安に兵を退けた後、陸遜が兵を退けた原因は何ですか?魏国が攻め入られるのを心配した(魏国に) 陸遜が連営を焼き払った後、魏の侵入を防ぐために誰を濡須の護衛に当たらせましたか?朱桓 次のうち、もともとは蜀国に属していたものの、最終的に呉国に身を寄せたのは誰ですか?糜芳 東呉最後の名将は誰ですか?陸抗 劉備、関羽、張飛の三兄弟のうち、年齢が大きい順で正しいのはどれですか?劉備、関羽、張飛 劉備と公孫[王賛]は若い頃誰に学んでいたか?盧植 劉備のために袁紹に協力を求める手紙を書いたのは誰?鄭玄 三国志 の記載によると、劉備が曹操を裏切り袁紹と手を組もうとした時、劉備が結盟のために派遣した使者は誰ですか?孫乾 劉備が新野へ落ち延びた時、諸葛亮の助言に従い江夏に使者を遣わして援護を頼みましたが、このとき派遣されなかったのは誰?簡雍(?) 孫、簡、糜、伊の四人は劉備が手厚く待遇した人物たちですが、中でも最高は誰ですか?糜竺(孫乾・簡雍・糜竺・伊籍の4文官) 劉備はどこに退守したときに阿斗母子と離れ離れになりましたか?当陽 長坂の戦いで劉備に趙雲が北へ逃げたと報告した者がいましたが、劉備はこの人に何を投げつけましたか?手戟 次のうち、密謀により劉備を蜀に迎え入れた主謀の一人でないのは誰ですか?黄権 劉備が益州を奪う気であると劉璋にいったのは?黄権 蜀国を建国したのは誰ですか?劉備 三国漢中の戦いについて正しい説明は次のうちどれですか?劉備と曹操による漢中争奪の争い 蜀漢の五虎名将の子ではないのは?張虎 次のうち、不当な略奪ではない手段で帝位に就いたのは誰ですか?劉備(選択肢が曹丕・司馬炎・王莽・劉備で、劉備は皇帝僭称、他3名は帝位簒奪に当たる為、劉備が正答になる) 三国の中で勢力は最も弱いものの、漢の正統を堅持し、他国と対抗したのはどの国ですか?蜀 劉備が関羽と張飛の仇を報いるため、兵を派遣して征討しようとしたのは誰ですか?孫権 劉備が兵を興し、呉国を討って失敗し、このため白帝城に逃げ込み、病に倒れて逝去したのはどの戦いですか?夷陵の戦い 蜀漢国の勢力が衰え出したのは、どの戦いがきっかけでしたか?夷陵の戦い 劉備が亡くなる前に自分の子供を託したのはどこ?永安宮(?) 「身の丈九尺、顔色は棗のごとく」とは、三国のどの人物の風貌を指したものですか?関羽 関羽が曹操に投降した時、曹操とどのようなことを決めましたか?曹操ではなく漢王朝に降伏する 三国名将のうち、河北軍の軍容を見た後、「我観るに、顔良は首から売り札を下げるが如し」と言ったのは誰ですか?関羽 関羽が五関を破り六将を斬った時、関羽は何番目の関で2人の防守将領を斬りましたか?2番目 秦琪は誰に殺されましたか?関羽 楊齢は誰に殺された?関羽 孔明が博望破を焼き払った時、関羽はどこに潜んでいた?豫山 関羽が参戦したことがあるのはどの戦ですか?夷陵の戦い(誤植?) 次のうち、曹操の大将于禁の投降を受け入れ、その名を広く知られたのは誰ですか?関羽 丈八蛇矛を持つのは誰ですか?張飛 張飛が酔ったふりをして捕えたのは、曹操が劉備を牽制するために遣わした何という大将ですか?劉岱 張飛の妻は誰の姪だと言われていますか?夏侯淵 范彊と張達はなぜ張飛に鞭で打たれたのか?白旗白衣を整えられなかった 当初、趙雲は家へもどり喪に服すため、公孫[王賛]に辞意を示しましたが、この時亡くなったのは趙雲の何に当たる人物ですか?兄 趙雲を一躍有名にさせた戦いはどれですか?長坂坡の戦い 「征袍を血に染めて甲まで紅く、当陽誰が敢えて鋒先を争うや」という言葉は誰を指しますか?趙雲 「一身是肝」とは非常に度胸があることを意味しますが、この言葉は三国のどの将領から生まれた言葉ですか?趙雲 馬超の兄弟に当たるのは、次のうち誰ですか?馬鉄 馬超が太守韋康を殺したのはどこ?涼州 「常に先陣を切って陣営を落とし~(中略)」と評されたのは誰?黄忠 黄忠が劉表の手下として長沙を守っていた時、ともに長沙を守ったことがあるのは誰?劉磐 関羽が「大丈夫たるもの、あのような老兵と並ぶことはできぬ」と言いましたが、老兵とは誰のことですか?黄忠 劉備に対し、体は曹操軍にあろうとも、「生涯計謀を立てない」と誓った謀士は誰ですか?徐庶 「伏竜」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか?諸葛亮 「鳳雛」との異名を取ったのは三国のどの名士ですか?[广龍]統 「可比興周八百年之姜子牙、旺漢四百年之張子房(800年の周朝を興した姜子牙と400年の漢王朝を栄えさせた張子房と比べられる)」のは誰ですか?諸葛亮 諸葛亮の字(あざな)は何ですか?孔明 諸葛亮には何人の兄弟がいましたか?3人(?:史実は2人だが×。族弟の諸葛誕を兄弟に数えているのか?) 諸葛亮は隠居した時に、自分をどう例えていましたか?管仲 創作された架空の出来事ではないのは?三顧の礼 「初出茅盧」とは、初めて世に出ること、経験に乏しく、駆け出しであることを指しますが、この成語は誰と関係がありますか?諸葛亮 孔明は博望坡で火を用いましたが、どこで水を用いましたか?白河 諸葛亮が東呉に舌戦群儒を挑んだとき、最後にその他の人の弁論を制したのは?黄蓋 「集思広益」とは、人々の知恵を集め、幅広く活用する事を指しますが、この成語は誰と関係がありますか?諸葛亮 孟獲が投降するふりをしたのは何度目に生捕りされたときですか?3度目 「鞠躬尽瘁、死してのちやまん」とは、どの人物を指す言葉ですか?諸葛亮 諸葛亮が神を装ったのは、どこの麦を刈るためですか?隴上 諸葛亮と司馬懿徒の間では、歴史上実際に発生したのは次のどれですか?(司馬懿との)平五路安居 杜甫に「万古の霄の一羽毛」と褒められたのは誰ですか?諸葛亮 [广龍]統の字(あざな)は何ですか?士元 厳顔 「卿ら状なくして我が州を侵奪す、我が州には断頭将軍あるのみ、降将軍はなし」 とは、どの武将の言葉ですか? 三国志 の記載によると、馬超が兵を興し曹操を討とうとして失敗した際、劉備が馬超を招き寄せるために派遣した使者は誰ですか?李恢 馬謖と趙括の類似点でないのは?指揮下手(?) 街亭の戦いの時、馬謖とともに街亭を守った副将は誰ですか?王平 宴会の席で剣舞を舞いながら劉璋を刺すよう命じられたのは?魏延 魏延を重視せず、火花を散らしていたのは誰?楊儀 魏延を恨み、桟橋に火をかけたのは誰?楊儀 劉?を殺し、?城を献上したのは?張翼 姜維の字(あざな)は何ですか?伯約 姜維の胆は何のように大きいか?鶏の卵 姜維はどこで母親を助けようとして諸葛亮の計謀にはまりましたか?天水 次のうち、諸葛亮に兵法を学んだ名将は誰ですか?姜維 姜維は「陽平関」とどこを失ったら漢中を守りきることはできないと考えていましたか?陰平橋 [シ文]山の平康で蛮族の反乱を鎮圧した蜀国の人物は誰ですか?姜維 蜀で犯罪者として[シ文]山郡に流されたのは?廖立 鄧艾に投降した後、妻がその行為を恥じて自ら首を吊り自殺したのは、江油のどの守将ですか?馬[之貌] 三国志 の記載によると、劉禅は誰から生まれましたか?甘夫人 費[示韋]の死後、劉禅はどの宦官を信用し、国政が日に日に衰えて行きましたか?黄皓 劉禅が他界した後、晋は彼にどのような諡号を与えましたか?安楽県思公 劉禅は後に人々から「どうしようもない○○」と言われましたが、○○とは何ですか?阿斗 三国志正史問題・三国志演義問題・雑学問題 問題答え 三国志演義の作者は?羅貫中 董卓による黄巾賊の討伐は失敗したものの、十常侍に贈賄したため、どこの刺史に任命されましたか?西涼 董卓が初めて百官を招集し、帝を廃することを提案した時、董卓に歯向かったのは誰ですか?丁原 董卓は誰の参謀を用いて漢の献帝を長安へと送りました?(参謀の誰を~)李儒 董卓と李儒はどのような関係でしたか?舅と婿の関係 華雄は主に誰のために仕えましたか?董卓 牛輔は主に誰のために仕えましたか?董卓 徐栄は誰に殺されましたか?夏侯惇 十八路諸侯は連合を組み誰に反対しましたか?董卓 手には方天画戟を持ち、頭に金冠を載せた名将とは誰ですか?呂布 董卓が後園に入り、呂布と貂蝉が一緒にいるところを見つけた時、怒りに狂い呂布に何を投げつけましたか?画戟 謀をして董卓と呂布を仇討ちさせたのは誰ですか?王允 董卓と呂布を仲たがいさせ、敵同士とするよう促された女性は誰ですか?貂蝉 中国の四大美女の中で、「連関の計」を計り呂布と董卓を仲たがいさせたと言われる女性は誰ですか?(連環の計)貂蝉 方悦は誰に殺されましたか?呂布 「西頭一個漢,東頭一個漢。鹿走入○○,方可無斯難。」の○○に入るのは?長安 王允が董卓を暗殺しようとした時、董卓は道で3つの凶兆に遭遇しましたが、凶兆に含まれないのは次のどれですか?董卓の瞼がぴくぴくと動いた 董卓を殺した犯人は誰ですか?呂布 呂布と曹豹はどのような関係でしたか?妻の父 李[イ宀隹]と郭汜は権力を握った後、誰の名義を借りて曹操に青州の黄巾賊を討たせましたか?献帝 李[イ宀隹]の暴虐ぶりに不満を抱き、兵をあげて李[イ宀隹]を討ったのはどの部下ですか?楊奉 張[之貌]は誰の助言を受けて、曹操の領地である[亠兌]州に呂布を攻め入らせようと決断しましたか?陳宮 呂布は何を条件に劉備と袁術の戦いを調停し、袁術に軍を退けるよう命じましたか?轅門射戟 曹操が下[丕β]を攻撃した時陳宮はどのような計をもって曹軍の兵糧を消耗させることを提案し、実現しませんでしたか?[牛奇]角の計 紀霊は主に誰のために仕えましたか?袁術 袁術の将領紀霊が常用していた武器は何ですか?三尖刀 公孫[王賛]が高い建物を立てて自らを保護しようとしたとき、この建物を何と命名しましたか?易京 献帝は誰に実権を握られたために不安を覚え、自らの血でしたためた詔書を玉帯に隠して劉備に託しましたか?曹操 陳琳に手紙を書き、曹操討伐の札を立てるよう命じたのは誰ですか?袁紹 部下に殺されなかったのは誰ですか?趙叡(袁紹の臣:官渡で戦死) 曹操は郭嘉が烏桓を攻撃したと聞き、袁熙、袁尚は仕方なく、再びどの遼東太守のもとへ逃げ延びましたか?公孫康 袁熙と袁尚は誰に殺されましたか?公孫康 劉表が襄陽で宴席を設けた時、これを機に劉備を消したいと考えたのはだれですか?蔡瑁 劉表が病死した後、劉表の末っ子である劉琮を荊州の主として立てるべきと主張したのはのは誰ですか?蔡瑁 張任は主に誰のために仕えましたか?劉璋 「三絶」がありますが、奸絶(悪人の極み)を代表するのは次のうち誰ですか?曹操 曹操が董卓を殺害しようとして失敗し、董卓に追われた際、誰に助けられましたか?陳宮 曹操が兵を興した時に資金援助をしたのは誰ですか?衛弘 曹操に典韋を紹介したのは誰ですか?夏侯惇 「賊があと十歩のところで我に知らせよ」とは、どの名将の名言ですか?典韋 張繍が曹操軍の陣営に夜襲をかけ、後に曹操の大将典韋を戦死させたのはどこですか?宛城 典韋を酔わせて兵器を盗み、典韋を戦死させたのは誰ですか?胡車児 呂布が劉備を徐州から追い出した時、劉備は誰を頼りました?曹操 劉備、呂布、孫策の三方が袁術を攻めた時、寿春を攻めたのは誰ですか?曹操 官渡の戦いの時、曹操は劉曄 子揚の提案を聞き、どのような兵器で袁紹に対抗しましたか?霹靂車 官渡の戦いの時、許攸は曹操に袁紹のどの部下だと偽り、袁軍の糧草地を焼き払うことを提案しましたか?蒋奇 銅雀台はどの城にありましたか?[業β]城 蔡瑁と張允の死後、曹操が水軍大都督として任命した二人の将領は誰ですか?毛[王介]と于禁 益州牧である劉璋が使者張松を遣わし、曹操と手を組もうとした結果、どうなりましたか?曹操に許都から追い出された 許[示者]と徐晃はある戦袍(鎧)で派手にやり合いましたが、何という戦袍ですか?西川紅錦戦袍 曹阿瞞が髪を割ち、ひたたれを棄ったのは、次のどの戦いですか?潼関の戦い 曹操は韓遂に書信を送り、馬超を生捕りにし曹操に投降させることができたら彼を何に任命すると言いましたか?西涼侯 定軍山の戦いで張飛が食糧を奪い、許[示者]が大刀を振って迎え撃ちましたが、なぜ張飛を止められませんでしたか?酒に酔っていたため 曹操に官位を譲るよう勧めましたが、曹操がこれに従わず、あらゆる方法で笑いものにされたのは誰ですか?左慈 [广龍]徳は主に誰のために仕えましたか?曹操 [广龍]徳はなぜ馬超とともに葭萌関へ攻め入らなかったのですか?病気のため 曹操が晩年病に倒れた時、曹操に神医華佗を勧めたのは次の誰ですか?華[音欠] 雷銅は誰に殺されましたか?張[合β] 上方谷の司馬懿が閉じ込められたのは、諸葛亮は何度目に祁山を訪れた時の出来事ですか?6度目(史実は5度目だが、民間伝承では夏侯淵を倒した漢中攻防戦にも孔明が参加したとされていた為、6度目になる。) 司馬懿父子が孔明の火計に騙され、危うく命を落としそうになったのはどこですか?葫蘆谷 毋丘倹は項城で誰に殺害され、造反に失敗しましたか?宋白 『左伝』癖があるのは誰ですか?杜預 「小霸王」孫策の妻は誰ですか?大喬 樊能は誰に怒鳴られて馬から落ち死亡しましたか?孫策 秣陵を攻撃し、揚州の刺史劉ヨウを負かしたのは誰ですか?孫策 孫策と太史慈は一騎打ちをしたことがありますが、当時孫策 伯符の周りには何騎の騎従がいましたか?12騎 孫策を絞殺したため、その後客人に暗殺されたのは誰ですか?(【孫策が絞殺したため、その後客人が孫策を暗殺したのは】の誤り)許貢 伝説によると、孫策は何という仙人を殺し、後に呪われて亡くなりましたか?于吉 太史慈は主に誰のために仕えましたか?孫権 太史慈は呉国の有名な名将ですが、彼が参戦したことがあるのはどの戦ですか?合[シ肥]の戦い 周泰の剣による傷口が大きくなり、命の危険にさらされた時、これを救ったのは誰ですか?華佗 顧雍は主に誰のために仕えましたか?孫権 赤壁の戦いが開戦する前に、黄蓋は自軍内部での混乱を招くために死刑に処されるところでしたが、その後どのような罰を受けましたか?棒で叩かれた 赤壁の戦いの前に[門敢]沢は誰の命令を受け、曹操陣にニセの投降書を渡しに行きましたか?黄蓋 華佗が書したのは次のうちどの書物ですか?青嚢書 華佗はその著作 青嚢書 を誰に贈りましたか?獄卒 孫権の母親呉国太は縁談を持ちかけてきた劉備とどこで会いましたか?甘露寺 甘露寺前の「恨石」の上の十文字は誰が削ったものですか?劉備と孫権 「天下を安ずる周郎の妙計 夫人をなくし兵まで祈る」とは「三気周瑜」の何度目?2度目 「上手に敵としては相手にならず、頭ひねれどその甲斐なし」とは「三気周瑜」の何度目?3度目 凌統と樂進が一騎打ちをした時、凌統が矢に当たり落馬しましたが、この矢を射ったのはは誰ですか?曹休 第二回合[シ肥]の戦いで凌統を救ったため、生死の友となったのは誰ですか?甘寧 孫権は息子のために誰に縁談を持ちかけ、拒絶された上に屈辱を受けましたか?関羽 「単刀赴会」で、呉国の大局を重んじるがため、連盟関係を維持するよう関羽を呼び出し、話し合いを持ちかけたのは誰ですか?魯粛 魯粛は計を用いて関羽に長江を渡り赴会させますが、この時どこを占拠することが目的でしたか?荊州 「単刀赴会」の事件で、張昭は誰を荊州へ送るよう孫権に提案しましたか?諸葛瑾 陸遜は呉国の有名な名将ですが、彼が参戦したことがあるのはどの戦ですか?夷陵の戦い 甘寧は夷陵の戦いでどの将領に矢で額を射られ死亡しましたか?沙摩柯 三国志演義 第八十三回の「[チ虎]亭に戦いて先ず讐人を得し、江口を守りて書生大将を拝す」という言葉の書生とは、どの将領を指していますか?陸遜 [門敢]沢は主に誰のために仕えましたか?孫権 諸葛瑾は主に誰のために仕えましたか?孫権 丁奉は主に誰のために仕えましたか?孫権 劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだのはどこですか?桃園 劉備は桃園で兵を起こす前、どのような職業に就いていましたか?草鞋を編み、売っていた 双股剣を持つのは誰ですか?劉備 黄巾の乱の末期に劉備は黄巾の残党がいる宛城を攻めましたが、この時どこの門を攻めましたか?北門(南門は朱儁・孫堅) 「三英戦呂布」の中で、最後に加わってきたのは次のうち誰ですか?劉備 昭烈皇后とは次の誰ですか?甘夫人 「兄弟とは手足の如く、妻子とは衣服の如し」と言ったのは誰ですか?劉備 呂布が劉備を徐州から追い出した時、劉備は誰を頼りましたか?曹操 劉備が呂布に追い込まれた時、夏侯惇を遣わしてこれを助けたのは誰ですか?曹操 曹操が劉備を小亭に招き飲みながら英雄を論じた時、劉備が最初に挙げた英雄像は誰ですか?袁術 「煮酒論英雄」の後、劉備は誰を討つことを口実に許都を離れましたか?袁術 劉備は徐州を奪い返した後、誰が攻撃してくることを恐れ、袁紹に手紙を書いて助けを求めましたか?曹操 劉備は曹操の元から逃げ出した後、人を遣わし袁紹に協力を求める手紙を書きましたが、これを書いたのは誰ですか?鄭玄 劉表が襄陽で宴席を設け、劉表の部下がこれを機に劉備を消したいと考えた時、最後に劉備はどの門から逃げましたか?西門 次のうち劉備を救った馬はどれですか?的盧 馬を躍らせて壇渓を越えたのは誰ですか?劉備 的盧は何丈の壇渓を飛び越えて劉備を救いましたか?三丈 「伏龍と鳳雛、二人のうち一人でも得れば、天下を安んずる」と劉備に告げたのは誰ですか?司馬徽 三国の謀士徐庶は、何と名を偽って劉備の元に身を寄せましたか?単福 八門金鎖陣とは、どこから入り、どこから出ることで破ることができますか?生門から入り、景門から出る 劉備が二度目に茅蘆に出向いて孔明を訪れた時、誰に会いましたか?諸葛均 長坂坡の戦いで、糜夫人はどのように亡くなりましたか?井戸に身を投げた 長坂坡の戦いで、劉備はなぜ阿斗を放り投げたのですか?趙雲を労わるため 劉備は呉国からどの州を借り受け、後日返還すると約束しましたか?荊州 昔の人は結婚する時に花嫁は赤い布をかぶりましたが、これは三国のどの女性を真似た風習ですか?蔡[王炎] 劉備が孫呉に縁談をもちかけたとき、自分が安全に国に戻れるかどうかを気にかけ、庭院で何を使って占いをしましたか?石 「奥方をお引止めはいたしませぬが、若殿だけは当方にお残しください」という言葉の「奥方」とは誰ですか?孫夫人 魯粛が劉備から荊州を奪おうとした時、劉備は何の計をもってこれに対応しましたか?涙を流して大泣きした 劉[王貴]を殺し、[各隹]城を献上したのは誰ですか?張翼 楊松は張魯が馬超を騙して離反するよう仕向け、馬超を窮地に追い込みましたが、この時、機を見て馬超を降伏させたのは誰ですか?劉備 劉備は亡くなる前に自分の子供を託した場所はどこですか?白帝城 劉備は亡くなる前に白帝城で誰の夢を見ましたか?関羽 青龍偃月刀の重さは?82斤 関羽の髯はどれくらいの長さですか?2尺 「冷艶鋸」と呼ばれたのはどの武器ですか?青龍偃月刀 「三絶」がありますが、義絶(義人の極み)を代表するのは次のうち誰ですか?関羽 関羽の「温酒斬華雄」(温酒に華雄を斬る)の際、兄の劉備は誰の部下でしたか?公孫[王賛] 「顔良を殺し、文醜を斬った」のはどの三国名将ですか?関羽 関羽が「顔良を殺し、文醜を斬った」後、劉備は誰を遣わして関羽に伝書しましたか?陳震 千里を単騎で走るイメージを持つのは、次のうち誰ですか?関羽 関羽は曹操に対し、誰の勇猛さは関羽に勝ると言いましたか?張飛 関羽が五関を破り、六将を斬ったときに通らなかった関は次のどれですか?娘子関 関羽が五関を破り、六将を斬った時、どの関で肩を矢で射られましたか?洛陽 関羽はどの曹将を斬り、曹操には服従していないことを張飛に証明しましたか?蔡陽 関羽が養子に取ったのは、次のうち誰ですか?関平 諸葛亮がホウ統に代わり、劉備に蜀の地を攻めるために手を貸す前に、荊州を鎮守するよう命じたのは誰ですか?関羽 「単刀赴会」の事件で、関羽は誰と共に会を訪ねましたか?周倉 「私の大事な娘を犬の骨のような男にやれるものか」と言ったのは誰ですか?関羽 荊州で敗戦し、麦城で生け捕られたのは誰ですか?関羽 関公が神となった後、どこに現れて人々を助けたとされていますか?玉泉山 廟中に置かれている関公の神像で、中央が関公、左側が黒い顔をして刀を持った周倉ですが、右側の白い顔をした[才率]印を持つのは誰ですか?関平 張飛の字(あざな)は何ですか?翼徳(正史では益徳) 張飛は主に誰のために仕えましたか?劉備 酒に酔ったために徐州を失ったのは、次のうち誰ですか?張飛 劉備、関羽、張飛が三度目に諸葛亮を訪問した時、諸葛亮は昼寝から起きず、怒った張飛はどのような方法で諸葛亮を起こそうとしましたか?火を放ち屋敷を焼く 趙雲が阿斗を救った時、敵の追撃から彼を守ったのは誰ですか?張飛 張飛が長坂橋で曹操の大軍を怒鳴り散らして退かせた後、何がきっかけで逆に曹操に嘘がバレてしまいましたか?橋を折ったため 趙雲が公孫[王賛]を救った時、誰と対戦しましたか?文醜 趙雲の馬を奪おうとして、逆に趙雲に殺されたのは誰ですか?裴元紹 趙雲はどこで劉備と出会い、彼の元に身を寄せるようになりましたか?臥牛山 趙雲は蜀国の有名な名将ですが、彼が参戦したことがあるのはどの戦ですか?潼関の戦い(長坂坡の戦いは×) 趙雲が長坂坡で夏侯恩を刺し殺し、奪い取った武器は何ですか?青紅剣 劉備が孫呉に縁談に行った時、彼の護衛となったのは誰ですか?趙雲 孔明はまず零陵を占拠し、さらに誰を桂陽郡に遣わして太守趙範を降伏させるよう計を企てましたか?趙雲 夷陵の戦いで呉国の将領朱然が劉備を追撃した時、どの蜀軍将領に遭い殺されましたか?趙雲 韓徳の親子5人を殺害したのは?趙雲 韓徳は誰に殺されましたか?趙雲 馬騰の息子、馬超が初めて 三国志演義 に登場するのはどのような場面ですか?李[イ宀隹]討伐戦 馬超が若いところを見て応戦したものの、あっという間に馬超に槍で刺され落馬したのは誰ですか?王方 曹操が馬騰を京師におびき寄せて殺害しようとした時、長南の馬超は兵を率いて曹操を攻撃し、ある有名な戦を展開しました。何という戦ですか?潼関の戦い(史実は逆なので注意) 馬超が兵を興し曹操の討伐を試みた時、一度は曹操を敗戦に追い込みましたが、最終的にはなぜ逆転されたのですか?離間の計 赤壁の戦いの前に諸葛亮と周瑜が曹操の大軍を攻めるために用いる戦略について話し合った際、二人が手に書いた字は何ですか?火 草船借箭の一件で周瑜は諸葛亮に何日以内に矢を用意するよう命じましたか?10日間 草船借箭の一件で周瑜は諸葛亮に何本の矢を用意するよう命じましたか?10万 諸葛亮が曹操の陣へ矢を借りに行く時、魯粛に何艘の船を借りましたか?20艘 周瑜を三度にわたり怒らせ、吐血し死亡させたのは誰ですか?諸葛亮 周瑜が病死した時、諸葛亮はどこへ慰問に行きましたか?柴桑 孔明が柴桑に到着し、周瑜の武将がみな孔明を殺そうと考えた時、剣を携えた付き人がいたために手出しできませんでしたが、付き人は誰ですか?趙雲 [广龍]統に推薦状を書き、劉備を重用するよう仕向けたのはどの二人ですか?諸葛亮と魯粛 諸葛亮が[广龍]統に代わり、劉備に蜀の地を攻めるために手を貸す前に、荊州を鎮守していた関羽にどのような警告の言葉を伝えましたか?北に当たり、東と和す 陸遜が諸葛亮の「八陣図」に悩まされていた時、出陣を指導した老人は諸葛亮とどんな関係にある人物ですか?妻の父 巻き毛の赤兎馬に乗り、2本の松紋[金襄]宝剣を掛けていたのは誰ですか?孟獲 孟獲が4種の毒泉により蜀軍を阻害した時、蜀軍をこの危機から救ったのは誰ですか?農夫(?:和尚は× / 鬼神・農夫・山神・和尚) 蜀軍が口にした「薤葉芸香」とは、どのようなものですか?解毒剤 「饅頭」という言葉は三国時代の誰が発明したと伝えられていますか?諸葛亮 祝融夫人はどのような武器が得意でしたか?飛刀 孔明が七度目に孟獲を捕らえた後、南方を与え、南方の民衆はこれを感謝して孔明を何と言いましたか?慈父 「饅頭」という言葉は三国時代の誰が発明したと伝えられていますか?諸葛亮 諸葛亮が南征したとき、蛮族を攻めた時の『七擒孟獲』とはどのような戦略の思想に基づいたものですか?心を攻めることを上となす 「泣いて馬謖を斬る」のきっかけとなったのは何という戦いでの敗北ですか?街亭の戦い 諸葛亮が初めての北伐の際、姜維を服従させ「吾、夏侯楙を放つは○を放つが如し。今、伯約を得たは○を得たと同じなり」と言いますが、○○に当てはまる言葉は何ですか?鴨と鳳 諸葛亮が祁山を攻撃した際に用いた計謀はどれですか?空城計 諸葛亮が神を装ったのは、どこの麦を刈るためですか?隴上 「山谷に賢あり、明主に投ぜんと欲す。明主賢を求むれど、却って吾を知らず」とは、誰の歌ですか?単福 法正は主に誰のために仕えましたか?劉備 黄忠が定軍山を討った時、参謀したのは誰でしたか?法正 韓玄は誰に殺されましたか?魏延 弓で曹操の前歯を射たのは誰ですか?魏延 蜀将王平は曹操の有能な将領でしたが、いつ蜀国に転じて投降しましたか?漢水の戦い 諸葛亮の死後、楊儀は誰に魏延を食い止めるよう命令しましたか?王平 張飛が西川へ出向いた時、誰の部隊を先鋒とし、素早くフ水関に到達することができましたか?厳顔 諸葛亮が曹魏を北伐する際、東呉が攻めてきたと嘘の報告をして諸葛亮に緊急に兵を退かせたのは誰ですか?李厳 周倉が陣取っていたのはどの山ですか?臥牛山 周倉は主に誰のために仕えましたか?劉備 仲間の杜遠を殺し、甘、糜の二人の夫人を救ったのは誰ですか?廖化 [广龍]統は主に誰のために仕えましたか?劉備 司馬懿は誰のことを「徒有虚名、乃庸才耳(虚名ばかりで実際は才のない人物である)」と言いましたか?馬謖 馬良は主に誰のために仕えましたか?劉備 鄧芝は主に誰のために仕えましたか?劉備 張嶷は主に誰のために仕えましたか?劉備 姜維が計を用いて隠平橋を奪ったときに騙したのは誰ですか?諸葛緒 鄧艾 士載に投降した後、妻がその行為を恥じて自ら首を吊り自殺したのは、江油のどの守将ですか?馬[之貌] 「楽しくて蜀を思わず」とはどの歴史上の人物を指しますか?劉禅
https://w.atwiki.jp/shintouzyo/pages/375.html
唐書巻二百二十 列伝第一百四十五 東夷 高麗 百済 新羅 日本 流鬼 高麗は、本来、扶餘の別種である。その地は、東は海をまたいで新羅に至り、南も海をまたいで百済に至る。西北は遼水を渡って営州と接し、北は靺鞨と接す。 その君主は平壌城に居住している。長安城ともいい、漢代の楽浪郡で、京師から五千里余り離れている。山にそって城壁をめぐらし、南は洪水(大同江)に面している。王はその左に宮室を築いている。また国内城・漢城があり、「別都」という。 川には大遼(遼河)小遼(渾河か)があり、大遼は弱の西南の山から出て南流し、安市城をすぎる。小遼は遼山の西から出て、やはり南流する。水(太子河か)があり、外を出て西流し合流する。馬訾水(鴨緑江)があり、靺鞨の白山から出る。色が鴨頭のようで、鴨淥水という。国内城をすぎ西流して、塩難水と合し、また西南流し、安市に至って海に入る。平壌は鴨淥の東南にあり、大きな舟で人を渡し、頼って堀としている。 官はあわせて十二級あり、大対盧、あるいは吐捽という。鬱折は、図簿を掌る者である。太大使者、帛衣頭大兄、いわゆる帛衣とは先人のことで、国政を執り、三年ごとに交替するが、適職者はその限りでない。およそ交替の日には敬服せず攻めあう。王は宮門を閉ざして自守するのみで、勝者が就任することを許す。大使者・大兄・上位使者・諸兄・小使者・過節・先人・古鄒大加である。その州・県は六十で、大城には傉薩を一人置く。唐の都督にあたる。他の城には処閭近支を置く。また道使ともいい、刺史にあたる。補佐の幹部がおり、大模達・末客があり、(大模達は)衛将軍にあたり、(末客は) 中郎将にあたる。 五部に分かれ、内部、つまり漢代の桂婁部で、黄部ともいう。北部、つまり絶奴部で、後部ともいう。東部、つまり順奴部で左部ともいう。南部、つまり灌奴部で、前部ともいう。西部、つまり消奴部である。 王は五条(青・黄・赤・白・黒)を着、白い羅で冠をつくる。革帯にはみな金の剣をつける。大臣は青(紫か)羅の冠で、その下位の者は真赤な羅(を用いる。冠には)二本の鳥の羽を掴み、金・銀をまじえた釦がつく。上着は筒状の袖のあるもの、俺は大口、白いなめしがわの帯、黄色い革の履をそれぞれ用いる。庶人は粗衣を着て、頭には弁をつける。女子は首に巾(くびかざり)をつける。人々は囲碁・投壺(投げ矢)・蹴鞠を好む。食器は、籩豆(竹と木のたかつき)・簠簋(黍穫などを盛る祭器)・罍洗(大きい樽)を用いる。 居所は山や谷で草で屋根をふく。ただ王宮・富裕・仏寺では瓦を用いている。貧しい民は、真冬には長坑を作り、火をたいて暖をとる。 政は法を厳しくして、人々を支配する。だから犯す者や謀反する者が少ない。犯罪者がおればあつまって松明で身体を焼灼し、その後斬殺し、その家人は戸籍からはずす。降伏したり、敗れたり、強盗をした者は斬殺する。盗人は十倍を弁償させる。牛を殺した者は落として奴婢とする。だから物が落ちていても拾わない。結婚する場合、財物の受けこたえはしない。受けとる者があれば、それを恥ずべきこととする。 父母が死んだら、その喪には三年間服し、兄弟のは次の月で除かれる。淫祠が多く、霊星および日・箕子・可汗等の神を祀る。国の東に大穴があり、神隧という。いつも十月に王がみずから祭る。人々は学問を好み、貧寒で賎役に就く家に至るまで、またつつしみ勉め、どの路傍にも立派な小屋を構え、それを局堂という。未婚の子弟の居室で、経を誦じ、射術を習得する。 隋末に王の高元が死に、異母弟の建武が嗣いだ。武徳年間(618-626)の初め、再度使者を遣わして入朝してきた。高祖は書を下して修好し、高麗人で中国にいる者を護送することを約束し、中国人で高麗にいる者を送還するようにした。そこで建武はことごとく亡命者を捜させた。役人に帰順する者は一万人に及んだ。のち三年して、使者をおくって拝して上柱国・遼東郡王・高麗王とした。道士に命じ、像・法を伴い行って、『老子』を講じさせた。建武は大いに喜び、国人をひきつれ、共にそれを聴き、日ごとに数千人もいた。帝は侍臣に次のように言った。「名実との間は、みな合致すべきものだが、高麗は隋に臣従していたにもかかわらず、結局、煬帝を拒絶した。どうして臣たる者の態度といえようか。朕は人々を安んずることに務めているだけで、必ずしも臣従することを求めなくともよいだろう」と。裴矩・温彦博は諌めて言った。「遼東は本来、箕子の国であり、魏晋代までは封土内でありました。だから、臣としないわけにはいきません。中国と夷狄とは、太陽と列星とのようなもので、落とすべきではありません」と。そのため沙汰止みとした。新羅と百済が上書して言った。「建武は道路を閉ざして、入朝できないようにしています。また、しばしば侵入して参ります」と。詔して、散騎侍郎の朱子奢に、節を持して諭して和解させた。建武は謝罪し、二国と和平することを請うた。 太宗は、突厥の頡利可汗を捕えた。建武は使者を遣わして賀し、あわせて「封域図」を献上した。帝は詔し、広州司馬の長孫師に、隋代兵士の骸骨を埋めさせ、高麗が立てた京観(屍を積み、その上に封土したもの)を破壊させた。建武はおそれて千里の長城を築いた。東北は扶餘に始まり、西南は海岸までつづいた。 その後久しくして太子の桓権を遣わして入し、土産物を献上した。帝は厚く回賜した。詔して使者陳大徳に節を持して労らわせ隙を見させた。大徳はその国に入り、地方官を厚くもてなし、ことごとく詳細を見ることができた。中国人の流民に会い、彼らのためにその親戚の存否を話した。人々は涙を流し、やってくる男女は道観を狭くした。建武は盛んに軍隊に演習させ、使者のに見せた。大徳は還って奏上した。帝は喜んだ。大徳はまた言った。「高昌が滅んだことを聞き、大対盧が三たび館にやってまいりまして、もてなしを厚くしました」と。帝が言った。「高麗の地は四郡にとどまる。我が士卒数万を派遣し、遼東を攻めれば、諸城は必ず我を救いに来るだろう。軍船で、東菜から海をこえて平壌に向かえば、もとより容易である。しかし天下ははじめて平和となっている。人々を労わせたくないだけである」と。 蓋蘇文というものがおり、或いは蓋金といい、姓は泉氏である。みずから水中で生まれたと言って衆を惑わせている。性格は残忍で狂暴である。父は東部大人で、大対盧となった。父が死んで、蓋蘇文が継ごうとしたが、国人が憎んだので、継ぐことができなかった。頓首して人々に謝し、その職に就くことを請い、もし誤ちを犯せば、廃されても悔いはないと言った。人々はそれを哀れんで、とうとう位を嗣がせた。残虐非道で、諸大臣は建武と彼を誅することを計った。それを知り、諸部兵をことごとく召集していて言った。あざむいて言った。「盛大に閲兵をし、ご馳走を並べる。大臣はやってきて視察してほしい」と。賓客がやってくるとそれをみな殺しにし、その数は百余人であった。また王宮に馳せ入り建武を殺し、その屍をばらばらにして溝に投げこんだ。さらに建武の弟の子蔵を立てて王とし、みずからは莫離支となって、国を専掌した。唐における兵部尚書と中書令の職を兼ねあわせたもののようであるという。蓋蘇文は容貌がすぐれ、鬚・髯が美しく、冠服はみな金で飾っており、五本の刀を佩び、左右によく仰ぎ視るものがなかった。貴人を地に伏せさせ、それを踏んで馬に乗った。出入するときは、兵を並べ、長く呼ばわって横切ることを禁じた。道行く人々は畏れて逃げ、坑や谷にとびこんだ。 帝は、建武が下臣に殺されたことを聞き、哀悼し、使者を遣わし、節を持して弔祭させた。ある者が帝に討伐するよう勧めたが、帝は喪中に乗じて断罪することを欲しなかった。そして蔵を拝して遼東郡王高麗王とした。帝は言った。「蓋蘇文は君主を殺し、国を奪った。朕がこれを捕えることは容易だが、人を労わせることは望まない。どうしたらよいか」。司空の房玄齢が言った。「陛下の士卒は、勇敢で力に余裕があります。温存して用いないのは、いわゆる戈を止めるは武なり、そのものです」と。司徒の長孫无忌が言った。「高麗は一度も国難を告げてきません。よろしく書を賜わって安慰し、患いを取り除いて安撫すれば、彼は当然、命をきくはずです」と。帝は「よろしい」と言った。 たまたま新羅が使者をおくり、上書して言った。「高麗と百済とが和を結び、討伐してきそうです。謹んで、天子の命に服します」と。帝は、どうすれば免がれるのかを問うた。使者は言った。「計は窮まりました。ただ陛下の哀れみばかりです」と。帝は言った。「我が辺兵を若干、契丹・靺鞨を従えて遼東に入れば、汝の国は一年は命をつなぐことができよう。第一策である。我が、(唐の)赤い上衣と幟を数千、汝の国に与えよう。敵が来たら立てて陣を張れ。二国は見て、我が軍がやってきたと言って必ず逃げ去ろう。第二策である。百済は海を頼って兵器を整備していない。我が水軍数万で襲撃しよう。汝の国は女王であるから隣国に侮られるのだ。我が宗室の者を汝の国に統率させよう。平安となるのを待ち、自守するのに任せよう。第三策である。使者はどうするかを考えよ」と。新羅の使者は答えられなかった。そこで司農丞の相里玄奨を遣わし、璽書をもたらして高麗を責め、攻めることのないようにさせた。使者が至る前に、蓋蘇文は既に新羅の二城を取っていた。相里玄奨は帝の旨をもって論した。それに答えて言った。「かつて高麗は隋に侵略されましたが、新羅は隙に乗じて我が地五百里を奪いました。今地をことごとく返還しないならば、戦をやめるわけにはいきません」と。相里玄奨が言った。「既に過ぎ去ってしまったことは、どうして論ずるに足りましょうか。遼はもと中国の郡県ですが、天子は取っていません。高麗がどうして詔を違えることができましょう」と。従わなかった。玄奨は帰還して奏上し、帝は言った。「莫離支(蓋蘇文)は君主を殺し、その人々を生き埋めにするも同然に虐げ、怨痛は道にあふれた。我が兵を出すのに名分がないであろうか」。諫議大夫の褚遂良が言った。「陛下の兵が遼を渡って勝つことは、もとよりよろしい。万に一つ速く勝つことができなくても再度軍を用いればよい。ただし再度軍を用いれば唐の安否は計り知れません」と。兵部尚書の李勣が言った。「そうではありません。先に薛延陀が辺境を盗し、陛下が追撃しようとされましたが、魏徴が苦心して諌め、おやめになりました。もし追撃していれば、一馬たりとも生きて返さなかったでしょう。後にまた叛きみだれ、今に悔を残しています」と。帝は言った。「誠にその通りだ。一度の失敗でそれを非難すれば、後に誰が、我のために計ろうか」と。 新羅がしばしば救援を請うた。そこで呉船四百艘を与えて兵糧を輸送させ、営州都督張儉らに詔し、幽州・営州の兵および契丹・奚・靺鞨を発して討伐させた。丁度、遼水があふれていたので、軍は還った。莫離支は恐れ、使者を遣わして白金を献上した。帝は受納しなかった。使者はまた言った。「莫離支は、官人五十人を派遣して宿衛させようとしています」。帝は怒り、使者を責めて言った。「汝らは高武(建武)に仕え、節義を死守することなく、逆に謀反をなした。許すことができない」と。ことごとく獄に下した。 かくして帝は、みずから将となって討伐しようと欲し、長安の老人を召して、労って言った。「遼東はもと中国の地であり、莫離支はその主君に反逆して殺した。朕はみずから行ってそれを経略しようと思う。だから父老と約束しよう。子あるいは孫で、我に従って行く者は、よく慰安するから、憂えないでほしい」と。そして布や穀物を厚く賜わった。群臣はみな帝に行かないよう勧めた。帝は言った。「朕は知っている。本を去って末に就く、高きを捨てて下を取る、近きをすてて遠きにゆ三者は不祥である。高麗を伐つのはこれである。しかし蓋蘇文は主君を試し、また大臣を殺戮して満足している。一国の人は首を長くして救いを待っている」と。群臣が議論したが、明確に出なかった。ここに北方では穀物を営州に輸送し、東では穀物を古大人城に蓄えさせ、帝は洛陽に行幸した。そして張亮を平壌道行軍大総管とし、常何・左難当にそれを補佐させ、冉仁徳・劉英行・張文幹・龐孝泰・程名振を総管として、呉・江・京洛の募兵およそ四万、呉船五百を率い、海を渡って平壌に向かわせた。李勣を遼東道行軍大総管とし、江夏王李道宗にそれを補佐させ、張士貴・張儉・執失思力・契苾何力・阿史那弥射・姜徳本・麴智盛・呉黒闥を行軍総管として、それに従わせ、騎士六万を率いて遼東に向かわせた。詔して言った。「朕が通過する屯営には、常に食を慎ませ、労費するなかれ。川で渡ることができるものには、橋梁を作ることなかれ。行在所では、近くの州県からでなければ、学生・老人に迎えて謁見させることを認めない。朕は昔、武器をとって乱を治めた。ひと月の蓄えにも充たなかったが、それでも向かうところは風も靡いたものだ。今は幸いに家ごとに人足を給し、ただ兵糧を転送するのに苦労するのではないかと恐れる。だから牛・羊にむちうって軍に食糧を給せ。また朕が必ず勝つとする根拠は五つある。我が大軍で彼の小軍を撃つからであり、順正が彼の悪虐を討つ。平安が彼の乱に乗ずるからであり、勢いに乗じた唐が、疲労を討つからである。喜び勇んでいる唐が、怨痛にあたるからである。どうして勝てないと憂える必要があろうか。また契丹・新羅・百済の諸君長の兵を徴発し、ことごとく合軍させよ」と。 貞観十九年(645)二月、帝は洛陽から定州に陣し、従臣に言った。「今、天下はすっかり安定している。ただ遼東が服従していない。後嗣は士馬が強盛なのをいいことに、臣下と謀議したから征討を招き、争乱はまさに始まろうとしている。だから朕みずからこれを取って、後世に憂いを残さないようにする」と。帝は城門に坐って通過する兵をひとりひとり慰撫し、疾病者はみずからそれを視て州県の役人に勅して治療させた。兵士はとても喜んだ。長孫无忌は奏言した。「天下は心を一にしてことごとく従っていますが、宮官は十人にとどまります。天下は帝位を軽んじます」と。帝は言った。「兵士で遼水を渡った者が十万、みな家屋を離れて一人で来た。朕は十人を従えて来たが、なお多いと恥じている。公、言うのをやめなさい」と。帝は身に袋を負い、鞍に二つの箙を結んだ。四月、李勣は遼水を渡り、高麗はみな城を固く守った。帝は大いに兵士を饗し、幽州の南に陣を張った。長孫无忌に詔し、将士を集めて戒告させ、兵を率いて東進した。 李勣は蓋牟城を攻めて陥落させ、二万戸・糧十万石を獲得し、その地を蓋州とした。程名振は沙卑城を攻め、夜にその西側の城から入って破壊し、八千人を捕虜とし、兵を鴨水のほとりに屯させた。李勣は遂に遼東城を囲み、帝は遼水の沢地に陣し、詔して、隋の戦士の原野に露された骸骨を埋めさせた。高麗は新城・国内城の騎兵四万を徴発し、遼東を救援させた。李道宗は張君乂を率いて逆撃したが、張君乂は退却した。李道宗が騎馬でかけつけると、敵兵は驚き退いた。李道宗はその橋を奪い、散っていた兵卒を集め、高所に登って望見した。高麗の陣中は騒がしくなったから急撃し、これを破り、千余級を斬首し、張君乂を誅殺してそれを全軍に布告した。帝は遼水を渡り、橋を撤去して、士卒の背水の決意を固めさせた。馬首山を本陣とし、帝みずから城下に至り、士卒が土塊で塹壕をうめているのを見、負担の重い者から分けて、馬上で土塊を持った。群臣はおそれ、争って土塊をはさんで進んだ。城中には朱蒙祠があり、祠には鎖甲・銛矛があった。前燕の時、天が降らせてきたものだと妄言している。包囲が切迫すると、美女を飾って婦神とした。巫は「朱蒙が喜んでいるから城は必ず保たれる」と言った。李勣は車を並べ、大石を飛ばし、三百歩以上飛んで当たった所はたちまち潰れた。敵は木を積んで楼をつくり網状に結んだが防げなかったばかりか、衝車で壁・屋を突かれて砕かれた。その頃、百済は金漆の鎧を献上した。また玄金を五綵で染めて山五文鎧をつくった。士官は着用して従軍した。帝が李勣と合流したとき、甲が日光に輝いた。するとにわかに南風が吹き、火を放って城の西南を焼き、城中にも燃え拡がり、建物はみな燃え尽き、焼死者は万余人あった。士卒は城壁に登り、敵は盾で覆って防いだ。士卒は長矛を挙げてそれを突いた。投石を雨のように降らせたので、城は遂に落城した。精兵一万余人を捕獲し、四万戸を捕え、糧五十万石を得た。その地を遼州とした。 はじめ帝は、太子の所属する行在所(定州)から三十里ごとに烽兵を一人置き、遼東城を降したら烽をあげることを約束した。この日、合図の烽は塞に入った。 白崖城に進攻した。城は山と川に囲まれ、非常に堅固であった。帝は城壁の西北方に陣した。敵の首長の孫伐音はひそかに降伏を乞うた。しかし城中は一つにまとまっていなかった。帝は幟を賜わって言った。「もし降伏するなら垣にたてて信用させよ」と。すぐに幟をあげ、城民はみな唐兵が登ったと思って降伏した。最初孫伐音は途中で降伏することを後悔した。帝はそれを怒って諸将に高句麗を取ったら、その民を賜与することを約束していた。ここに及んで李勣は言った。「士卒が奮励して先陣を争うのは、虜獲を貪ろうとするからです。今、城はもう落ちようとしています。降伏を許して、士卒の心に叛くべきではありません。帝が言った。「将軍の言は正しい。しかし出兵して殺戮し、人の妻子を略奪することに朕は忍びない。将軍の部下で功績ある者は、朕が国庫の財物で賞与しよう。だから願わくば将軍、一城を朕に売り渡してくれないか」と。男女約一万、兵士二千を獲得し、その地を厳州とし、孫伐音を拝して刺史とした。莫離支(蓋蘇文)は加尸の七百人に蓋牟を守らせた。李勣はそれを捕虜とし、まごころを尽くさんことを請うた。帝はその人たちに言った。「汝らの家は加尸にある。だからわが戦力とならば、蓋蘇文は汝らの妻子を皆殺しにするだろう。一家族を殺してまで一人の力を求めることを受け入れられない」と。そして彼らを放還した。 安市に陣した。ここで高麗の北部傉薩の高延寿、南部傉薩の高恵真は兵士およびの衆十五万を率いて来援した。帝は言った。「彼らがもし兵を整えて安市を連合し、高山を頼んで城中の穀物を取って食べ、靺鞨に我が牛馬を略奪させてしまえば、攻めたところで陥落しないだろう。これは敵には上策である。城をひきつれて夜逃げだすのは、中策である。我と争うのは下策であり、捕えることができよう」と。援軍の中に大対盧がいて高延寿のために計って言った。「私の聞くところによりますと、中国の乱では豪雄が並びたちましたが、秦王神武は向かうところ強敵もなく、遂に天下を平定し、南面して帝となりました。北狄・西戎には臣とならないものがないそうです。今、国をあげてやってきて、謀臣・重将はみなここに集まっております。その鋭鋒は比べものになりません。今は、兵を駐屯し、日を引きのばし、ひそかに奇兵をおくってその糧道を断てば、十日たらずで軍糧が尽きるでしょう。戦おうと思ってもできず、帰ろうと思っても路はありません。その時に破るべきです」と。高延寿は従わず、軍を率いて安市から四十里に駐屯した。それで帝は言った。「敵はわが策中に陥った」と。左衛大将軍の阿史那社尓に命じ、突厥の千騎を率いて誘いださせた。敵は常に靺鞨の鋭兵を前衛としていた。阿史那社尓の兵は接敵して逃げた。高延寿は言った。「唐はくみしやすい」と。三十里ほど進軍し、山麓に依って陣した。帝は高延寿に詔して言った。「我は汝の国に強臣がいて、その主君を賊殺したから、やってきて罪を問うのである。だから交戦することは我が意ではない」と。高延寿はそうだと思い、兵をとどめて待った。帝は夜、諸将を召集し、李勣に歩騎一万五千人を率いて西嶺に陣して賊にあたらせた。長孫无忌と牛進達の精兵一万人で、敵の背後の狭谷へ出させた。帝は騎兵四千を率いて、幟を伏せての北側の山上に向かい、諸軍に令して言った。「鼓の音を聞いたら進軍せよ」と。幕を朝堂に張らせて、「明日の日中、ここで、降伏してきた敵を納めよ」と言った。その夜、流星が高延寿の軍営に堕ちた。翌日、敵は李勣軍が少ないのを見て、すぐに戦おうとした。帝は長孫无忌の軍の粉塵が上がるのをながめ、鼓・角をならし、兵幟を四合させた。敵は恐れ惑い、兵士を分けて防ごうとしたが、衆はすでに騒然としていた。李勣は歩兵の長矛でそれを撃ち破った。長孫无忌は背後から迫り、帝は山から下にかけおりた。敵は非常に乱れ、二万人が斬首された。高延寿は残りの衆を集め、山に入って自守した。長孫无忌と李勣は合流してそれを囲み、川の橋を撤去して帰路を断った。帝は轡をおさえて、敵陣を視察して言った。「高麗は国を挙げてやってきている。ひとたび指図しただけで破ったのは、天が我を助けたからである」と。馬をおりて再拝し、戦況を天に感謝した。高延寿らは勢力が窮まったと考え、衆を挙げて降伏し、軍門に入り、膝行し手をあわせて命を請うた。帝は言った。「今後、敢えて天子と戦おうとしないか」と。恐れいって汗をかき、答えられなかった。帝は首長二千五百人に地位に応じてことごとく官位を授け、内地に移ることを許した。残りの人々三万人は放還した。靺鞨の三千余人を誅殺し、馬・牛十万頭、明光鎧一万領を獲得した。高麗はふるえおののき、后黄・銀二城は自然に陥落し、数百里は人家もなくなった。そこで太子に伝えさせ、あわせて諸臣に書を賜わって言った。「朕がみずから将となり遠征したからこのような結果になったのだ。何も言うことがなかろう」と。そこで行幸した山を駐蹕山とし、破陣の状況を画かせ、石に刻んで功績を記録させた。高延寿には鴻臚卿を、高恵真には司農卿を拝授した。巡視兵が間諜を捕えた。帝はその縛を解いた。みずから、三日間何も食べていないことを言ったから命じて食事を与えさせ、靴を賜わり、送還しようとして言った。「帰って莫離支(蓋蘇文)に言え、もし軍中の様子が知りたいなら、人を堂々陣所に送ったらよい。」帝は常に塹塁を作らなかった。ただ斥候を排除するだけであった。それで士卒が兵糧を運ぶときに、単騎であっても、敵は敢えて略奪しなかった。 李勣と、攻撃するところを論議した。帝は言った。「我の聞くところによれば、安市の地は堅固で、その衆は勇敢であり、莫離が攻撃したが、下すことができなかったという。だから、これと戦うには、建安が険なのをいいことにして、穀物は多いが士卒は少ないから、もし不意に攻めれば救援できない。したがって建安を得れば、安市はわが腹中にあることになる」と。李勣が言った。「そうではありません。兵糧は遼東に蓄えてあります。それなのに先に西進して建安を撃てば、敵は我が帰路をふさいでしまうでしょう。安市を先に攻めるにこしたことはありません」と。帝は、「よし」と言って遂に安市城を攻めた。まだ下すことができずにいたが、高延寿・高恵真が謀って言った。「烏骨城の傉薩はもう老いており、朝に攻めれば夕にはもう下すことができましょう。烏骨を陥落させれば、平壌も陥ちましょう」と。群臣もまた思った。「張亮の軍が沙卑にあり、それを召集すれば一夜でやってくる。もし烏骨を取って鴨水を渡れば、中心部に迫れる。善い計略だ」と。長孫无忌が言った。「天子の行軍というものは、楽を求めないものだ。安市の衆は十万で、我が後ろにいる。これを先に破るにこしたことはない。それから長屋、南進するのが万全の体勢であろう」と。それで烏骨城の攻撃はやめになった。安城中の人は、帝の旗幟を見て、壁に登って騒いだ。帝は怒り、李勣は、男子を皆殺しするように請うた。敵はそれを聞いて、死にものぐるいで戦った。江夏王李道宗は距闉(城中を偵察・攻撃するため城壁につけて築いた土山)を築いて安市城の東南を攻めたが、壁の高さを増して守った。李勣は西を攻めた。撞車で壊した所は、守兵によって楼がつくられた。帝は城中に鶏や豚の鳴き声がするのを聞いて言った。城を囲んでから久しいが、煙突に黒煙がない。今、鶏や豚が鳴いた。きっと殺して士卒に饗するのだ。今夜にも出兵してこよう。詔して兵を厳重にした。丙夜(十二時頃)、敵の数百人が城壁から網を下げおろして降りてきたから、ことごとく捕えた。李道宗は樹の幹を土をおおって、これを積んで距闉をつくり、城壁に迫ること数丈たらずとなった。果都尉の傅伏愛にそれを守らせた。次第に高くなり、その城壁を押せば、今にも崩れようとした。しかし傅伏愛はかってに部所を離れた。敵兵はそのすきにみずから城壁を崩して出撃し、唐の距闉にそって塹壕として通路を断ち、火をたき盾をめぐらして固守した。帝は怒って傅伏愛を斬り、諸将に勅して攻撃させたが、三日しても勝つことができなかった。 詔して退却させ、遼・蓋二州の人をひきつれて帰った。兵が安市城下を過ぎた時に、城中の人は息をひそめ、旗をたおし、城主は城壁に登り再拝した。帝はその守を賞し、絹百匹を賜わった。遼州の穀物はなお十万斛あり、士卒が取っても尽きることはない。帝は渤錯水(遼寧省海城県の西北)に至ったが、八十里ものぬかるみに阻まれ、車騎が通じなかった。長孫无忌・楊師道らは一万人を率いて、木を斬って道をつくり、車を連ねて橋をつくった。帝も馬上で木を負って仕事を助けた。十月になって、兵は渡り終えたが、雪がひどかった。詔して、かがり火をたきつづけさせ、渡るのを待った。最初行った兵士は十万、馬は一万匹で、帰るに及んで物故した物はわずか千余人であった。馬は十匹中八匹は死んだ。水軍は七万で、物故した者はやはり数百人であった。帝は詔して、戦没した者の骸骨を集め、柳城(朝陽)に葬らせ、牲を祭った。帝は哭哀し、従臣もみな流した。 帝は早馬を従えて臨渝関(河北省撫寧の東)に入り、皇太子は道の左側に迎えた。はじめ帝は太子と別れる時に褐(けごろも)・袍(わたいれ)を召して言った。「おまえに会ったら、その時には袍を着覚えよう。そのために、夏・秋とふた時が過ぎるのに、帝は易えず、穴があいてぼろぼろになった。群臣は更衣するよう請うたが、帝は言った。「士卒がみなやぶれた衣であるのに、どうして自分だけが服を新しくできようか」と。この時になって、太子が清潔な衣を進め、ようやく召した。遼東での降伏者一万四千人は、当然落として奴婢とし、まず幽州に集め、軍士に分賞されるはずであったが、帝は父子・夫婦を離れさせることを哀れみ、役人に詔して、布帛を贈わせ、奴婢身分から庶民になることを許した。みな感謝し、歓呼して舞い踊り、三日間やまなかった。高延寿はすでに降伏していたが憂死しており、高恵真だけが長安へやってきた。 翌年春、高麗王の蔵は使者を遣わして土産物を献上し、かつ謝罪し、二人の美女を献じた。帝はしてそれを返し、使者に言った。「美人は人が貴重がるものであるが、親戚から離れ、その心を痛めることをあわれむ。私の取るところではない」と。はじめ、軍が還ると、帝は弓・服を蓋蘇文に賜わったが、それを受けとりながら、使者を遣わして感謝することをしなかった。そこで詔を下して朝貢を受けつけなかった。 また翌年三月、詔し、左武衛大将軍の牛進達を青丘道行軍大総管とし、右武衛将軍の李海岸にそれを補佐させ、軍は菜州から海を渡った。李勣を遼東道行軍大総管とし、右武衛将軍の孫弐朗、右屯衛大将軍の鄭仁泰にそれを補佐させ、営州の兵士を率いさせた。軍は新城道を経由して進軍し、南蘇・木底に陣した。敵兵は戦っても勝たず、李勣の軍はその城郭を焚いた。七月、牛進達らは石城を取り、積利城へ進攻し、数千人を斬首し、それからひき返した。蔵は子の莫離支高任武を遣わし、来朝して謝罪させた。 貞観二十二年(648)、詔し、右武衛大将軍の薛万徹を青丘道行軍大総管とし、右衛将軍の裴行方にそれを補佐させた。薛万徹の軍は海路を行って高麗に入り、部将の古神感は敵と曷山(不詳)で戦い、敵は潰滅した。敵は暗闇にまぎれて我が舟を襲ったが、伏兵でそれを破った。薛万徹は鴨淥水を渡って泊灼城から四十里離れた地に陣した。高句麗は恐れ、みな邑や家をすてて逃げた。大酋の首所夫孫は拒戦したが、薛万徹はそれを斬り、遂に城を囲みその援兵三万を破って引き返した。帝は長孫无忌と計って言った。「高麗はわが軍の侵入に困苦し、戸口は減り、耕地も消耗し、歳収はない。蓋蘇文が築城・増柵したので、下民は飢え、溝壑に臥死し、疲弊に耐えない。来年三十万の衆をもって、公を大総管として、一挙に攻撃すれば、滅ぶはずだ」と。そこで詔し、剣南(四川省)でさかんに船を造らせた。蜀人は貨財を江南に送ることを願った。その額を計算して舟を作ったが、一艘につき縑(かとりぎぬ)千二百匹かかった。巴蜀は騒然とし、邛・眉・雅の三州はみな反乱した。隴西(甘粛省隴西)・峡内(湖北省)の兵二万を発してそれを撃破し、平定した。帝は敵を攻撃することを決めると、そのために陝州刺史の孫伏伽、莢州刺史の李道裕に詔し、兵糧・武器を三山浦・鳥湖島に蓄えさせた。越州都督は巨船・偶舫(もやいぶね)を造って待機していた。しかしたまたま帝が崩じたので遠征はやめになった。高麗王の蔵は使者を遣わして奉慰した。 永徽五年(654)、蔵は靺鞨の兵を従えて契丹を攻めた。新城で戦ったが、大風で矢がみな返ってきた。風が激しくなって、契丹に乗せられ大敗した。契丹は野に火をつけ、再戦し、高麗人は死に混乱し、その屍を積んで冢とした。契丹は使者を唐に遣わして勝利を報告した。高宗は朝廷で露布を作り、その告奏を記した。 永徽六年(655)、新羅は高麗・靺鞨が三十六城を奪ったことを訴え、天子の救援を願った。詔して営州都督の程名振、左衛中郎将の蘇定方に兵士を率いて討たせた。新城まで行って高麗兵を敗り、外郭および村落を焼き、引き返した。 顕慶三年(658)、また程名振を遣わし、薛仁貴らを率いて攻めさせたが勝つことはできなかった。その後二年して、天子はすでに百済を平定し、それで左驍衛大将軍の契苾何力、右武衛大将軍の蘇定方、左驍衛将軍の劉伯英に、諸将を率いて、浿江・遼東・平壌道を出て討たせた。竜朔元年(661)、さかんに兵士を募集し、諸将を配置した。天子はみずから行こうと欲したが、蔚州刺史の李君球が建言した。「高麗は小醜にすぎません。どうして中国が傾けて行く必要がありましょう。もし高麗が滅亡すれば必ず兵を派遣して守らなければなりません。少なく派遣すれば威はふるわず、多ければ人が安堵しません。それで天下は守備兵の派遣に疲れることになりましょう。臣が思いますに、遠征するよりは遠征しない方がよく、討滅するよりは討滅しない方がよいのです」と。また、武后の反対もあり、帝はやめた。八月、蘇定方は敵虜兵を浿江に破り、馬邑山を奪い、遂に平壌を囲んだ。翌年、龐孝泰は嶺南の兵を従え、蛇水に面した。蓋蘇文はそれを攻め、唐軍は全滅した。蘇定方は包囲を解いて引き返した。 乾封元年(666)、蔵は子の男福を唐に遣わした。天子に従って泰山に封禅し帰った。蓋蘇文が死に、子の泉男生が代って莫離支となった。泉男建・泉男産と怨みあい、泉男生は国内城にたてこもり、子の泉献誠を唐に入朝させ、救いを求めさせた。蓋蘇文の弟の浄土もまた自分の領土を分割して降伏を請うてきた。そこで詔し、契苾何方を遼東道安撫大使に、左金吾衛将軍の龐同善・営州都督の高偘を行軍総管とし、左武衛将軍の薛仁貴・左監門将軍の李謹行を殿(しんがり)とした。九月、龐同善は高麗兵を破った。泉男生は軍を率いてやってきて合流した。詔して、龐同善を拝して、特進・遼東大都督兼平壌道安撫大使とし、玄菟郡公に封じた。また李勣を遼東道行軍大総管兼安撫大使とし、契苾何方・龐同善と力をあわせさせた。詔して独孤卿雲を鴨淥道の、郭待封を積利道の、劉仁願を畢列道の、金待問を海谷道の、みな行軍総管とし、李勣の指揮を受けさせ、燕・趙の食糧を転送し、遼東に蔵させた。 翌年正月、李勣は先導して新城に陣し、諸将と会って謀って言った。「新城は、賊の西の辺境で、先に下さなければ、他の城は容易には下すことができないであろう」と。新城の西南の山に登って、城に臨んだ。城の人は城主を縛って出降してきた。李勣は進撃し、十六城を陥落させた。郭待封は水軍を率いて海を渡って平壌に向かった。 乾封三年(668)二月、李勣は薛仁貴を率いて扶餘城および他の三十城を陥落させ、みな誼を通じた。龐同善・高偘には新城を守らせた。泉男建は兵を派遣してそれを襲撃させた。薛仁貴は高偘を救援して、金山で戦ったが勝たなかった。高麗は鼓をならして進撃し、鋭鋒は甚しかった。しかし薛仁貴は横から攻撃しそれを大破し、五万人を斬首し、南蘇・木底・蒼巌の三城を陥落させ、兵を率いて地を攻略し、李勣と合流した。 侍御史の賈言忠が計して還った。帝は「軍中はどうか」と問うた。答えて言った。「必ず勝ちます。昔、先帝(太宗)が問罪しましたが、志を得なかった理由は、敵にまだ隙がなかったからです。諺にもいいます。「軍に謀者なければ、中道にてかえれ」と。いま泉男生兄弟は怨み争いあっており、泉男生は我が先導となり、敵の情偽もことごとくわかります。また唐の将は忠士・力臣ぞろいです。だから必ず勝つと言っております。また『高麗秘記』に記しています。「九百年に及ばずして、当に八十の大将ありて、これを滅ぼすべし」と。高氏は、漢代から国を保って今まで九百年になります。[[李勣]は年八十です。敵は、飢饉がつづき、人々は互いにかどわかして転売しています。地は地震で裂け、狼・狐が城に入り、モグラは門に穴をあけ、人心はおどろき危んでいます。このような行軍は二度としなくてよいでしょう」と。 男建は兵士五万を率いて扶餘を襲撃した。李勣はそれを薩賀水のほとりで破り、五千人を斬首し、三万人を捕虜とした。兵器・牛馬も、これに匹敵するくらいあった。李勣は進軍して大行城を陥落させた。劉仁願は李勣と会したが、期日に遅れたので、召還されて、誅殺に当たるところを許され、姚州に配流された。契苾何力は李勣軍と鴨淥水で合流し、辱夷城を陥落させた。軍はことごとく平壌を囲んだ。 九月、蔵は男産を遣わし、首領百人を率いて、白旗を立てて降伏させ、かつ入朝を請わせた。李勣は儀礼どおり会見した。しかし男建はまだなお固守し、しばしば出て戦っては逃げた。大将で僧の信誠は、間諜をおくって内応を約束した。五日たって門が開き、軍は鼓譟して入城し、その門を焼いた。炎は四方にひろがり、男建は窮地にたち、みずから刺したが死ねなかった。 蔵・男建らを捕え、五部・百七十六城・六十九万戸を収めた。李勣に詔し、便道を通って、昭陵(太宗の陵)に献上させ、凱旋帰還した。十二月、帝は含元殿に坐し、李勣らを引見し、朝廷を捕虜を数えた。蔵を、もともと蓋蘇文に脅されたから、許して司平太常伯とした。泉男産を司宰少卿とした。泉男建を繋州に配流した。同時に百済王扶餘隆を嶺南に配流した。献誠を司農卿に、信誠を銀青光禄大夫に、泉男生を右衛大将軍とした。契苾何力を行左衛大将軍とし、李勣に太子太師を兼ねさせ、薛仁貴を威衛大将軍とした。地を分割して、九都督府・四十二州・百県を置いた。また安東都護府を置き、首長で功のあったものを選び出して、都督・刺史・令を授け、中国人官吏とともに支配させた。薛仁貴を都護とし、兵を総括して鎮撫させた。この年の郊祭には、高麗平定を報告し、天に成功を謝感した。 総章二年(669)、高麗の民三万を江・淮、山南に移住させた。大長の鉗牟岑が衆を率いて反乱をおこし、蔵の外孫の安舜を立てて王とした。詔して、高偘を東州道の、李謹行を燕山道の行軍総管とし、それを討たせた。司平太常伯の楊昉綏を遣わして、残余を納めさせた。安舜は鉗牟岑を殺して新羅に逃亡した。高偘は都護府の治所を遼東州に移した。反乱兵を安市で破り、また泉山でも破り、新羅の援兵二千を捕えた。李謹行は発盧河に破り、再戦して、捕虜としたり斬首した者が一万をかぞえた。ここに及んで、平壌は傷つき敗れ、戦うことができず、群をなして新羅に逃亡した。およそ四年にしてようやく平定した。はじめ李謹行は妻の劉氏を留めて伐奴城を守らせた。敵はそれを攻め、劉氏は甲をつけ兵を整えて守ったから賊は退却した。帝はそれを嘉し、劉氏を燕郡夫人に封じた。 儀鳳二年(677)、蔵に遼東郡督を授け、朝鮮郡王に封じ、遼東に帰って残存する民を安撫させた。先に内地の州に寓していた人を集め、みな帰ることを許した。安東都護府を新城に移した。 蔵は靺鞨とはかって反乱しようとしたが、まだ実行に移さないうち召還されて邛州に放たれた。その部下を分離して河南・隴右、貧弱な者はは安東に留らせた。蔵は永淳年間(682-683)の初めに死に、衛尉卿が贈られ、突厥の頡利可汗の墓の左に葬られ、その墓道に碑をたてさせた。 高句麗の旧城はしだいに新羅に編入された。また人を突厥・靺鞨に逃亡させた。この結果、高氏の君長は絶えてしまった。垂拱年間(685-688)、蔵の孫の宝元を朝鮮郡王とし、聖暦年間(698-700)の初めに左鷹衛大将軍に進号し、あらためて忠誠国王に封じた。安東の旧部を統摂させようとしたが、行なわれなかった。翌年、蔵の子の徳武を安東都督とした。のちしだいに国となっていった。元和年間(806-820)の末になって、使者を遣わして楽工を献上したという。 百済は扶餘の種族である。京師の東六千里のところにあり、海岸の日当りのよいところをしめている。西は越州、南は倭、北は高麗で、みな海を越えて至るのである。東は新羅である。王は東西二城にある。 官には内臣佐平というものがあり、直納・号令のことをつかさどる。内頭佐平は帑聚のことをつかさどる。内法佐平は礼をつかさどる。衛士佐平は衛兵をつかさどる。朝廷佐平は獄をつかさどる。兵官佐平は兵をつかさどる。兵は六万ある。方は十郡を統轄している。大瓶(有力な氏族)が八つあり、沙氏・燕氏・劦氏・解氏・貞氏・国氏・木氏・百氏である。法は、反逆者は誅し、その家をとりあげる。殺人を犯した者は奴婢三人を輸す(納める)ことで罪を贖うことができる。官吏で賄賂を受けたり物を盗んだりした場合は、三倍で償い、終身禁錮となった。習俗は高麗と同じである。三つの島がある。黄色の漆がとれ、六月にきずをつけて取る。色は黄金のようである。 王は、大袖紫袍を着て、青の錦の袴をはき、素(白色)の皮帯をしめ、烏(黒色)の革をはき、烏(黒色)の羅冠を金蘤(黄金製)の花飾したのをかぶる。群臣は絳衣(深紅色の)衣を着て、冠を銀蘤(銀製)の花で飾る。民衆が絳衣(深紅)を着ること禁じている。書物がある。時(四季と十二ヵ月)の記し方は中国人と同じである。 武徳四年(621)、王の扶餘璋が始めて使者を派遣して、果下馬を献じてきて、しばしば朝貢するようになった。高祖は冊封して帯方郡王百済王となした。五年後、明光の鎧を献上して、高麗が朝貢の路をふさいでいると答えた。太宗は貞観年間(627-649)の初め、唐にきていた高句麗や百済の使者に詔して怨みを解き和睦するように命じた。また、新羅と年来の仇敵関係にあり、しばしば互いに侵略し合っていた。太宗は百済王に親勅を賜わって、「新羅は朕の藩臣であり、王の隣国である。聞くところによると、たがいに侵害しあっているとのことである。朕は、すでに高麗と新羅に詔して、くりかえし和睦するよう命じた。王は、ぜひとも前を忘れ、朕の心からの望みを知るべきである」と言った。璋は、上表文を奉って謝したが、戦いはなお止めなかった。扶餘璋は再び使者を入させ、鉄甲・斧を献上した。帝は、これを手厚くもてなし、三千段の帛を賜わった。 貞観十五年(641)、扶餘璋が死んだ。使者は素服(白い喪服)を着て、上表文を奉り、「君の外臣百済王の扶餘璋が卒しました」と言った。帝は玄武門で挙哀(死を悲しみ哭泣する礼)し、扶餘璋に光禄大夫を贈り、また喪主への贈物も大変多かった。祠部郎中の鄭文表に命じて、扶餘璋の子の義慈を冊命して柱国となし、王位を継がせた。義慈は親孝行で兄弟仲がよかった。当時、海東の曽子と称された。 明くる年、高麗と和を結び連合して新羅を攻め、四十余城を取り、兵を送って守らせた。また義慈は、棠項城を取って新羅の唐への朝貢路を絶とうと謀った。新羅は急を告げた。帝は、司農丞の相里玄奨を派遣して詔書を携えさせ、諭して和解させた。義慈は帝が新たに高麗を討伐すると聞くと、すきをうかがって新羅の七城を攻め取った。しばらくして、また十数城を奪った。そのため唐をはばかり朝貢しなかった。高宗が立つと、使者を送ってきた。そこで高宗は義慈に詔して、「海東の三国は開基が古い。その地は、もとから犬の牙ように入り交っている。近頃、仲違いをして侵犯をくりかえし、平和な年がない。新羅の高城・重鎮は、みな王に併合された。新羅王は困窮の身を朕に寄せ、王が奪った新羅の地を返還してと願っている。昔、斉の桓公は一諸侯の身でありながら、なお滅びようとする国を助け存立させた。まして、朕は万民の主である。その危をあわれれずにはおれない。王が兼併した城は、必ず新羅に還せ。新羅の捕えた百済の捕虜は、王に還させよう。詔命を受けない場合は、望みに任せて、王と決戦しよう。朕は、契丹諸国に命じ遼河を渡り深く侵入させるつもりである。王はよく考え、後悔しないようにせよ」と言った。 永徽六年(655)、新羅は、百済と高麗・靺鞨が新羅の北境の三十城を攻め取ったと訴えた。 顕慶五年(660)、そこで左衛大将軍の蘇定方に詔して神丘道行軍大総管に任じ、左衛将軍の劉伯英、右武衛将軍の馮士貴、左驍衛将軍の龐孝泰を率いさせ、新羅兵を発して百済を討たせた。蘇定方は城山から海を済った。百済は、熊津を守ったが、蘇定方は兵士に思いのまま攻撃させた。敵は大敗し、官軍は潮に乗り帆を張って進み、真都城(御城)にあと一舎(一日の行程)のところまでいって止まった。敵は全軍をあげて阻んだが、また打ち破った。斬首は万余級におよび、ついにその城を攻め落とした。義慈は太子の隆を連れて北部に逃走した。蘇定方はこれを囲んだ。義慈の次子の泰は王と太子が王都を棄てて逃走したので、自立して王となり、衆を率いて固守した。義慈の孫の文思は、「王も太子も、もとより健在であるにも拘らず叔父は、みずから王となった。もし唐兵が囲みを解き、去ったならば、我ら父子はどうなることか」と言って、側近の者と縄をおろして城から抜け出した。民衆は、みな文思に従い、泰は止めることができなかった。蘇定方は、兵士に城壁の姫垣を越して唐軍の幟を立てさせた。泰は城門を開いて降った。蘇定方は、義慈や隆、それに小王孝や演、酋長五十八人を執えて京師(長安)に送り、百済国を平定した。五部、三十七郡、二百城、戸七十六万からなっていた百済の地を分けて、熊津・馬韓・東明金漣・徳安の五都督府を置き、有力者を抜擢して統治させた。郎将の劉仁願に命じて百済城(泗城)を守らせ、左衛郎将の王文度を熊津都督に任じた。九月、高宗は、蘇定方が捕えて献上した俘虜を見て、詔して釈放し、誅殺しなかった。義慈が病死すると、衛尉卿を贈り、旧臣が葬儀に参列するのを許した。詔して、孫皓や陳叔宝の墓の左側に埋葬させ、隆に司稼卿を授けた。王文度が海を渡って死ぬと、仁軌をこれに代えた。 扶餘璋の従子の福信は百済滅亡以前に軍を率いていた。福信は浮屠(僧)の道琛とともに、周留城を根拠にして唐に叛いた。旧王子の扶餘豊を倭から迎え、立てて王とした。西部はみな呼応した。福信らは軍兵を引き寄せて江城の劉仁願を囲んだ。 竜朔元年(661)、劉仁軌は新羅の兵を発して劉仁願の救援に向かった。道は熊津江に二壁を立てた。仁軌は新羅兵と、これを挟み撃ちにした。百済の軍衆は走って壁内に入ろうとし、橋を渡るのを争い、水に落ちて溺死する者が万にもおよんだ。新羅兵は本国に還った。道琛は任孝城を守り、領軍将軍と自称し、福信は霜岑将軍と称した。道琛らは、劉仁軌に告げて、「聞くところによると、唐は新羅と百済を打ち破り老幼を問わず皆殺しにして国を新羅に与える、と約束したとのことである。死を受けるよりは、戦った方がよい」と言った。そこで劉仁軌は、使者を送って書状を携えさせ、道琛らの言に説明した。道琛は傲慢なこと甚だしく、使者を城外の館におき、侮り報えて、「使者の官が低い。われは一国の大将である。礼として引見するに当たらない」と言って、そのまま追い返した。劉仁軌は、軍が少なかったので、軍を休ませ養わせた。高宗に新羅と兵力を合わせて百済軍を滅ぼしたいと願った。福信は、にわかに道琛を殺し、その兵を合併した。扶餘豊は、福信を制御することができなかった。 竜朔二年(662)七月、劉仁願らは、福信らを熊津で破り、支羅城を攻め落とした。夜に乗じて真幌城に迫り、夜明け頃に侵入し、百済兵の首八百を斬った。ここに新羅の餉道(運糧の路)が開通した。劉仁願は高宗に軍の増援を願い、右威衛将軍の孫仁師に詔して熊津道行軍総管に任じ、斉州の兵七千人を発して赴かせた。福信は国権をほしいままにし、扶餘豊の殺害を謀った。扶餘豊は親兵を率いて福信を斬り、高麗や倭と連合した。劉仁願は、斉兵の増援を得て、士気が高まった。そこで新羅王の金法敏とともに歩兵と騎兵を率い、また劉仁軌には舟師(水軍)を率いさせ、熊津江からともに進んで、周留城に向かった。扶餘豊の軍衆は白江の河口にむらがっていた。水軍は、敵の水軍と四度、遭遇し、みな勝ち、四百艘に火を放った。扶餘豊は逃走して所在がわからなくなった。偽(百済の旧)王子の扶餘忠勝と忠志は、百済の敗残兵と倭人を率いて降参した。諸城もみな、ふたたび唐に従った。劉仁願は軍をととのえて帰還した。高宗は、劉仁軌を留めて代えて守らせた。 帝(高宗)は扶餘隆を熊津都督に任じて国に帰らせ、新羅の旧怨をやわらげて仲直りさせ、また、散らばった百済の遺民を招還させようとした。麟徳二年(665)、扶餘隆は新羅王と熊津城で会盟し、白馬を刑して誓盟した。劉仁軌が盟辞を作り、それは、「さきに、百済の先王は、順逆の道を顧みることなく、隣交を深めず、親族とも睦もうとしなかった。高麗や倭と一緒に新羅を襲って領土を割き取り、邑をこわし、城を攻めほろぼした。天子は、百姓が罪なくして苦しむのを憐れみ、使者に命じて和睦させようとした。ところが先王は険しい地勢を頼みとし、その地が遠方であることをよいことに、詔をあなどり、つつしまなかった。天子の怒りは爆発し、ここに伐ち、平定した。だが、亡んだ国を興し、絶えた家系を継がせるのは、王者の通則である。そこで、前太子の扶餘隆を立てて熊津都督に任じ、その祭祀を守らせる。新羅を頼り、長く同盟国として、好みを結び、怨みを捨てよ。天子の詔をつつしみ、永く藩服となるようにせよ。右威衛将軍・魯城県公の劉仁願は、その盟誓の場に親しく臨め。その徳にそむき、戦いをはじめ、軍衆を動かすことがあれば、神々が御覧になり、もろもろの災いが降りかかり、子孫は育たず、社稷(国家)は守りを失うであろう。世々決して犯してはならない」というものであった。そこで、金書鉄契を作り、新羅の宗廟の中に収蔵した。 劉仁願らが還ると、扶餘隆は百済の遺衆が離散するのを畏れ、また京師(長安)に帰ってきた。儀鳳年間(676-673)に、扶餘隆を帯方郡王に進め、国に帰らせようとした。当時、新羅は強盛で、扶餘隆は旧本国に入ろうとはせず、高麗に身を寄せて政治をとり、ここで死んだ。また、扶餘隆の孫の敬に帯方郡王を継がせた。だが、百済の地は、すでに新羅や渤海や靺鞨に分割されており、こうして百済は、ついに絶えた。 新羅は弁韓の後裔である。漢の楽浪の地に住んでいる。国土は横(東西)に千里、縦(南北)に三千里ある。東は長人国からへだたり、東南には日本、西には百済、南は海に臨み、北は高麗に接している。そして王は金城に居住している。金城は周囲が八里で、衛兵が三千人もいる。新羅語で王城のことを侵牟羅という。邑落で王畿内にあるものを喙評といい、王畿外のもの邑勒という。喙評は六、邑勒は五十二ある。礼服は白色が貴ばれ、さかんに山神を祀っている。八月十五日に大いに宴をはり、官吏の弓術を競わせた。 新羅では官を設けるのに、王の一族を上位におく。王族には、第一骨と第二骨となづけられたものがあり、彼らはその両者のいずれかに所属している。彼らは兄弟の娘・叔母・姉妹・姉妹などはみな妻として迎えることができる。王族は第一骨で、その妻もまたその族(第一骨)である。第一骨の夫と妻の間に生まれた子は、すべて第一骨になる。第一骨の男は第二骨の女を娶らない。たとえ娶ったといっても、たんに侍女とみなした。官職には、宰相・中・司農卿・太府令などがあり、すべてで十七等級で、第二骨の者も、その官職につくことができる。国政上重要なことがらでは、必ず多くの人と議論する。これを和白といい、一人でも異論があれば、そのことは中止する。宰相の家は、あまり禄をもらっていないのに、召使が三千人もおり、これに相当する甲冑・兵器・牛・馬・猪を保持している。 島で牛馬を飼い、食べたいと思えばこれらの牛馬を射る。利子をとって穀物を人に貸し、その返済が約束どおりでないと、貸主は借り手を奴婢にする。王族の姓は金で、貴族の姓は朴であり、庶民には氏はなく、名だけである。食器には柳の杯や銅製や瓦製のものを用いる。正月元旦には互いに慶賀する。この日に、日神や月神を拝む。男子は粗末な袴を、婦人は長い下着を着る。人に会えば、必ず跪拝をする。その拝礼では、手を地につけて敬恭の意をあらわす。新羅の婦人は白粉や黛をつけず、美しい髪を首にめぐらし、その髪を珠玉や綵で飾る。男子は髪を切る。黒布の帽子を売っている。市では婦人たちだけで品物を交換して商いをしている。冬になると竈を家の中に作り、夏には食物を氷の上におく。羊はおらず、驢・兎は少なく、馬が多い。馬は背が高く大きいけれども、あまり遠くへゆけない。 長人国の人は身の丈がほぼ三丈もあり、鋸のような牙と鉤のような爪があり、黒い毛が全身をおおっている。生物しか食べず、鳥や獣物を食べ、ときには人を捕えて食べることもある。また婦人を捕えて衣服をととのえさせる。何十里も山が連なり、その間にある峡谷は、鉄の扉で固めている。これを関門といい、新羅はつねに数千人の弩を射る兵士を常駐させて、守らせた。 昔、百済が高麗を討伐した。百済の使者が新羅にきて、救援を求めた。全軍を出動させ、高麗・百済両軍を撃破した。この事件以後、新羅と百済とは互いに攻防をくりかえして止めなかった。その後、百済王を捕えて殺したから、ますます怨むようになった。武徳四年(622)新羅王金真平が使者を派遣し入朝した。高祖は、通直散騎待郎の庾文素に詔して、節を持して答礼の賜物を贈らせた。その後三年(624)して、高祖は金真平に、柱国・楽浪郡王・新羅王の官爵を与えた。 貞観五年(631)二人の女楽師を献上した。太宗は次のように言った。さきごろ林邑(南ベトナム)が、鸚鵡を献上したが、故郷を思う言葉を言ったので国へ帰した。まして人間において、当然帰さないわけにいかないだろう」と、使者とともに帰国させた。この歳真平王が死去し、嗣子がなかったので、その娘の善徳をたてて王とした。大臣の乙祭が国政を握った。詔を下し、真平王に左光禄大夫と賻物(喪を助けるための物)二百段を賜わった。貞観九年(635)使者を派遣し、善徳王を立して、父王の封爵を踏襲させた。新羅は善徳王に聖祖皇姑という称号を奉った。貞観十七年(643)新羅は高麗・百済に攻められ、使者が来て、援軍を求めた。ちょうど太宗皇帝みずから高麗を討伐しようとしていたので、「出兵して高麗の勢力を分散させよ」と詔した。善徳王は五万の兵を派遣し、高麗の南部に侵入し、水口城を降して報告した。二十一年(647)に善徳王が死去した。善徳王に光禄大夫の称号を贈り、妹の真徳に王位を踏襲させた。翌年真徳王は、王子の金文王と王弟伊賛干金春秋を派遣し、来朝させた。金文王に左武衛将軍、金春秋に特進の称号を授けた。そこで金春秋は新羅の礼服を、中国の制度にしたがって改めたいと申し出た。宮中から珍服をだして、これを賜わった。また国学に行き、釈奠の儀礼と経典の論義を見たいと願い出た。太宗は親撰の『晋書』を賜わった。辞去して帰国しようとすると、三品以上の官吏に勅して、都のはずれまで見送らせた。 高宗の永徽元年(650)百済を攻め、これを破った。金春秋の子金法敏を派遣し入朝させた。真徳王は、錦に頌を織りこみ献上した。「巨大な唐が大業をひらき 偉大なる天子の計りごとはますますさかんである 兵戈も止み天下統一を成しとげた 文運を興し百王にまでつづけようとするなら 天をすべ雨の恵みをたっとび 物事をおさめうちにを蔵す 深い仁愛は日月にもひとしい 時運をとらえ善政につとめ 帝旗はすでに威名をかがやかせ 鉦や太鼓の音がなんとさわやかに響くことか 外夷で従わない者は 天罰をうけて亡ぼさん 淳朴な風俗は陰にも陽にも凝集し 遠近ともに競って瑞兆をあらわし 四季の気候も調和し 日月星辰の恵みが万民にゆきわたり 維神の恵みで優れた宰相を得 維皇帝は国政を忠良な家臣にまかせ 三皇五帝をあわせたごとく あきらかなりわが唐家の光」と。帝は気持を喜び、金法敏を太府卿に抜擢した。 永徽五年(654)真徳女王が死去した。帝は哀悼の礼を行ない、開府儀同三司の官爵を贈り、綵三百段を下賜した。太常丞の張文収に命じて、節を持って霊を弔わせ、金春秋に王位を継がせた。明くる年、百済・高麗・靺鞨が共同して攻撃し、新羅の三十城をとった。そこで使者が来て救援を求めた。帝は蘇定方に命じて討たせ、金春秋を嵎夷道行軍総管とし、ついに百済を討ちたいらげた。竜朔元年(661)新羅王金春秋が死去したので、金法敏に王を襲がせた。また新羅国を、鶏林州大都督府とし、金法敏に都督の官職を授けた。 咸亨五年(674)新羅は高麗の唐に反逆した人々をひきいれ、旧百済の地を奪いとった。帝は怒って、詔を下し官爵を削り、彼の弟の右驍衛員外大将軍・臨海郡公の金仁問を新羅王とし、唐の都から国に帰らせた。詔を下して劉仁軌を鶏林道大総管とし、衛尉卿の李弼と右領軍大将軍の李謹行とをそえて兵を発し、新羅を咎め討った。上元二年(674)二月、劉仁軌は新羅軍を七重城(京畿道積城郡)で撃破し、靺鞨軍に海上を南下させ南部を攻略させた。その間、唐軍が斬り殺した者や捕虜にした者ははなはだ多かった。高宗は詔を下し、李謹行を安東鎮撫大使とし、買肖城(京畿道楊州)に陣をはった。三たび戦って、敵(新羅軍)はみな敗北した。金法敏は使者を派遣し、入朝・謝罪し、貢物があいついだ。金仁問は唐の都に帰り、新羅王を辞退した。詔を下し、金法敏の官爵を復活させた。しかし新羅は旧百済の地を多くとり、ついには高麗の南部にまで領土を拡めた。そして尚州・良州・康州・熊州・全州・武州・漢州・朔州・溟州の九州を置き、州には都督がおり、十ないしは二十の郡を統轄している。郡の長官には大守がおり、県には小守がいる。 開耀元年(681)金法敏が死去し、その子金政明が位をついだ。使者を派遣し入朝した。『唐礼』および他の有名な文辞を集めた文集を下賜されんことを請うた。武后は、『吉凶礼』および『文館詞林』のうち五十篇を集めて新羅の使者に賜わった。金政明が死去し、その子の金理洪が王位をついだ。 金理洪が死去し、その弟金興光が王位をついだ。玄宗の開元年間(713-741)しばしば入朝し、果下馬・朝霞紬・魚牙紬・海豹皮などを献上し、さらに二人の女を献上した。玄宗皇帝は言った。「この二人の女は、みな王のおばである。昔から俗を異にし、親しむところも異なっている。朕はこの二人の女をとどめるにしのびない」と。多くの下賜品をもらい帰国した。また子弟を派遣し、太学に入学させ、経術を学ばせた。玄宗はしばしば興光に瑞文錦・五色羅・紫繍紋袍・金銀の精巧な器などを下賜した。金興光もまたしばしば異狗・馬・黄金・美しい髢などの物を献上した。はじめて渤海靺鞨が登州(山東省台市)を略したとき、金興光は渤海を討って敗走させた。皇帝は、金興光を寧海郡大使の職に昇進させ、靺鞨を攻撃させた。開元二十五年(737)金興光が死去した。帝はこれをたいへん悼み、太子太保を追贈した。また邢璹を鴻臚少卿とし弔い祭らせた。子の金承慶が王位をついだ。帝は邢璹に「新羅は君子の国と称しており、詩や文章に通じている。卿は儒学に通じているので、節を持して行ってもらう。どうか経書の意義を述べ、唐で儒学のさかんなことを知らせてほしい」といい、また新羅人は囲碁が上手であるから、率府の兵曹参軍の楊季鷹を副とするよう詔した。その結果、新羅国の囲碁の名手は、みなこの門下から出ている。かくして新羅人はさかんに唐使に金・銀・宝物を贈った。突然唐の玄宗は新羅王の妻朴氏を冊立して妃とした。金承慶が死去した。詔して使者にその葬儀に参列させ、彼の弟金憲英に王をつがせた。帝が蜀にいたとき、使節を派遣し、長江をさかのぼり、成都まで行き、正月の儀式に朝貢した。 大暦年間(766-773)のはじめに、金憲英が死去した。その子金乾運が立ったが幼少であったので、金隠居を入朝させ、冊命を待った。詔して倉部郎中の帰崇敬を行かせ金憲英の霊を弔わせた。監察御史の陸珽・顧愔を副とした。冊命するとともに、王母金氏を太妃とした。たまたま新羅の宰相たちが権力を争奪し、互いに攻撃をくりかえし、たいへん乱れていたが、三年たってようやく治まった。そこで、この年入朝貢献した。建中四年(783)金乾運が死去し、子がなかったから、新羅は宰相の金良相をみなで立てて嗣がせた。貞元元年(785)唐は戸部郎中の蓋塤を派遣し、節を持して冊命した。この年に死去し、金良相の年下の従兄弟金敬信を立てて王位をがせた。貞元十四年(798)金敬信が死去し、子がなかった。そこで金敬信の嫡孫金俊邕を立てて王位につけた。翌年(799)司封郎中の韋丹を派遣し封冊を持たせたが、まだ着かないうちに、金俊邕が死去したので、韋丹は還った。金俊邕の子金重興が王位についた。永貞元年(805)兵部郎中の元季方に詔して金重興を新羅王に冊命させた。その後三年たって金力奇が唐に来て、さきの冊命を感謝するとともに、「先年、故主を冊立して王とし、王母申氏を太妃とし、王妻淑氏を妃とした。しかるに金俊邕が不幸になった。そのために冊命書はいま中書省内にとどめられています。どうぞその冊命書を授かってそれをもって帰国したい。また新羅の宰相の金彦昇・金仲恭、王弟蘇金添明に門戟を賜わらんことを」と言った。詔してすべて許した。その後およそ二度の朝貢があった。 元和七年(812)金重興が死去し、金彦昇が即位した。国王の喪を告げる使者が来た。そこで職方員外郎の崔廷に命じて、金重興の霊を弔い、かつ新王を冊命させ、また王妻貞氏を妃とした。長慶年間(821-824)・宝暦年間(825-826)に、再度、新羅の使者が来朝し、宿衛をとどめた。また金彦昇が死去し、子の金景徴が王位についた。大和五年(831)太子左論徳の源寂に、弔いと冊命を儀式どおりにさせた。開成年間(836-840)のはじめ、新羅は王子の義琮を遣わし、挨拶させた。また衛を願い出て許された。翌年金義琮を帰国させた。開成五年(840)、鴻臚寺が人質および学生の満期になったもの百五人の名前を書きしるして、みな帰国させた。 張保皐と鄭年という者は、いずれも戦闘にたけ、槍術に秀れていた。鄭年はまた海にもぐることが上手であった。また五十里を歩いても咽せもしなかった。勇健さでは保皐がおよばないが、鄭年は張保皐を兄と呼んでいる。それは張保皐が年長のためである。鄭年は武芸で張保皐にゆずることはなかった。ともに新羅国から来て唐の武寧軍小将となった。のち張保皐が新羅に帰り、新羅王に拝謁して「広く中国では、新羅人を捕えて奴婢にしています。願わくば、清海(全羅南道莞島)に鎮営をおいて、海賊たちが新羅人を掠奪し、西方へ連れ去られないようにしたい」と言った。清海は海上交通の要衝である。そこで王は張保皐に一万人の軍隊を与え、清海を守らせた。そのため大和年間(827-835)以後、海上で新羅人を売買する者がいなくなった。張保皐は、すでに新羅国で貴ばれていた。鄭年は困窮しており、漣水県(江蘇省淮陰県の東北)で人の世話になっていた。ある日鄭年は守備隊長の馮元規に「私は東の新羅に帰って、張保皐に食べさせてもらおうと思う」と言った。馮元規は「張保皐と一緒に事をなすのはどうであろうか。或いは死を招くことになりはせぬか」と言った。鄭年は「困窮して死ぬことより、戦争で死ぬことの方が、まだましだ。まして、故郷で死ぬのだ」と言い、鄭年は去った。張保皐に拝謁すると、大変よろこんで酒を酌みかわした。この宴がまだ終わらないうちに、新羅では大臣が王を殺し、国乱れて国王なき状態だと聞いた。そこでさっそく張保皐は、兵五千人を鄭年に与え、涙をながし、鄭年の手をとって、「あなたでなければ、この国難を平定することができません」と言った。鄭年は新羅の国に行き、叛する者を誅滅し報いた。王は張保皐を召して宰相とし、鄭年を代わりに清海鎮を守らせた。 会昌年間(841-849)以後、新羅からの朝貢は二度と来なかった。 賛していう。杜牧が称揚している話に次のようなものがある。安思順が朔方節度使であったとき、郭汾陽・李臨淮は、ともに牙門都将であった。この二人はたがいに仲好くすることができず、同じ皿で飲食をともにしても、つねに横目で相手を眺めて、一言も話をしない。郭汾陽が安思順に代って節度使になると、李臨淮は去ろうと思ったが、決心がつかぬまま、十日ほど過ぎた。詔が下り、李臨雅は郭汾陽の兵を半分わけてもらって東方の趙・魏に出兵せよとのことであった。李臨淮は節度使の軍営に入り郭汾陽に請うて、「私が死罪になることは当然甘んじて受けます。妻子の罰だけは免除してください」と言った。これを聞いて郭汾陽は、走って庭に下り、李臨淮の手をとって建物の上にあげて、「今は国が乱れ、天子でさえ都を捨てて蜀に遷っています。あなたでなければ、東方を伐ち従えることはできません。どうして私を根にもっていてよい時でしょうか」と言った。李臨淮の出兵で二人が別れるときには、互いに手をとって涙を流し、互いにつとめて忠義をしようと励ましあった。ついに強敵を平定したのは、実にこの二人の力による。 相手の気持がわかれば離れ離れになることはないが、相手の気持を知ることはたいへん難しい。念をもって相手をみれば、必ず短所ばかりが目につき、相手の良さを知ることがますます困難になる。この張保皐の行ないは、郭汾陽の賢行と等しい。鄭年が張保皐の陣営に来るときは、きっと鄭年は「彼は貴く、我は卑しい。私が彼のもとに降れば、まさか昔の怨みで私を殺すようなことはあるまい」と考えた。張保皐は、はたして鄭年が考えたように殺さなかった。これは人間としての普通の感情である。李臨淮が郭汾陽に死罪を請うたのも、また人間の通常の感情である。張保皐が鄭年に任せたことは、自身の考えによる。鄭年は困窮しており、容易に感動した。郭汾陽と李臨淮とは平常から張り合っており、李臨淮への命令は天子からだされている。張保皐と比べれば、郭汾陽の方が秀れている。この場合は、聖賢でさえぐずぐずして決められない成否のきわどいところである。 世間では周公旦と召公を賞賛して百代の師といっている。しかし周公旦が幼子を擁立した時には召公がこれを疑った。周公旦の聖徳と召公奭の賢智とをもって、若いときには文王に仕え、年をとってからは武王を助けてよく天下を平定したのであるが、このように永年一緒に働いてきたにも拘わらず周公旦の気持を、召公奭すら充分にはわかっていなかった。かりそめにも仁義の心があるなら、教えられなくても明らかであるといっても、召公奭でさえこのようであった。ましてそれ以下の者においてはいうまでもない。 相手を怨むことに気をとられないで、難事に際会しては互いに憎みあわず、国家の憂いを先に考える者に、晋では祁奚がおり、唐では郭汾陽や張保皐がいる。どうして東夷に人物がいないといえようか。 日本は古の倭奴である。京師(長安)からは一万四千里、ちょうど新羅の東南に位置している。海のなかに島があって、そこで生活している。境域は東西が五月、南北が三ヵ月の行程である。国には城郭はなく、木を連ねて柵をつくり、草で屋根を葺いている。周囲には小さな島が五十余あって、みなみずから国と称し臣従している。もと率一人を置いて諸部を検察させていた。風俗では、女性が多く男性が少ない。文字はあり、浮屠の法(仏教)を尚んでいる。その官位には十二の等級がある。 王の姓は阿毎氏であって、初主を天御中主といい、彦瀲に至るまで全てで三十二世だと伝えている。みな「尊」を号として、筑紫の城に居していた。彦瀲の子である神武が立って、そうして「天皇」を号とし、移って大和州を治めた。 次いで綏靖・安寧・懿徳・孝昭・天安(孝安)・孝霊・孝元・開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀となった。仲哀が死んで、開化の曽孫の女の神功が主となった。 次いで応神・仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体・安閑・宣化・欽明となった。欽明の十一年は、梁の承聖元年(552)にあたる。 次いで敏達・用明で、本名を目多利思比孤といい、隋の開皇の末にあたり、初めて中国に通じた。次いで崇峻、崇峻が死んで、欽明の孫の女の推古が立った。次いで舒明・皇極となった。 風俗では椎髻で、冠も帯もなく、裸足で歩行し、幅のある布で後を覆っている。貴人は錦を冒っている。婦人は一色の裳裾と、長めの腰襦をつけている。髪は後で結っている。煬帝が、民に錦の筋入りの冠を下賜するに及んで、金玉で飾り、文様の布で衣をつくり、左右に長さ八寸の銀の花をつけ、その多少で貴賤を明らかにした。 太宗の貞観五年(631)、使者を遣わして入朝してきた。帝は遠いのを哀れにおもい、所轄官庁に詔して、年毎の朝貢に拘らないように命じた。新州刺史の高仁表を遣わし、往って諭させたが、王と礼を争って穏やかではなく、天子の命を伝えることを承知せず、帰国した。しばらくして、あらためて新羅の使者に上表文を附した。 高宗の永徽年間(650-655)の初めに王の孝徳が即位し、改元して白雉とした。大きさが斗(ひさご)ほどもある虎魄(琥珀)と五升器のような瑪瑙を献上した。その頃、新羅が高麗と百済に攻められたので、高宗は璽書を下し、兵を出して新羅を救援させた。しかし幾許もなく孝徳は死に、子の天豊財が立った。死に、子の天智が立った。明くる年、使者は蝦蛦人とともに入朝した。蝦蛦も同じく海のなかにある島に居り、使者の鬚は長さ四尺ほどもあった。箭を首にはさみ、人をして瓢を載せさせ、数十歩離れて射たが、当たらないということはなかった。 天智が死んで、子の天武が立った。死に、子の総持が立った。咸亨元年(670)使を遣わして高麗平定を奉慶した。その後、少しく夏音(中国の言葉)を習い、「倭」という名を嫌い、更めて「日本」と号した。これについて使者は「国が日に近いので名としたのです」と、みずから説明をした。或いは「日本は小国であって、倭に併合されたが、その号を借りたのである」ともいう。使者は実情を述べなかったので、疑わしくおもっている。また国都は数千里四方であると、誇大に偽っている。南と西は海に達し、東と北は大きな山が境になっており、その外側には毛人であるといっている。 長安元年(701)王の文武が立って、大宝と改元した。朝臣真人粟田を遣わして土地の産物を献上した。朝臣真人は、唐の尚書にあたり、進徳冠をかぶっており、その頂には華を四方にわけてつけている。紫色の袍を着て、帛の帯をしている。真人は学問を好み、文章をつくるのに精通し、立居振舞には威儀がある。麟徳殿に招宴し、司膳卿を授け、還した。文武が死に、子の阿用が立った。死に、子の聖武が立った。白亀と改元した。開元年間(713-741)の初めに、粟田は再び朝貢し、諸儒について儒学の教えを受けたいと要請した。詔して、四門の助教趙玄黙を鴻臚寺において師として儒学を教えさせた。幅の大きな布を献じて弟子入りの手土産とした。賜物をことごとくを書籍に換えて帰国した。 従ってきた朝臣仲満は中華の風を慕って離れることを承知しなかった。姓名をかえて朝衡と名のり、左補闕や儀王友の官職を歴任し、博学多識であった。久しくいたが、帰国した。聖武が死に、女の孝明(孝謙)が立って、天平勝宝と改元した。天宝十二年(753)、朝衡は再び入朝した。上元年間(760-761)に左散騎常侍・安南都護に抜擢した。新羅が海路を塞いだので、明州(浙江省郵県東)・越州(浙江省紹興県)を経て朝貢したのである。 孝明が死に、大炊が立った。死んだので、聖武の女の高野姫を王とした。死に、白壁が立った。建中元年(780)、使者の真人興能が土地の産物を献上した。真人は、恐らくは官によって氏としたものであろう。興能は書が巧みであり、その紙は繭に似ていて艶がある。誰もそれを識る者はいなかった。 貞元年間(785-804)の末年に、桓武という王が使者を遣わして朝貢してきた。学生橘免勢、浮屠(僧)空海は、滞留して業を修めることを願い、二十余年の歳月がたった。使者高階真人がやってきて、免勢らと倶に帰国することを奏請した。詔してこれを許した。 次いで諾楽・嵯峨・浮和(淳和)・仁明が立った。仁明は開成四年(839)に入貢した。次いで文徳・清和・陽成・光孝が立って天皇となった。光啓元年(885)である。 東の海の中に、また邪古(屋久島)・波邪(不詳)・多尼(種子島)の三小国の王がいる。北は新羅に取り、西北は百済に、西南は直ちに越州にいたる。絲絮(糸とわた)や怪珍なものがあるという。 流鬼は京師を去ること一万五千里、黒水靺鞨な東北、少海の北にあたり、三方はすべて海に阻まれている。その北は果てるところを知ることができない。人は島によって散居し、谷に阻まれている。塩・塩がとれ、地は早くから寒くなり多く霜や雪がふる。木の広さ六寸、長さ七尺をもってその上にわたして橇とし、氷を踏み、逃げる獣を遂う。土地には狗(いぬ)が多く、皮をもって裘(かわごろも)とする。その風俗は髪を被り、栗は苦(エノコログサ)に似て小さく、野菜や穀物がない。精兵が一万人、南は莫曳靺鞨と隣接し、東南に航海すること十五日にして到る。貞観十四年(640)その王は子の可也余を遣わして貂皮を貢献した。再三通訳を変えて来朝し、騎都を授け。これを遣した。 竜朔年間(661-663)の初めに、儋羅があった。その王の李都羅が、使節を派遣し入朝してきた。国は新羅の武州南方の島(済州島)にある。習俗は素朴でかざり気がない。その国の人たちは、犬や豚の皮を着、夏は革の屋根の家に、冬は地下に住んでいる。五穀を生産しており、耕すのに牛を使うことを知らない。鉄歯でもって土をならしている。はじめ百済国についていたが、麟徳年中(664-665)に、その酋長が来朝し、高宗に従って、太山に行った。その後、新羅についた。 開元十一年(723)に、また達末婁・達姤の二部の首領が朝貢して来た。達末婁が言うには、北扶餘の後裔で、その国は高麗に滅ぼされた。その遺民たちが那河を渡って住んでいると。ある人の話では、他漏河が東北へ流れ、黒水(黒竜江)に合流している。 達姤は室韋の一種族である。那河の北方で、凍末河の東方に居住し、西方では黄頭室韋と接し、東北方には達末婁がいる。 前巻 『新唐書』 次巻 巻二百一十九 列伝第一百四十四 『新唐書』巻二百二十 列伝第一百四十五 巻二百二十一上 列伝第一百四十六上
https://w.atwiki.jp/kotozora/pages/94.html
百一新論 百一新論序 教之與政其理混淆、學者之惑數千年、于茲心理之與物理其學交錯、世人之疑亦數千年、于茲矣我友西氏憂之、由哲學明政教之所別、又晰道理之所岐、將以辨世人之惑、著斯書名曰百一新論、取於百教一致教義也、余讀而喜曰、政教之別於是乎明矣、余通觀古今、政教並行則國進於文明、否則俗陷於埜蠻、故能知此理則政無所愆、教無所乖、不通此理則政教矛盾、倒行逆施莫所不至矣、則斯書之裨益於國家豈尠〻哉、西氏於和漢西洋之書莫不講究、而恂〻如一野人、有間則答不問則默、故世鮮知其所蘊矣、其著書也胸蓄古今鎔陶而出之、如斯書特其緒餘耳、然亦足以窺其一斑、且能明哲學者、我邦未嘗聞有其人也、故余請而刻之以公于世識數言於卷首云 明治七年二月一日 山本覺馬撰 (友人 南摩綱紀書) 百一新論卷之上 或曰ク、先生ニハ平素ヨリ百教一致ト云フ説ヲ御主張ナサルト承リマシタガ實ニ左樣デゴザルカ 先生對テ曰、如何樣左樣デゴザル、敢テ主張ト申スデハゴザラヌガ、彼此ト考へ合セテ見候ヒツルニ、如何ニモ一致ノ樣ニ存ゼラルル故、朋友ト話ノ序ニサル事マデ論ジタ事ガゴザルニ由テ、大方世間デソレヲ拙者ガ主張スルト申デゴザラウ 然ラバ御説ノ一致ト申スコヲ承バリ度イモノデゴザル、僕ナドハイト淺見陋識デ候ヒツル故ニ皆|區々《マチ 》ノコトト思ハレ、如何ニモ一致トハ申シ難キカニ存ゼラルヽデゴザル、今ノ世デ申サバ、御國ニテハ神道ト云フ教ガゴザリ、漢土ニハ孔子ノ教、又老莊ノ教、其一變シタ所デハ道家ノ教ナドガゴザルト承リ、又天竺ノ古教ニハ婆羅門ノ教ガゴザリテ、又釋迦ノ教ガ興リ、今ハ本土ハ婆羅門ガ再ビ行ハレ、釋迦ハ反テ本土ニハ行ハレズ、西藏、韃朝、漢土ヨリ反テ御國ナドニコソ行ハルレ、若シ教ガ一致ノモノデゴザルナヲバ盛衰モ隆替モナイ譯デハゴザラヌカ、又天竺ヨリ西ノ國々デハ回々教ト云教殊ノ外盛デ、土耳其、百兒沙ナド此教ヲ奉ズルト承バリ、又西洋ト云國々デハ邪教、邪宗門トイフ者ガゴザルソウデ、切支丹トカ、破天連トカ、以留滿外力申シテ專ラ魔法ヲ行ヒ夏モ雪ヲ雨ラセ、冬モ花ヲ嗅カセルナドヽ色々不思議ナ術ヲ行ヒ、ソレデ其術デ人ノ國ヲ奪ヒ其教ヲ弘メルコトヲ專一ト致スト承ハリテゴザルガ、何ト左樣ナ魔法遣ヒノ外道ナドデモ一致トイハレマスモノカ、マダ其上ニ其外ニモ猶太ト申ス宗旨モアリ、又其切支丹トイフ宗旨ニモ羅馬教、希臘教、アリアン教、耶蘇教ナドヽ色々宗派ガ分レテゴザツテ、調度儒道ニモ朱子、陽明、徂徠ナドノ差別ガアリ、佛法ニモ八宗十宗ナドノ宗派アルガ如ク、左スレバ百教千岐トハ申サルベクトモ一致トハ言難カラント存ゼラル丶ニ、先生衆ニ逹フテ一致ト申サル丶ハ其説ヲ承リ度イコトデゴザル 左樣デゴザル、足下ノ言ノ如ク其名目ヲ枚舉シテイハヽ、此上ニモ猶數々ゴザツテ更僕モ盡シ難ク、又其名目ガ替ルダケニハ、何レノ教モ替リガアリテコソ左候ラエ、サレド其異ナル所ハ兎モ角モ、其趣ヲ考フレバ誠ニ同一ナルコトガゴザルニ因テ一致トハ申スデゴザル、サルニ議論ハ兎角、能ク辭ノ意味ヲ定メテ上下ノ文意ヲ論ズルガ肝要デゴザツテ、徒ラニ己ガ見ル所ヲ主張スル斗リデ題目ノ是非ヲ細カニ玩味スルコトガナクバ、所謂水カケ論ト云フモノデ、何方《ドチラ》ガ善イカ惡イカ分ラヌモノデゴザツテ、最《ハテ》ハ聲ノ高イノカ辨舌ノ能ク廻ルノガ勝タ樣デゴザツテ、眞ノ是非ガ別ルモノデハゴザラヌ、今僕ガ百教ト指ス中ニハ成程足下ノ舉ラレタ種々ノ教ガゴザルコトナレド、徒ラニ左樣ニ掲ゲタル斗ニテハ別リ兼ルコトデ、先ヅ百ノ字ハ凡百トツヽイテ、總テナベテノ教ト見ル添辭ナレバ別ノ論ヒトデモゴザラヌガ、教ト指ス辭ニハ種々ノ意味ヲ含ミタル字ニテ、左樣ニ一朝一タニハ論ジガタウゴザル、又句尾ヲ一致ト申スハ百教ト申スヲ受タル譯デ、足下ノ言ノ如ク素ヨリ千差萬別ノ教アレバコソ百教トハ申シタレ、又其百教ノ趣キ極意ノ所ヲ考フレバ、同一ノ趣意ニ歸スレバコソ一致トハ申シタレ、若シ百教ガ百致、一教ガ一致ト云フコトナラバ誠ニ掲示スルニモ足ラヌコトデ、一ツハ一ツ、百ハ百、水ハツメタイ、火ハ熱イト云フト同ジコトデ、三歳ノ小兒モ能ク知ルコトデハゴザラヌカ 如何ニモ先生ノ言ノ如ク、一教ハ一致ナルコ論ヲ待タネバ、ソレガ積リテ百教ハ百致ナルーモ亦知レタコトデゴザル、サレトモ百教ガ一致トハマダ僕ニ別ラヌコトデゴザレバ、其一致ノ所ヲ承ハリタイノデゴザル、サレトモ前キニ言レタニハ、教ト指ス辭ニハ種々ノ意味ヲ含ンデ一朝一タニハ論ジ難イト言レタガ、其教トイフ辞ノ意味ヲ承ハリ其字ノ意味ヲ定メテ段々ニ承ハリ度《タイ》ノデゴザル サレバ其教トイフ辭ヲキメテ掛ラネバ同ジ水ガ冷イト申シテモ井戸ト水道ニハ替リガアリ、同ジ火ガ熱イト申シテモ炭ノ火ト蝋燭ノ火トデハ強弱ノ差ガアルデゴザツテ、教ヘト指ス辭ヲ能ク箱ニ入レテ是程此大サナリトキメテ置カナクテハ跡ノ話シバ出來ヌコトデゴザル、マヅ其教ト云フ辭ノ心ハ、素讀ヲ教ヘルモ手習ヲ教ヘルモ、又ハ劒術柔術端唄三味線ヲ教ヘルモ皆學ブ人ガアリテ、其道ヲ授ル者ガゴザレバ教ト云デゴザルガ、茲ハソレトハ差フテ專ラ人ノ人タル道ヲ教フルヲ指シテ云フノデゴザル、サレバ孟子ニ人ノ道タル飽マデ食ヒ、煖カニ衣テ居ヲ逸ンジタ上ニ教ガナクテハ禽獸ニ近イカラ、堯舜ガ契トイフ人ニ司徒ト云フ役目ヲ申シ付テ、五教トイフテ父子ノ間ハ親ト睦マジク懇《ネムゴロ》ニセヨ、君臣ノ間ハ義理ヲ立テ筋ノ違ハヌ樣ニセヨ、夫婦ノ間ハ睦ジクシテ狎々シクハスナ、長幼ハ長ハ敬マヒ幼ハ憐レミ、次序ノ亂レヌ樣ニ、朋友ハ信ヲ本トシ、僞リノナイ樣ニセヨナドヽアリテ、是レハ書經ニ見エテ教ノ條目ハ其時ノ習ヒニ依ルーナレハ爰ニハ論ゼズ、教トイフ字ノ意ハ其處《ソコ》ノ意味ニ見タクゴザル、又易ニ聖人神道ヲ以テ教ヲ設クトアリテ神道トハ如何ナル物力確《シカ》ト承知イタサネド、觀化ノ象ニ取リテ言レタ辭ナレ.バ、其教ヲ設クト云フモ今イフ教ノ意ニ協フテゴザルガ、何ニモセヨ人タルノ道ヲ教フルコヲ指シテ專言ニ教トイヒ、後々名教ナドヽ熟シテ仁義忠孝ナドノ名ヲ設ケテ教フルコヲ指シタモ、矢張今イフ教ノ意デゴザル、偖此教トイフ辭ハ漢字デ和訓ハおしヘト申ス、是ハ古人ノ説ニおしむトイフ辭ト同胞《ハラカラ》デ、人ヲ教フルハおしむ意、.ヤガテいとおしむ意アル故ナリト云ヘルハサモアルベク存ゼラルヽガ、本邦ノ語デハ唯おしヘトバカリ言テ、人タル道ヲ教フルト極リタル言ハナケレトモ、教ノ字ノ訓トスレハ前ニ申シタ丈ノ意ヲコメテ見テ宜イ譯デゴザル、偖此漢土ノ教ノ字ヲ西洋ノ國々ノ辭ニ比シテ飜譯イタシタラバ拉丁語ノもす、法朗西語ノもらる、英吉利語ノもれる、獨逸語ノしつつ、和蘭陀語ノせいでトイフ辭ニ當ラウカト存ゼラル丶ガ、此辭ノ起リハ拉丁語ノ風習ト云フ辭カラ出タコナレド、今ノ用ヒ方デハ全ク人道ノ教ヲ指スコトデゴザル、然ルニ此教トイフ字ヲ少シ取リ違ヘルト西洋ノ辭、英語、法語ナドノれりじうん、れりじおんトイフニ當ルコアリ、シカシソレハ直譯ニスルト祭祀宗祀ナドヽイフ辭ナレド、彼ノ教ノ字ト尤關係ノ密ナル字ナレバ譯書ニ往々教ト飜シ、某ノ教、某ノ教門、又ハ某ノ法教ナド見ヱテゴザルガ、今茲デ申ス教ハ專ラ人道ノ教ヲ指シテ申スノデ、偖祭祀ノ事ハ人道ノ内デ源ヲ發《ヲコ》ス最大關係ノ一端トナシテ見ルデゴザル、先ヅカヤウニ申シタ處デ教ノ字ノ意ガ多少極ッタ樣デハゴザルガ、併シマダ十分トハ申シ難ウゴザル、其故ハ教トイフ辭ヲ人ノ道ヲ教フルト見タ處デ、マダ人ノ道ノ内ニハ人ヲ治メルト云フ事ガゴザルニ由テ、人ヲ治メル仕方ノ政トイフ字モ人ノ道ノ一ッノ樣ニ思ハレルデゴザルガ、ソコニ意味ノ取損ヒ易イ、得テ間違ノ生ジ易イ、ガゴザツテ、此考ノ混雜カラヒドイ誤リガ出來ル、デゴザル、ソレハ先ヅ今ノ世デ能ク人ガ申ス政教一致ト申スコトガゴザルガ、此題目ハ至極宜イ立テ方デゴザルケレ托、少シ意味ヲ取違ヘルト政教一途ト見ル人ガ多イデゴザル、朱子ノ大學ノ序ニ堯舜ナドノ聖人ガ天ニ繼ギ、天道ヲ奉ジテ人間ノ大極桂ヲ立テラレタ時ニ億兆ノ民ノ君トモ師トモナツテ治メテ、以テ教ヘシムトゴザルガソレハサルコトデ、大昔シノ世ニハ教ヘルコトモ、治メルコトモ大體一ツデゴザツテ、就中漢土デハ今ノ世デモ又孔子ノ道デハ、何處《ドコ》デモ、誰《ダレ》デモ、同ジコトニ考ヘテ居ルデゴザルガ、茲ヲ一ツ説キ碎カナクテハナラヌデゴザル㍉抑≧政教一致ト云フ題目ハ右ノ樣ニ考ノ混雜シタ所ヲ破ルニイト適當ナ題目デゴザル、何故トナラバ政ト教トハ素ヨリニ途ナ物デゴザル、若シニ途デナケレバ一致ト云フ句尾ハイラヌコトデゴザル、故ニ政教ハ素夫々ノ別ナコトデニ途ニ出タルコナレ臣、其歸スル所、趣ク所ノ目的ハ同ジコトデゴザルト云フノデゴザル、何故トナラバ、政ヲスルト教ヲ施ストハ全然仕法ノ違フタコトデゴザルガ、蹄スル所ノ目的ハ人ノ世ヲ宜イガ上ニモ宜クシテ斯民ヲシテ生ヲ養ヒ死ヲ喪シテ、一生涯安樂ニ暮サセテ死後ニモ憾ミノナイ樣ニシテ遒ラフト云フ、ハ一致デゴザル、ソレデ政教ハ素ニ途ナ物デアルコトガ明白デゴザルガ、ドウモ孔子ノ道ヤガテ儒者ノ道トイフモノデハ茲ガマダハツキリト分ラヌ「デゴザルカラ、今少シ辨ジナケレバナラヌデゴザル 抑〻儒者ノ道ト申ス者ハ如何樣ニモ政教ノ考ガ混雜シテゴザルガ、先其病根ヲ申サバ大學ニ脩身齊家治國卒天下トテ脩己治人ノ道ヲ一ツニ言タ所ヲ後儒が見損ツテ己サへ脩レバ人ハ治メラルヽ、誠意正心ガ出來ルト天下ハ卒カニナルト心得テ何デモ格物致知誠意正心ト云フカラソレサへ出來レバ治國卒天下ノ事業ハ別ニ學問モセズ其利害得失ヲ講明セズトモ、自然ニ出來ル樣ニ心得テ禪宗ノ坊主ガ坐禪ヲスル樣ナ事ヲ政ヲスルノ本ト思フハ、痛ク取リ損フタ、デゴザル、爰ノ大學ノ主意ハ上ニ立ッ者ハ己ガ不徳デハ下モヘノ押ガキカヌ故、先ヅ自身ノ徳ヲ脩ムベシト言フタ迄デ本ヨリ治國平天下ノ上ノ法術ヲ語ツタモノデハゴザラヌ、傳交ニ治國平天下ノ條ニハ財用ヲ制スルノ心得ヲ少シク言ブタ迄デ、少シモ法術ハ舉テゴザラヌガ如何樣大學ノ書ハ孔門ナドニ傳ヘタ心得書ノ類デゴザラフ、ドウモ朱子ガ其序ニ言テ置レタ程ノ周人ノ大學デ用ヒタ書デハゴザルマイト存ゼラルヽ、周禮ナドヲ見ルニ文物ノ備ッタ周ノ世ナレバ、其大學デカ斗《バカリ》ノ事ヲ教ヘタモノトハ見ヘヌデゴザル、偖爰ハ後儒ガ見損ツタトハ云フモノ丶、總テケ樣ナコトハ古ク孔子ノ時カラ受繼イダ見解デゴザツテ、強チニ後儒斗リデハゴザラヌ、今先ヅ論語ノニ十篇ヲ繰リ廻シテ見ルニ、孔子ガ殊ノ外ニ世ノ衰亂ニ趨クノヲ歎イテ赤心カラ之ヲ救ウト思ハレタコトハ明白デゴザツテ、諸國ヲ遊歴シテドウカナシテ時王ヲ佐ケテ政ヲ仕直シタイト云フ心ハ、佛胯ガ申牟デ謀反ヲ企テタ時ナドデモ能ク知レタコトデゴザルガ、偖ソウナラバ論語ニ十篇ノ内ニ何ゾ時王ヲ佐ケテ政ヲスル手段ノ話シデモァルカト思ヘバ、ソレハ少シモ見エズ、唯國家ヲ治メル上ノ少々ナ心得ノ話シ迄デ、孔子ニ衞ノ出公輙ヲ佐ケサシタナラバドウシテ治メルデゴザラウカ、唯名ヲ正スト云フ心得斗デハ行カヌ筈デゴザルガ爰ガ不審ヲシテ見ルベキ所デゴザル、論語ニ十篇ノ内孔門デ第一義トイフ仁トイフコヲ門弟子ガ問フト、イッモ克己トカ大賓ヲ見ルガ如シトカ云ツテ、脩己ノ工夫ナラデハ謂ハレマセナンダ、子貢ガ心得損ッテ廣ク施シ衆ヲ濟フコトデハァルマイカト云タレバ、己レガ身ヲ立ント思ハ攣人ヲ立テヤレト亦脩己ノ工夫デ答ヘラレタ、爰ナドヲ以テ見テモ、脩己ガ出來レバ治人ハ出來ルト云フ後儒ノ考モ同樣ナ譯デゴザルガ、能ク孔子ノ一生涯ヲ考ヘテ見ルト別ルコトデ、孔子程ナ有名ナ人デ門人モ澤山有タガ、唯箇樣ナ話シヲ日々打寄ツテ致サレタ斗デ外ニ何カ能ガナクテハ孔子トハ申サレマスマイガ、サラバト云テ孔子ガ釋迦ヤ耶蘇ノ樣ニ説法ヲシテ人ヲ教化シタコトモ見へ申サヌ、爰ガ不審ナコトデゴザルガ、流石太史公ガ古イ人デマダ彼此上言ヒ傳ナドモ遣リテ居タ■ト見ヘテ、世家ニ身六藝ニ通ズルモノ七十有ニ人トゴザル、スレバ孔子ガ有名デ門弟子モ澤山ニ有タト云フハ六藝ト云フ物ヲ教授イタサレタコトデ、其六藝ト申スハ周人ノ士人タル者ノ心得ベキ物ト見へ、周禮ニ禮樂射御書數トゴザルガ、孔子ノ教授セラレタ物デ、論語ニモ丈ヲ以テ友ヲ會スト云、學ンデ時ニ之ヲ習フトイヒ、藝ニ遊ブト云ヒ、行餘リアレバ丈ヲ學ブトイヒ、吾レハ御ヲ執ランカ射ヲ執ランカナド云レタノデ、此六藝トイフ物ヲ專ラニ教授イタサレタコトハ明白デゴザルガ、其間ニ論語ニアル彼此ノ物語、又今日ノ事ニ就テノ心得ニナル話シナドヲ致サレタ事ト見エルデゴザル、偖其六藝トイフ物ノ内デ射御トイフハム「ノ士ナラバ鐵砲ヲ打ッタリ、馬ニ乘タリスル樣ナ物デ、士人ノ業ノ内デノ賤シイ事ト見エテ、夫故ニ孔子モ卑下シテ射ヲ執ランカ御ヲ執ランカト云レタ、デゴザル、又書數ト云フ内、數ハ今ノ算術デ、日用ノ事ニモ國家ノ政ヲスルニモ又學術上ニモ入用ノ事故ニ、流石周人ノ丈明故ニ六藝ノ内へ建テ教ヘタ物ト見ユ、又書ト云フハ今ノ手習トハ違ヒ、字義ノ學問ト見工六義ナドノ區別モアレバ、定テ爾雅ノ類ノ學問ヨリシテ何ゾ必シモ書ヲ讀ミテ學トセント見エタレバ、所謂三墳五典九丘八索ナド今ノ尚書ナドヲ誦讀スルコヲモ其中ニ兼ネタコトト思ハル、偖禮樂トイウ内、樂トイフハ琴瑟鐘鼓ヲ弄スルコヨリ詠歌舞踏ノコトデ、今イハマ淫聲ト雅樂トノ違コソアレ、三味線ヲ彈キ歌ヲ歌フト同樣ナコトデ、周ノ世ノ尤流行デアツタ物ト見工、西洋デモ希臘ノ世ナドデハ樂モ高上ナ極度ニ及ンダコトガゴザレバ同樣ナコトデ、周人ノ丈明デハ定テ巧妙ナ所ヘモ至ッタコトト察セラル、ガ、併シ後世ノ儒者ナドガ勿體ヲ附テ禮樂並ビ立テ天下ヲ化成スル第一ノ道具ダニ依テ、是非古樂…ヲ興サネバナラヌモノダナド迂論ヲ吐クニハ困ルデゴザル、凡テ人ノ世ハ飽暖安逸ノ欲ヲ途ゲタ後ハ耳目ノ欲ニ馳スルガ當然デ、又如何ニモ樂ミニナル物デゴザルガ、夫ハ芝居ヲ見テモ喇叭ヲ聞テモ宜イ譯デ、強チニ古樂ナドヽイフ迂論ハ止メタガ宜イ、唯尤觀テ感ジ聽テ動クノ甚イ物デゴザレバ、餘リ淫亂ニ近イコ、餘リ殘忍ニ近イコトハ廢メタイモノデゴザル、併シ夫ハ樂ノコダ、偖此六藝ノーヲケ樣ニ委曲ニ申スノハ、跡ニ遣ツタ禮ノコトデゴザルガ、禮トイフ字ガ周人ノ意デハ極メテ廣イコトデゴザツテ、總テ天下ノ治體工係ハルコトデモ一國一家ノ風習カラ出來タコトデモ、何デモ角デモ少シ極リノ附タコトハ皆禮トイツタモノデゴザル、夫故後世デイハマ天下ノ大制度ハ勿論律令格式ノ樣ノコトモ禮トイヒ、又動容周旋進退坐作ノ節ヨリ飮食割烹ノコマデ禮トイヒ、又吉凶軍賓嘉ノ儀式、會盟朝騁冠婚喪祭ノ大儀ヲモ禮ふ云ッタ、是レ今ノ三禮ト云フ者ニ徴シテ知ルベキコトデ、周禮ハ官制ヲ舉テ後世ノ六典會典ナー3ノ類、又儀禮ハ廟廊ノ儀式、偖戴記ハ雜書ニテ、必禮ノミナラズ、曲禮少儀内則諸篇ニハ瑣末ノ事マデ時ノ風俗マデ舉テアルニテ知ラレルコトデゴザル、其内吉凶軍賓嘉ノ儀式ハ眞ニ禮トイフ字ニ叶ヒ、後世デモ禮部ナドデ司リ禮トイフ字モ會意デ示偏ニ豐トアレバ禪ニ豐饒ノ篷豆ヲ具ヘル意味デ、今云フ儀式ノコナレバ尤能ク叶ツタコトデゴザルガ、其外ノニ通リハ禮ト云テモ少シ譯ガ替ツテ居レバ區別シテ見ネバナラヌコトデゴザル、左傳ニ禮ハ國家ヲ經シ秕稷ヲ定メ民人ヲ序ヅ、又名ハ以テ義ヲ制シ義以テ禮ヲ出シ、禮以テ政ヲ體スナド見工、又總テ斷辭ニハ禮ナリトカ禮ニ非ルナリトカアルガ是ガ周人ノ禮ト云フ意味デ、後世デイハマ國法トカ法律トカイフ意味デゴザラウ、然ルヲ孔子ハ此禮ト云フ者ニ深ク博ク逹シタ人ト見エルデゴザツテ、左傳ノ昭公七年孟僖子ガ遣言シテニ子ヲ托シタ事デモ明白デゴザル、夫故十九歳ノ時衰ヘタレトモ天下ノ首府ナレバトテ、周へ態よト行テ老子ト云フ人ニ禮ヲ學バレタコトト見エルデゴザル、其老子ト云フハ桂下ノ史ノ老聰ト云フ者ガ今ノ老子トイフ書ヲ著シタ人力、ソコハ頓ト別ラヌコトデゴザレド、禮ト云フ者ガ六藝ノ内デモ一番ニ六ケ敷物デ、政事ヲスルニハ是非學問セナクテハ叶ハヌモノデ有タコトガ明白デゴザル、偖孔子ハ此禮ノ逹人デゴザツタ故ニ、此國ニ至ルヤ必ズ其政ヲ聞クト人ノ相談ニモ乘ラレルコトデゴザツテ、門人ヲ教ヘラレタモ此禮ヲ宗ト致サレタコトト見エテ夏ノ禮、殷ノ禮、周ノ禮、又夏ノ時、殷ノ輅、周ノ冕ナドノ論モアルコトデゴザル、徂徠ガ先王ノ道ハ禮樂耳トカ道ハ先王ノ道ダトカ申シタモ爰ノ意味デゴザル、故ニ能ク孔子ヲ學バウト思フ人ハ仁義道徳ノ説ハ兎モ角モ、總テ歴代ノ典章文物制度律令ヲ講明シテ其利害得失ヲ知リ、之ヲ其時ノ天下ニ措クコヲ學問ト心得ネバナラヌコトデゴザルガ、後儒ハ左樣ナ事ハ事業ノ末ナリト思ヒ、或ハ功利ノ學ナド丶詈リテ性命道徳ヲ講ズルヲ正道ト立テ、論語ナドニ尋常説話ノ心得書ノ樣ノ言ヲ孔子ノ學ト取違へ、偖大學ノ八條目ヲ附會シテ身脩レバ天下ハ罕カニナル、其身ノ脩ル本ハ正心誠意ナド心得、最《ハテ》ハ居敬トカ何トカ理窟ヲ附ケテ、靜坐ノ工夫ナド丶云テ坐禪デモセネバナラヌコトニ思ツタハ大キナ間違デハゴザルマイカ、故ニ今ノ世デ眞ニ孔子ヲ學バウト思フ人ハ、本邦ハ勿論漢土二十二代ノ文獻ヲ考究シ、偖輓近ハ西洋各國ノ制度方法ヲモ講明シテ現業ニ施シ、何レガ一番ニ便利ナル、何レガ得何レガ失ナルヲ察シテ、目前ノ問ニ逢ノ樣ニスルノデゴザラウ、併シ又左樣ニ申シタトテ、彼ノ道徳仁義ノ説、性ヲ論ジ心ヲ論ズルハ孔子ノ道ニハ總テナイコダト申スノデハゴザラヌ、ナイト申ス段デハナク却テ孔子ヲ其元祀トモ存ズルデゴザル、孔子ヨリ前ニモ左樣ナ人モアツタカモ知レヌデゴザルガ、ソレハ記傳ガ亡ビテ傳ハラズ、又縱ヤアツタ所ガ孔子ノ盛ナルニ及バヌデゴザラウ、併シ韓退之ガイツタ堯舜禹湯文武周公ト申スハ此人數ニハ數フペキデゴザラヌ、夫ハ政ヲ以テ世ヲ治メタ方ノ仲間デ、前ノ禮樂ニ精シイ方デゴザル、孔子ハ夫ノミナラズ辨舌上デモ人ノ十人ヤニ十人化スルコトハ至テ上手デ有タコトト見エルデゴザル、彼ノ東西南北ヨリ七十子ノ孔子ニ服スルガ如シナド云ッタ所、孟子ニ生民ヨリ以來夫子ノ如キハアラズト門人托ガ孔子ヲ推ス所デモ、能ク分ツタコトデゴザツテ、過化存神ノ妙ナド申シテ、元ヨリ徳ハ邵ク行ハ至極シテ、材學共ニ優カニゴザツタ故ニ人モ見テ化シ、聞テ興リ、儀封人ガ木鐸ニ譬ヘタ樣デゴザツタコトト見エル、爰ハ釋迦ニ比シテモ、耶蘇ニ比シテモ同ジ樣デゴザルガ、孔子ハ表ノ商賣ガ夫ノ政事學者ト申スノデゴザルカラ、其ニ人トハ少シ替ッテゴザル、其上ニ孔子ハ生レ附キノ李坦ナ人デゴザルカラ強チニ自ラ元租ノ店ヲ張ルト云フ心モナク、彼索隱怪行我之ヲセジト、云ハレタト孟子ガ仲尼ハ甚シキコヲセザルモノ也ト言レタデ其人トナリガ能ク分ルデゴザル、サレド仁智ナドイフ題目ヲ掲ゲテ君子小人ト區別ヲ立テ、人ノ躬行ヨリ心裏ノ過悪ヲ去ラント門弟子共ヲ導カレタノハ、論語ニ十篇ニ記シタ所デ歴々タル事デゴザル、是ハ孔子ガ構ヘテ爲ラレタ事デハナク、門弟子ナドモ多ク世上ノ人ニモ多ク附合レタコ故ニ、自然ニ其見込ノ説ガ出テ吾知ラズ、其國耳ガヤガテ東方ノ教門ノ開祀トハナラレタデゴザラウ、夫故門弟子ガ其語録ナドヲ作ツテ置タコトデ、元ヨリ不世出ノ聰明ナ人故ニ心ヲ論ジサシテモ性ヲ説カシテモ、其見解ガ衆人ノ上ニ出タコトガゴザルト見エテ、今ノ世デモ動カシ難イ所ガ見エルデゴザルガ、併シナガラ是ハ孔子ノ表向ノ商責デハナク内職デアツターヲ能クヨク心得テ見ヌト、後儒ノ樣ナ間違ガ出來ルデゴザル、偖孔子ハ左樣デゴザツタ所ガ、周ノ世モ次第ニ衰弊ガ極マリテ、孔子ノ沒セラレタ後僅カニ五十年足ラズノ間ニ所謂ル禮樂ト云フ者ハ散々ニ殘缺致シ、孔子ハ歴代ノ制度ヲ講究ンテ東周ヲ興サウト思ハレタコナレド、晩年ニナリテハ周公ヲ夢ニ見ル意モ薄クナリ筏ニナリト乘ラウト思ハレタ位故、其孫ノ子思ノ世ニハ最早制度文物ヲ講究シテ天下ヲ再興シヤウナドイフ念ハ餘程薄クナリテ、祖父《オヂイ》樣ノ内職デアツタ見世ノ方へ身ガ入テ來タコトト見エルデゴザル、ソコデ申庸ナドイフ書ヲ著ハシ專ラ道徳ノコヲ語レタガ、其時カラ再傳シテ孟子ノ時ニナッテハ、最早孔子ノ時トハ大ソウニ時代ガ替ツテ孟子ノ如キ命世ノ才デモ、成周ノ典章文物ハ大方ニ學レタ位ナ「ト見エタ、夫故北宮鋳ガ周室爵祿ノ制ヲ問タ時ニ其詳ナ事ハ得テ聞ク可ラズ、諸侯ガ其法度ノ存スルノヲ悪ンデ皆其籍ヲ去ッタニ因テ其大略ヲ舉ゲヤウト、云レタト又井田喪祭ノ事ヲ滕ノ文公ニ説レタノモ皆大法大略ノミデゴザツタ故ニ、中々制度ナドヲ講究シテ居テハ間ニモ合ハズ、亦講究シヤウト云ツテ講究スルコトモ出來ヌ故ニ先ヅ性善トカ仁義禮智トカイフ題目ヲ出シ、主政トカ覊政トカイフ區別ヲ立テヽ天下ニ唱ヘタモノデ、偖此時分ニハ、楊朱墨霍トカ、管仲ノ功利トカ、申商ノ刑名トカ、蘇張ノ合縱連衡トカ、其外神農流トカ、嬲衍流トカ何トカ角トカイフ、色々ノ流派ガ出來テ各其門戸ヲ張ッテ吾ガ本尊ガ奪イト出掛タモノデゴザルカラ、孟子モ孔子ノ樣ニ乙名敷シテ居ル譯ニハ參ラズ、ソコデ今ノ日蓮宗ノ旗ヨリモ大キナ旗ニ孔子流仁義禮智、人ノ性ハ善ナリト髭題目ヲ書テ眞先ニ舁ギ出サレタモノデゴザル、サレトモ時ノ信仰モ惡クテアチラコチラト突當リテ、途ニ何程ナ功ニモナラズ韓退之ガ什一ヲ仔佰ニ存スト云ツタガ、マア大キナ御骨折デゴザツタ、ソコデ仕方ガナイカラ本ノ庵ノナカへ這入込デ居テ孟子七篇トイフ御經丈ヲ書イテ置カレタノデゴザル、夫故ニ子思カラ孟子マデニ孔子ノ内職ノ見世ノ方ガ流行シテ、本店ハ最早潰レタデゴザル、併シ孔子ノ沒後ニハ是程ナ大喧嘩ガ出來タコトデゴザツタガ、其孔子ノ内職ノ店下本店トノ間柄ガスツパリ縁ガ切レタ譯デハゴザラヌ、夫故本店ノ潰レル時分ニ出店ノ方へ其代物ヲ舁ギ込ンダ故ニ、出店ノ仁義道徳ノ説デ人ヲ教化スルコトデハナク、矢張其代物デ天下國家ヲ治メヤウト掛ツタモノデゴザル、爰ハ本店ト出店トハ丸切リ代物品物ハ替リテ呉服ト酒程ノ遑イノアルコトデゴザルガ得意先キガ同ジコトデ、矢張元ノ武家トカ大名トカイフ所へ納メルコトデゴザツタ故ニ、矢張大マカナ身上ヲ持ッ氣デ少シモ裏店小店ニ得意場ヲ拵ラヘテ數デコナストイフ手段ハ立タナカツタデゴザル、爰ガ同ジ道徳仁義ヲ説キ同ジク人ノ人タル道ヲ明サレタトハ云フモノヽ、釋迦ヤ耶蘇トハ譯ガ違ツテ居ル所デゴザツテ、矢張西洋ノ古ヘデ比較シタラバ、希臘ノ古哲ショコラテス、プラト、アリストテレスナドニコソ比スペク存ズレ、併シ思孟ノ學問ハ右ノ譯合カラ孔子ノ正流トハ替ッタコラ心得ヌト間違ガ出來易イーデゴザルガ、爰ニ一ッ話シガ本へ反ルコトガゴザル、其孔子ノ時ニ天下國家ヲ治メル道具デアツタ禮トイフ者ガ、孟子ノ頃ニナツテハ名ヲ更タデゴザル、尤前ニモ申ス如ク、周人ノ禮トサスニハ三通リノ事ヲ混同シテ居ツタデゴザル、其内所謂吉凶軍賓嘉ノ儀式ノ禮ハ追々世ガ替リ時ガ移リテ、孟子ノ時代頃ヨリグツト以前ニ行ハレナンダコトデゴザル、ソレハ滕ノ丈公ガ三年ノ喪ヲ行ツタ時ニ父兄百官ガ餘程氣違|染《ジミ》タコトト思ヒ、我ガ宗國魯ノ先君モコンナコヲ行ツターハナイト云ツタデ分ルコトデゴザルガ、此禮トイフ者ハ如何樣孔子ノ時代デモ繁文錯節トテ誠ニクダく敷イコトニナツテ參ツタガ、戰國デハ誰モソンナ馬鹿ラシイコトニ取合ヒ手ガナクナツタハ勿論ノコトデゴザル、又其外一ケ條ノ坐作進退ノ節洗ド、風習カラ出來タコトモ時世ニ從ツテ替ッタハ勿論、總テケ樣ナコトハ戰國ニナッテ紛亂ガ極マリ、却テ彼ノ繁文錯節ガ省ケテ能クナリ、人モ却テ質實ニ反ツタデゴザラウ、偖尚一ケ條ノ禮デ天下國家ヲ治ル綱紀ニナル所謂制度典章ヲ指シテ禮トイツタデゴザルガ、此禮ガ改名ヲ致シテ法トナツタデゴザル、勿論此時分諸子百家ガ沸《ニ》へ騰ツテ色々樣々ナ説ヲ考へ附テ、ソレデ天下ヲ治メントシ、又各國ノ君ハ上ニ統一ノ君ニ制セラレルコトガナイカラ、皆獨立國トナツテ外ハ攻伐呑併ヲ務メ内ハ勝手次第ニ法度ヲ改革シ、手ヲ替へ品ヲ替ヘテ色々ナ樣々ナ制度ナドヲ立テ見タモノト見エルデゴザルガ、其内デ申不害、李惺、商鞅、韓非ナドガ唱ヘタ刑名法術ノ學ト云フ者ガ成周ノ時ニ禮トイッテ、君臣上下ノ分ヨリ今日日用人間交際上ノ典則ヲ極メタモノデ、孔子ナドモ是ヲ學バレタコトト見エルデゴザル、併シ孔子ガ直ニ刑名ノ學ヲシタトイツタナラバ餘程ニ笑フベキコトノ樣ニ聞ユレド、ソレハ申商ナドガ自己流デ立ッタ殘酷ニ過ギタ法ト、歴世聖賢ノ手ヲ歴テ出來タ禮トノ違ヒバ大違ヒデゴザルナレトモ、天下ヲ治メル上ニ大小ノ事モ極マリヲ附テ、其極マリ通リニ違フタ者ハ罰ニ處シテ治メルトイフ手段ハ同ジ事デゴザツテ、彼ノ心ヲ説キ性ヲ論ジテ人ノ心ヲ戒メルトハ本ノ違ッタ事デゴザル、爰ヲ譬ヘテ見ルト米ト麥トヲ見タ樣ナ者デ、三代ノ禮ハ米ノ飯、申商ノ法ハ麥ノ飯デ、味ニハ優劣モゴザラウガ其飯タルハ同ジコトデ、腹ニ充テ體ヲ養フ目的ハ同樣ナルコデゴザルガ、同ジ米デモ造リ方ガ違フト酒トナルデゴザル、其酒ハ腹ニ充テ鱧ヲ養フヨリモ醉ヲ勸メ歡ヲ取ルノ具トナルト同樣デ、前三謂ッタ孔子ノ裏店ノ渡世向、思孟ノ繼ダ所ト申スハ同ジ三代聖人ノ趣意ノ米ダトハ申ナガラ、飯ニ焚イタノデハナク酒ニ醸シタノデゴザルカラ其用法ヲ異ニセネバナラズ、又申商ノ法ハ縱シヤ米ノ精ケガ足ラヌニモセヨ、水ノ加減ガ惡イニモセヨ、又ハ春割ガ半分通リ交ッタニモセヨ、或ハ麥所力粟ヤ稗ガ交ッタニモセヨ、矢張飯ノ代ニナルモノデゴザル、夫故ニ周人ノバット指シタ禮デハゴザラヌナレトモ、其天下ヲ治メル具ヲ禮ト指シタル者戰國ノ時分ニ法ト變名致シタ譯デ、本道ニ申サフナラバ時勢ガ遑ヒ、人ノ意見ガ一層開ケテ禮ノ内ヨリ法ヲ發明イタシタト云ツテ宜シイデゴザラウ、偖此法家者ト申ス者ハ、太史公ガ日ッタ如ク法家ハ嚴而思少シ、然淫君臣上下ノ分ヲ正スハ改ム可ヲズト、又曰ク韓子繩墨ヲ引テ事情ニ切ニ是非ヲ明ニス、其レ極メテ慘磁恩少シト、其慘酷恩少シト云フハ麥飯ニ近イ所デゴザルナレド、之ヲ以テ天下國家ヲ經理スルニ足リテ飯ノ用ヲナスハ間ニ罔ユ可ラザル者ガ存スルデゴザル、夫故申商ナド自身ノ成敗ハ兎モ角モ、國家ニ施シテ治績ノアツタハ歴然タル■デ、李斯ノ如キデモ、秦ガ天下ヲ統一ニシテ古ヲ師トセズニ天下ヲ治メヤウト云フ重任ニ當ッタ處デ、少シモ動カズ夫々ニ法ヲ制シ令ヲ下シテ兎モ角モ天下ヲ推カヘシ捏《コネ》カヘシテ千古ニ毛ナイ事業ヲ立ツタハ法ノカアデハゴザルマイカ、偖此法ト云フ者漢デハ蕭何、曹參ナドガ傳へ、李俚ガ著ハシタ法經六篇ヲ蕭何ガ十篇…ニシタト云フハ刑法ニ限リタコトデゴザルガ、總テ天下ヲ經理スル律令格式ニ通ジタコトデゴザル、夫故漢ノ世デ刀筆ノ吏トイフハ其時ノ律令ナドニ委シク筆ヲ取テ衙ニ詰タ者ヲ云ッタノデゴザツテ、彼空經ヲ抱テ蟲魚ヲ事トシタ儒者トハ孰レガ世用ニ立ッタデゴザラウ、漢ノ高祀ガ威陽ニ入リ其父老ニ法三章ヲ約ストゴザツタガ、漢初ニモ蓁ノ制度ニ傚ツテ改革シタ所モアリ、又刑法モ三章デハ止マナカツタデゴザルガ、是ハ唯一時父老ノ意ヲ慰メントノ辭デ實ハ周人ノ肉刑ガ文帝ノ時々デ傳ッタヲ見レバ、其餘ノ事モ推シテ知ラルヽデゴザルガ、大方蕭何ガ咸陽宮へ這入テ天下ノ圖籍トテ御圖帳樣ノ者ヲ舁ギ出シタ時ニ、其他ノ格式ナド樣ノ者モ取リ出シタデゴザラウ、偖漢ノ時ニナリテハ最早法律ト禮トガ別レテ愈爻ニ通ノ者トナリ、禮ト指ス所ハ叔孫通ガ蘊竹トカ云フ木屋掛ノ内デ制シタ儀注ノコトデ、天下ヲ治ル分ハ法ト云ッタデゴザル、爰ハ調度古人ハ水ヲ元素ト立テタナレ圧、後世發明ガ詰ンデ水素ト酸素トヲ分ケタ樣ナモノデ、周人ガ何デモ角デモ禮ト云ッタヨリハ、禮ハ專ラ儀式ヲ指シ、天下ヲ治メル制度典章ハ法ト云フガ後世ノ發明丈宜イカト存ズルデゴザル 先生ノ言ハ頗ル其理アリト雖トモ、法ト禮ト同ジ物ト云フコトハ肯ガヒ難イ説デ、先生ハ禮ヲ以テ天下ヲ治メラレシ故ニ驩虞ノ治ヲ致シ、後世ハ法ヲ以テ天下ヲ治ムル故ニ僅カニ把持スル耳デハゴザラヌカ 如何ニモサルコトデゴザツテ、禮ト云ヒ法ト云フハ本同ジ人ニテ、始メ禮ト名乘リタル者後ニ法ト改名イタシタト申スハ勢ヲ追フテ申シタ言デ、ソコヲ詳カニ申サフナラバ、禮ト云フ親父ガ春秋ノ時マデ勤メテ死去イタシタ跡へ法トイフ養子ガ出來タト申シタラバ宜イカト存ズルデゴザル、併シ何レモ天下ヲ經理スル道具デゴザルコトハ同樣デゴザル、左傳ニ趙簡子ガ揖譲周旋禮ヲ問フタ時ニ、.子大叔ガ封テ是儀ナリ禮ニ非ズト申シタ處デ、簡子ガ推シテ何ヲカ禮ト云フト問フタレバ、子大叔ガ子産ノ言ヲ誦シテ夫レ禮ハ天ノ經也、地ノ義ナリ、民ノ行ナリ、天地ノ經ニシテ民實ニ之ニ則ルト云ツテ、夫カラ長々ト誇大ナ言ヲ云ッタデゴザルガ、如何樣其世ノ考デハ朱子ノ定義ノ如ク、理ニ本イテ人事ノ儀則ヲ立テタ物ヲ禮トイツタニハ相違ガナイデゴザル、併シ人事ノ儀則ト云ヘバ天下國家ヲ治メル典章ヨリ一身ノ動作モ皆人事デゴザルガ、其内デ三代ノ禮トカ、禮樂興ラザレバ刑罰中ラズトカ、禮樂征伐天子諸侯ヨリ出ヅトカ、又中庸ニ天子ニ非レバ禮ヲ議セズトカ、又其徳無レバ禮樂ヲ作ラズトカイフハ皆制度典章ヲ指シテ云フタ者ナレド、煎ジ詰メテ見ルト孟子ノ辭讓ノ心ハ禮ノ端ナリト云フ恭敬ヲ主トシタ所ガゴザル、爰ガ王覇ナドヽ區別ヲ立テタル主意ノ根元デ後世ニ法ト云フ者トハ冰炭水火ノ差ガゴザル、夫故ニ同ジ食ッテ宜イ食事モ禮デ云ハマ數度謙遜シテ食ハフト云意ト、法デイハマ食テ宜イ食事ナラバ御辭…儀ハイラズ、食ッテ宜イ丈澤山ニ食フト云フ意トノ遑ヒガゴザル、爰ハ孔子モ既ニ之ヲ導クニ政ヲ以テシ、之ヲ齊フルニ刑罰ヲ以テスレバ民ガ苟モ冤レテ惡ヲナサナイケレド惡ヲ耻トハ思ハヌ、又之ヲ導クニ徳ヲ以テシテ之ヲ齊フルニ禮ヲ以テスレバ、耻ヲ知ルドコロカ正シイ所ヘモ至ルベシト云ハレタデ能ク分ルコトデゴザルガ、爰ガ彼ノ管仲ノ器ヲ小トスル所以、又曾西ガ子路ヲ奪ンデ管仲ヲ蔑視シ、孟子ガ管仲晏子ヨリモ高ク栖《トマ》ッタト自負スル根元デ、管晏ノ如キハ大根ガ政刑ノ外ニ出ルコトハナク徳化禮樂ニハ及バヌト云フ孔子流ノ一大僻見デゴザル、此ノ僻見ガ孔子ガ聖人デモ孟子ガ亞聖デモ冤レザル所デゴザツテ、今西洋デ比べテイフト別ルトドキ鋼トカ、ゴ判セルハチーフトカ云ッテ古ヲ好ムトカ、古ヲ信ズルトカ、古ヲ奪ムトカ、悪ルク言ハv古ニ泥ムトカ云ッテ宜イ所デゴザル、併シ此蔽ハ得テ忠厚ノ人ニ存スル蔽デゴザツテ兎角冤レ難イ者デゴザルガ、此蔽習大イニ後世マデ毒ヲ流シタデゴザツテ彼ノ二十二代ノ間幾人タリトモナク賢明ナ人ガ出タコトデゴザルガ、此泥古ノ莓ニ醉ハナイ人ハマア無イト云ッテ宜イカト存ズルデゴザル、爰カラ後儒ナド脩己治人ノ道ヲ混雜イタシタコトモ政教ノ區別ノ分ラヌコトモ出テ居ルデゴザルガ、虞處ニ孔孟程ノ人ガ左樣ナ蔽ハアリソモナイコトデゴザルガ、是ガ又時世ノ然ラシムル慮ト見エテ、其時ニハ中々分ラナカツタ、デゴザツテ、甘バ上又餘儀ナイコトモゴザツタ、此事ハ後ニ教ノ事斗ヲ説話致ス時再ビ細カニ論ズルデゴザラウ、偖足下ノ言ノ如ク禮ト法トトハ一所ニナラヌ物デ、孔子ノ政刑ト徳禮トノ癌別デ能ク分ッタコデゴザルガ、孔孟コソ見ル所アッテ徳禮デナクテハ善美ノ治ハ得難イト云レタ程ニ、此ニ人ニ時ヲ得サセテ天下ヲ任セテ仕マッタナラバ、徳禮ノ治ガ出來タカモイザ知ラズ、孔孟後ニ至ルマデ三千年ニモナルデゴザルガ、誰《ダレ》カ漢土デモ本邦デモ又安南ヤ朝鮮デモ、徳禮ヲナシタ人力徳禮ノ治ヲ見タ人ガゴザルカ、彼ニ十ニ代、又本邦デモ往昔ヨリ今日ニ至ルマデニハ、治マツタ静謐ナ人民上下托安樂ニ暮シタ世モ隨分數々有タデゴザルガ、其レハ政刑ノ御蔭カ、將タ徳禮ノ御蔭力、能ク考ヘテ見ネバナラヌコトデゴザル、天道是カ非力、獨リ三代ノ民ニ私シテ後世ヤ外ノ國々デハ徳禮ノ化ヲ仰グコトハ出來ヌト云ッテハ、餘リ天ノ御役目ガ濟マナイ譯、又眞ニ徳禮ノ化ガ出來ル者ナラバ其丈ノ長イ間、其丈ノ廣イ間ニハ徳禮ノ化ガ一度デモ出來ソウナ者デゴザルガ、是ハ徳禮ノ化ト云フモノハ孔孟ノ心得違ツタオルトドキノ寐言デハゴザルマイカ、併シ儒者ニ言ハシタナラバ三代ニハ聖人ガ出タカラダト云フデゴザラウガ、マア聖人ト云フ者ガ六尺許リノ身ニ目ニツ、口一ッ、手足都合四本アッタ人デハゴザルマイカ、其レハ其書物ニアル意想カラ作リ出シタ麒麟鳳凰ヤ龍ナドノ類デゴザツテ、昔ハ出タガ今ハ世ニ無イ者デゴザラウカ、ドウモケ樣ニ聖人ヲ崇メ過スト勿論論ハナイ譯デゴザルガ、併シ左樣ニ聖人ヲ崇メ過スガ聖人ノ御心デモ有マイカト存ズルガ、マアソレハソレトシテ徳禮ノ化ト政刑ノ治トヲ比較シテ申サウナラバ天下國家ヲ治ムル上デハ政刑ノ治ガ正道デゴザツテ、徳禮ノ化ト云フハ孔孟ノ夢デゴザツテ、未ダ曾テ此天地此地球上ニハ、西ニモ東ニモ今モ古モ有タコトハナイ物デゴザヲウト存ズル、何故孔孟ノ夢ト申スナラバ先ヅ所謂三代ノ盛時トサス周ノ成康當リマデノ歴史ト、其後ノ孔子以前春秋ノ時ノ開化トヲ能ク見分ネバナラヌデゴザル、古史ニ夏ハ忠ヲ爾ビ、殷ハ質ヲ尚ビ、周ハ文ヲ尚ブト申テゴザルガ、其忠質ト云フハ未ダ人民ノ質朴デ人文ガ一樣ニハ開ケナカツタ、デゴザル、孔子ノ先進ノ禮樂ニ於ルハ野人ナリト謂レタノヲ見レバ、周初ノ開ケノ程モ思ヒ見ルベキコトデゴザル、今一騷委シク考證シテ申サウナラバ、丈王ノ祀父樣ノ大王ガ狄人ノ難ヲ避ケテ岐下ニ邑シタ、、其嫡子太伯ニ男仲雍ガ親父ノ心組ヲ見テ奥トイフ遠方へ脆走致シタコ、又其世ノ殷ノ天子トイフ武丁ガ少イ時ニ書生ニナッテ民間ニ居リ、傳説ト云フ先生ニ出逢テ偖御夢想ダト云ッテ引舉テ天下ヲ任セタコ、文王ガ渭陽ニ殺生ニ出掛テ百姓覦父ト談ヲシテ連レテ歸テ師匠ニシタコ、孤竹ノニ子ガ親ノ家督ヲ護テ腕走シタコ、虞茜ノ君共ガ周へ出京シテ面目ヲ失ッタコナドヲ能ク思ヒ合セテ見ルト、殷ノ中葉此方周初ノ人ノ質素簡略デゴザッタコトガ能ク分ルデゴザルガ、ケ樣ナ時ニ材力ノ有ル周公旦トイフ人ナドガ出テ、父砠ノ業ニ依テ大マカニ天下ノ制度ヲ立テ禮ト名ヅケタデゴザル、勿論右ノ譯デ人氣モ良シ治メル人モ逹人ナリ制度ノ立樣モ公卒ナリ、凡テ世ノ風習ガ寛厚忠實ニゴザツタ故ニ、上下恬煕デ彼ノ刑措テ四十四年マデ用ヒズトイフ治世ヲ致シタノハ盧言デモナク左モァルベキ時世デゴザツタ、大率此頃迄ノ殷周ノ人ノ考ト申スモノハ餘程大マカナ寛裕敦厚ナ風俗デゴザツテ、彼孔子ガ春秋ヲ作ッテ亂臣賊子ヲ威カシタト云フ世トハ懸隔ノ違ガゴザル、蕘舜ノ禪讓ハ偖オキ夏禹ガ子ニ傳ヘテカラハ、上ニ大統ノ天子ハアリナガラ其天子ガ徳ガアルトカ政ガ治マルトカ云ヘバ諸侯モ朝覲イタシ、左モナイ時ハ諸侯ハ自分自分ニナッテ朝覲モセズ王命ヲモ奉ゼヌコトガ常デゴザツタ、爰ハ彼西洋ノ古ヘデ希臘聯邦位ナ考ヘノモノデ有ッタカト存ズル、調度其聯邦ノ中ニヘゲモニート申シテ豪傑ガ起リテ政治ヲ理メルト、外ノ諸國ガ其方へ廃クコトデ春秋ノ五覇ノ樣ナモノデゴザッタガ、先ヅ一寸能ク似タ風俗デゴザッタ、孔子ガ文王ヲ稱シテ天下ヲ三分シテ其ニヲ有ッテ殷ニ服事スト謂レタガ、紂ガ縱ヒ西伯ト命ジ方伯連帥ニ致シタニモ致タセ、諸侯デ其レ程ナ權ヲ有スルコトハ後世デハ人ノ嫌疑モアッテ出來ルコトデハナク、スレバ魏ノ曹操デ・ゴザツテ東坡ガ文王ノ道、文若ノ心ナリト謂ッタモ虚言デハゴザラヌ、ケ樣ナ事ハ皆其時世ニ依ルモノデ、同ジ事業デモ一人ハ姦雄トナリ、一人ハ聖人至徳ト稱セラル丶ガ、能其時代ノ風俗ヲ觀テ論ゼナケレバナラヌコデゴザル、若シ其レガ春秋ノ世デ、趙宣子ガ出奔シテ境ヲ越サナカツダ故ニ賊名ヲ負ハセルト云フ辛イ僉議ヲ致シタナラバ、文王モ西伯ヲ辭シテ仁政ナドヲ止メタガ宜イトイフ理窟ニモナルデゴザラウガ、至徳聖人ト謂テ通ラレルノハ矢張殷ヨリ周初マデハ人ガ大マカデゴザッタコトガ能ク分ルデゴザルガ、偖周ノ世、昭王、穆王アタリョリ段々ト周公ノ御蔭デ文化ガ進ンデ來タデゴザツテ、春秋トイフ時代ニナッテハ世ハ亂タニモセヨ、時ハ衰ヘタニモセヨ、文化ガ四海ニ溢レテ人ガ大ソウ狡猾三ナッテ、禮文モ殊ノ外ニ繁雑ニナツテ犬ガ屁ヲシテモ小言ヲイフ淨世トナッタデゴザル、少シ以前迄秦ダノ又南方ノ楚ダノトイフ國ハ本道ノ中國ノ中間ヘハ這入ルコトハ出來ズ、呉越ナドハ百年力百五十年以前ニハ文身ノ俗ト云ツテ、蝦夷人同樣デゴザツタガ、春秋ノ世ニナッテハ其邊ノ田舍カラ段々英雄ガ起リ、人材ガ出來ル樣ニナッタデゴザル、ソレカラ周ノ東遷後二百四十餘年ヲ歴テ孔子ノ時ニナツテ、孔子モ自ラ知ラズ古ヘノ大マカナ事ヲ打忘レ、一字デ褒貶ヲスルトカイフ春秋トイフ書物ヲ書ネバナラヌ世ニナッタデゴザル、ナント細カイ重箱ノ隅へ楊枝ヲ入レル世ニナッタデハゴザルマイカ、夫故成周ト春秋トノ問ニハ鴻溝ドコロカマア前世界ト後世界トノ遑ガゴザルガ、成周ノ世ハ大マカナ掟デモ人ガ能ク言フコヲ聽テ、自然ニ乙名敷、寛裕敦厚ニシテ同ジ揖讓謙遜モ眞心カラ致シタコトデゴザルニ、春秋ノ世デハ其揖讓謙遜ガ風儀トナリテイヤデモ致サネバナラズ、且ッ知識ハ古人ヨリモ優ッテ居レバ揖讓謙遜ハ致シテモ食フベキ物ハ食ハレ、取ルベキ物ハ取ラレルト知惠ガ前《サキ》へ廻ルカヲ、其揖讓謙遜ガ虚飾ニナツテ却テ彼此ト小言ヲイフ種ニナツタデゴザル、爰ガ老莊ナドノ禮文ノ繁キヲ厭ヒ、聖人ガ死ナナクテハ大盜人《ドロボウ》ハ止マナイト云ッタ譯デゴザル、調度成周ノ時ハ稚ナイ小供ヲ育テル樣ナ者デ、御辞儀シテ御給ヘヨ、腹一杯喰ハズト宜イ加減デ御止ヨトイッテモ聽入レタデゴザルガ、春秋ノ時デハ二十二三ノ生意氣盛リデ、居ッタ膳ナラバ逍シコウナシ、間ガ宜クバ飯盛女ノ尻迄モ喰フト思テ偖人目ガアルカラ腹ノ減ラヌ面ヲシテ居ルト同樣ナ事デゴザル、夫故ニ時世ニ能ク通ジタナラバ小供ノ樣ニ御辭儀御辭儀ト責附ズ毘、一人前ノ飯ハ六十四丈、御卆ニ香ノ物合セテニ百五十丈ト一膳飯同樣ニイッタ方ガ、氣兼モナク損得モナク宜シイ譯デハゴザルマイカ、爰ヲ彼ノ管仲ナド云フ氣ノ利《キイ》タ男ハ早ク見テ取ッタデゴザル、如何樣器量ハ局小カモ存ゼヌガ、時ヲ見ルコトハ上手デゴザッタ、爰ガ政刑ノ治ガ徳禮ノ治ノ跡取ニナル所デゴザツテ、政刑ノ治ハ治術ノ正道デゴザルカラ昔シデモ今デモ、華夏デモ、蠻貊デモ、日本モ、唐モ、西洋モ、其外闢ケナイ夷狄ヲ御スルニモ此レデナクテハ行カヌコトデ、徳禮ノ治ナドイフコトハ僅カニ彼三代ナドイフ人文ノ未ダ十分ニ開ケヌ時ナラデハ出來ヌコトデゴザル、最早春秋デハ徳禮ノ治ノ行レ難イ證據ガゴザルガ、ソレヲ孔子ガ是非ト云レタノハ、マア餘リオルトドキシノ學風デ、サゾ少イ時ニハ周公ノ夢ヲ見ラレタデゴザラウ、併シ爰ニハ餘儀ナイコトガゴザツテ、唯孔子ガオルトドキシダト云ッテモ宜シウナイガ、夫ハ後ニ專ラ教ノコヲ説話イタス所デ申スデゴザラウ、偖春秋デハ最早徳禮ノ治ノ行ハレ難イト申スノハ、所謂ル天道ノ自然、孔子ガドンナニ御盡力ナサッテモ益ノナイコトニ、果々ハ申商ガ元祀ノ店開ヲ致ス樣ニナッタデゴザル、何分ニモ政刑ノ治ガ治術ノ正道デゴザル故ニ、人ガ開化致セバ致スホド正道ガ顯レデ、親父ノ代ノ塗リ杯ハ息子ノ代ニ燒物トナルガ當然デゴザルガ、爰ハ管仲ナドガ氣ノ利タ男デゴザツタガ、孔子ト大抵同時デ少シ早カツタ、其レガ死ンダ時ニ孔子ガ右ノ遺愛ダトテ涙ヲ流サレタ鄭ノ子産トイフ男ガ、中々ニ賢イ人デゴザツテ、其死ナントスル時、子大叔ニ遺言シテ吾死ナバ子必ズ國政ノ權ヲ取ルペシ、然ルニ寛裕デ政ヲ爲ルト云フハ有徳ノ君子デ無レバ出來ヌ事デ、夫ヨリハ猛嚴デシタ方ガ常人ニハ出來易イ事デ、火ハ猛烈ナ物故人ガ態ト飛込デ死ヌル者ハナケレ毘、水ハ儒弱ナ物故溺レテ死ヌル者ガ多イト謂ヒ置イテ卒シタルニ、子大叔ガ國政ヲ取ルコトニナツテ偖盜賊ナド處々ニ起ツタ、其時子大叔ガ吾早ク夫子ノ言ニ從ガツタナラバ此患ハ有マジト云ツテ、兵力デ盜賊ヲ押潰シ、其後ハ猛嚴デ治メタト云フ話ガゴザル、其後へ孔子ノ言ヲ引テ、寛猛相濟スノ理リヲ言タハ取ルニ足ラズ、先ヅ子産ガ唯有徳ノ者ハ寛デ治メルト謂ツタハ猶成周ノ古賢ヲ思逡テノ言ナレド、自身ニ實地研究シタ所デハ猛ノ方ガ宜イト思ツタト見エルデゴザルガ、爰ガ甚面白イ處デ、時世ノ變革モ分カリ、此時當リデスラ既ニ政刑デナクテハ行カヌト見込ンダモノト見エルデゴザル、此事ハ左傳昭公二十年ニ見エテゴザルガ、偖夫ヨリ前方昭公ノ六年ニ、鄭人ガ刑書ヲ鼎ヘニ鑄附ケテ國ノ常法トシタ時ニ、晋ノ叔向ガ子産ニ手紙ヲ遣ツテ長々異見シタ、ガゴザル、其大趣意ハ先王ノ時ハ刑律ハアリナガラ民ニハ祕シテ置テ、民ガ刑ヲ犯セバ上カラ雷ノ落タ樣ニ刑ヲ行フタヲ、今公ケニシテ世間ニ出シテハ民ガ其律書ヲ目的ニシテ上ト爭ヒ、徼幸シ其巧譎ヲナス、故ニ三代ノ季世ニ刑書ノ沙汰ハアツタコナリト云ヒケレトモ、子産ハ聽入レズシテ、吾ハ目前ノ急ヲ救フナリ子孫マデノ計ヲナス暇ナシト見エテゴザルガ、叔向ガオルトドキシノ説ヲ破ル程ノ識見ハ無レド、實地ニ徴シテ實ニ其不可ヲ知ツタ故ニ、流石ニカ丶ル答ヲシタコトト見エルデゴザル、偖其後二十四年目ニ當テ、昭公ノニ十九年ニ晋ノ國三ア、趙鞅ガ范宣子ノ刑書ヲ鼎ヘニ鑄タコトガゴザルガ、鼎ヘニ鑄ルト云フハ其時ノ風習デ、竹簡ナドデハ世ニ公布スルニ不都合故ニ、サルコヲナシタト見エルガ、是モ何カ便利ナコトト見エテ、城ヲ築キテ其軍役ノ儘ニ民ニ賦シ、鐵ヲ出サシメテ刑鼎ヲ鑄タト見ユ、然ルニ孔子ガ之ヲ譏ラレテ、今刑鼎ヲ鑄タナラバ民ガ鼎ヲ當ニ致シ、高貴ノ人ノ高貴ノ人タル所以ヲ目折ニ取ラレ、其業ヲ失フベシト言ハレタコトガゴザル、爰ナドガ甚ダ聽へ難イ所デ、高貴ノ人ガ刑律ヲ祕シテ己ガ權ヲ撻ママニシ、民ハ之レニ與カラ令メヌ方ガ宜イトハ、偖今ノ西洋ナドノ民ト共ニ法ヲ立テ丶人君ガ檀マ、ニスルコヲ得セシメヌトハ、マア何レガ公罕、何レガ私曲デゴザラウ、民ハ由ラシムベシ知ラシム可カラズト云フモ、程子ノ説ノ如クナラバ誠ニ宜イコナレド、爰ノ意味デ見ルト所謂ル黔首ヲ愚ニスルノ元祀トモ謂バレルデモゴザラウ、偖春秋ノ時、孔子ヨリ以前カラケ樣ナ世ノ中トナツテ、徳禮ノ治ト云フハ言ハ〉久イ後ニ棄タレ、今ハ人ガ皆狡猾ニナツテ中々御辭儀々々々ト言ツタ斗デハ聽入レズ、夫ヨリハ一人前四合五勺、夫ヨリ餘計ニ喰フト拳デナグルゾト云ツタ方ガ早ク埓ガ明ク樣ニナツテ來タデゴザル、是レガ所謂ル天道ノ自然デ、總テ混沌ガ穿テバケ樣ニ狡猾ニナリ、其狡猾ヲ制スル術ガ出來レバ再ビ混沌デハナクトモ、混沌ノ時ト同樣ナル正路ニ復スルノ日アルモノデゴザル、サルヲ孔子ハ混沌ノ穿チカヽツタ所ヲ無理ニ混沌へ引還ヘサウト思ハレタハ、少シオルトドキシデハ有マイカト存ズル、偖春秋スラ右ノ譯故、降テ戰國トナツテハ申商ナドガ興ルハ怪ムニ足ラズ、亦必ズ起ラネバナラヌノガ自然デゴザツテ、郎チ昔シ天下ヲ治メル道具が禮トイフ夏ノ國扇デアツタナラバ、其次天下ヲ治メル道且ハハ法ト云フ冬ノ互燵ト替ハルデゴザル、何ント法ハ禮ノ養子ダト言ツテ違ヒガゴザラウカ、偖此カラ又一ツ法ノ事ニ就テ聊力御話申スデゴザラウ 抑〻法ト云フ字モ亦古クヨリアル字デ、禮ト云フ内ニモ唯一通ノ極マリ耳ニシテ、恭敬ノ意モ議遜ノ意モ含マズ、言ヲ易ヘテ言ヘバ制度トモイフベキ所ニハ、左氏ナドニモ法ト指シタル所贐見工、孟子ニ堯舜法ヲ天下ニ爲シテ後世ニ傳フベシトカ、徒法ハ以テ政ヲ爲ス可ラズトカアルハ皆法ノ字ノ意デ、穐ト指スヨリモ恭敬ダノ儀飾ダノト云フ煎ジ渣ヲ除ケテ、物毎ニ極マリヲ立テル一式ノ正味ノ意味デ用ヒタ所ガ多イデゴザルガ、夫ガ段々ト世ガ開ケテ、虚飾ノ辭譲トカ謙遜トカイフ厭《イヤ》ラシイ所ヲ人ガ厭《キラ》フ樣ニナルニ從ッテ、追々ト法ノ方ガ能クナツテ來タト見エルデゴザル、史記ニ商鞅ガ孝公ノ臣ト議論スル所ニ、禮ト法トヲ交《マゼ》テ互ヒニ舉テゴザルガ即チ爰ノ意デゴザル、偖其法ト云フ字ヲ專ラニ己ノ流義ノ名ト致スノハ申不害、商鞅ナドヲ發明者ト見ルート見エテゴザルガ、其頃ハ人々己レガ流義ヲ主張スル習ヒ故、少シノ差モ別ノ名ヲ附ルコトデゴザツタ故ニ、別ケテ云フト、法家ト云フト名家ト云フト差別ガアツタト見エテ、太史公ガ六家ノ要旨ヲ論ジタ處ニハ法家ハ嚴ニシテ恩少シ、然托其君臣上下ノ分ヲ正スハ改ム可ラズ、名家ハ人ヲシテ險ニシテ善ク眞ヲ失ハシム、然レ托其名實ヲ正スハ察セズバアル可ラズト云ッタノデ分カル「デゴザルガ、是ハ其頃ノ區別デ、大要ハ一ッニナル物デゴザル、如何ントナラバ、法度ヲ立テタ上ハ其レヲ人々ニ徴シテ名實ヲ綜覈セネバナラヌ、名實ヲ綜覈シテ立ツタ法度ニ違フ者ハ、刑罰シテ懲サネバナラヌハ瞭然タル事デゴザルカラ、夫故ニ申子ノ傳ニハ黄老ニ本イテ刑名ヲ主トス、韓非ノ傳ニハ刑名法術ノ學ヲ喜ム、商君ノ傳ニハ鞅少ウシテ刑名ノ學ヲ好ムナド皆一ツニ云ツタデゴザル、偖此法家又刑名ノ學トイフ者ノ大イニ天下ニ行レタ.ハ、商鞅ガ秦ノ孝公ヲ佐ケテ今迄ノ法度ヲ變革致シ、途ニ秦ヲ覇タラシメテ漸クニ六國ヲ呑併スル基ヲナシタノデゴザル、偖始皇ニ至テ、祀先ノ業ニ依テ志ヲ途ゲントシタ處へ李斯ガ風雲ニ際會シテ、言聽カレ謀行レテ丞相ニ迄昇進シ、孔子流ノ荀卿ガ御弟子ダトハ云ヘド、全ク商鞅ガ遺意ヲ繼デ是迄未曾有ノ業ヲ開イタデゴザル、是レガ本道ニ法ガ禮ノ天下ヲ取ッタ處デゴザツテ、其後漢ト替バリ、唐宋明清ト變ジテモ皆法ノ治デゴザツテ、本邦デ孝徳、天智ノ御宇ニ其制度ヲ摸倣スルコトニナツタモ矢張政刑ノ治デハゴザラヌカ、偖其徳禮ノ治ト云フハ、漢以來御隱居樣ニナツテ生キテ遺ツテハ居ルケレ托、腐レ儒者ナラデハ誰一人御見舞申ス者モナク、空言デ傳ハリテ後世ノ儒者等ガ三代ト云ヘバ極樂世界ノ樣ニ思ヒ、聖人ト云ヘバ彌陀如來ノ樣ニ思フコトトハナツタデゴザル、漢ノ宣帝ガ漢家デハ專ラ儒術ヲ用フルノデハナイ、覇道ヲ交《マゼ》テ用フルノダト云レタモ爰ノ道理ヲ名歌スル程ナカハナカツタナレド、少シ此意味ヲ味ツタ辭ト見エルデゴザル、夫レヲ程子ガ漢唐バカヲ以テ天下ヲ把持ストマダ三代ノ夢ヲ見テゴザルガ、マア左樣ナ人ハ自身天下トイフ生キ物ヲ手ニ掛テ乘リ廻シテ見ルガ宜イ、中々木馬デ稽古ヲスル譯ニハ參ルマイデゴザル、偖是レデ禮ノ養子ガ法ダト云フコトハ大抵分ツタデゴザラウガ、爰ニ一ッ申シテ置クベキ事ガゴザル、夫レハ今申商、韓非、李斯ナドヲ法ノ發明者、法ノ開山ノ樣ニ譽メタ樣デゴザッタガ、其處ハ惡ルク意味ヲ取リ違ヘルト悪イデゴザル、勿論法ト云フ者デナクテハ天下ハ治メ難イ、禮ナド、云ッテハ餘リニ古風過ルトイフ丈ハ、申商ナドノ見識ガ孔孟ニモ駕軼スト云ッテモ宜シイナレド、申商ナドガ立ッタ李斯ナドガ考ヘタ法ガ宜シイトイフ譯デハ少シモナイデゴザル、申商、李斯ナドガ、法ト云フモノハ君ヲ霖ビ臣ヲ賤ンズル極粹ノ法デ、法ノ立方ハ誠ニ悪ムベキ法デゴザル、後世マデ此法ヲ改ルコヲ知ラナイカラ横擅ナ君ガ屡よ起テ、天下ノ人民ガ是ガ爲メニ無念ナ殘虐ヲ蒙ムツタハ、實ニ幾千萬人力知レヌデゴザル、併シ夫レハ申商ガ始メタ譯デハナク、矢張孔孟ヨリ傳へ來ッタ其國ノ風習デゴザル、爰等ノ所ヲ何モ宜イト云フ譯デハナク、爰ヲ以テ論ジタラバ申商ハ百世ノ罪人ト云ッテモ宜イデゴザルガ、流石ニ夫レハ申商ガ罪デハゴザラヌ、後世ノ申商ガ法ヲ用ヒナガラ法ノ法タル意ヲ了解シテ、法ノ立方ハ如何ニモ至善ニ止ル樣ニ改革スルガ宜イガ、頓ト一人デモ爰ニ氣附キノナイト云フノハ、眞ニ昔カラ人ノ奴隷タルコヲ好ム國デ、人トシテ人タル權ヲ失ッテモ何トモ思ハヌ國柄ダト存ズル、夫故申商ナドガ立テタ法、夫カラ唐明ノ律ノ樣ナ者、歴代ノ制度ニ至ルマデ極メテ宜シイト云フ所ハマア鮮イカト存ゼラル、ガ、併シ法ヲ以テ天下ヲ治メルト云フ事ニナッタノハ、天ヨリ與ヘタ人智ノ自然ニ然ラシメタ所デ、聖人復興ル托之ヲ易フルーハ出來ワスマイデゴザル、是ガ禮ト法トノ區別デ、禮ハ人事ノ儀則トイヘバ脩己ノ事モ治人ノ事モ籠ルコトデゴザルガ、後世ノ發明デ法ト云フ字ガ出來テカラハ、治人ノ事ハ專ラ法ノ方ニ屬スルコトデ、少シモ脩己ノ事ト關係ナク、又法ハ教ノ事ニ夫程ノ關係ハナイコトデ、法ヲ以テ人ヲ治メルト教デ人ヲ導クコトハ素ヨリニ途ナコダト云フ箏ガ別ルデゴザル 百一新論卷之下 成程周人ハ概シテ禮ト云ツタ事ヲ戰國ノ時ヨリ別ニ法ト云フ事ノ出來テ、夫レガ天下ヲ治メル道具トナツタコトハ御説ヲ承知致シテゴザルガ、法ハ脩己ノ事ニ關係ナク、教トハ全ク別ナル物トイフハマダ分明ニゴザラヌ故ニ、猶御説ヲ承ハリタイ者デゴザル 左樣デゴザル、其レニ付テハ西洋ノ事ヲ序デニ御話申スデゴザラウ、西洋ノ古へ希臘ノ時モ矢張周人ノ如ク教トイフ考ヘト法トイフ考ヘハ混合シテ居タコトト見エルデゴザツテ、羅馬ノ中葉以來律法ノ書ハ大ニ備ハリテ今モ西洋デハ之ヲ學ブコトデゴザルガ、其律ノ根元ヲ推スト矢張教ノ考ヘト混ジ、彼ノ有名ナル虎哥格《ヒューゴー》魯斯西ガ萬國公法ノ蒿矢トイフ平戰條規ヲ著シタ時ニモ矢張法ノ元ヲ教ヨリ取ッタト申スガ、其後千七百年代ノ終リノ頃ノ人デ、英國ノ馬金突斯《マキントス》ト申スガ矢張有名ナ公法性法ノ法學家デゴザツタガ、此人ガ始メテ教ト法ト其本源ヲ異ニスルコヲ發明致シテゴザル、.故ニ今ヲ去ル七十年前位ナコトデ、誠ニ新ラシイコトデゴザルガ、併シ是レハ教ト法トノ理論上デノコトデ、法ヲ以テ國ヲ治メ人ヲ治メルト申スコトハ、古ク摩西《モーゼ》ガ伊色列ヲ治メ、利古爾尼ガ斯西爾達ヲ治メ、梭倫ガ雅典ヲ治メタ時ヨリノ事デ・皆紀元前 (四麦)年一蠹リ、東方デハ周公ガ禮ヲ制シ、本邦デ聖徳太子ガ憲法ヲ作ラレタナドヽ並べ稱シテ宜シカラウカト存ズル、偖右ノ理論上ノ論ヲ姑ク爰デ御話シ申シテ、教ト法トヲ廣別スル此議論ノ大趣意ヲ爰デ明スデゴザラウ、今法ハ人ヲ治メル道具、教ハ身ヲ治メル道具ト區別シテ申セバ、一ト通リ能別ルコデゴザレド何レモ心理上ノ物デゴザツテ、人ノ性ニ本ヅキ、人ノ性上カラ本源ヲ取ル者デゴザレバ得テハ混ジ易イ、心得違イノ出來易イ所ガゴザルガ、先ヅ法ノ考ヲ名歌シテ申サバ、正トイフ字ヲ主トシ、教ノ考ヘデハ善トイフ字ヲ主トスルデゴザル、併シ今正シイ事が善イ事、善イ事ハ正シイ事ダト申シタナラバ誰モ咎メル人ハゴザルマイガ、爰ガ間違イ一易イ所デゴザツテ、左樣ニハ言ヘナイコトデゴザル、是ヲ證スルニハ右ノ言ヒ方へ皆トイフ字ヲ加ヘテ見ルデゴザル、ソコデ善イ事ハ皆正イ事、正イ事ハ皆善イ事ト申シタナラバ、中ニ正シクテモ善クナク、又善クテモ正シクナイ事ガ儘アルデゴザル、警ヘバ陳ノ司敗ガ孔子ヲ辱カシメヤウト思ッテ、御主人昭公ハ禮ヲ知ッテ居レルカト問フタ時、孔子ガ能ク御存ジデゴザルト對ヘラレタ、爰ガ司敗ガ心デハ昭公同姓ノ呉ノ國カラ妻ヲ迎ヘタニ、禮ニハ同姓ヲ娶ラズトイフカラト舉引《ノツピキ》サセヌ難問ヲ掛ケタデゴザル、其心根ヲ孔子ガ知リ貫イテ、能ク御存ジダト對ヘテ置イテ、偖跡デ悪ロヲ聽イタ時ニ我ハ仕合ナ事ダ、考違ヒガアルト人ガ氣ヲ附テ呉レルト言ッテ君ノ惡ヲモ顯サズ、ソウナラバトテ禮ニ遶ッタ人ヲ違ハナイト立テ通ス譯ニモ行カズ、己レガ心得違ヒトセラレタデゴザル、爰ナドハ君ノ悪ヲ顯ハサヌノガ臣下ノ情ノ善イ所ト見ルト、如何ニモ孔子ノ仕方ガ善イト申セマスデゴザル、併シ是ヲ正シイトハ申セヌデ、正イトイフノハ眞直グニ、否《イヤ》御存ジデハゴザラヌトイッタ方ガ眞ノ正イノデゴザル、又葉公ガ、吾黨ニ正直ナ人ガゴザツテ父ガ攘ンダ羊ヲ子カラ申シ出タデゴザルトアツタ時ニ、拙者ノ郷黨デハ正直ナ人ト申スハ其レト違ッテ、父ハ子ノ爲メニ隱シ、子ハ父ノ爲メニ隱シ合フデゴザルガ、其隱シ合フ中ニ正直トイフ意味ガ籠ツテゴザルトイハレタデゴザル、是モ同樣デ、正イトイフ日ニハ有ツタ「ヲ有ッタトイヒ、無イコヲ無イトイフノガ正シイノデゴザルカラ、攘ンダナラバ攘ンダト云フベキコトデゴザル、總テ箇樣ナ譯デ、正イ事ガ皆善イ、善イ事ハ皆正イト言ツテハ差支ガ出來ルデゴザルカラ、善イ事ハ善イ、正イ事ハ正イデゴザルガ、多分ハ善イ事ト正イ事ト一致ナル事ガゴザルト申スガ、本道ノ致知學上ノ申シ方デゴザル、左スレバ正ト善トハ同一ノ考デナイコトガ別ルデゴザツテ、同ジ人性上ヨリ出タ物トハイヘド、根元ガ違フ故ニ今日事業ニ施シテ、正ノ意味ヲ主トスルト善ノ意味ヲ主トスルトデハ逹ヒガ出來テ參ッテ、法ト教トノ二ツニ別ル丶所以デゴザル、此善ト正トノ考ヲ性理學ニ本ヅイテ論ズレバ、善ハ意ニ本ヅキ、正ハ智ハ本ヅキ、意ノ質ハ仁ナリ、智ノ質ハ義ナリト云フカラ段々ト百種ノ考ヘニ轉變スルコトデ、其レカラ段々ト話セバ一寸モ動カヌ樣ニ講究ノ出來ル享デゴザルガ、其レハ爰ニハ入ラヌ事故御話ハ申サヌ、偖右ノ正ト云フ考ヲ形アル物ニ譬へ、路ノ樣ナ物、線ノ樣ナ物、何デモ長イ物ト見ル}直トイフ考ガ出ルデゴザル、又土地ノ樣ナ物、水ノ樣ナ物、何デモ廣ガリテ居ル物ト見ルト李トイフ考ガ出ルデゴザル、又彼處《カシコ》モ此處《ココ》モ一般エ蔭モナク日向モナシト見ルト公トイフ考ガ出ルデゴザル、箇檬ニ正直公不トイフ考ガ法ノ本トナルコトデゴザル故ニ、太史公ガ韓子ハ繩墨ヲ引イテ事倩ニ切ナリト云ツタハ、至極能ク名歌致シタコトデゴザツテ、如何ニモ法トイフ者ハ、尺金同樣デ少シモ曲ツタリ、筋逕ツタリ、緩ンダリ、歪《ヒズ》ンダリ致シテハナラヌデゴザル、又善ト云フ考ハ、形ニ顯ハレタ物ト見ルト美ト云フ考ガ出《デ》、事ニ顯レタト見ルト能トイフ考ガ出《デ》、物ノ質ト見ルト好トイフ考ガ出ルデゴザル、夫故善美能好ト云フ考ガ教ノ本トナルデゴザツテ、讐ヘバ一箇ノ寶玉ノ如ク、圓イト云ツタナラバ上下四傍ヨリサシテ見テモ少シモ歪《ヒズミ》モナク、不圓ニシテ奇麗ト云ツタナラバ内外托スキ透ツテ一點デモ曇リモナイ塵モ附カナイト云フ樣デ、實ニ重寶スベキ物デゴザル、偖爰ノ正直公李ト善美能好トノ考トイフハ、何レモ其極功ノ摸樣ヲ形容シタモノデ、偖人間ニハ自然ニ此極功ノ場合ニ至ル性ガゴザルガ、性理學ノ論ナレバ爰ニハ御話申サヌ、偖此正直公李ト善美能好トヲ主トシテ教ヲ施シ、法ヲ制スルニハ其主意ノ違ツタコ、時トシテハ相齟齬スルコナドガゴザツテ、先ヅ法ト教下ノ區域ヲ論ズルト、教ハ極メテ廣ク人間ノ百行ニ渉リ、君臣父子ナド云フ所ハ勿論人間ノ死スル三旦リ、己レ一身ヲ行フニモ分其所處デハナク、禽獸ヨリ草木土石ノ無情ナ物ニ處スルニモ心裏ノ極々ノ洞底《ドンゾカ》マデモ至ラザルハナク關渉シナイコトハゴザラヌガ、法ハ其レト替バリ唯人間ガ人間ト相交ハル上ニバカリ有ルコトデ、君臣トカ、父子トカ、夫婦トカ、兄弟トカ、或ハ金ヲ貸シタ人ト借リタ人トカ、入ヲ傭フタ人ト傭ハレタ人トカ、物ヲ貰ラフ人ト物ヲ呉レル人トカ、總テ世間ノ交際ノ上ナラデハ關係ヲ持タヌコトデゴザル、爰デ今餅ヲ燒クニ甓ヘテ見ルト、二十モ三十モアル餅ヲ一度ニ爐火ニ投ジタトテモ燒ケルモノデハナク、生《ナマ》ナ餅ハ生カト思ヘバ下ノ方ニナツタ餅ハ黒焦レニ焦ゲルハ當然ナコトデゴザルガ、其處《ソコ》ヲ爐火ノ上ヘニ金網ヲ懸ケ、偖一ッ一ッ之ヲ載セテ段々順廻リニ上へ下タへ廻ワスト、黒焦レニナル患ハゴザラヌ、併シ心マデフツクリト燒ケテ、餘リ燒過ギモセズ、又申ニ生ナ所ガ殘ルデモナク程善ク燒カウト云フノハ、火度ニ餘程ニ能ク氣ヲ附ケネバナラヌコトデゴザル、此火度ノ鹽梅ハ教デ、鐵網ノ上デ順ニ廻ワスノハ法デゴザル、故ニ二十ガ二十、三十ガ三十悉ク偏勝ナク燒ケルハ法ノカデ、其底根燒ケル,ハ火度ノ鹽梅デゴザル、故ニ法ハ其始メヲナシ、教ハ其終ヲ成スモノデ、ニッノ者ハ相待タネバナラズ、併ナガラ教ヲ先キニスルカ又ハ教ノミヲ以テシヨウト思フハ亦大キナ間逹デゴザツテ、譬ヘバ餅ヲ火箸デ挾ンデ火度ノ善イ加減ノ所へ當テヽ燒ク樣ナ者、居候ガ盜ミ出シテ蔭デ燒ク餅ノ類デゴザツテ、如何ニ燒キ加減ガ宜イカラトイッテモニ十モ三十モ燒クニハニ日モ三日モ掛ルデゴザラウ、爰ガ人ヲ治メル上、ヤガテ天下トモイフ大湊ナ餅ヲ燒クニハ必ズ政刑ノ治ヲ先キニシ、徳ヲ以テ化スルトイフハ別ノ手立ヲ要スル所デゴザル、夫故政刑ノ治、印チ法ヲ以テ治メルトイフハ悉クノ餅ガ宜イ加減ニ中マデ燒ケルカハ知ラネド、表《ウハ》邊カラ見テハ如何ニモ焦ゲモセズ、生《ナマ》デモナク總體ニ燒ケタ樣デゴザル、爰ガ教ト法トノ差別デゴザルガ、猶心ニ落ナイコトガゴザルナラバ最一ッ譬ヘヲ引クデゴザラウ、今法ト教トハ前三言ツタ通リ、政教ハニ途ナ物ナレド一致ダト申シタ通リ、ニッノ者ガ共ニ歸スル所ヲ同ジウ致サネバナラヌ、其歸スル處ノ一致ノ目的ト申スハ、洋語デハルモニート申ス、兎角ニ人間世界ノ大和ヲ要スルノデ、髫ヘバ金石糸竹匏土革木ノ八音一度ニ鳴リ出シタ所デ、少シモ何《ドレ》ガ音ガ高イトカ低イトカイフコナク、極々|齊《ソロ》ッテ參ル樣ニ人間世界ヲ大和ノ城ニ保ツテ、所謂ル君君タリ臣臣タリ、父父タリ子子タリノ處ニ致サウト云フ目的デゴザル、偖此目的ハ一ッコトデゴザレド、法ハ何時デモ先キニ入ル物デゴザツテ、譬ヘバ丸太ノ山カラ切出シタバカリノ木デハ柱ニモナラズ、柱ニシテモ戸ノ立テ附ニ隙ガアツテ風ガ透ス故、先ヅ手斧デケヅツテ四角ニ程ハ致サネバナラヌ、其手斧ノ役目ハ法デ、其カラ猶釶デ削ラナケレバナラヌデゴザル、其釶ノ役目ハ教デゴザツテ、其處《ソコ》デ柱ト戸トシツクリトヒタト立附イテ、風モ漏レヌ樣ニナッタヲ大和トハ申スデゴザル、併シ爰デモ能ク別ル■デ、丸太ニ初手カラ釶ヲカケテハ餘リ迂濶デ、迂遠ニシテ事倩ニ濶レリト笑ハレテモ一言ナイデハゴザラヌガ、ソレデ又手斧ト釶ト一所ニ用フルトイフコトモ出來ナイコトデゴザルガ、爰ガ法ト教トノ差別デゴザツテ、法モ教モ、正不正、善惡トイフ人間ノ所行ノ兩岐アル處へ線ヲ引張ツテ、爰カラ右ハ正ニシテ善ノ道、爰カラ左ハ不正ニシテ惡ノ道トイフ目標ヲ致シテ人ニ示スコトデゴザル、然ルニ法ノ線ノ引張リ樣ハ、人ヲ成丈善ノ道へ誘ヒカウト思フモノカラ、惡ト善トノ界へ涯涯《キシ〳〵》一杯ニ線ヲ引タデゴザル、夫故法トイフ線ヲ踏ミ越スト、 一寸デモ一厘デモ悪ノ道へ這入ッタ人故ニ刑罰ニ掛ケネバナラズ、又底意地ノ惡イ人ガ其線ヲ涯々一杯ニ踏ンデ、爪ガ線へ掛ルカ掛ラナイカトイフ所ヲ通テモ、其心ハ惡ムベキデモ、如何ニモ爪ガ線ノ前《サキ》へ出ヌ内ハ善ノ境内ダカラ叱ル譯ニモ參ラヌ、爰ガ法ノ正ヲ主トスル肝要ナ所デゴザル、然ルニ教ノ方ハ其線ノ引様ガ涯々所力、最二三間モ右ニ寄セテ引テゴザル、夫故|危《アブナ》氣モナク大丈夫デゴザツテ、少シモ踏迷フ氣遐ハゴザラヌ、爰ガ善美能好ノ本體デゴザツテ、爰ニハ最早底意地ノ悪イ人ハ來ルコトハ出來ズ皆純粹ナ善人斗ト謂ツテ宜シイデゴザル、然ルニ左樣申シタナラバ、誰デモ其大丈夫ナ線斗引テ、涯々ノ線ハ止メタガ宜シカラウト言フデゴザラウガ、爰ガ一ッノ手段ノ入ル所デゴザツテ、若シニ三間モ右ニ寄セタ線ノ内へ這入ラナイト皆悪人ダト申シタナラバ、惡人ガ大湊ニ多クナツテ、天下ノ人ヲ過半ハ罪人トナサナケレバナラヌデゴザラウ、爰ハ今日ノ上デモ能ク心得ネバナラヌコトデ、道徳仁義ヲ説キ、君子小人ノ差別ヲナストモ只管ニ考ヘテハ人ヲ絶ツトイフモノニナッテ、反テ己ガ酷薄苛嚴ノ域ニ陷リ、初手ニ仁道ノ善美能好デ人ヲ助ケヤウト思ツタノガ、却テ人ヲ惡ニ入レルコトニナルデゴザル、故ニ君子小人ノ別ハアレ托、法ノ線ヲ踏越サヌ人程ハ皆善人トセネバナラヌ、爰ガ法デ治メルト言フハ苛酷ナ樣デ却テ寛大餘裕ノアル所デゴザル、即チ前ニ申シタ子産ガ水火ノ譬ヘモ爰ノ意味ヲ能ク解シタ語ト申サルヽデゴザル、今一ツニツ事ノ上デ譬ヘテ申サバ、世俗ニ傳ヘタ二十四孝ト云フモノガゴザル、此二十四孝ノ人ハ朱子ノ小學ニモ載セラレタ人ガ多クゴザルガ、マア夫レガ孝行ノ手本ニナルト云フ譯デハ、人ハ皆親ノ病氣トイヘバ糞ヲ嘗メタリ、親ガ雷鳴ノ厭イナ人ナレバ夏夕立ガスル頃ニハ始終墓所へ詰メ切ツタリ、又親ガ年ヲ掘ツタト云ヘバ氣違染タ芝居同樣ナ衣物ヲ衣タリ、親ガ飯ヲ喰ハナイ時ニハ自分モ腹ヲ減ラシタリ致サネバナラヌ事デゴザツテ、若シ夫レガ出來ナイ人ナラバ不孝ノ人ト云フ譯デ、其レハ皆罰ニ處セネバナラヌデゴザルガ、ナントマタ左樣ナ譯デハ天下ノ人ハ一人リ二人リモ孝行ナ者ガゴザツテ、其餘ハ悉ク不孝ナ人トナルデゴザラウ、夫故教ノ線ヲ引張ッテ人ガ治マルモノデハナイデゴザル、又左樣ナ馬鹿ラシイ事ヲ誰モセネバナラヌト天下ノ人ニ望ンデハ人ノ今日ノ働ガ出來ズ、人ハ皆職業ヲ失フコトデ、都合ハ天下中ヲ馬鹿ニスル譯デゴザラウ、併シ是等ハ唯教ヲ本トスル事故ニ、親ニ事ヘテ心ヲ盡ストイフ誠ニ其意味バカリヲ取ラネバナラヌ事デ、正直ヲ言ハv箇樣ナ事ハ致シテハナラヌ事デゴザル、若シ親ノ病氣ガ熱ノ種類、ヱビデミイトイフ傳染病ノ種類デアツタナラバ、其糞ヲ嘗メテ自身モ病ヲ引受ケ介抱モ何モナラヌコトデゴザル、夫所デハナク、非命ノ死ヲ途ゲネバナラヌデゴザル、夫故爰ハ皆教デ人ヲ勸メル上カラノ事ト見テ、教ノ線ハ何時デモ高イ處へ引張ツテアルコトト見ネバナラヌデゴザル、偖爰ヲ律デイハ寸卑幼トシテ捜マヽニ財ヲ用フルトカ、親ヲ棄テヽ任ニ之クトカ、親薦デ相盜ムトカ、父母ヲ殺サント謀ルトカ、父母ヲ罵ルトカ、父母ヲ毆ツトカ、父母ノ禁獄セラレタル時嫁娶ストカ、喪ニ居テ嫁娶ストカ、父母ノ喪ヲ匿ストカ、其外ニモ親ニ對シテノ惡事ニハ箇條ヲ立テ丶夫丈ノ惡事サヘナサナイケレバ皆平常子タル道ニ叶ッタト見ルデゴザル、爰ガ法ノ線ト教ノ線トノ引張リ樣ノ違フ處デゴザツテ、又、法ト教トノ差別ヲ形容シテ申サウナラバ、法ハ善ト惡トノ界ニ高札ヲ立テ、偖其高札ニ是ヨリ左ノ方ハ惡業ノ域ニツキ踏遶フベカラズ、萬々一心得遑ヲ致ス者アル時ハ界ノ線ヨリ左ノ方ヘノ遠近ヲ度リ、遠近ノ度ニヨツテ夫々ノ刑罰ニ申付クベキ者ナリト威シカケテ書出シ、偖彼處此處ニ見張番ヲ附テ置テ、若シ踏ミ遶ヘルト其言ツタ書附テ置イタ言ノ違ハヌ樣ニ直樣其人ヲ罰シテ、外ノ人々ノ懲ラシメニ致スノデゴザルガ、教ノ方デハ右ノ樣ニ威カスト云フコトモナク、又見張番ヲ附テ、間逕ヘバ罰ニ處スルナドヽイフ恐ロシイ事ハナク、唯一人々々ニ道案内ヲ附ケテ、如何ニモ能ク得心ノ行ク迄長々ト理解シテ、左ノ界へ離レテ左ノ方ガ恐《ヲソロ》シイトイフ斗デハナク、實ニ右ノ方ニ行ネバナラヌモノ又右ノ方ガ面白イモノデ、振反ツテ左ノ方ヲ望ムト實ニ厭《イヤ》ラシイ恐《コハ》ラシイコダトイフ樣ニスルノガ、教ノ持前デゴザル、是デ教ト法トノ區別ガ能ク別ルコトデゴザツテ、人ヲ治メルニハ法デナクテハ行カズ、サレド人ヲ善美能好ノ域ニ入レントスルニハ教デナクテハ行カナイト云フコトガ別ルデゴザラウ、偖爰ニ尚ホ法ト教トニ就テ最一ツ御話シ申サネバナラヌコトガゴザル、是ヲ制形攻心ノ區別ト申シテ、法ハ外ニ顯ハルヽ形ニ就テ制ヲ立テ、教ハ内ニ存スル心ニ則ヲ示スモノデゴザル、譬ヘバ家屋ノ樣ナモノデ、門ノ立テ方ガ玄關前ノ樣子、棟ノ高サ、四方カラ見テ白壁ニ海鼠《ナマコ》壁ナドデ、何《ド》レモ何レモ皆揃ツテ居ル所ハ法ノ治メ方デゴザル、併シ千人ガ千人其身代世代ガ皆一樣ダト申ス譯ニハ參ラヌ故ニ、内ノ雜作ハ皆々違ツテ居ルデゴザルガ、其内ノ雜作ヲ如何ニモ結構ニ美麗ニ致スノハ教ノ持前デゴザツテ、法デハ内ノ雜作ヲ兎角イフ譯ニハ參ラズ、教デハ外ノ廣狹高低ナドヲ制スル譯ニハ參ラヌデゴザル、夫故ニ法ノ治デハ眞底カラ善人ト云フモノガ出來ル譯ニ參ラヌ故ニ、果シテハ外見コソ十人並ニ外《ハズ》レタコトハナケレド、内輪ハイトモ貧窮デ、疊ハ破レ、壁ハ褪ゲ、唐紙ハアルモアリナイモアリ、千具破且ハナルモアリ誠ニ見苦シイノガゴザルモ同樣デ、爰ガ孔子モ之ヲ齊フルニ刑ヲ以テスレバ民ガ苟モ法ニ外レナイ丈ニ冤カレテモ、眞底カラ惡事ヲナスコヲ耻トハ思ハヌガ、禮ヲ以テスルト眞底カラ耻カシクテ、惡イ事ハシ得ヌ樣ニナルトイハレタ所デゴザラウ、夫故法ノ治デハ表向堯舜ノ面ヲシテモ内心ハ盜跖モ恐レル程ナ者ガ出來、或ハ法ヲ縫フト云ツテ、法ヲ目途ニ惡事ヲ巧ラミ、偖咎メラレルト法ヲ引テ言脆ケヲスル者ガゴザル、夫故ニ愚直ナ人ハ反テ狡猾ナ人ノ爲メニ善そ目ヲ見セラレ、知ラズ知ラズニ法ヲ外ヅレル樣ニナツテ、偖法ニ當テ裁到スル人モ愚直ナ方ヲ可愛サウ不愍トハ思へ随、何ニモ若カズ、救フコトモ出來ズ、又狡猾ナ方ヲ惡ムトイへ随法ニ外レネバ罰ニ處スルーモ出來ズシテ、實ニハ善惡ガ混ズル樣ニナルデゴザル、爰ガ法ノ治ノ蔽デ致シ方ノナイ者デゴザルガ、然ラバト云ツテ法デ治メル事ハ止メニスルトイフハ羮ニ懲リテ韮ヲ吹クト云フ譯デ、法ノ治ヲ廢スル譯ニハ參ラヌナレド、法デ麁コナシヲシテ教デ善美純粹ノ域ニ至ラ令ムルト云フ事ヲ知ラネバナラヌ、サルヲ初手カラ教斗デ治メヤウト掛リ、我ハ法ト教トヲ混ジテ見テ虻モ取ラズ蜂モ取ラズデハ困ルデゴザル、漢風ノ學者ハ夫ダカラ迂濶デ、軍ヲシテモ宋襄ノ仁トイフ樣ナコトガ儘アルデゴザル、是デ又法ト教トノ差別ガ別ル、デゴザルガ、爰ニ又法ノ持前ト教ノ持前トノ差別ヲ最一ッ御話シ申スデゴザラウ、法ハ元人ノ性ニ本ヅクモノデ、漢デイフ義トイフモノナレド、此義トイフモノ人二人リノ問ニ出來テ、譬ヘバ臣トナリ君ニ仕フル義アリ、其代リニ君トナリテ臣ヲ養フ義アリ、此義ニ對シテ又權トイフモノガ出來ルデゴザル、此權ヲモ漢デハ矢張義ト謂ツテ、別ニ區別ヲ立テヌコナレド、西洋ノ考ニテハニツニ別ルル故ニ、姑ク權トイフ字デ譯シテ御話シ申スデゴザルガ、其權ト云フ考ハ論語ニ義アツテ而〆後ニ取ル、又利ヲ見テ義ヲ思フ、又孟子ニ其之ヲ取ル所ノモノハ義力不義カト云ツテナド云フハ義トイへトモ取ル方ヨリ言フ義デ、與フルヨリ言フトハ違ヒノ有ル事ナリ、爰ノ所ヲ西洋デハ權ト云ヒ、譬ヘバ臣ハ君ニ對シ養ヲ受クベキ權アリ、君ハ臣ニ對シテ其臣ノ使令ニ供スルヲ望ムノ權アリ、箇樣ナ譯デ權義トイフコ人二人リ對スレバ互ニ生ズルコトデ、讐ヘバ今質ヲ置ク人アレバ置ク方ノ人ト取ル方ノ人トニ就テ權義アリ、先ヅ置ク人ハ與ケタ質物ヲ損ゼヌ樣ニ期月迄保タシメルノ權アリ、其代リニ期月ニナッテ金ヲ償ナビ質物ヲ受ケ反スベキノ義アリ、又取ッタ人ニハ期月迄ニ息ヲ附ケタ金ヲ償ナハシムルノ權アツテ、其代リニ期月迄質物ヲ損ジヌ樣ニ保ッノ義アリ、又今蠱工ニ耋ヲ頼ム人ガアツテ耋工之ヲ肯ジタ時ニハ、直ニ權義ガニ人ノ間ニ出來テ、頼ム人ニハ約シタ期迄ニ其叢ヲ書カシテ取ルベキノ權アリ、其代リニ其出來ノ上ハ謝物ヲ償フベキ義アリ、又書工ハ書イタ上ハ謝物ヲ促ガスノ權ガアッテ、其代リニ期月迄ニ書ヲ書イテ邊ルベキノ義ガアルデゴザル、箇樣ナコヲ言ヒモツテ行ケバ、總テ人間ノ交際ニ何一ツ權義ノ考ノナイ事ハナイコトデ、枚擧ス可ラザルコトデゴザルガ、何デモ右ノ如クニ人ノ問ニハニ通リノ事件ガアツテ、四通リノ考ガ附クト云フ、ガゴザル、夫故ニ此權義ト云フモノ人ノ性上ニ備ハル自愛自立ノ心ト相和シテ、人々己ガ權ノ在ル所ヲ重ンジ、之ヲ失フコナク、是ニ對シテ人ノ自愛自立ノ心ヲモ恕シテ人ニ對スルノ義ヲモ重γジ、互ニ相抵當シテ寸分ノ餘地ヲモ殘スコナシ、是政事上ニ在テ人々ノ智識ヲ皷舞振起スルノ一術デ、是デ文明ノ治ヲ起スベキデゴザル、然シ餘リニ自愛自立ノ心ガ角リテ權ヲ爭フコトガ盛ナル時ハ、人ノ自愛自立ノ權ヲモ蔑却シテ、途ニ權ヲ犯シ、義ヲ破リ、權義ノ大和ヲ破ルニ至ルデゴザル、カ、ル蔽ヲ救フ爲ニ…教トイフモノガゴザツテ、權ヲ張ル方ノ心ヲ抑へ、義ヲ重ンズル方ノ心ヲ勉メテ權義ノ大和ヲ破ラシメザル樣ニ致スデゴザル、髫ヘバ烈火ノ上ニ薄イ釜ヲ掛テ、其レニ水ヲ滿テル樣ナ物デ、水ガ溢《コボ》レテ火ヲ消スカ火ガ熾ンニシテ水ヲ煮乾スカニツ一ツデ、申ニ薄イ釜ガ法トナリ、兩方ノ者ヲ支ヘテ居ル樣ナモノデ、爰デハ火勢ヲ弱クスルトカ、水勢ヲ減ズルトカセネバ忽チニニツ一ッニナルデゴザル、爰ガ人々自ラ己ガ權ヲ張リ、人ノ義ヲ盡サンリヲ求テハ途ニ其危殆ノ場合ニ至ル故ニ、彼ノ温良恭謙纏トイフコヲ主張シテ水火ノ勢ヲ減ジ、大和ヲ保合セシムルコトデゴザルガ、爰カラ見ルト法ト教トハ相助ル者トハイへ托、其實ハ相反スル物ノ樣ニモ見エルデゴザル、偖右ノ譯故教ト云フ物ノ至テ必要ナ、モ別ルデゴザルガ、其レナラバ其法デ人ヲ爭ハスルコヲ止メテ、教バカリデシタ方ガ宜シカラウト云フ説ガ出ルデゴザラウガ、其レガ中々出來ヌコトデ、人文ノマダ十分ニ開ケナイ内ニハ法トモ教トモ就カヌ交《マ》ゼ混《コ》ゼナ事デモ、甘《アマ》ク治マル者デゴザルガ、人文ガ開ケ人智ガ増シテ、其上ニ治メル領分ガ廣クナルト申々教バカリデ治マル所デナク、法ト歡ト混雜シテモ治マリ兼ルデゴザル、爰ガ法ト教ト、脩己ト治人トノ區別デゴザツテ、此ニツハ今迄段々ト御話シ申シタ通リ、如何ニ致シテモ一途ニハナラヌ者デゴザル、夫故釋迦ヤ耶蘇ノ如ク専ラ歡ヲ施スコヲ勉メテ、偖今日政事デ人ヲ治メル上トハ圓切懸離レタノハ、箇樣ナ隨別ヲ言痛《コチ》タク申ス迄モゴザラヌガ、兎角孔子ノ道デハ此差別ガ明カナラズ、動モスレバ一途ニ考ヘル人ガ多ク、夫レモ孔孟ノ時デハ據ナイコトモアツタデゴザラウナレド、程朱ナドニ至ルマデ此差別ハ別ラヌコトデ、却テ其時ハ釋氏ノ心ヲ説キ性ヲ論ズルノ習氣ニ染ンダモノ故、マア天下國家ヲ治メル制度典章ナドノ論ハ餘派ナ論トシテ、性理ノ論ヨリ人々ノ心ヲ攻メル教訓ガ盛ンニナツタデゴザル、爰カラ見ルト程朱ナドノ學ハ大學ノ始メニ卒天下ト云Z詰ヲ出シタトハ違ツテ、一箇ノ教門ト稱シテ宜イデゴザル、申々夫デ天下ガ治マル事ハ思ヒモ寄ラヌコデゴザルガ、仕方ヲ少シ替ヘタナラバ人々ヲ説鍮スル手立ニモナルデゴザラウ、夫ヨリ陸象山カラ血筋ヲ引イタ陽明ニ至ツテハ、程朱ニモ輪ヲ掛ケタ全然タル教門デゴザツテ、其知行合一トカ良知良能トカ、專ラ心ヲ師トスルノ説ガマアドウシテ治國、羅天下ノ用ニナルデゴザラウカ、本邦デ徂徠ガ、道ハ先王ノ道ナリトカ、先王ノ道ハ禮樂ナリトカ云ヒ、秦以後ノ天下ハ法ヲ以テ治メタモノ故韓非子ナドハ讀ネバナラヌモノダト云ツテ其解ヲ著ハシ、又明律ノ國字解ナドヲ作テ律ノ學ヲ開カント思ツタ所ナドハ、頗ル教ト法トノ差別ヲ知ラレタ樣デゴザルガ、未ダ十分ノ見解トハ申シ難イデゴザル、其外互擘トモ謂バレル程ノ人ハ、白石ノ典故ニ通ジテ居レタ事、伊藤長胤ノ制度通ヲ著ハサレタ事、近頃デ山陽先生ナドハ、略爰ノ教ノ方ヲ離レテ頗ル治國ノ術ニ見解ガアツタ樣デゴザレド、其他ハ宋儒ノ糟粕ヲ嘗メタバカリデ輓今マデ發明モナク、今デハ洋學者ニ壓セラレテ天下ヲ經理スル事ナド一向ニ相談モナラヌ物ニナツタデゴザル、併シ是ハ先賢ノ罪デハゴザヲヌ、其學風ノ習氣デ、古ヲ零ビ古ニ泥ムモノデゴザル故後人ノ發明ト云フモノガナク、ベン〳〵ダラ〳〵ト今日ニ至ツタデゴザルガ、拙者ガ考デハ宋人胡安國ガ思ツタ經義齋治事齋ノ別ノ如ク、孔孟ノ學ヲニツニ分ツテ、一ツハ三代ヨリ二十二代ノ典章文物律令格式ノ類ヲ講究スルコヲ始メ、一ッハ專ラ孔孟ヲ祀トシテ道徳仁義ヨリ心ヲ攻メル方法ノミヲ講究シ、世ヲ積ンデ定論ヲ立テタナラバ眞處ニ四千年前カラ文化ノ開ケタ國ノ事ガ、彼ノ希臘羅馬ナドニハ及バナイデハアルマイカト存ズルデゴザル、先ヅ是レデ教ト云ッテ人心ヲ攻メルモノト、法ト云ッテ天下國家ヲ治メルモノトノ差別ハ大檗別ッタデゴザラウ、其處《ソコ》デ教ト指ス字ガ愈柔極ッテ其語ノ領分ガ餘程狹クナツタデゴザル、然シ猶爰ニ教トイフ字ヲ極メル爲ニ、最一ツ御話シ申サネバナラヌコトガゴザルガ、其レハ張チ教ト云字ノ定義ノ爲ニ役ニ立ット云デハゴザラヌ鹽ガ、人ノ得テ間違ヘテ心得易イ事故ニ話サネバナラヌコトデゴザル、今誰デモ道理トサへ言ヘバ、君ニ事ヘテ忠ヲ盡シ親ニ事ヘテ孝ヲ盡ス道理モ、又雨ノ降ル道理モ、日ノ照ヲス道理モ、皆道理トカ、理ノ當然トカ、自然ノ理トカ申シテ、少シモ其間ニ差別ガナイ樣デゴザルガ、爰一ニツノ隔別ノアルコヲ御話シ申サナクテハナラヌデゴザル 如何樣法ト教トハ差別ノアルモノデ、人ヲ治メルハ法デナクテハナラズ、又人ヲ導イテ善ニ化スルノハ教デナクテハナヲヌコトハ能ク別ツテゴザルガ、道理ニニツアルト申スノハ合點ノ行ヌコトデゴザル サレバデゴザル、爰ガ漢土本邦ナドデハ、古來カラ差別ノナイコデゴザルカラ、今デモ大檗ナ人ハ一ツコトト思ツテ居ルデゴザル、夫故動モスレバ大キナ問逕ガ出來ルデゴザル、髫ヘバ漢土デ日蝕ノコヲ時ノ人君ノ政ガ正シクナイ故ニ天ガ象ヲ垂レテ戒シムルナド丶思ヒ、日本デ伊勢ノ神風ダノ、又ハ日蓮ガ新請ノカデ颶風ガ興ッテ蒙古ノ軍艦ヲ覆ヘシタナドヽ思ヒ、又淨増貴所ガ融言祕密ノ法デ八坂ノ塔ノ傾イタヲ所リ起シタノ、又伊勢ガ歌ノ徳デ大旱三雨ガ降ツタナドヽ思ツテ居ル人ガ多イデゴザルガ、爰ガ道理ニニタ通リアルト云フコトガ合點ガ參ラヌ故デゴザル、夫故佛家ノ經文ノ内ニ、釋迦ガ説法ヲスルト諸天ノ聯佛ダノ、鬼ダノ、夜叉ダノガ數限リモナク寄集ツテ來ルダノ、又耶蘇宗ノ魔法デハ夏モ雪ヲ降ラセ、冬モ花ヲ険カセルダノト色々不思議ナ奇妙希代ナ事モ出來ルモノト思フデゴザルガ、爰ノ惑溺ノ除《ノカ》ナイ内ハ本道ノ教ノ話ナドガ出來ルモノデハゴザラヌ、爰ニハ同ジ道理々々ト一樣ニロデハ言ヘド其實ハ理ニ二タ通リアツテ、其理ガ互ニ少シモ關渉シテ居ナイト云フコヲ知ラネバナラヌデゴザル、今此區別ヲ示ス爲ニ其一ツヲ心理ト云ヒ、其一ツヲ物理ト名クルデゴザル、其物理トハ天然自然ノ理ニシテ、其大ヲ語レバ寰宇ノ大ナルモ、星辰ノ遠キモ、其小ヲ語レバ一滴ノ水一撮ノ土モ、禽獸ヨリ人間ニ至ル生物デモ、草木ナドノ植物デモ、何デモ箇デモ此性ヲ備へ此理ニ外ナルコトハ出來ズ、假初ニモ此理ニ戻ルコトハ毫頭モ出來ナイモノデゴザル、然レ托心理ト云フハ斯《カク》廣イモノデハナクテ、唯人間上バカリニ行ナバレル理デ、人間デナクテハ此理ヲ會スルコ能ハズ、亦人間ナラデハ此理ヲ遒奉スルコトモ出來ズ、是モ矢張天然ニ本ヅクトハイへ托、是レニ違ハント欲スレバ違フコトモ戻ルコトモ出來ル故ニ、淺見膚識デ考ヘルト人間ガ擅マ丶ニ作リ、人間ガ善イ加減ニ拵ラへ、仕替ヘル事モ肩デ已メルコトモ出來ル様ニ思バレルデゴザル、夫故物理ハア、プリオリト云ッテ先天ノ理トシ、心理ハア、ポステリオリト云ッテ後天ノ理ナレバ、先ヅ先天ノ理ニテ人間ト云フモノガ出來テ、其人間ニ就テ後天ノ心理ガ自然ニ備ハル故ニ之ヲネセシティト云ッテ、已ムヲ得ザルニ出ヅルノ理ト申スデゴザル、併シ此理ハ先天ノ物理ノ一定動カス可ラザルモノトハ逹ヒ、一事ニ就テモ千差萬別ト色々ガゴザル、其處《ソコ》デ其中ノ一番ニ至當ト云フ所ヲ擇ンデ執ラネバナラヌデゴザル、今此二通リノ理ヲ譬ヲ取ツテ申サウナラバ、先ヅ物理トイフハ物質一般ノ理、分件硬性眞性固保性引力等ヨリ、避心吸心ノ兩力、方ヲ變ジ圓ヲナスノ理、光射ノ理、熱傳ノ理、光線色ヲ現ズルノ理、流體動ヲ傳へ音ヲ起スノ理、電磁ノ陰陽相和スルノ理等ヨリ、舍密上親和ノ理、原量ノ理等ニ至リ、無機性體金石茨土ノ質ヨリ、有機性體ノ草木人獸ヲ生ズルノ理、機性體中ニ動靜二體ヲ分ツノ理、此大地ノ生ジタル地膚地皮ノ理、衆行星ト共ニ太陽ヲ園轉スルノ理、星辰天ニ森羅スルノ理、風ガ吹キ、雨ガ降リ、虹ガ見ハレ、雪ガ降ル等ニ至ルマデ總テ百般ノ道理ヲ物理ト云フデゴザルガ、是バカリハ人間ノカデドウスルコトモ出來ズ、イヤデモ應デモ成ル通リニ外ハナラヌモノナリ、譬ヘバ石ヲ空中ニ投ゲレバ引力ニ因テ必ズ地上ニ落チ、金類ヲ火申ニ投ズレバ必ズ舍密ノカニ因テ鎔解スルユ言ヲ待タズシテ知ラレルコナレ毘、其理ハ確定シテ萬物トモニ是ニ外《バヅ》レルコトハナラズ、貴キコトハ天子ト稱スル大權アル人デモ、富メルコトハ陶朱、猗頓、鴻ノ池、鹿嶋屋ト云フ樣ナ金子ニ不自由ナイ人デモ、賢イコトハ孔孟ヤ孔明、楠公ヲ見タ樣ナ人デモ、カアル、ハ樊囀ヤ呂布ヤ小柳ヤ不知火ノ樣ナ人デモ、空中ニ投ゲタ石ノ落ヌ樣ニスルコトト鉛ヲ烈火ニ投ジテ鎔ケヌ様ニスルコトハ、鬼デモ蛇デモ出來ヌコトデゴザル、是ヲ推シテ能ク別ルコトデゴザルハ、雨ガ降リ、風ガ吹キ、或ハ雷ガ鳴リ、或ハ彗星ガ出ルト云フ樣ナコトモ皆其丈ノ理ガ前ニ定ツテ居リ、其レ丈ノ約束ガ前以テ極マリテ居リ、其レ丈ノ源因ガ豫ジメ備ハリテ居テ出來ルコトデゴザル、夫故ニ左樣ナコトハ、所ツタ處ガ、拜ンダ處ガ、念佛ヲ百萬遍言ツタ處ガ、有ル丈ノ事ハアリ、出來ル丈ノ事ハ出來ル故ニ誠ニ仕方ノナイモノデゴザル、今一事ヲ舉テ言ハヽ、北條ノ執・權ノ時、蒙古カラ十萬人ト云フ大兵ヲ起シテ本邦ヲ攻メニ來タデゴザル、其時伊勢ノ祚宮ヘモ御所禧ガアリ、又日蓮坊主ナドモ蒙古退治トカイフ旗ヲ舉テ斫念ヲ致シタト云フコトデゴザル、其御蔭デ神ヤ佛ノ御助ケデ大風ガ吹キ起ツテ蒙古ノ軍艦ヲ悉ク吹キ散ラシ、海中へ沈メテ僅カニ生殘ツタ者ハ三人程アツタト申シテゴザル、シタガ其御蔭ダト云フノガ甚謂ハレノナイコトデゴザル、今日本ノ近海デ吹ク大颶風ハ其源由モ多分別ツテ居ルコトデゴザツテ、毎年二百十日ノ暴風ト云フハ大抵極ツタコトデ、夏至ノ後日ガ再ビ南寄リニナル程赤道下ハ再ビ夏熱ニ向ヒ、其變化ノ際ニ當リ赤道下ノ北ニ當ル處大氣稀薄ニナリ、其稀薄ナ處ヲ充テント四方ヨリカ又一方大氣稠厚ノ地方ヨリカ來ル時ニ旋風トナッテ、其強弩ノ餘力ガ轉廻シテ西南ヨリ本邦ノ方ヘカケ東北へ流レ來ル風デゴザル、是レハ大檗秋分ノ前年年一兩度モアルーデ人ノ能ク知ル處デゴザツテ、其早晩ナドハ年ニ寄ツテ異ナルトモ、其源由ハ推シテ知レルコトデゴザルガ、偖右ノ弘安四年ノ大風モ閏七月ノ事ナレバ何力怪ムニモ足ラヌ事デ、全ク同ジ源由ナルコトハ明白デゴザルヲ所薦所念ノ御蔭トシテハ、其所儔所念ガ如何ナル處ヘドウ響イテ風ガ出タト云フ譯ガ別ラヌデゴザル、若シ眞ニ所禳ノ事ガキクモノナラバ、年々ノ大風モ封ジテシマイタノ・モノデゴザル、縱ヤ斫禳デ風ガ止ムモノニモセヨ風ガ吹出スモノニモセヨ、其風ガ思ツタ所バカリ吹イテ外ノ處へ障ラナイト云フ譯ハナイデゴザル、風ハ大氣ノ流動スルノデゴザルカラ、夫カラ夫カラト繼イテ果々ハ日本デ吹イタ風ガ北ナラバ滿州ノ前《サキ》マデモ、南ナラバ無人嶋ノ方マデモ響カネバナラヌデゴザルガ、ナント大徳アルニモセヨ、坊主一匹ノ斫念デ天地ノ和ヲ害スルコトガ出來ルデゴザラウカ、爰ガ物理ハ全ク別ナモノデ、如何ニ心力ヲ盡シテモ物理ニハ増減ノナイト云フ證據デゴザル、若シ心理デ物理ガ動カサレルモノナラバ、忠臣義士孝子順孫ノ頸ハ切テモ切レヌ筈、法華經ノ刀刀段々壞さイフ樣ニモナル譯、又亂臣賊子ナドノ勢力ガ強大ニナッテ攅ママニ暴行ヲ働クコトナドハ有ル樣モナイ譯デゴザル、爰ガ物理ノ心理ト異ナル所以デゴザル、偖又後天ノ心理ト云フモノハ唯人間ノ心裏ニ存スル理デ、人間ガ存スレバ此理モ存シ、人間ガナクテハ縱ヒ天地ガ此儘ニアルトモ其理ハ熄ムモノデゴザル、併シ此理モ、人間トイフモノヽ出來タ所デ其一般ニ有スル性トイフモノニ本キタルモノ故ニ、是亦人間ガ在ル間ハ其理ハ熄ムモノデハゴザラヌ、サレド其理ノ體ハ大イニ物理トハ違ツテ、物理ハ一寸デモ犯スコトハ出來ズ、石ヲ投ゲ上ルト地ニ落チ、鉛ヲ火ニ投ズルト鎔ケルデゴザルガ、心理ハ隨分犯スコトガ出來ル故ニ不義不道ヲスルコトモ出來、又不義不道ヲシテモ折々ニハ天網ヲ逍レルコトガ出來ルデゴザツテ、爰ガ心理ト物理トノ差別デゴザル、又物理ハ恆ニ一定シテ無ニナルモノナレバ、事毎ニ必然ノ度アツテ數目デ之ヲ測ルコトガ出來ルデゴザル、夫故石ノ地ニ落ツル速力ハ落ツル時間ノ數ヲ自乘シテ得ベシトカ、鉛ノ火ニ鎔解スルハ驗火器ノ幾度ノ熱三ア彈丸ノ大サ幾斤ヲ幾時間ニ鎔解スベシトカ、亦一定ノ度ヲ測ルコトガ出來ルデゴザル、然ルニ心理ハ一定無ニトハ行カズ、相反シテ恆ニ兩極アルモノニテ、一ツヲ善トイヘバ其裏ヲ悪トイヒ、一ッヲ正トイヘバ一ツヲ不正ト云ツテ、此爾極ノアル上ニ又其間ニ多少ノ度ノ差ガアッテ、至善至惡ヨリ重善重悪、少善少惡トイフ樣ニ其問ニ千差萬別ノ度ガアリ、中々測器デ測ル譯ニハ行カズ、法律ナドヲ細カニ極メタ所ガ其レハ唯藤|蔓《ヅル》デ町間ヲ測ルヨリマダ麁イコトデ、其レカラ其善惡ト分レタ行事ガ、時ニ因リ、處ニ依リ、人ニ依リ位ニ依リ色々ト轉變スルニ至テハ實ニ測リ難イモノデ、程公、孫杵臼ガ趙氏ノ遺孤ヲ扶ケタ樣ニ即坐ニ死ダリ、十年モ生殘タリ、別々ナ道ヲ行ツテ忠トイフ同ジ寸尺ニ合スルトイフ千變萬化ノ理デゴザル、爰ガ物理ト心理トノ差別デゴザツテ、檗シテ道理トカ理トカ言ツテ仕マツテハ一向ニ別ラヌコトニナルデゴザル、右ノ譯デ心理ハ後天ノモノ故ニ、全ク人ノ拵ラヘタモノカ、ト思フト亦左樣デハナイ、矢張後天ナガラモ天デゴザルカラ、今世界中ノ大賢人ガ集會シテ又別ニ造リ替ヤウト云ッテ造リ替ヘラレルモノデハゴザラヌ、其レヲ造リ替ルコトガ出來ナイトイフ譯ハ、天カラ此人間トイフモノヲ別ニ造リ替ヘタ後ナラデハ出來ヌコトデ、今ノ此世界ノ人即チ何レノ國ニモアレ、目今ノミナラズ、歴史デ徴シテ上四千年コノ方ノ人間デハ別ニ仕方ノナイト申ス證據ガゴザツテ、ドウモ今入間デ奉ズル心理ヲ滅ボスコトガ出來ヌデゴザル、偖其證據ト申スハ何處《トコ》ダト申スニ、人間ニ同一ノ性ト云フモノガ備ハツテ居テ、是レガ性ニ率フ之ヲ道ト云フト云ツテアル通リニ動カスーガ出來ヌデゴザルガ、其同一ナ處ハ何處《ドコ》ニアルカト言ツタ時ニハ、人ノ好惡ト云フ物ニ就テ見ルト能ク別ルヽデ、此好惡ト云フモノガ千人ガ千人、萬人ガ萬人同ジコトデゴザツテ、之ヲ仕替ヘルコトハ誰人ニモ出來ヌコトデゴザル、今先ヅ人ガアツテ我ヲ突然ニ打ッカ或ハ我レヲ切リ殺サント仕タリ、或ハ左マデナク托惡口雜言ヲ言掛ケラレテ甚シク見下ゲラレタナラバ、我タル者ハ之ヲ嬉イト思フベキヤ、又ハ檜イト思フベキヤ、必ズ惡イト思フデゴザラウガ、此構ノ起ルノハ禽獸マデモ同ジコトデ、ヨモヤ世界ニ打タレタリ蹴ラレタリシテ有ガタイト思フ人ハゴザルマイデゴザル、是レ人間ニ自主自立ノ懽ノ存スル根源デ、之ヲ人性ニ存スル智デ推スト、直グニ人モ打タレタリ蹴レタリスルコトハ厭《イヤ》ダト思フデ有ラウト云フコトガ知レルデゴザル、是レ所謂忠恕ノ道デ、柯ヲ取ツテ柯ヲ伐ルト云フ嬖悶ヘモ爰デゴザルガ、己レガ打レテナラヌト思ヘバ人ヲ打ッテナラ、ヌト云フ義ガ生ズルデゴザル、又人アリテ我ガ物ヲ奪ヒ取ルカ又ハ知ラヌ間ニ盜ミ取ラレルコアラバ、我タル者ニ如何ナル情ガ起ルデゴザラウ、必ズ其人ヲ惡ミ怒ルノ情ガ起ツテ、其起ツタト云フ事ハ面ニ現ハレ行ナヒニ出デ、隱レナイ證據ガゴザル、是レ人間ニ所有ノ權ノ存スル根源デ、之ヲ又恕シテ見ルト人ノ所有三謂ハレナク觸レテナラヌト云フ義ガ生ズルデゴザル、此ニツガ人間ノ萬事萬行ニ亙ツテ少シモ動カサレヌモノデ、夷狄蠻貊ノ邦デモ打ツタリ盜レタリシテ有ガタイ嬉イトイフ者ガ一人デモ無イデゴザルガ、是ガヤガテ法ノ根元トナルデゴザル、又人アッテ不意ノ厄難ニ遭ヒ、或ハ水ニ溺ル丶トカ、溝ニハマルトカ、或ハ故アッテ飮食衣服ガ缺乏スルトカ、或ハ行暮ラシテ宿屋ガナイトカ云フ時、知ラヌ人デモ知ツタ人デモ之ヲ救ツテ呉レタリ或ハ宿ヲ借シテ奨レタリ致シタナラバ、之ヲ受タ人ニマアドノ樣ナ情ガ起ルデゴザラウカ、腹立タシイカ、救ツテ奨レrタ人ガ楡順イカ、咬殺シテモ仕マヒタイカ、極メテ嬉シイ有ガタイトイフ情ガ起ルデゴザラウガ、爰ガ亦東デモ西デモ同一ナ性ノアルモノデゴザツテ、ヤガテ仁道ノ根元トナル所デゴザル、又自分ヲ育テ呉レル親ガ死ンダリ、可愛イ子ガ死ンダリ致シタナラバ嬉イモノデゴザラウカ、是非悲シイト云フ情ガ起ルデゴザル、夫ノミナラズ、道ニ行倒レガ有テモ、他人ガ無樣《プザマ》ナ事ヲシテ居テモ、穢ナイ物ガアツテモ、臭イ物ガアツテモ、厭《イヤ》ダトイフ情ガ起ルデゴザルガ、總テ箇樣ナコトガ疉ツテ教トイフモノヽ根元トナルデゴザル、又其上ニ人間ハ虎狼ノ如ク獨居獨栖ノ出來ルモノデナク、矢張鴻雁牛羊ナド丶同ジク爲群ノ性アレバ必ズ相生養ノ道ガ起ラネバナラズ、相生養ノ道ハ夫婦トイフモノニ始マリ、父子トイフモノニ半バシ、君民政府トイフモノニ成リテ、是ヨリ以往百般ノ行事ニ皆ナ右ノ權義仁愛ノ理ガ流行シテ、古ヨリ今マデ此世界デハ瞬間デモ熄ムコトハナイデゴザル、爰ガ後天ノ心理ノ流行スル處デ、心理ト雖臣人ガ相談シテ拵ラヘタ物デハゴザラヌガ、物理トハ違ツタモノダト云フコヲ知ラネバナラズ、併シ此心理ガ物理ト同樣ニ一寸デモ違フコトガ出來ズ、髫ヘバ輕業師ガ高イ處へ上ツテ色々ノ業ヲスル樣ニ、能ク重尖ノ落着キ所ヲ考ヘテ其レニ持セテ置ク内ハ氣遣ハナケレド、一厘デモ重尖ヲ踏ミ違ヘルカ取リ損フト、忽チ堕落ジタリ弔ネ反サレタリシテ怪我ヲ致スデゴザルガ、心理ハ其レト違ツテ、少々ナ違デハ中々怪我ヲスルコトガナイデゴザルガ、爰ガ物理トノ違ヒデ一寸一厘ヲ爭フ譯ニハ參ラヌナレ毘、元ガ天理ニ本イタモノ故ニ積メバ同ジ事デゴザル、譬ヘバ人知レズ盜ヲスル者ハ別ラヌヲ幸イト思ヘド、コンシア刻トテ獨知ノ所ガ咎メル故ニ途ニ見附ラレルコトトナリ、又左樣ナコトハ皆慾火ノ熾ニシテ出來ルコ故、廃倖ヲ得ル度毎ニ其レニ乘ジテ危キヲ顧ミナイコトデ發覺シタリナドデ、戻レバ必ズ怪我ヲナスモノデゴザル、又小人デ己レガ徳ヲ修メルコヲ知ラズ廃倖デ幸イヲ得ント欲シテモ衆目ガ許サズ、或ハ詭謀巧智デ人ヲ欺カント思フテモ途ニ尻ガ褪ゲナドシテ中々天下ノ同ウスル人情ニ致セズシテハ・側コ處カラカ破レノ出ルモノデゴザル、是レハ歴代ノ史ニ徴シテ歴々ト別カルコトデゴザルガ、其内ニ姦臣ガ時ヲ得タリ或ハ名分ガ顛倒シタリ致シテ、頗ル繁昌ヲナス者ナドモゴザレド、是モ途ニハ其禍ヲ冤レナイモノデゴザル、爰ヲ古クハ人衆ケレバ天ニ勝ツ、天定ツテ人ニ勝ツナド云ツタデゴザル、併シ爰ニ甚算用ノ六ケ敷事ガゴザル、.其レハ其姦臣ト云フモノ其名分ヲ犯シタリ權ヲ壇マヽニシタリスル處ハ、如何ニモ前ニ謂ツタ權義ノ度ヲ犯シタ者ナレ托、其人心同一ノ情ニ通ジテ世間ト好悪ヲ同ジウスルコトハ、時ノ暗庸ナ君ヨリ遙カニ上ヘニ出タル故ニ、人心ガ其方ニ歸シ又其時上ニ立ッ君ハ正統ニモセヨ、名分ガ正シイニモセヨ、或ハ暗弱ニシテ天職ヲ奉ズルコ能ハズ、或ハ驕侈ニシテ人心ヲ失ヒ世間ト好悪ヲ同ウスルコトガ出來ナイ故ニ、姦臣ノ爲メニ乘ゼラレルデゴザル、偖力ヽル事ガニ十年モ續クト姦臣ノ方へ權勢ガ着イテ、名分ヤ又少々ナ徳デハ之ヲ覆ヘスコトハ出來ヌ樣ニナルデゴザル、爰ハ名分ナド丶云フモノハ虚器デアツテ實理デゴザラヌ故ニ、實理ノ方ガ何時《イツ》デモ勝ツモノデ、譬ヘバ御鉢ハ飯ガアレバコソ御鉢トモ言ハルレ、若シ眞鍮箍デ如何ニ立派ナトテモ中ノ飯ガ何時《イツ》ノ間ニカ擂鉢ノ中へ移シテアツタナラバ、人ハ皆擂鉢ノ廻リニ寄ルデゴザラウ、然ルニ筌盧ノ御鉢ヲサラケ出シテ擂鉢ハ無樣《プザマ》ナリ、人々皆御鉢ノ傍ニ來ルベシト云フト同樣ナコトデゴザル、故ニ名分ナドハ虚器デ、人君ノ天職ヲ奉ズルト云フハ天下人民ト好惡ヲ同ウシテ、 正直公李ヲ以テ政ヲナシ、善美能好ヲ以テ其民ヲ化スルニ在ルコトデゴザル、是ガ其實理ヲ勤メルノデ、姦臣デモ、擂鉢デモ又ハ手桶ノ類デモ、飯ノアルノガ天意ニ合スル譯デ、書經ニ天ノ覗聽ハ民ノ覗聽ニ從フトアルモ爰ノ意デ、元天ト云フ者ガ部屋頭ガ中間ヲ使フ樣ニ一々指揮ヲナシ一々賞罰ヲナス者デハナク、唯人心ニ同一ノ性ヲ賦與シテ置イタマデ丶、其性ノ有ン限リハ此實理ガ熄ナイノデゴザル、爰ガ三家ガ魯ヲ壓シ、六卿ガ晋ヲ分チ、田氏ガ齊ヲ奪ヒ、後世曹操ヤ司馬懿ガ所業モ又本邦デ北條氏ガ陪臣デ國命ヲ執リ、彜氏ガ後醍醐天皇ニ抗衡致シタニモ皆適當スル所ノ算用ノ仕樣デゴザツテ、遽カニ見レバ物理トハ大湊ニ違ツテ心理ハ夫程緬密ニハ行ハレヌ樣ニ見エルナレド、左ハナク心理モ縱ヒ物理ホド目前ニハナケレド時ヲ逐フテ行ハレ、如何ナル亂世デモ汚世デモ、其理ノ流行ニハ妨ゲナク始終ハ算用ノ合フ樣ニナルコトデゴザル、箇樣ナ所ヲ天定ツテ人ニ勝ツトハ申シタデゴザラウ、偖是レデ心理ノ模樣モ略別ツタデゴザラウガ、猶一二物理ト心理トノ差別ヲ御話シ申スデゴザラウ、此心理物理ト云フ事、人間ノ萬事ニ就テ其區別ノ入ルコトデゴザルガ、今一人ノ人ガゴザツテ、婦ヲ娶ラウト思フデゴザラウ、其婦ノ才能ヲ論ジテ、三曲ガ出來、縫針ガ巧ミニ、中漬ノ事ニモ委シイト、偖舅姑ニ孝順ニ、夫ニ從順ニ、下人ヲ能ク使令シテ、身ヲ守ルノ貞諒ナルトハ何等モ婦ノ才能ナレド、一ツハ物理上ニ長ズル處、一ッハ心理上ニ長ズル所デ、三曲ニ巧ミナルガ舅姑ニ孝順ナル證據ニモナラヌデゴザラウ、又一人ノ棟梁アツテ、細エモ巧ミニ子分モ多イト云フニ、細工ノ巧ミナルハ物理ノ長所、子分ヲ能ク待《アシラ》フハ心理ノ長所デ、同ジ人ニ存スルコトデモ一ッニ言ハレヌコトデゴザル、又歌舞伎狂言ト輕業力持手爪《ツマ》ノ類トヲ見ルガ如ク、歌舞伎狂言デハ喜怒哀樂ヲ擬シテ人ノ心理ヲ攪動スルコヲ勉メ、輕業ハ唯出來サウモナイ事ヲ出來《デカ》スヲ奇妙希代ナリト思フノミデ、同ジ面白イト思フ内ニモニタ通リアルコヲ知ラネバナラヌデゴザル、夫故ニ一ツハ心理ヲ感動スルコヲ主トシ、一ツハ物理ノ如何ニモ落ツベキ物ガ落チズ、如何ニモ轉ズ可ラザル物ガ轉ズルト云フコヲ不思議ニ思フノデゴザル故ニ、好《スク》ト好カナイトハ人ニヨルコトトハ雖ド、心理ト物理トノ差別ハ先キニ知リ別ケテ、後ニ其巧拙ヲモ可否ヲモ論ズベキデゴザラウ、箇樣ナ事ヲ言ヒモテ行ケバ限リモナイ事デ、人間ノ萬事ニ渉ル事デゴザルガ、罕常唯理ガアルコトノミ心得テ其區別ヲモ知ラズ、物理ト心理トヲ混同シテ果々《ハテ》ハ人間ノ心力デ天然ノ物理上ノカヲモ變化セラレル樣ニ心得ルハ大ナル誤デハゴザルマイカ、又聖人ノ易トイフモノハ物理ニ本イテ説イタモノト見エルナレド、當テハメル所ハ心理上ノ事デ、物理ト心理トガ一貫ナモノトナルデゴザラウ、是レハ縱ヒ伏羲文王周公孔子ノ四聖人ガセラレタ事ニモセヨ、後世人丈ガ開ケ天地ノ道理モ昔ヨリハ少シ明カニナツタ世デハチト笑シイコトデ、如何ニ大聖賢ト謂ツテモ自身ニ生レタ世ヲ見越ス程ノ大見識ハマアナイモノト見工、西洋デモ希臘人ノ如キ文明ノ世ニデルヒノオラークルト云ツテ、神ノ託宣トカ、神ガ乘リ移ルトカ云フ今ノイチ子ノ樣ナコヲ信ジ、又羅馬ニ傳ハツタアウギュールト云フ星ヤ鳥ノ臓腑ノ占ト云フモノヲ、流石ノカトウダノシセロダノト云フ人モ、其中間ニ這入ツテ居ッタト云フ事デゴザルガ、今西洋デハ悉ク信ゼヌ樣ニナツタコトデゴザル、偖前ニ申シタ所ノ法ヤ教ト云フモノハ、皆此心理上ノモノデゴザルカラ、人ノ性情ヲ本トシテ説キ、物理ノ事ニハ少シモ關係ハゴザラヌデゴザルガ、是レ一ア…教ト云フ字ノ領分ガ愈≧狹クナツテ究リガ附イタデゴザラウ 如何樣、物理ト心理トノ區別ハ御説ノ通ニテ承知致シテゴザルガ、然ラバ教ニハ物理ヲ參考スルコトハ一向ニ入ラヌコトデゴザルカ サレバデゴザル、教ニハ元ヨリ觀行ノニ門ヲ分ツテ論ゼネバナラヌコトデ、其行門ハ專ラ性理上ニ本イテ法ヲ立テタ者デゴザレバ、物理ノ論ニハ及バヌコトデゴザルナレトモ、觀門ノ方デハ物理ヲ參考致サナクテハナラヌコトデゴザル、併シ物理ト心理トヲ混同シテ論ジテハナラヌコトデゴザルガ、其物理ヲ參考致サナクテハナラヌト申スノハ、人間モ天地間ノ一物デゴザレバ、物理ヲ參考致サナクテハナラヌデゴザル、是ハ物理ト申ス内ニモ彼ノ造化史ノ學ヲ主トスルコトデゴザツテ、其造化史ハ先ヅ金石、草木、人獸ノ三域ニ就テ諸種ノ道理ヲ論ジ、傍ラ地質學《ゼオガラヒー》、古體學《パレントロジー》ナドト分レテ、此大地ノ出來タ初メニ反リ、又人獸ノ部ニテハアントロホロジー、譯シテ人性學ト云ヒ、先ヅ比較《コムペレーチフ》ノ解剖術《アナトミー》ヨリ生理學《ヒシヨロジー》、性理學《ピシコロジー》、人種學《エトノロジー》、神理學《テオロジー》、善美學《エステチーキ》、又歴史等ヲ總べ論ズル學術ヲ取別ケ物理ノ參考ニ備ヘネバナラヌコトゴザル、總テ箇樣ナコトヲ參考シテ心理ニ徴シ、天道人道ヲ論明シテ、兼テ教ノ方法ヲ立ツルヲヒロソヒー、譯シテ哲學ト名ケ、西洋ニテモ古クヨリ論ノアルコトデゴザル、今百教ハ一致ナリト題目ヲ設ケテ、教ノコトヲ論ズルモ種類ヲ論ジタラバ此哲學ノ一種トモ云フベクシテ、仔細ハ若シ一ツノ教門ヲ奉ゼバ其教ヲ是トシ、他ノ教ヲ非トスルコ常ノ事ナルニ、百教ヲ槧論シテ同一ノ旨ヲ論明セントニハ餘程岡目ヨリ百教ヲ見下《ヲロ》サネバナラヌコトデゴザル、故ニカ丶ル哲學上ノ論デハ物理モ心理モ兼ネ論ゼネバナラヌ事デゴザルガ、兼ネ論ズカラト云ツテ、混同シテ論ジテハナラヌデゴザル
https://w.atwiki.jp/chinatiku/pages/41.html
501 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 15 41 02 ID dl3IeqrE0 とりあえず後漢~後漢末のまとめ 劉秀 耿弇 馮異 岑彭 呉漢 賈復または馬援 廉范 班超 張奐 虞詡 で、名将の定義から外れる賈復をはずして馬援を入れるかそれとも祭遵かはたまた皇甫崇か、ってトコか。 まぁ10人にこだわらないなら現時点で12名、あとで削るということで、次は三国~東西両晋に本腰入れよう。 502 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 15 51 23 ID FEMw5NZl0 三国から両晋だと曹丕による魏建国から桓温による楚建国まで? 北も含まれるんだよな? 503 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 15 54 41 ID FEMw5NZl0 すまん、桓玄と桓温間違いだ それとも劉裕が宋を立てるまでのが妥当かな? 504 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 00 53 ID 4rQjalG+0 502 曹丕からなら曹操は後漢末に入れる必要があると思うが。 505 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 04 46 ID dl3IeqrE0 三国の定義間違えた。俺が言いたい三国は黄巾の乱以降、劉裕の登極まで。だから曹操以後の人物もこっちでやろうということ。 北はもちろん積極的に採用するべきだと思う。劉淵とか石勒とか符堅とか有名人がいっぱいいるし。その部下はなぜかスポットライト浴びてないが。 506 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 05 13 ID biOxFEel0 個人的な三国~東西両晋の名将 賈[言羽] 呂蒙 陸遜 鄧艾 杜預 王導 祖逖 陶侃 桓温 謝安 諸葛亮や曹操といった超メジャーなのは除外しました。 こうして見ると東晋に偏って蜀漢からは一人も出ていないのもアレだが 507 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 13 32 ID dl3IeqrE0 賈詡と謝安は直接実戦指揮したことないんでは? まぁ祖逖入ってるのは嬉しいが。 508 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 26 56 ID biOxFEel0 賈[言羽] は曹操を負かした事と計略・処世術の巧みさで入れました。 謝安は東晋を語るのに不可欠の人名なので。 蜀漢から出さなかったのは関羽・張飛・趙雲はイマイチ 軍団長としての功績が少ないのと 演義での過大評価に反発しての事です。 509 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 16 37 59 ID FEMw5NZl0 506 とりあえず 賈ク・呂蒙・陸遜・王導・杜預・謝安はいらんと思う で、見事に華北の諸政権が抜けているんだが・・・ 505の時代区分に従うと 曹操 鄧艾 陶侃 祖逖 劉淵or劉聡 石勒 王猛 謝艾 慕容恪 慕容垂 なんてどうかな? 桓温は個人的には入れたかったが・・・ 俗に言う五胡の人物が多いのは当時の軍事バランス的にこうなってしまった 叩き台にでもしてください 510 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 16 41 45 ID dl3IeqrE0 とりあえず10人挙げるとしたら・・・ 曹操 鄧艾 王濬 陳騫 陶侃 祖逖 謝玄 符堅 王猛 姚萇 って感じか。最初の一回で10人ピタリ、とはなかなかいかんな。あと5人ぐらい枠が欲しい。 511 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 17 03 03 ID biOxFEel0 509 三国~東西両晋なので五胡は除外してました。 やはり五胡だと石勒・王猛・符堅は外せませんな。 (王猛は漢人なので五胡に入るのかという疑問もあるだろうが) 512 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 17 17 44 ID FEMw5NZl0 王猛の功績をどこまで符堅に還元するかで・・・ 513 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 17 37 07 ID WAbQww+dO 後漢時代の選定作業はもう終了? 514 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 13 39 ID biOxFEel0 次は隋唐時代かな。 とは言え唐初の李世民とその配下だけで終わりそうな予感。 515 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 19 43 ID y4u+z/tU0 周瑜は赤壁だけでなく江東の平定や対曹仁戦の 自勢力の圧倒的不利さを覆して勝利してる点と作戦立案能力の高さを考えるに 入れてもいいような気がするが 石虎と冉閔は画竜点睛を欠いてるから駄目なのかな? あと慕容恪と慕容垂の兄弟は? 516 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 22 48 ID y4u+z/tU0 あと劉曜も・・・とかキリが無くなっちゃうんだけどな>魏晋南北朝 国が多すぎるし、メチャクチャ戦争多いし 517 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 18 49 30 ID ecjL7l990 なんかごちゃごちゃしてきたな 518 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 19 14 44 ID conRNdMT0 なんか皆勝手に話し始めたな 519 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 21 37 21 ID ecjL7l990 まずは、この近辺の時代区分をはっきりさせておかない? 520 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 21 49 23 ID slDBWaKb0 510 陳騫ってどんな功績があるの? 西晋から入れるなら、馬隆を入れたほうが良いと思う。 五胡の武将たちには及ばないと思うが。 521 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22 23 50 ID wk2tD9hP0 冒頓単于 522 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/07(木) 22 54 50 ID am/47zc60 陳騫は西晋初期の将軍。鄧艾と一緒でもとは内政で評価されてたんだけど、蜀漢軍の侵攻への対処、 諸葛瞻らの叛乱(彼等にとっては義起)平定に将軍代行として功績を立て、その後も各地の都督を歴任した。 で、曹魏を廃して司馬炎を擁立、佐命の勲により大司馬に任命された・・・けど西晋成立後は確かにあんまり活躍してないね。外して劉淵入れたほうがいいかも。 あと時代区分だけど、この次は南朝、北朝で別々に十選するのがいいと思う。北朝なんて随の成立まで続くわけだし。 で、その後は隋、隋末唐初、盛唐、晩唐、でいいんじゃないかな? 523 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 08 41 ID slDBWaKb0 東晋初期に江南平定で活躍した周訪は? 「中興名将」と謳われたほどの武勲を立てているんだが。 あと、劉宋の檀道済。智勇兼備の名将。 北伐で三十連勝という凄まじい勝ちっぷり。 524 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 15 05 ID p7UzE4K40 西晋と五胡を混ぜるのは反対。 五胡十六国時代は中国史で異質なくらい国が分裂して、戦争に明け暮れた時代であるし 永嘉の乱によって、一度漢族主体の歴史が途絶えてる。 極端な言い方をすれば、それ以降は文明が違う。(異民族もだんだんに漢族化しては行くが・・・) 同一で語るべきでは無いと思う。 525 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 19 16 ID /yzWTkFN0 西晋を古代の、つまり漢民族主体の国家の時代、の終わりと見るか。 魏から、呉による江南の開発を含めて、新たなる混乱の時代の始まりと見るか。 526 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 22 29 ID WAbQww+dO 時代区分で言うと三国時代からが中世だよね? 527 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 42 46 ID rrmLpBOP0 523 魏晋南北朝期の江南の名将は、陸遜、祖逖、桓温、劉裕で決まりじゃない? 檀道済や陳慶之には悪いが(檀道済には本当に悪いとは思うが)、さすがにこの4名は 武勲戦功、各種エピソードで他の追随を許さないと思う。 陸抗や陶侃、謝玄も惜しいんだけどね・・・・。 524 魏晋南北朝ひとまとめでいいよ、別に。 あの閉塞感やごった煮感がいいんじゃないか。 528 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 44 27 ID y4u+z/tU0 陸遜はどうかな? 魏の領土を切り取ったとかがあったら陸遜を推すんだけど 529 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/07(木) 23 46 44 ID slDBWaKb0 陸遜は対魏戦線では今ひとつだったので、 加えなくてもいいように思う。 530 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 00 14 45 ID moC68kyeO 陸遜が入って陳慶之入らんってネタかよw 531 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 00 58 11 ID DVmHNlgl0 530 陸遜の功績って思いっきり時代の分水嶺を決していないか? 三国鼎立の趨勢を決した人物が、北魏皇族の露払い如きと比べられるか? と言うのは冗談だが、 陸遜のときの魏と、陳慶之のときの北魏じゃ国内問題に雲泥の差が 陳慶之と同じ条件だったら、一体どれほどの武将が北伐を成功させられたか…… 派手な戦功の割りに領土を保持し切れなかったのは大きな減点対象だよ。 劉裕>檀道済>陳慶之って感じかな。 532 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 01 00 42 ID c3npL07W0 531 もともと領土を保持するだけの兵力持ってなかったし。 533 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 01 26 15 ID iFfrKRC9O 劉裕もすぐに赫連勃勃に華北の領土を奪われてるけどね。 534 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/08(金) 22 36 28 ID jAIpQJnD0 陳慶之って本当に名将かな? 田中芳樹ですら、名将百選の時知らなかった人物なのに 535 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 22 54 51 ID C9QZrGM80 534 その時代の梁では屈指の名将。 大敗もしているが、それを補って余りあるほどの武勲を立てている。 田中芳樹の中国史の知識は偏ってるので、 あまり気にしないほうがいい。 536 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/08(金) 23 22 12 ID x0jhMPbL0 531 五胡襲来のときに、そういうチャンスはあったろうけど、北伐して功績あげたのって数えるほどでしょ。 陳慶之は戦術上での無謀な戦いを制しているので、その点での名将。 能動的に戦略条件を決定できる劉裕とでは、比べるのは酷じゃないか? 537 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 12 41 39 ID CRZmokf7O 桓温は劉裕と比べると一歩劣る感じがするんだよね。 やっぱり慕容垂に大敗したのが痛い所。 538 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 19 39 27 ID UBuf8yZo0 先日曹操の台頭から劉裕の登極までを一時代と区切ったものだがその時代区分での十選。 曹操 周瑜 鄧艾 王濬 祖逖 謝玄 石勒 符堅 王猛 劉曜 あたりで確定していいんじゃない? 陶侃は対外戦してないので泣く泣く外して周瑜に代えた。 あと符堅の用兵は半分方王猛の功績って感じするから外してもいいかも。 そろそろ確定して南北朝に入ろうや。すでに檀道済とか陳慶之とか名前がて出来てることだし。 539 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 20 00 50 ID B0SeOPZF0 新・後漢は名将0人ってこと? 540 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 20 02 28 ID UBuf8yZo0 新・後漢は暫定で10人出したよ? 耿弇やら呉漢やら。 541 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 15 22 ID 1LqH3oVt0 慕容垂は? 542 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 21 50 ID /VGOq0ss0 538 周瑜は戦績不足、符堅の用兵は王猛の功績が半分はあると思う。 戦績の多さで陶侃を入れた方がいいんじゃないだろうか。 543 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 24 37 ID Z9l2ZeQa0 538 苻堅は君主的側面が強いから、あえて外しても構わないと思う。 代わりに慕容垂をランクインさせた方が良くない? 544 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 27 08 ID tRmOzWCH0 542 戦績不足といっても10年くらいはあるし、三国鼎立がなった一番の立役者。 三国時代から引っ張るなら曹操と周瑜は確定でいいと思う。 545 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 21 27 29 ID /VGOq0ss0 あと、西晋からは馬隆を入れてはどうだろうか。 546 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 21 49 13 ID TMdkxF+G0 符堅を慕容垂に代えるのはOKとして、馬隆入れるとしたら誰かな? 一発屋感の強い謝玄か? でも6万で100万に勝っちゃってるしなぁ。状況に助けられたとはいえ。 547 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 05 19 ID 1LqH3oVt0 でもさ、慕容恪も入ってもいいよね・・・ 548 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 07 30 ID Z9l2ZeQa0 馬隆あたりが入るんなら、もっと他にふさわしい武将がいるけど 陶侃(江南平定戦における戦歴は文句なし、対後趙戦に参加できなかったのが残念) 慕容恪(寡兵で大軍を破る名将、段遼、麻秋、桓温等常に劣勢の戦をひっくり返した) 謝艾(東晋十六国時代最高の逆境武将、中原を制していた後趙を幾度と無く撃退した) しかし、このあたりの武将も10傑選ぶとなると間違いなく選外だからなあ 劉曜を落として、桓温入れないか? 謝玄よか実績、実力とも確実に上のはずなんだが 549 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 33 24 ID TMdkxF+G0 当時の慕容氏は名将揃いだから全部入れるわけにもいかんしな、 慕容氏代表・慕容垂に絞っていいと思う。 あと桓温で劉曜落とせるかなぁ。劉曜は当時最強クラスの用兵家だと思うんだが。 慕容氏と同じで劉淵、劉聡から続く劉氏代表だし。 ・・・符堅を慕容垂に、謝玄を桓温に代えるってのはどうか? 550 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 43 50 ID 1LqH3oVt0 桓温って慕容垂に負けてなかったか? 551 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 51 20 ID l/nppOi20 この時代は無理に10人に絞らなくても良いんじゃないか? 552 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 22 54 25 ID TMdkxF+G0 それ言うと謝玄が慕容垂に勝てたかってことでまた議論に・・・。 553 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 22 56 37 ID KEDMqu3x0 このスレは伸びるなあ。 554 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 02 56 ID CRZmokf7O 今の日本でもよく使われる「断腸」と「竹馬の友」のエピソードは桓温に関するものなんだよね。 555 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 16 18 ID TMdkxF+G0 確かに桓温は魅力的なエピソードが多いんだよな。「芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし」とか。 王猛には鼻も引っ掛けられなかったが、偏屈者の謝安が腰を上げたぐらいだからそれなりに人間的魅力もあったんだと思う。 とりあえず前述のリストから謝玄→桓温、符堅→慕容垂に代えて、あとは陶侃、謝艾あたりを候補に残す、でどうかな? 556 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 24 25 ID Z9l2ZeQa0 550 枋頭の戦いは、前秦、前燕、北府軍、桓温等各勢力の思惑が複雑に絡み合った戦だからなあ 慕容垂の軍事手腕が一枚上だったってことだろう 日の出の勢いの北魏拓跋珪ですら、老齢の慕容垂には戦意喪失していたし (前年、参合陂で壊滅した後燕軍で北魏の平城を抜いている) 桓温の名言と言ったら、「臭を万年に遺すべし」 十分芳名遺してるけどね 557 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 29 28 ID TMdkxF+G0 と、言うわけでこの書き込みから10分間意見が出なかったら有無も言わさず南北朝に移行。諸兄OK? 558 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 36 59 ID /VGOq0ss0 曹操 鄧艾 祖逖 謝玄 陶侃 石勒 謝艾 王猛 劉曜 慕容垂 こんな感じでどうだろうか? 559 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 40 34 ID CRZmokf7O 558 自分もそこらへんが妥当な人選だと思う。 560 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 42 30 ID l/nppOi20 石虎 冉閔 も入れたいなあ。 最強にDQNだけど、軍事功績はある。 燕には弱いけど・・・ 561 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 44 36 ID TMdkxF+G0 周瑜が落ちるか。まぁ短命だから仕方ない。 では、いよいよ南北朝といこうか。 とりあえず劉裕、檀道済、陳慶之あたりは確実と思うので、個人的に南斉の周盤龍、梁の蘭欽を推す。 562 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 49 43 ID Z9l2ZeQa0 陶侃、謝艾、謝玄あたりは保留しといた方がいいかも 周瑜落とすのは反対、魏の天下統一を挫いて三国時代の可能性を開いた 功績は、間違いなく100傑に載るよ 孫策時代に小部隊の指揮官も経験しているし、万対万の大規模会戦の司令官も やってのけてるし、軍事的才能は文句なしじゃないか? 563 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/09(土) 23 52 18 ID TMdkxF+G0 まだ議論が続くか。南北朝突入は控えたほうがいいかな。 564 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 58 42 ID 1LqH3oVt0 俺も周瑜賛成 南朝軍事ルートの走りだと思うし 565 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/09(土) 23 58 42 ID zQF517ay0 意外に後漢・三国は淡白だったな。 そこで… よければ陶侃、謝艾がどういう人物か教えてくれまいか? 566 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 11 23 ID 8O4+hPsk0 韋叡も入れたらいいんじゃないか? 合肥攻略と鍾離の戦いでの功績は大きい。 ところで王僧弁と陳覇先はどっちが上なんだろうか。 567 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 12 02 ID 8O4+hPsk0 あ、まだ終わってなかったのか。失敬。 568 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 00 12 15 ID skKZj6Kv0 最後に勝った分、陳覇先? 569 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 00 18 45 ID nF6R36+K0 565 謝艾は前涼の主簿であったが、大抜擢を受けて中塁将軍にのぼり 後趙の涼州侵攻を幾度と無く撃退した名将 書生風の格好で戦場指揮を取っていたため、敵将から過分に罵られることもあった (田中芳樹が好みそうな人物だが、どうやら眼中に入らなかったらしい) 345年 対麻秋(後趙?:謝艾5000)で快勝、5000の首級を挙げる活躍を見せる 346年 対麻秋(後趙80000+20000:謝艾30000)、奇策を用いて撃破、捕虜13000を収める 346年 対石寧(後趙120000:謝艾20000)、戦線膠着 346年 対麻秋(後趙120000+20000:謝艾20000)、後趙軍を壊走させる 石虎を「中原の総力を注いで、謝艾のいる一城を落とせないとはッ!」と歎息させた 570 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 00 20 46 ID 0wcqgl3O0 王僧辦も陳覇先も100傑には届かんだろ。 凡将が運よく宇宙大将軍を倒して、チョーシこいて梁を簒奪、ついでにライバルを殺した、程度。 陳の名将っつったら呉明徹と魯広達ぐらいしか思い浮かばんが、この二人とも当世ベスト10には入らんわな。 571 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 01 40 57 ID x0XvmRVNO 陳覇先は有力な候補だと思うんだけど… 572 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 02 10 02 ID J3AyhBvq0 これまでの時代も、確定と候補で10人越えていたから、そのあたりもノミネートに 入れておいていいと思うけどね。 573 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 02 56 08 ID zoAucpa8O 572 まあ、各時代で10人選んでくっつけて終わりというのはそれはそれで手抜きですので…… ある程度は自由度がないと困ります(まあ確定枠もある程度ないと困るが) 574 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 18 18 ID 2q8ivaO30 南北朝時代に入ってもそろそろ好いでしょ? 【東魏(北斉)】 高歓 慕容紹宗 宇宙大将軍 斛律光 【西魏(北周)】 宇文泰 趙貴 侯莫陳崇 宇文ヨウ うーん、南朝勢を入れるとすると、もっと絞られそうだな まあ、高歓と宇文泰と宇宙大将軍は確定だろう 575 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 20 17 ID KoP8pIyD0 祖逖を破った石虎は入れてもいいんじゃないか?あと桓温。 候補にはしてもいいと思う 576 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 12 29 18 ID skKZj6Kv0 574 異論なし 個人的には慕容紹宗・斛律光も確定選手 575 だが石虎は劉曜に敗れてる。いや、最終的に劉曜を破ったのも石虎だが 慕容恪にも負けてるんだよねー。この時代、勝って負けてを繰り返しすぎ 577 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 14 02 01 ID zvymb6hp0 間羽は入らないの? 578 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 14 07 08 ID ROzl+g7W0 574 もうちょっと魏晋十六国煮詰めようぜ さすがにセッカチすぎるだろ 後、宇宙大将軍は入らないだろう 579 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 14 09 01 ID x0XvmRVNO 宇宙大将軍は百選に入るかなぁ… 梟雄百選とかだったら入りそうだけど。 580 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 18 07 ID vxB1Eo470 宇宙大将軍のテーマ 空を見ろ 星を見ろ 宇宙を見ろ 聞こえるか聞こえるだろおお あの声が 進め 進め 朱忌を倒せ(「ブラインド ラァーイズ!」) 戦え 戦え 目指すは建康(「インペリアル ニルヴァーナ!」) ああ どこへ行くのか 大将軍 侯景 宇宙大将軍 侯万景 581 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 30 02 ID skKZj6Kv0 宇宙大将軍は戦績は悪くないぞ 582 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 15 51 12 ID EDwqZGqS0 魏晋~五胡十六国 【確定組】 曹操 鄧艾 石勒 祖逖 王猛 【内定組】 周瑜 劉曜 慕容垂 【論争中】 陶侃 (内乱鎮圧戦がメインで、対外戦の戦歴が少ない) 石虎 (天王に就いてからの戦歴が振るわない) 謝艾 (純粋に知名度が低い) 慕容恪(弟慕容垂と票の喰い合いを演じている、活躍期間が短い) 桓温 (論争中組の中では、内定組昇格が一番近いんじゃなかろうか?) 謝玄 (一発屋感が強すぎる、実際は北府軍の司令官としては優秀な戦績を収めている) 14名、とりあえず論争中ってことで保留にした方が良くないか? しかし、三国志の時代にもかかわらず、3名しかノミネートしないとは 結構、両晋~五胡十六国好きって多いんだな 583 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 16 56 53 ID BrtLRGfA0 569 さ~んくす! カコイイねぇ謝艾。 戦乱群雄割拠期には、そういうヤツラが増殖するからおもしろい。 現実にその時代に行けと言われたら躊躇するけど… でもこのスレは張遼あたりも削る競争率の高さだから、選抜がかなり難しいね。 戦乱初期~中期って、得てしてドングリの乱立となるから、甲乙つけがたくなるし。 584 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 19 09 54 ID m7tQMEuP0 ところで、赫連勃勃はこの時代区分? それとも南北朝? 585 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 19 12 44 ID x0XvmRVNO 南北朝時代は北魏による華北統一からだと思うから、 赫連勃勃は五胡の人物になるんじゃないかな? 586 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 21 28 58 ID EDwqZGqS0 584 赫連勃勃は各種エピソードが豊富な匈奴系君主だが、名将とは絶対違うと思うぞ 1 劉義真が居座る長安を奇襲し、東晋から関中奪取 2 長安に遷都すれば、匈奴の精悍さが失われる上、北魏への対応が遅れることから統万城に都を置く 3 統万城建設時の残酷かつ余りにも軍事独裁的エピソード 4 匈奴としての民族的アイデンテティを保持するために、漢人風の劉姓を捨て、赫連姓を名乗る ……うーん、有能な暴君とも言うべき人物だな 587 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/10(日) 21 48 09 ID Eu0OEe370 石虎は石勒とセットでいいでしょ。あと冉閔も。 588 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/10(日) 22 50 33 ID skKZj6Kv0 エー…… 589 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 02 57 11 ID GHO+KWdG0 謝玄て淝水の活躍以外知らない・・・。他に功績あったら教えてくれ 590 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 06 14 43 ID JzubPJv/0 589 その後北伐を行ったが中央政界との連携がうまくいかず全然成果あげれないんじゃなかったかな 581 確かに有能な将軍ではあるけど慕容紹宗に惨敗してるし最後もあまりよくないな 百選には入らないだろう おれには 574は宇宙大将軍と書きたかっただけじゃないのかと疑ってしまうんだが穿ちすぎかな? 後、慕容垂を慕容氏代表として慕容恪を外すって意見出てたがそりゃないだろ 苻堅の功績の半ばは王猛によるってことで苻堅外すのは納得いくが 慕容垂と慕容恪では活躍した時期も別なんだから別々に評価すべきじゃないか? 純粋に軍事能力重視のこのスレではむしろ両雄ランクインに値すると思うが 591 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 10 49 16 ID GHO+KWdG0 590 やはり謝玄は他に功績はないのか・・・。まあ淝水だけでも十分たいしたものでは あるんだが。 同じように中央の支援を得られない状況で石勒を破るなど ある程度北伐を成功させた祖逖と同格にしてはまずいか? 慕容恪はおれも入れたい。 王猛や桓温すら憚ったというから、相当なもんだと思う 592 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 12 53 54 ID ooB6+IbLO 宇宙大将軍は迷将として不動の2ch枠を確保してる 593 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/11(月) 13 02 36 ID XL7bbA22O 三国志・楚漢以外で宇宙大将軍ほど人気のある人物も珍しい 594 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 14 07 15 ID LYoVT4/r0 591 赤壁だけの功績で周瑜が入るんなら、 謝玄が入ってもいいような。 前秦の天下討伐を防ぎ、その勢力を瓦解させ、 国難を救った功績は極めて大きい。 595 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 14 28 21 ID JzubPJv/0 594 俺としてはどちらも外していいと思うよ やっぱ戦歴を重視すべきじゃないか? それに前秦の南征は内部にかなりの問題を内包していた 功の全てを謝玄に還元するのはどうもなぁ 後、天下討伐はおかしいと思う・・・揚げ足取りスマソ 596 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 16 41 08 ID 6+SyKkMX0 謝玄って北府軍の都督でしたっけ? その偉名だけでも十分名将なんだけど、ここでは入れてもらえませんか。 597 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 01 01 ID JzubPJv/0 596 謝玄が名将ではないとは言わないがここは「百選」するスレ 功績が候補の十人に満たなければ外れる で北府軍の都督の偉名で名将? 当時の政界の実力者は誰だかわかってるか? 別に才覚だけでその地位を得たものではないよ 598 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 03 48 ID 6+SyKkMX0 ああ、そうか謝安の親戚だっけか。 それにしても選抜が難しいなぁ。 今のうちに候補絞っとくかね… 599 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 12 25 ID XL7bbA22O 596 それだと殷浩も名将だということに… 600 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 12 41 ID JzubPJv/0 598 甥だね まあ、北府の兵ってのは中原からの流れもので編成された軍で扱いにくい軍隊だった その統括者はやはり優れた人物を当てたって背景はあるから優秀であったのは疑いない でも候補が多すぎるから外すのも止むを得ないかなってのが俺の意見 601 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 20 13 ID 4L0h5FLQ0 淝水の戦いは前秦軍が自滅したようなものだから、 謝玄の果たした役割はそれほど大きくなかったと思われ。 ちなみに経過 謝玄が符堅に使者を送って、 「渡河してから決戦したいので後退してくれ」と要請した。 ↓ 符堅は渡河の途中に攻撃しようと考え、謝玄の要求を受諾。 ↓ 前秦軍後退 ↓ 後方にいた秦将朱序が裏切って、 「秦軍の負けだ!退却だ!」と叫んで、 浮き足立った前秦軍総崩れ。 ↓ 符堅、事態を収拾できず敗北。 602 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/11(月) 17 26 19 ID 6+SyKkMX0 いろいろ気持ちよくこの時代の選抜を眺めていたけど 自分は、東晋って謝玄と桓温くらいしか軍事功績のある人って知らなかったもんだから… 教えてくれてありがとう。 ああ、それと 601さん、符堅ではなく、苻堅。 頭でわかっていても変換で間違えることはよくあること。 603 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/11(月) 22 11 29 ID W9j958WR0 忘れてた人物が何人か。 姚萇(後秦の太祖。知略に富み用兵に優れ、為政者としても優れていた) 李雄(成都を取って独立、成漢を建てる。名将というよりは政治家か?) 皇甫真(石勒の将麻秋を破り、のち苻堅に仕えて王猛にその才覚を認められた) ・・・皇甫真は謝艾にかぶるかな。あと俺、苻堅のことずっと符堅だと思ってた。602さんありがとう。 604 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/12(火) 01 00 47 ID 0zMD3Oil0 あんまりレスがなくてヒマなんで、 時代すっ飛ばして南北朝10選(趣味的偏りあり)をやってみる。 劉宋 劉裕 檀道済 南斉 周盤龍 梁 韋叡 陳慶之 北魏 拓跋珪 元英 東魏→北斉 高歓 西魏→北周 宇文泰 10人目は微妙。他の時代なら楽々10選入りする名将がごろごろいるから。 劉宋の柳元景、梁の蘭欽、北魏の奚斤に楊大眼、 北斉の斛律光に慕容紹宗、北周の宇文護、韋叔裕、李弼あたりが有力候補か。 しかし田中氏はどうして蕭摩訶なんぞ入れたのだろう? 武芸だけなら確かにすごいが、 所詮は一介の匹夫だぞ。まぁこいつと喧嘩しろって言われたら速攻逃げるが。 605 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 18 40 ID vFglOZY90 603 姚萇は優秀な一族・配下に支えられた感が強いんだがどうだろう? 西燕討伐も失敗して逃げてるし、特に苻登には相当押されてる もし後秦から一人ならむしろ尹緯のほうがこのスレには相応しく思う とりあえずレスも停滞気味だし 582のまとめてくれたのに 603を足して候補としておいて次いくか? 604が叩き台出してくれてるしな 604 意義ありなのは北魏の元英かな ちょっと敗戦が多いのが気になる 慕容紹宗はぜひランクインさせたいが最後がやや問題か? 斛律光・韋叔裕はランクイン確定じゃないかと思う 浅学にて南斉の周盤龍とはどういう人物か知らなかった よければ教えて頂けない? 俺もこの時代の候補者候補を少々 段韶 (斛律光とともに北斉の軍事を支えた名将) 高長恭 (名将てか猛将・勇将の類か?) 爾朱栄 (六鎮の乱を平定した立役者。宇文泰・高歓らを配下に持った) 王勇 (気は衆軍を覆い、当たるところ必ず破ったと称えられた名将) とりあえずこんなとこで 感想として北周はほんと名将・豪傑ぞろいだなw 606 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 27 44 ID rX0WVB7w0 蘭陵王は名前先行のような気がするなぁ 北斉からは斛律光で充分じゃないかな? 607 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 06 29 02 ID rX0WVB7w0 あと宇文ヨウは? 608 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/12(火) 08 58 40 ID PyiTXq1P0 周盤龍(415-483) 名将というより猛将タイプだが、一応。 内乱平定にはじまり常に劉宋軍の先鋒をつとめる。 袁粲の乱、沈攸之の乱を平定。 蕭道成が即位すると右将軍に任命された。 建元二年、北魏の軍が寿春を犯すと豫州刺史垣崇之を助け、 淝水を決壊させて魏軍を水攻め、勢いに乗って自ら数万人を殲滅した。 翌年魏軍が今度は淮陽の角城を侵すと水軍を率いて鐘離に急行、 守将成賈とともに奮戦して首級を挙げること無数。 建元~永明間にまた北魏の軍と戦い、息子奉叔とともに数百の兵を率いて 北魏の陣を陥とし、数万の魏軍を壊走させた。 で、いろいろと官職を歴任し大司馬にまでなって没。安北将軍・兗州刺史を追贈された。 ・・・この人の一番の幸運は東昏侯の時代になる前に死んだことだと思う。 609 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 09 00 26 ID egH895fJ0 北魏の太武帝 華北を統一し、北では柔然を大破して南では宋軍を破って 建康の対岸まで達した ところで、謝玄は結局外すのか? 610 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 12 06 42 ID hcVR21sn0 一応候補に残しておいてもいいんじゃない? 後日選定するときに、周瑜が外れるなら謝玄も外してもいい。 611 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/12(火) 19 43 15 ID oWh11wKW0 関羽 612 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 14 19 45 ID 86gaI/hsO 劉宋の沈慶之とかどうかな? よく陳慶之と間違えそうになるけど… 613 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 17 33 21 ID 32jItVt50 マイナーな時代に差し掛かるとやはりレスが止まってくるな 614 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 19 08 53 ID Y6cnPBap0 無理やりメジャー級を外してマイナー級の香具師をランク入りさせる流れもあるしね。 615 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 20 35 47 ID LhA0cvse0 田中叔父貴のを叩き台にすればいいんじゃない 616 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 20 40 06 ID dMv/OWJiO 流れ止まってないとおもうが? 617 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 20 59 14 ID t0ZKyM3l0 613 喧嘩売ってんのか? 618 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 21 07 30 ID zWYaredh0 617 買うほどの懐もないのと違う? 619 L sage 2006/12/13(水) 21 48 38 ID tPaF27TZ0 彭德懷 620 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 22 20 10 ID LhA0cvse0 [皇帝]康熙帝 [丞相]文天昇 [大将軍]関羽 [武将]郭去病 樂木 劉其 陳慶子 岳飛 趙普 戚継光 李靖 将蚊 郭子儀 621 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 22 29 03 ID zWYaredh0 さぁ誤爆と言え 622 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 22 42 37 ID FeAJWbz70 田中氏のヤツだと南北朝からは 檀道済 韋叡 楊大眼 斛律光 蘭陵王 蕭摩訶 の6人。君主・皇帝を含まないからかなり余りが出来るけど、このスレではそうもいかんでしょ。 623 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/13(水) 23 38 39 ID lWzXBBiD0 芳樹は「沈光とか入れたいんですけど彼はドッチかっていうと豪傑ですから」と言いつつ 楊大眼や蕭摩訶みたいな明らかな豪傑型を(殆ど無意識のうちに)入れる辺り そういうタイプが好きで好きでしょうがないんだろう 後は極度にエピソード重視のきらいがあって、名将っぽい面白エピソードがあるとランクインしやすい 624 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 23 42 25 ID 86gaI/hsO このスレでは一言も触れられなかったトウ禹を、何故かランクインさせたぐらいだからね 625 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/13(水) 23 47 15 ID HcPmIKUo0 楊大眼はまぁわかる。10万人単位の指揮統率をこなしてるから。 でも蕭摩訶はなぁ。どっちかっつーとPRIDEとかK―1とかに出た方がよさそうな。 まぁ猛将タイプの周盤龍をランクインさせた俺が言うのもなんだが。 626 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 00 10 51 ID vl/vrafc0 沈光は兵を統率したことがないから外したと書いてる。 鄧禹は、絶対ミーハー根性でランキングさせている。 20代で大司徒だっけ? それと二十八将の筆頭だからに違いない。 627 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 00 30 33 ID aF5NXM0W0 周盤龍に代えて陳顕達にしてもいいかも知れん。 しばしば北伐して元英相手に連戦連勝。威名は北魏の将兵の間に轟いた。 ただ、無名の匹夫に殺されて死んだってのがマイナスか。 628 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 00 35 03 ID aF5NXM0W0 訂正 殺されて死んだ→殺された。 629 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 20 13 46 ID pFIeQLXuO もう十人出てないか?>南北朝 630 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 20 27 49 ID hmZQXnui0 いい加減、南北朝終えて隋唐時代に話題変えないか? 631 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 29 26 ID csIEmg5a0 じゃあ隋唐 隋初 韓擒虎 賀若弼 達奚長儒 隋末 張須陀 李密 竇建徳 唐初 劉文静 李孝恭 李靖 李勣 とりあえずこんなもんで。 後漢からずっとおれが叩き台だしてるわけだが、たまには誰か代わってくれ 632 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 35 45 ID csIEmg5a0 李世民入れるの忘れた。劉文静と入れ替えってことで。 633 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 21 49 01 ID csIEmg5a0 南北朝については 劉宋 劉裕 檀道済 南斉 周盤龍or陳顕達 梁 韋叡 陳慶之 北魏 拓跋珪 で、元英を削って 北斉 高歓 斛律光 北周 宇文泰 韋叔裕 で確定OK? 634 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 22 53 15 ID BH8sXoL40 うーむ、南北朝時代はもうちょっと吟味した方がいいと思う 何しろ、陳慶之の北伐は、東晋時代の祖逖、桓温、劉裕の北伐と比較すれば 祖逖:河南の諸郡県を東晋側に寝返らせる、乞活集団を自軍団に取り込み強大化 桓温:姚襄を破り洛陽奪回、およそ10年間にわたって河南を東晋の領土として維持した 劉裕:山東半島、河南、関中を攻略、六朝最大の版図を築いた やはり、北伐としての質が一段下がると思うけどね 寡兵の北伐では祖逖に劣るし(何より祖逖は東晋政権中枢からの掩護がほとんどなかった) 戦果では桓温、劉裕には及ばないわけだから 南朝の武将を削ってでも、北斉、北周の武将は拡充させるべきだと思うけどなあ 慕容紹宗(北斉)と于謹(北周)は是非ランクインさせたい 特に于謹の江陵攻略がその後の南北朝情勢に与えた影響は計り知れないぞ 635 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 23 16 29 ID vl/vrafc0 631 いつも乙です。 唐中期 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 あと、異例ながら 安録山 史思明 憲宗・李純 636 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/14(木) 23 36 58 ID csIEmg5a0 南朝の武将を削るとしたらやっぱ、真っ先に周盤龍か? 個人的に大好きなんだけどな、周盤龍。 でものちの隋唐帝国の基礎を築いた名将とは比較できんか。 周盤龍削って于謹入れるとして、慕容紹宗と陳慶之はどうだろう? 陳のほうが武勲多いと思うが。 宇宙大将軍を南に追い立てて南朝を潰滅させたっていうのも 慕容の計算どおりだったら空恐ろしいけどな。 637 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/14(木) 23 49 01 ID 6X7OckRB0 まとめ 神話~春秋戦国 347 秦・前漢 418 新~後漢 501 魏晋~五胡十六国 582(候補者に+ 603) (ここまでは決定or保留) 南北朝(議論終盤) 隋唐(叩き台は 631) 五代十国宋遼金 元 明 清(後金含む) 尚、考慮する武将は、 中国式の王朝名・元号を用いて、所謂中国本土に存在した政権に所属する武将とする。 638 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 00 09 52 ID ElXf7rNg0 周亞夫イラネと思うが、取り敢えず一巡してからにしよう 慕容紹宗と陳慶之は取り敢えず両方入れておいたら? 639 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 02 29 03 ID HBapRhcR0 __ /;;;;;;;;;;;;;\ /;; \ ∈=━/,,;; .;ヽ━=∋ L ;;,__ .. ゝ //;;;; .. ̄ ̄ ̄ ̄.. ;;;ヽ / ;;;;;;;; ;;;;;;;;;;;;; ;;;;; ヽ /j/三三三三三三三三三三ヾ l || |l / ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| r┤ ト \___/ || / \_/ ヽ . \/ ,ノ | _( ̄ l―---oo-―― "ヽ__ | _)_ノヽ\ ハ // / ヽ ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 朕の活躍した時代から以下の十名を推薦する。 諸君ら、よく議論をするように。 元朝 脱脱 元朝 拡廓帖木児 大宋 毛貴 大明 徐達 大明 常遇春 偽漢 趙普勝 偽漢 張定辺 偽呉 張士徳 偽呉 呂珍 偽夏 戴寿 640 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 02 50 44 ID 2AsaXJ4u0 元末明初か。 だったら朱元璋自身も入るんじゃないかな? ついでに唐の太宗以降~五代初期を出してみる。 薛仁貴 劉仁軌 裴行倹 高仙芝 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 王式 黄巣 朱温 李克用 あと候補として李晟、安録山とか。薛仁貴の息子の薛訥なんかも結構活躍してる。 安録山は結構用兵上手いんだよね、意外にもって感じだが。 黄巣は朝廷にとっては死神だったが民衆からは結構支持されてるから入れた。竇建徳と並ぶ中国二大義賊って感じか。 641 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 02 57 03 ID /cSZNafN0 史思明もいれてくれ。 河朔三鎮の割拠を決定的にした、安陽の大勝利をもたらしたから。 唐軍は郭子儀が率いていたにも関わらず大敗し、権威の失墜と軍団の瓦解とで、息の根止められる寸前だった。 史思明が安録山と同じ末路を辿らなければ、憲宗の中興も本来ありえなかったわけで。 さらに唐末なら、高駢、諸葛爽も候補としよう。 華麗な戦術はないけど、兵士に慕われた楊復光もいけると思う。 642 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 03 07 38 ID kvazzbFB0 47戦全勝、32城を落とし、洛陽を陥落させる 普通にすげーと思うけどな…陳慶之 宇宙大将軍も撃破してるし 643 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 03 10 36 ID 2AsaXJ4u0 じゃあ朱温と李克用を五代にまわして、余った二枠に入る候補をそれぞれ挙げてみるか? でも五代って結構名将多いんだよなぁ。最後の最後で郭威とか柴栄とか出てくるし。 ところで王彦章は名将だろうか? なんか個人的には猛将然としたイメージが強いんだが。 644 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 03 53 01 ID 2AsaXJ4u0 連投。 隋末唐初ってまさか俺の叩き台で確定? みんなもっと議論しようぜ。そのためのスレなんだから。 645 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 04 05 23 ID LmEchPU60 南北朝で太武帝は入らないかのか?華北を統一した実績では曹操や王猛に 匹敵すると思うが。 646 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 05 12 44 ID 2AsaXJ4u0 道武帝は建国者だから別格扱いだろ。 確かに太武帝は北魏の黄金時代を築いたが、おじいちゃんがいなけりゃまず国そのものがまだ出来てないだろうし。 まぁ、慕容紹宗と一緒に候補として入れとくってことでまぁ我慢してくれ。 647 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 07 35 36 ID vkeQVhwr0 アンカーってどうやってつけんの? ここまできといていまさら聞くのもなんだが。 646 とかやればいいのか? 648 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 07 39 40 ID vkeQVhwr0 自己解決。 なんだ簡単なことだったんだな。 649 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 10 16 48 ID /cSZNafN0 643 朱温、李克用はこの際五代まわしがいいと思う。実際五朝期最初の好敵手なわけだから。 はっきりいって、十人枠で足らないのは五胡も南北朝も五代も一緒ですよ。 どう叩くかが問題ですな。 王彦章は後でも言及するけど、随一の猛将にして戦術にも長けた名将と言えると思う。 呂布が冷静さと遠謀をもった感じ。 644 自分は概ねそれでいいと思う。 隋唐初は認知度高い時期だから、議論がないのはそれでいいってことでは。 ま、李世民を破った薛仁杲とかもいいかなと思うけど、どうも人望がなかったようだし。 ああ、李密を滅ぼした王世充がないけど……いらんか(w 650 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 13 17 10 ID LmEchPU60 李密や竇建徳って百人のなかに入るほどとは思えんが・・・ この二人が入るなら三国の劉備や孫策あたりもってことにならんか? 651 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 14 40 28 ID PbUFYvYc0 いつの間には時代が進んでいるな 652 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 18 05 10 ID njmxgfsr0 650 同意 項羽が「猛将」というくくりで、「名将」に選ばれない基準って、いったいどんな評価基準だよ? 個人武勇ばかりに目が行ってて、肝心の戦歴、勢力の強大さ等、見落としすぎじゃないか まあ、あとでじっくり煮詰めればいいだけだろうけど 653 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 19 49 23 ID r0Tdw8/l0 631 隋初に楊素がいないのは納得できん。 あと、李密と竇建徳は外していいのでは? 654 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 19 58 57 ID 1gq8m8gw0 650 じゃあ竇建徳に代えて代理人の楊義臣を入れるってのはどう? 李密に代える人材は今んトコわからん。保留。 655 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 29 42 ID r0Tdw8/l0 654 劉黒闥はどうだろう?唐軍をさんざん苦戦させた闘将。 656 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 53 15 ID 1gq8m8gw0 655 「兄貴を殺しやがって」の義憤に燃えて唐の天下統一を三年遅らせたど根性将軍ですな。 しかし兄貴分の竇建徳外すのに劉黒闥はどうだろ? とりあえずこれまでの流れをまとめると、 隋初 韓擒虎 賀若弼 達奚長儒→楊素(ほぼ確定) 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 劉文静 李孝恭 李靖 李勣 こうか。さすがに唐初は不動かな。 657 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/15(金) 20 58 52 ID 1gq8m8gw0 656 また間違えた。 劉文静→李世民で 658 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 21 58 29 ID /cSZNafN0 李密を下げる必要はないと思うけどな。 自身は八柱国の貴族階級でも、それを背景にせず、無数にある群盗勢力のひとつに身を置き、それこそ曹操を凌ぐ才覚でもって隋朝の動脈を得る位置に割拠し得たわけだから。 当時最強だった張須陀に勝ったという点でもかなり高いレベルの将だったと言えると考える。 ただ、マイナス面があるとすれば、王世充に敗れたこと。 ここは、自身の力量を野心・矜持が上回っていたことが根本にありそうで、ナンバー2として一歩下がっていれば大成もしたかもしれない。 659 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 23 44 39 ID r0Tdw8/l0 656 純軍事的には竇建徳より、 劉黒闥の方が有能なんじゃないか? 竇建徳は用兵より、政策で衆望を集めたイメージがある。 660 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/15(金) 23 47 51 ID kvazzbFB0 658 李密は武将というより軍師という気が 配下に徐世勣(李勣)とかいたからその分は差し引いてもいいのでは 戦術では張須陀を討ち取ったりしたけど 戦略では長安取り損ねたり、興洛倉にこだわり過ぎたりして失敗している もし楊玄感が李密の策を採っていれば別の歴史があったかも 661 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 00 00 11 ID /cSZNafN0 660 もし楊玄感が李密の策を 一流になり損ねた陳宮みたいなもんか。 それで終わらなかったからすごいわけだけど。 たしかに軍師。 というか、官僚として軍事権を掌握する最高位にいる、という図式がすごく似合う。 李世民のように先陣に身を置くのではなく、帷幄(本陣)にいる感じか… それにしても、自分はあまり李勣を評価してないので(重要なときに負けている。李密敗退のときも逃げ出したっけ) その分、李密をヨイショするのかもしれん。 662 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 00 04 26 ID LNtR5yVA0 660 李密は策が多いわりに陣頭指揮を好む武将だったので、 配下に徐世勣が居た分は差し引かなくても良いかと。 徐世勣とは途中から別行動をとっているし。 663 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 11 00 05 ID kz89ZwRj0 李密は混乱期に良く出る梟雄タイプの人間で、名将って感じでは無いような・・・。 664 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 11 15 48 ID dy0wg8hL0 すまん、高句麗(満州地方)は隋唐時代に入るんかね? 入るとしたら、淵蓋蘇文もノミニーしたいなあ 李世民に屈辱を味わわせた数少ないひとりだと思うんだが 665 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 12 03 25 ID lrR0tlsm0 663 たしかに梟雄だね。 そいつがいたから、次に統一できるヤツが出る。 というのがセオリーというかデフォというかだもんね。 唐時代を前後に分割するのであれば入るだろうし、分割しないのであれば残念だけど外すか。 666 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 15 25 35 ID dy0wg8hL0 隋末~中唐までの枠は15人くらいに広げないと納まらんかもね 世界帝国突厥との覇権争い、高句麗征伐とかなり戦争地域が拡大しているし まあ、100選だから最終選考で振るえば良いだけのような気もするけど 賀若弼(隋) 楊素(隋) 楊義臣(隋) 李世民(初唐) 李孝恭(初唐) 李靖(隋~初唐) 李勣(魏~初唐) 薛仁貴(初唐) 郭子儀(盛唐) 10傑漏れ? 韓擒虎(隋)→匹夫の勇? 戦略面での才覚が不明 張須陀(隋)→敗死がやはりマイナスか 叛乱軍相手には無敵だったが、正規軍相手には? 李密(魏) →器用貧乏 隋末最大勢力を築くも崩壊が早すぎた 竇建徳(夏)→名将と言うよりも、仁政家? 劉黒闥(夏)→突厥と結び山東勢力を結集して、徒手空拳の身で唐への対抗勢力を築いたのには驚嘆に値する 安禄山(盛唐)→弱体化していた平時の唐軍相手の快進撃だから、若干マイナス評価 史思明(盛唐)→同上 ただし、軍事的手腕ではやや上か 李光弼(盛唐)→郭子儀入れると、落とさざるを得んな 他にも、劉仁軌、裴行倹、蘇定方、高仙芝、顔真卿、顔杲卿・・・・こりゃあまとめるの無理じゃないか? 667 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 27 22 ID lrR0tlsm0 こう並べられると目が覚める思いがするな。 郭子儀の対抗馬という意味合いでも、安録山は入れるとして(こやつは突厥や新興の契丹、高句麗系渤海の前身などなどとさんざん戦いまくっている歴戦の勇者。隋・唐初の府兵兵士ならいざ知らず、単なる募兵によって集った、にわか混成部隊の唐軍など足元にも及ばなかった) どうしても削るなら史思明の方を… 賀若弼と韓擒虎はセット的な気もするな。 両方はずしで…w 張須陀は隋末期の群盗隆盛乱舞状態を、ある程度篩いにかけた意味合いが大きいので、入れて欲しいところ。 顔真卿もいろいろ見ていると、たしかに硬骨漢でいいんだけど、彼の幕下に無名ながら清河から来た官吏で、李萼というのがいて軍師的な役割を果し、顔真卿の平原と清河のラインで強硬な防衛戦が展開できたそうな。 その後の身の振り方、平原の政策も李萼によるところが大きく、しかも顔真卿が李萼を見出したわけでなく、李萼が顔真卿に目をつけた感じ。 かっこいいコンビだけど、人数制限なら外すしかないかも。 ちなみに、中華政権が対外戦争したとき、それを撃退した外国の武将は入れたほうがよいかと。 さらに、李克用を五代に入れろとかぬかした張本人ですが、よくよく見ると五代期突入して1年目で死んでるんですよね… 唐末に入れてあげてください。 668 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 33 14 ID lrR0tlsm0 667 すまん。 外国の武将は入れたほうがよいかと やっぱり訂正。 横文字入られるとNGもいいところと気づいた。 もう少し慎重にならなければ… 669 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 16 45 19 ID JKDF8Iag0 張須陀は、国が破綻寸前で戦略面の制約があって、 戦功の割に、物資・人員面での援助が少なかったこと から考えれば名将に入れても良いのでは? 670 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 20 38 48 ID 8MR3EGxR0 669 敗死と大局を動かせなかったことが減点材料だな。 確定とまではいかない、候補止まりだと思うが。 671 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 20 52 13 ID 0e4QL0l50 張須陀は、厳しいことを言うと、その軍事活動によって歴史にほとんど影響を与えていないことだな。 672 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 20 59 04 ID YE4PqiX80 薛仁貴(唐初)までで一区切りしたほうがよくない? 隋から一気に郭子儀の時代までカバーすると、人数的に相当無理せにゃならんと思うが。 673 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 21 36 57 ID lrR0tlsm0 671 え~? それでいくなら、謝玄を外す理由が… 674 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 21 37 33 ID bD3yaGQI0 張須陀は、秦末の章邯みたいな感じだよな 李密が入らないなら、張須陀も入れるべきではないと思う 賀若弼と韓擒虎は確かにセットで外したほうが良いかも 平陳の軍事的功績を考慮すると、楊素が代表選手で問題ないだろう ここら辺は、西晋の平呉の役の功績争いと似ているな (一番の栄誉は、現場の将軍ではなくて、作戦の企画立案者に与えられるべきだろうしね) 一瞬、このまま行くと李世民が落ちるんじゃないかとビクビクしてた プロテクトかけるべき武将を確定しといた方がいいな 675 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 21 56 51 ID 7zGSTAs70 賀若弼は戦略的センスもあるし、 平陳の役の最大の功労者。外すには惜しい。 その軍事行動が歴史にほとんど影響を与えていない点においては、 楊義臣も該当するのでは? 673 謝玄の場合、その最も華々しい勝利を敵軍の自滅で得たようなものなので、 名将百選に加えるのは苦しいと思う。 676 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 21 58 32 ID rvZQ9bm9O ここらへんの時代はあんまり詳しくないけど、 後漢時代の選定が光武帝絡みの人物が多くなるのと一緒で 凌煙閣の二十四功臣とかの太宗関係の人物でほとんど埋まっちゃうんじゃないの? 677 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 01 38 ID 7zGSTAs70 突厥を破り、林邑を攻略した劉方も候補として挙げてもよいのでは。 678 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 22 02 02 ID YE4PqiX80 盛唐~晩唐 640 から 裴行倹 高仙芝 郭子儀 李光弼 顔真卿 張巡 王式 黄巣 朱温 李克用 をひっぱってきて、朱温は五代に入っても李存勗相手に暴れてるからそっちに。 郭子儀とかぶる所が多い李光弼も候補に下げて、交代で安録山を入れる、と。都合9名。 10人目の候補として李晟(息子のほうがいいか?)、薛訥。五代に入る前に処刑されてる李存孝も候補でいけるか。 641の挙げた高駢、諸葛爽、楊復光も候補に控えてもらおう。 個人的には張須陀、李密は二人とも入って欲しいな。張須陀の戦功は隋の名将たちに劣らんと思うし、李密は三日天下とはいえ一度は天下に手をかけたわけだから 679 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 37 36 ID lrR0tlsm0 678 顔真卿を落として李存孝を一押し。 多少身の振りに問題はあろうが、後梁に対しての脅威ぶりは圧巻だし。 歴史を動かしたと言うほどではないが、潞州、邢州といった要地の確保に絡んでいるし、その死後(刑死後)李克用勢がいきなり落ち目になったのは有名だから。 王式ってどんな人だっけ? 李晟や李愬か… 対節度使戦線だと、憲宗の指導力を一押ししたいのだけどな。 ふたりとも捨てがたすぎる。 で、候補として高駢とかにくらべイマイチな諸葛爽は切り捨て、代わって鄭畋をいれようか。 忘れていたけど、この人の呼びかけで反黄巣包囲を敷いて長安を一回回復している。 いろいろ軋轢があり、最後は宦官に憎まれ殺された。前時代の英雄という感じか。 そのあと、唐は沙陀の李克用を招いた。つまり自力ではどうしようもなかったということ。 680 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/16(土) 22 44 25 ID 7zGSTAs70 676 顔真卿と張巡は外してもいいんじゃないかなあ? 二人とも戦歴不足で一発屋感がある。 代わりに史思明と李観を入れたらどうだろう。 李観は吐蕃や藩鎮との戦いで功績のあった名将。 681 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/16(土) 23 04 01 ID YE4PqiX80 679 王式は裘甫の乱平定の立役者。 860年1月、裘甫は困窮にあえぐ農民や賊徒を集め、剡州に割拠して旗揚げ、翌月には浙東地方の官軍を粉砕して現地を占領、群盗や亡命の徒を取り込んで3万の大兵力を擁するに到る。 山東地方全域を版図に納めて唐朝との対決を明らかにした裘甫撃破のために起用されたのが当時安南都護経略使だった王式。 王式は速戦即決を上奏して裁可を得、官軍の精兵と江淮に住んでいた吐蕃・ウイグル族を用いて騎兵隊を編成、速攻で現地民衆のために官戸を開き、反乱軍中枢と飢餓のためやむなく決起した民衆を隔絶、 (このときは反乱軍の策士・劉暀が唐朝の財源地を押さえる寸前で、王式が出征してなかったら唐朝の命脈はヤバかった) 追い詰められた裘甫は女軍までも繰り出して抵抗したが王式は3日間で83戦して83勝、この叛乱を平定した。 ・・・以上はおもにアジア歴史事典「裘甫」の項からの転用。《旧唐書》、《新唐書》に書かれてる王式の項はごくごく短く、裘甫・銀盗の乱を平定した、としか書かれてない。 682 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 01 39 55 ID 760Ds2l6O 劉文静の軍暦教えてください。 小説十八史略での謀臣としての活躍しかイメージがないもので 683 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 02 35 41 ID Yd96qdjE0 劉文静 権門の出身。容貌魁偉で卓越した知略と遠謀を備える。 李淵の太原起義から一貫して唐の臣。大将軍府が置かれると軍司馬に任命される。 屈突通討伐に出征、丸半日をかけて数千人を討ち取る。屈突通が数万の兵力を擁して東都に撤退すると諸将に命じてこれを追撃、 自らは新安から以西の版図を切り取り、平定。功績により大丞相府司馬、魯国公。 薛挙が涇州を犯すと李淵直々の命でこれを討伐。副将殷開山の策を容れて速戦即決に出るが失敗、大敗して逃げ帰る。 官爵を削られるもまもなく李世民の副将として再び薛挙討伐に出陣、討伐に成功し官爵を復す。 同輩の裴寂にねたまれ讒言により死刑となる。死後詔書左僕射を追贈された。 他にもいろいろ活躍してるし建策もしてるんだけど、目に止まる功績っていうと屈突通討伐と薛挙討伐の二つ。 巴蜀の三十余州を降しさらに岒南49州を招撫、輔公柘を討伐して揚州大都督に任命された李孝恭に比べると劣るか。 ・・・まぁ、謀臣としては申し分のない人物ではある。他にもこんな功績あるよーって人、補完よろしく。 684 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 02 44 13 ID Yd96qdjE0 683 変換ミス。詔書左僕射→尚書左僕射です。すんません 685 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 04 57 37 ID a7+dVwEY0 安禄山が入っているのは北方での活躍によってなのか? 686 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 09 31 19 ID 2yc7CQf6O http //look2.jp/1995/ 687 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 11 15 ID Aw3FNLBr0 名将百選は、マイナー武将を推挙する場所ではござらん 隋から、楊素、賀若弼、張須陀 唐初から、李世民、李孝恭、李靖、徐勣 以降から、薛礼、裴行倹、郭子儀 候補で 隋から、劉方、韓擒虎、張須陀、楊義臣 群雄から、李密、竇建徳、劉黒闥 初唐以降で、蘇烈、劉仁軌、高仙芝、李光弼、顔真卿、張巡、安禄山、史思明、李愬、王式 唐末で、黄巣、李克用、李存孝 マイナー削っても、ここまで残るとは (でも王式レベルで候補に上げられると、晋の劉弘も候補に挙がってしまうような) 688 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 39 33 ID 8te71jpe0 687 名将にマイナーもメジャーも関係ないだろ。馬鹿? 689 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 11 56 38 ID ToAqQ+mL0 周亜夫を外せとか李密入れろとか言われると何か勘違いしてるなとは思うw 690 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 12 07 07 ID nAZZOTwH0 内乱を鎮圧した将と、混乱期に割拠した将を同列に見るのもおかしいと思うが。 それにマイナーって何を指してマイナーと? 691 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/17(日) 18 09 17 ID hzfcjqZe0 知名度が高くない香具師ってそれなりの理由があるんだよね 自分の得意な時代で候補を大量に挙げてから名将10人に絞り込んでいってみ? 理由がわかるだろう。 692 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/17(日) 19 54 08 ID BuX8wVVS0 経冪は? 693 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 00 22 56 ID fucBJHAw0 691 誰、それ? 人名を挙げる時は、戦績を教えてくれるとありがたいな。 694 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 00 39 07 ID o4R9z5VP0 戦績と歴史的意義(戦略に果した役割とか)、勢力における重要度とか、そういったことは、出揃ってからでもいいような気がする。 今はマイナー(これがよくわからんが)でも戦功のあるヤツなどを挙げていけばいいんじゃないか? 695 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 01 01 47 ID Ua43b9FXO 691 後漢魏晋南北朝まで広げても知名度で選ぶと三国志演義補正で10人埋まりかねんがそれもあり? 696 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 01 32 00 ID CULbPcSC0 日本での知名度=戦績・功績だという前提に無理があるだろ。 697 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 02 55 17 ID GsR7y1RC0 講談補正を除けばだいたい功績と知名度は相関関係にあるんじゃね? 698 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 07 24 21 ID CULbPcSC0 例えば、李牧なんかは、田中某氏が取り上げたのが知名度が上がる 契機になってるけど、それ以前と功績に違いでも出たのか? 699 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/18(月) 12 49 24 ID xkzEVeN40 695 ただ単に知名度で選ぶなんて、誰も言ってないだろ? 一番大切なのは名将かどうかって事 700 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 12 59 23 ID so9J8RcB0 関羽だけはいれてくれ 701 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 14 09 07 ID o4R9z5VP0 695 伝があればマイナーではないよね? 一応、確認しておくが。 702 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 18 43 24 ID KuN+hWBI0 マイナーな奴を外していくと、 認知度の低い時代の武将がいなくなってしまう。 武勲が大きければ、どんどんノミネートしてもいいと思うんだが。 703 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 19 21 24 ID DZYXAlq60 どうして初唐に尉遅恭がいないんだろう? 単なる猛将扱いなんだろうか…。 704 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 19 44 57 ID CULbPcSC0 703 個人的な武勇も、騎兵を指揮する将としても、歴代最高クラスだと思うよ。 705 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 20 31 43 ID KuN+hWBI0 703 単独で軍を指揮したことが無い将を入れると、 「じゃああいつも入れろ、こいつも入れろ」と 収拾がつかなくなるからじゃないかなあ。 706 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 20 45 55 ID o4R9z5VP0 705 尉遅恭は一隊の指揮官じゃなかったっけ? でも、その功績は李世民であらわすこととしているのだと、自己完結していた。 数が多いからね。 それにしても、軍制度の転換期である中唐~末期になると、ほうぼうに軍功のある「武将」が登場しまくるけど 魏晋南北朝のような、一方面を確実に安定的に任せられた将が極めて少ない。 よって、軍功の蓄積という面で劣り、実に選抜しにくく、また数が多くなってくるのはどうしたもんか。 制度的に、局地戦で有能な将が、継続して辣腕を発揮できなくなっているのだ。 一発屋と上でも言っているが、制度がそうさせている。 707 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/18(月) 21 12 54 ID j7QksZf7O 指揮官としてはやっぱり尉遅敬徳よりかは李靖や李セキの方が上だと思うけど 708 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/18(月) 21 45 59 ID fGsA1XjR0 個人的武勇より方面軍司令官としての功績で言えば 707の言うとおりだな。 李靖は突厥の騎馬民族相手に勝っているし 李勣は高宗期に高句麗を占領している。 後、処世術で言えば太宗の左遷命令の意味を逸早く察知して難を逃れて 武則天立后に消極的賛成して天寿を全うできた李勣が一番だと思う。 尤も、孫の代で水の泡と化したが。 709 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 01 58 17 ID etSAw/KpO 683 遅くなりましたがありがとうございます 710 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 02 00 05 ID s6AxRV8Q0 702 認知度が低い時代でも、この時代ならこいつって奴がいる だけど頭おかしい人はわざわざそういう奴を外して武勲の伴わない奴を入れたがる。 711 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 08 46 37 ID LH1xMiZn0 710 確かに。知名度低い時代でも「こいつは間違いない」って人物は何処に行ってもいる。 でも 702の言う 武勲があればどんどんノミネートしてもいいと思う、ってスタンスも間違ってないと思う。 「100傑入りは無理だろうけど存在を無視するのは惜しい」って人物はそれこそ腐るようにいるし。 それに、隠れた名将を見つけたらそれは自分の胸のうちに仕舞って置くよりみんなに公表して宣伝したほうがいいと思うんだ。 つーわけで。26史に伝がなくてもいいよね。 今俺は『十国春秋』って26史外の資料漁ってるわけだが、ここで名将を見つけたらどんどん紹介していきたいのでよろしく。 709 どういたしまして。 712 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 09 54 13 ID nWXLFNsB0 711 先輩とよばせていただきます。 十国は呉~南唐にしか、今んとこ興味なく、あんまり読んでない(読めない)から 米志誠や周本以外のかっこいいの期待してます。 713 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 19 34 17 ID oXMArno70 どうでもいいけど、韓擒虎ってどう考えても本名じゃないだろ。 この時代はよう知らんけど、こいつの名って明らかにされてんの? 714 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 20 19 17 ID q6fRrMUJ0 713 隋書韓擒虎伝には「名は擒。字は子通」とあるが、 注では「本名は韓擒虎」だが、 唐の人は諱を避け、『虎』の字を省いた」とある。 715 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 20 24 16 ID ir9idvLR0 712 先輩は面映いので同輩で。 俺も漢文自在に読めるわけじゃなし、読書スピードそんなに速くない。正確な訳とも無縁だし。 しかし周本の名が先に出るとは。一応隠し玉にとっとくつもりだったんだが。 716 713 sage 2006/12/19(火) 21 33 48 ID oXMArno70 714 すげぇ名前・・・ てっきり虎を捕えた逸話から そんな異名がついたのかと思った。 生まれる直前に父親が虎を捕まえたとか、 生まれる直前に嬰児が虎を捕える夢を母親が見たとか、 そんな裏話が命名の裏にはありそうな気がする。 717 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 21 36 51 ID 6cX9+mS4O 凄い名前といえば、王猛の孫に王鎮悪という劉宋に仕えた名将がいますな 王猛が鎮悪っていう名前つけたらしいけど 718 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 22 13 25 ID ir9idvLR0 スレの流れが変わってきてる? 今はとりあえず隋唐ですよ、みなさん。 叩き台係としては隋唐の議論が終わるまでに十国からそれぞれ1人、2人は目星をつけときたいところ。 まぁ、 【後梁】 朱温 王彦章 【晋→後唐】 李存勗 周徳威 郭崇韜 【後晋】 該当者なし 【後漢】 郭威 【後周】 柴栄 趙匡胤 あたりは不動だと思う(民衆の反感を買いまくった李存勗は外してもいいかも)。残り二枠に誰を入れるか、だな。 現時点での有力候補 呉の周本・・・10万の楚軍を七千の精兵で大破した。のち閩・呉越・楚の三国連合二万を数百人で撃破。無学だったが儒者を尊敬し、士卒や民衆を愛し、人々からも愛された。 後蜀の趙廷隠・・・後梁から唐に降り、さらに翻って後蜀につく。蜀土平定戦で活躍した上、契丹をバックボーンに持つ石敬瑭を撃破した。 他にもいろいろいるんだが・・・まず先に隋唐を煮詰めるってコトで。 719 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 22 23 08 ID htMtA+Ae0 718 実績等で判断した場合、後周の将軍として、 趙匡胤入れるのはありだね。 720 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 14 32 ID nWXLFNsB0 715 同輩ですか。 よろしく頼みます。 周本の説明に、「周瑜の子孫」を入れると、さらに箔がつくかと(関係ないか) 隋唐は、まず前半のを削って、後半のを入れるようにしないと。 隋初 韓擒虎 →候補へ 賀若弼 →候補へ 楊素 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 李世民 李孝恭 李靖 李勣 盛唐 裴行倹 高仙芝→この際外すか…? 郭子儀 李光弼→郭子儀と合体(候補) 顔真卿→候補へ 張巡→候補へ 唐末 王式→? かわりに李存孝あるいは高駢。 黄巣 李克用 結果、隋唐期で 楊素、張須陀、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、裴行倹、郭子儀、黄巣、李克用、(李存孝or高駢) 687とはちょっと違うけどこんな感じ? 721 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 29 27 ID k53fwgLn0 黄巣は名将に入れるにはかなり抵抗が 722 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 23 34 18 ID ir9idvLR0 720 薛仁貴が、俺的名将ベスト10に入る薛仁貴がいませんよ!? ここは裴行倹か黄巣に譲ってもらわにゃ。 723 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/19(火) 23 36 09 ID 6cX9+mS4O 劉方はやっぱ無理かな… 724 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/19(火) 23 41 44 ID f9E/gEPy0 687がマイナー論議の発端になってるけど 荒れるような人選ではないよな 687から張須陀外して、李克用だな 725 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 00 17 08 ID OKqabo840 李存孝もこの際、功績は李克用に帰すとして、高駢は個人的には欲しいところ。 晩年はアレだけど、華南での文鎮っぷりは無視できないし。 で、黄巣削って薛仁貴(忘れてた… なんで無いかな) 現在 楊素、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、薛仁貴、裴行倹、郭子儀、李克用、高駢 …10人枠だと、こざっぱりするね… 726 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 01 26 00 ID aNCmPep50 五代十国・参考までにこんな人物も。 十国春秋【後蜀編】 趙李良・・・孟知祥の軍師。蜀土統一のために西川節度使董璋を徹底的にこき使い、ポイ捨て。キレて牙をむいた董璋を鮮やかに討伐した。 王環・・・世宗(柴栄)の派遣した後周軍を撃退、本腰を入れて親政してきた世宗の軍を百日に渡って拒むがついに落城、直々に誘降されて後周の臣に。 こんなもんで。まだ後から南漢ぐらいまでしか訳せてないんです、すんません。ちなみに閩と北漢には名将不在。 727 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 01 28 00 ID aNCmPep50 726 後って何処の国だ、俺。呉の変換ミスです。なにとぞ寛大な心でね、テキトーに笑ってやってください。 728 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 01 58 39 ID nxL6uTJp0 北漢には名将不在。 つ楊業 729 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 02 04 33 ID aNCmPep50 728 楊業は北宋の名将扱いらしいよ。 十国春秋には楊業の名前は欠片も載ってなかったし、楊業の本格的な軍事活動は北漢降伏後でしょ。 契丹に後援されてた立場と契丹相手に奮戦する立場ではまったく逆だし。楊業は北漢朝廷に飽き飽きしてたっぽいし。 宋の名将にはまちがいなく絶対入れるから許して。 730 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 07 48 29 ID L0wB2fLV0 高仙芝は百人に入るほどの名将ではないかもしれんが、 自分としては欄外か番外で入れておきたいところだな (多分)一番遠くで戦った将軍でもあることだし 731 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 08 34 01 ID rtTkMZGj0 720 安禄山,史思明は? 732 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 08 37 10 ID rtTkMZGj0 随唐で一つにまとめるの? 随末唐初と、中唐以降は分けてもいいと思うんだが。 733 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 10 02 46 ID PWEFyPx10 732 賛成。実際唐初までと盛唐で2つ叩き台出したし。 隋から唐末までを一括りにするとランキング漏れの武将が多すぎる。 特に隋末動乱期からのエントリーがないのはどうしたものかと思うし。 どうせあとで100選するときに篩い分ければいいんだし、現時点では2期に分割、でいいんじゃない? あ、仕事遅刻するわ。そんじゃまた夜に。 734 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 10 40 32 ID k61fKPRFO 730 流石に郭侃の方が遠くに行ってるだろ 735 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 11 14 56 ID SYrbq0Ds0 「分割しようぜ・後で絞れば良いんだから」は大抵は言いっぱなしで絞れずにグダグダになる。 100選なんだから選考基準や枠は厳しくて当たり前。 736 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 12 17 59 ID zo5VhKRZO このスレで結論出すなら厳しくしないといけないけど この後次スレとか立てるんなら選考基準や枠はなるべく緩くしといて なるべく沢山の候補を挙げることが出来るようにしといた方がいいと思うけど。 737 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 12 31 55 ID OKqabo840 736に賛成。 その方が、知的好奇心が満たされやすい。 735が、そのグダグダにならないよう、最後に締め上げればいいのと違う? と、いうわけで古代(あるいは中世)最大の王朝、隋唐から以下をランキング。 隋初 韓擒虎 賀若弼 楊素 隋末 張須陀 竇建徳→楊義臣(?) 李密→劉黒闥(?) 唐初 李世民 李孝恭 李靖 李勣 薛仁貴 盛唐 裴行倹 高仙芝 郭子儀 顔真卿 張巡 唐末 王式 高駢 黄巣 李克用 李存孝 723 劉方ってどんな人だっけな? 黄巣を外していれてもいいよ。 で、安録山もいれたいのだけど… さぁ昼飯。 後は夜に… 738 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 14 48 07 ID jnMNE7dE0 1スレで暫定的にでも決めておくつもりじゃないと、いつまでもまとまらなそうだ。 大量に挙げるのはいいが、きっちりまとめておいてくれ。 739 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 14 55 22 ID L0wB2fLV0 734 いや、郭侃はモンゴル帝国の武将だと思ったから・・・ 「中華王朝の武将の中で」が抜けてた 740 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 15 14 09 ID 5yLXNnrV0 737 どうして盛唐の候補に劉仁軌と李光弼と安禄山と史思明が入ってないんだ? 741 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 19 57 15 ID b3Reonmp0 関羽は? 742 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 00 46 ID OKqabo840 726 ふと気づいたけど、後蜀のその人「趙季良」ですよね? 王環は、粘り腰のある将ですよね~。 李廷珪なんかもその点… どうなんだろうか(よく知らんし) でも、秦・鳳の奪回戦は、柴栄の意(般若のイメージw)を受けた趙匡胤にはっぱをかけられて、涙目で相手の糧道を断って勝利した、王景のほうをこそ誉めるべきなんでしょうね。 738 隋唐を二分割するんでしょ? だったら20人ほどの一応のランキングだし、まとまってないこともないと思うけど。 もっとうまくまとめられるのなら、お任せしますよ。 740 入れたいのはやまやまだけど、そこは人数の壁というものがあって… 743 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 04 13 ID +L+CkykA0 いきなり100人は多すぎ。 名将とは言い難い良将程度のやつらがランクインしている。 744 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 20 43 23 ID iZt1LpJM0 特定の時代に偏らせるなって1に書いてるから隋唐で20人枠は反対。 最初に決めたことは守ろうや。 745 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 21 31 33 ID xQdnTEt70 自分の好きな時代は、あいつもこいつもいれたくなる。 五胡と南北朝だって、めちゃめちゃ良い武将いっぱいいるのに 泣く泣く削ったんだ。 10人枠は守ってくれ。 746 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 22 25 33 ID OKqabo840 おいおい、二分割する言ったから 737にしたんじゃないか。 10人枠というなら、 725でよかったんじゃないのか? どっちもおれが書いたんだけど。 どっちにするのか決めてくれ。 747 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/20(水) 23 17 30 ID vd7Yla4B0 746 安禄山、史思明が入らないのに高駢を入れる理由が解らん 楊素、張須陀、李世民、李孝恭 、李靖 、李勣、薛仁貴、裴行倹、郭子儀、李克用 唐朝開闢の名将4人が固定状態だから、その下の連中で荒れるんだよな 上の4人は、百選で順位つけても上位に来そうだから、思いっきり割を食ってるな、この時代 748 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/20(水) 23 40 04 ID /MzsbUtC0 742 そのとおり、趙「季」良です。指摘されても10秒ぐらいwhy?状態だった。誤字多いな、最近。ボケてんのか、俺。 749 名無しさん@お腹いっぱい。 sage 2006/12/21(木) 00 28 23 ID RwOENkKG0 今はまだ10人に削らなくてもいいんじゃないの?これ以上候補者が出ないのだったら、 次の時代に移ろうか? 750 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/21(木) 00 35 43 ID PHuxV8+X0 懲りずに十国春秋から【南漢編】 蘇章・・・兵法に通暁した南漢随一の名将。楚軍に戦艦100艘で囲まれたとき、強弩隊を率いて敵中突破、囲みを解いて悠々と撤退した。 潘崇徹・・・兵書を好む知略の人。宋の南侵に対し大将の潘美を破って救国の英雄と称えられるも、南漢に見切りをつけて宋朝に降った。 あとこの国は二代目の高祖・劉龑がかなりすごい。自ら江東の塞70余を破って版図を拡大した、ってぐらいだからかなりの猛者。